声無き人魚の涙の色は Saide→Y
お久し振りでございます(土下座)
・・・頭が痛い。
はあぁ、と肺から胃から全ての空気を吐き出さんばかりの溜め息を吐き、そのまま床の絨毯の上に座り込んだ。切らずに伸び放題の黒茶色の、緩く癖のある髪がベールの様に視界を覆った。
襲い来る頭痛と胃痛、それを上回る罪悪感に圧し潰されそうだ。・・・いっそ押し潰されてしまいたい、と思ってしまう程度には、色々と。
失礼致しました。申し遅れました、私はイーサーと申します。
《元聖》であり、生前は様々な名で呼ばれておりましたが、今はこの名前で通しております。最も知られている名前、と言いますとイエス・キリストと呼ばれておりました。
・・・今思い出しても生前の私の行動は、間違ってはいなかったと自信を持っております。ですが、何と言いますかこう、今で言います黒歴史的な?そのような心境に陥ります。もう少しやりようは無かったのか自分、と自分を張り倒したいぐらいには。
お願いですから私の話を掘り返さないで下さい!!
私はそんな大仰な人間ではありません!!
あんな貧相なおっさんの半裸を堂々と描かないで下さい!!え、彫刻!?勘弁して下さい!!
あああああの言葉に他意なんて無かったんですお願いですからそれ以上広げないで下さいいいぃぃい!!
え、私そんなこと言いましたっけしましたっけ!?な、アレがそんな事態に!?
・・・・・・もう、そっとしておいて頂けませんか。
私より、私の母の方が余っ程の人物です間違いなく。なので信仰するなら母で。
さめざめと泣きたい心境に駆られますが、私如きが泣いたところでどうにもなりません。
それよりもどうしたら償いが出来るかを考えなければ。
しかし命はもう使ってしまったので、私に何が出来るのでしょうか・・・
「ーーー此処に居ましたね、見付けましたよイーサー!」
足音も高らかに、部屋の入り口の布を盛大に払いのけて入ってきたのは見慣れた女性だった。
二十歳程度の、妙齢の女性である。はっきりした顔立ちに、濃い茶色の意志の強そうな眼。たっぷりとした黒茶色の髪をポニーテールに結い上げ、百合の花飾りを挿している。白い衣に青い帯を締めた姿は、とても見慣れているせいか今はとても頼もしく見えた。
それが例え、怒髪天を吐く程の怒りに身を震わせたものであったとしても、だ。
「母上・・・」
《元聖》であり、最上級の《聖女》であり、または《聖母》、《生神女》と呼ばれる、ナザレのマリア。つまり自分の、実の母親である。
「わたくしが此処に来た理由は分かっていますね?」
「はい・・・申し訳ありません、母上」
額を地面に付ける様に、項垂れる。母はとても頼りになるが、今はあまり会いたくなかった。
「貴方が何を、わたくしに謝るのですか、イーサー、わたくしの子。きっと、貴方はそうして自分を追い詰めるでしょうと思って、此処へ来たのです。ーーーガブリエル様より知らせを受け、全て、主よりお聞きしました」
ああ、全て知っているのだと、涙が頬を伝った。
項垂れたままの顔を、母によって優しく上げられ、涙を拭われる。もう良い歳で少々恥ずかしいですが、怒りの感情があれど、自分に対しては怒っていない母に少し安心した。
主が、先日《天上界》へ人間の女性を召還なさった。
その儀式が行われる事を知っていたのは、《大天使》と呼ばれる七人の天使と、《主天使》の数名。
私は、知らされておりませんでした。いえ、何かをなさろうとしている事は、日々の生活の上で存じておりました。ですが、主が何をなさろうと、決して私達をいたずらに虐げたりしないだろうという確信から、何も申し上げませんでした。その何か、がまさかあのような事だったとは、ああ、何としてでもお止めするべきでした。
いえ、止められなくても、この母にだけは知らせてはいけませんでした。
「イーサー、わたくしの愛しい子。貴方が気に病み、悲しむことではありません。わたくしは恵まれました。恵まれたが故に、貴方を産みました。他にもわたくしと同じ様に恵まれた方がいらっしゃるならば、それは喜ばしい事でしょう」
堪え様の無い主への怒りを滲ませながら、母は言いました。主への怒りだけではなく、召還された女性に対する哀れみと同情を耐えているような。
《天上界》に召還された女性は、異教徒と呼んで差し支えない方でした。まさかそんな方を召還なさるとは思わず、お傍に居たと言う《大天使》の方々も戸惑ったと仰っておりました。何故、と。
しかし、戸惑われている《大天使》の方々には見向きもせず、主はその女性の肉体と魂を分けられたと。分けられた肉体は主がお持ちになり、魂はイスラフィール様によって癒され、その後はシェズリエル様が保護していらっしゃるとお聞きしました。
その後、主は傍らにその女性の肉体を置き、嬉しそうにそのお力を注いでいらっしゃったとミカエル様にお聞きしました。先程、主にお会いした時にも、主はその女性に肉体を抱きかかえていらっしゃいました。まるで人形を愛でるようなその光景に、背筋が冷えた心地でした。
「わたくしも、望んで貴方を身籠った訳ではありませんでした。ガブリエル様がいらっしゃらなければ、わたくしは貴方を産む前に死んでいたでしょう。ですが、あの方にはそれはございません」
「・・・主が、巫女姫様を望まれたのだとお聞きしました。巫女姫様をどうなさるかまではお聞きしておりません」
「いいえ、よく考えなさい、イーサー。主は仰ったではありませんか、これは新しい恵まれた人、新たなマリア、と。私の力を孕み育てる、ナザレのマリアとは似て異なる新しい聖母だと」
新しい聖母。
その言葉に、頭を何かで殴られたような心地でした。
しかし、母は私の顔をそっと撫で、私と目線を合わせたまま話を続けます。同情と哀しみに濡れながらも、母の強い瞳に、吞まれそうでした。
「わたくしはお聞きしました。わたくしもイーサーも、もう要らないのですかと、そうであれば、わたくしはわたくしの子を連れ、《天上界》を辞しますと。その必要はないと主は仰られました。主は、私の子はナザレのマリアが産んだ子ただ一人であり、他にはいないと。そしてこの新たなマリアが、わたしの子を身籠ることは無いと仰られました」
『ああ、マリア。わたしの子の母。この人の子は、わたしの力を注がれたとしても、この人の子は貴女ようにわたしの子を産むことは無い。この人の子は人の子とは違うものを産む。わたしの力そのものを』
真っ白いブルカを纏ったまま、主は喜悦に富んだ声音でそう言ったのだ。あそこまで楽しそうな、もとい嬉しそうな彼の方は見た事が無かった。
彼女を膝に乗せ、恭しく手のひらに口づけを落とす様は、まるで愛おしい恋人にするような行為だった。
「主の力を孕み、産むのが聖母です。わたくしは、巫女姫様の魂にお会いしたいとお願い致しました。わたくしはシェズリエル様と共に、巫女姫様に寄り添います。巫女姫様は異教徒の方、では、ご自分が置かれている状況、回りに居る者達、全て馴染みが無く、孤独でいらっしゃるでしょう。同じ聖母だからこそ、わたくしは手を差し伸べたいと考えました。それが、きっとわたくしに出来ることだと信じます」
わたくしの子、貴方はどうするのですか、イーサー?
母の問い掛けに、私は何も返せませんでした。
※※※
その後、主が私室で巫女姫様を愛でられる以外は、驚く程今まで通りの日常がやってきました。
巫女姫様が召された事を知るのは、《大天使》の方々と、《主天使》の方々数名、そして、《元聖》で知っているのは私と母のみ。他の上級天使の方々はご存じ無いのであれば、このいつも通りの平穏も納得できました。
少なくとも私の眼から見れば、表面上は平穏に見えました。
「ーーー悪魔が、でございますか?」
「ああ、妙な動きをしているとの報告を受けた。貴方はこの宮から滅多に出られないが、気をつけてくれ」
はぁ、と私を呼び止められたのは、《熾天使》であり《大天使》でいらっしゃるミカエル様でした。
眩い金の巻き毛に、コバルトブルーを思わせる青い空の瞳。意思の強そうな眼が印象的な、簡易的な甲冑を身に纏う、《天上界》以外にも御名が知られたお方でございます。礼儀正しく、礼節を重んじ、私以外の《元聖》にも平等に接して下さいます。この方がこのような言動をなさって下さっているからこそ、私達も他の天使の方々からそれなりに扱われているのでしょう。《天使の軍勢》を通常まとめ上げられており、誰よりも悪魔との攻防に身を投じられてきた方でいらっしゃいます。私も生前に、このお方の事は良く聞いておりました。
「妙、とは?何か、ございましたか?」
「ーーー悪魔が《天上界》へ入ろうとしていた。もしかしたら、巫女姫様の事が、どこかしらからか漏れたのかもしれん」
「ですが、あの巫女姫様の事は私達以外・・・」
「もう一人、何があったかは分からないが、《天上界》で何かがあった事は分かる奴がいるだろう?・・・まだ、可能性の一つにすぎんが。ただ、主が現在私室で何かを愛でられていること、その存在以外に眼がいっていない事を思えば、何かしら通じているだろう。今は、あの《宝珠》があるから他の《熾天使》達も何も気付かないし、言わないだけだ」
その言葉に、背筋が凍る心地が居ました。
私はミカエル様が仰ったお方を直接は存じません。私が《天上界》に召される遥か前に、その方は《天上界》から追放されたとお聞きしておりました。ただ、そのお話とお名前だけは、お聞きしております。
天使の中で最も美しく聡明な、全ての天使の長であったお方。主がお力を最も注がれた、偉大なる《熾天使》であり《大天使》。主に謀反を起こし、《天上界》を追放されたとお聞きしております。《天上界》を追放されたとはいえ、主の影響を最も受けていた事実は変わりません。今までも、主の感情に呼応して悪魔の軍勢が押し寄せてきた事がありました。悪魔に何の情報も渡していないのに。主の何かを感じ取る事ができるとしたら、主の力を特別に注がれた彼の方だけ。
そして、《宝珠》。サファイアブルーのような色の、小指の爪程の大きさの石。最近、《大天使》の方々を初めに、《熾天使》の方々にも主より下賜され始めたという品物です。私も主より拝見させて頂きましたが、余りにも濃厚な主のお力の塊に、畏怖の方が先に立ちました。
これが、巫女姫様が産むのだという主のお力なのだと、直感しました。
そして、そんな大きな変化の影響を、ミカエル様が仰る方が感じない訳がありません。あまりにも説得力の有り過ぎる仮説に、じっとりと脂汗が滲みます。
「・・・ミカエル様も、《宝珠》を賜ったのでしょう?」
「ああ、実は一番に頂いた」
《大天使》の筆頭天使でいらっしゃるミカエル様なら、それもおかしい事ではありません。しかし、当のミカエル様の表情はあまり良いものではありません。それどころか、戸惑いの方が先にあるようです。
「私は《宝珠》を拝見しただけですが・・・どのような効果があるのですか?」
見た目だけなら、ただの宝石にしか見えません。
ミカエル様は、一言「吞むのだ」と仰られました。・・・《宝珠》を、吞む?
「《宝珠》とは、人の子である巫女姫様が産む、主の御力が結晶化したものだ。つまり、主の御力そのものを受け取るに等しい。ならばどのようにすれば効果的か?体内に取り込むのが一番効率的だ。主な効果としては、使える神力の増幅に、主の強力な加護だ。貴方方《元聖》に《宝珠》を下賜なさらないのもこの効果の為だろう」
人である巫女姫様が主の御力を産んだ物が《宝珠》。主の御力の結晶化である《宝珠》であれば、天使の方々が奮われる御力ーーー神力と呼ばれる御力が増幅するのも頷ける。人の子である《元聖》では、《聖母》たる母を除いて主の御力そのものなど、身体が耐え切れないだろう。そもそも主の傍に侍れる《元聖》は自分か《聖母》以外に存在しないと言って良い。強いて言えば、《元聖》達は人々に主と同じ様に信仰の対象になった事のある聖人や聖女の為、主に対する耐性というものが無いのだ。そういう意味では主と同等の存在でもある。
そして天使とは、主の眷属であり、分身であり、欠片である。
主より直接生み出された天使は、その生み出された御力によって初めから主への耐性を持つ。主が自らの父親であり母親でもあるのだ。自分の親を畏れる子は、余程の理由がない限り無い。
その事を思えば、確かに《元聖》に《宝珠》は下賜されないだろうと思う。・・・多分、その方が幸いだ。
「《宝珠》の力は偉大だ。今まで強大過ぎる力を持て余していた《熾天使》達が、《宝珠》の加護によって理性を持って力を奮える様になったのだからな。主の御力そのものを人の子の身体に取り込ませて、産まれた御力そのものが、何故天使に加護を与えるのか、詳しい事は私には分からん。そして、《宝珠》の影響が、これから先どう出るのかもだ」
どうしたものか、と悩むミカエル様に、掛ける言葉が見つからない。所詮知っているだけの《元聖》、何も出来ない。
またしても自己嫌悪に陥りかけていたら、後ろからまた別の方にお声を掛けられました。正確には私ではなく、ミカエル様にでしたが。
「ーーーその件でしたら、ウリエル殿より幾つか言伝を頂きましたよ」
「ゼラキエル。来ていたのか」
「貴方を探していたんですよ」
はぁ、と見ているだけで艶っぽい吐息を吐く方は、《熾天使》であり、《大天使》のゼラキエル様でした。
金色にも銀色にも見える、月色の髪を緩く腰まで伸ばされ、薄い灰緑色の眼をなさった、女性と見紛う麗しいお方です。体格も男性にしてはやや小柄で、華奢な部類に入る程細くていらっしゃるのに、《天使の軍勢》でミカエル様と同じ第二位元帥を拝命なさっているお方。私達《元聖》の守護天使でもいらっしゃるので、実はミカエル様より馴染みのある方でもあります。
「ミカエル様、では、私はこれで・・・」
「お待ち下さい、イーサー殿。貴方にもお伝えした方が良いと思いますので、お時間を少し頂けませんか?」
「私にも・・・?」
ゼラキエル様は、やれやれと言わんばかりに袖口で溜め息をつき、疲れた様にお話になられました。・・・恐らく、間違いなくお疲れでいらっしゃるのでしょう。
「《宝珠》の件ですが、間違いなく私たちの神力の制御装置も兼ねているようですよ。神力が増幅されたのも間違いではありませんが、それ以上に私たちの身体の神力を効果的に反映させるためのものです。今まで以上に、我らと主との繋がりが強固になった、という事でしょう。ウリエル殿からお聞きし、先程《宝珠》を下賜された部下の《熾天使》を使って実証、確認致しました」
・・・それは、人体実験(天使体実験?)と言うのでは?
思わずそんな言葉が脳裏をよぎりましたが、口には出しませんでした。天使の方々の事情は、元人間には推し量れるようなものではないでしょう。私が想像する実験、実証とは異なる可能性もありますし。
それに、ゼラキエル様ご自身は死を司る天使でいらっしゃいますが、同時に癒しの天使でもいらっしゃいます。恐らくそう無体な事にはなっていないでしょう。《主天使》の、《医術》を司っていらっしゃるシェズリエル様が師事していたともお聞きしています。
天使の方々は、慈悲深くいらっしゃいます。
「そうか、他には?」
「ええ、《天上界》に侵入しようとした悪魔を一匹捕らえ、情報を吐き出させました。巫女姫様のこと、《宝珠》のこと、明確な何かは分かっていない様でしたが、何かがあったことは明確に理解している様です。特に堕天使達が、感付いている様子だと言っておりました。記録を確認しましたが、《天上界》へ入ろうとした悪魔の部隊は、全て堕天使の流れを汲む悪魔でしたから、間違いはないかと」
堕天使ーーー《天上界》より追放された、元天使。《天上界》を追放された理由は様々あると聞き及んでおりますが、私も何回かお会いしたことがありました。生前に。
天使の翼がもがれた以外には、彼らの姿は天使でいらっしゃった頃と変わりません。魔界には一定の堕天使がいると聞いてますが、正確な数や、どのような方がいるかは存じません。恐らくは誰も把握してないのではないでしょうか。
「堕天使・・・と言う事は、やはりあいつもか」
「恐らくは。ウリエル殿も同じ見解です。ただ、どの程度感付いているのか、そこは分かり兼ねます」
難しいお顔で眉間に皺を寄せるミカエル様に、嘆かわしいと言わんばかりの憂い顔をなさっているゼラキエル様。
申し訳ありませんでしたが、恐る恐る口を開きました。
「あの、失礼ながら・・・悪魔が《天上界》へ侵入する目的は何でしょうか・・・?」
「・・・目的?」
記憶によれば、確かに天使と悪魔は相容れない、永遠に争い続ける定めと聞いています。コインの表と裏の様に、どちらが欠ければもう片方も存在できないからだと。それは共通認識であり、また不文律でもあります。
なら、何故悪魔は《天上界》へ入ろうとするのか?
純粋な疑問でしたが、ミカエル様は一拍呆気に取られたように繰り返し、次いで身を翻しました。
「っ、ゼラキエル!!今すぐシェズリエルに連絡を取れ、私は極秘裏に《熾天使》で部隊を組みに入る!!」
ミカエル様がばさりとマントを翻し、天使の証でもある翼を力強く羽撃かせ、近くにある窓から飛び立たれました。翼の羽ばたきによる風に思わず手で顔をかばう。もう一度窓に目を向ければ、羽撃きの余韻で揺れるカーテンしか無い。
あまりにも唐突な事態にゼラキエル様と二人で呆気に取られてしまいました。何か、私はとんでもない事を口走ったような気が致します。
内心冷や汗をだらだらと流しながら恐る恐るゼラキエル様を見れば、そこにはいつもと変わらぬ憂い顔の美貌ーーーいえ、僅かに不快感で眉根を寄せた表情のゼラキエル様がいらっしゃいました。
「・・・・・・そういう事ですか。イーサー殿、貴重なご意見、誠に感謝申し上げます。御前をお騒がせし、大変失礼を致しました。ミカエルの頼みもありますので、私もこれで失礼させて頂きます」
「私などの発言が役に立てたのであれば、幸いです。・・・私は、何も出来ませんから」
無理矢理微笑んで見せれば、ゼラキエル様は直ぐ様退出するのを躊躇われ、足を止められました。
ただじっと、私の顔をみていらっしゃいます。
絶世の憂いの美貌に真正面から眼差しを受け、居心地の悪いものを感じて、私は目線を逸らしました。
「イーサー殿、我らが父の人の子。謙虚であることは美徳ですが、過ぎればそれは卑屈にしかなりません。特に、貴方やナザレのマリアは、人の子でありながら我らが父と近い為に」
ぐさり、と何かが刺さったような心地でした。
分かってはいるのです。
主たる神の御子と、神の子を孕んだ母。謙遜をすればする程、それは主たる神と母を卑下する事だと。
ですが、人の子には出来ない事が多過ぎます。私が主のお傍に侍り、他の誰が救われましょうか。
私の命で、何人の命が救われたのでしょうか。
「イーサー殿、主の御子でありながら、人の子であることを誇りなさい。《元聖》であることを誇りに思いなさい。我ら天使は主の命により人の子を護り、導くことは出来ます。ですが、人の子を救えるのは人の子だけです」
「・・・ゼラキエル様」
貴方の眼に、私はどう映っているのでしょうか。
舌は思う様に動かず、何も言えませんでした。ただ、縋る思いで美しい憂い顔の灰緑色の瞳を見詰め返します。悪魔の魔眼に対抗する、神眼をお持ちの眼なら、何か別のものを見ている様な気さえ致しました。
「巫女姫様のことを、貴方が気に病まれていることは存じております。ですが、巫女姫様は既に人の子でありながら人ではありません。肉体の死は元より、イスラフィールの癒しによって魂の死すらも訪れる事はないでしょう。私の手には、既に終えません。そういう意味では、私も貴方もほぼ同じ立場・・・いえ、私も既に《宝珠》を頂いている身、同じとは言えませんね」
「ゼラキエル様は、巫女姫様の事は」
「私とて、全ての事を理解している訳ではありません。ですが、既に巫女姫様は私の力の及ぶ方ではありません。それでも、」
一度そこでお言葉を区切り、ゼラキエル様は私に背を向けました。
常に憂い顔をしていらっしゃるゼラキエル様は、ミカエル様と同じく大きな翼を広げ、回廊の大窓に手を掛けました。
「もし、巫女姫様の御力になれる事がありましたら、私は躊躇い等せず、全力を持って御力になりましょう。それが、巫女姫様への償いになるのだと信じて」
そう仰ったゼラキエル様は、翼を広げ、回廊から飛び立って行かれました。
残された私は、何も考えられないまま、立ち尽くすばかり。
※※※
ーーー一ヶ月後、巫女姫様が悪魔の手によって拐かされたとの一報が入った。