2/何かが間違っている、と鳥籠の中で思考する
例の《珠》を呑むようになってから暫くして、私を取り巻く環境は変わった。
まず、あの仮面の男が出して来た珠を呑んで気を失った後、自分の知らない内にどこか別の場所に移されていた。最初眼を覚ました場所は豪華なホテルの客室の様な、どこか退廃的で重い印象のある部屋だった。窓から見えたのは雲なのか、白一色でマトモな風景ですらなかった。今は、どこかの山の中の貴族の別荘のような館である(とてもじゃないが家とは言えない)。カントリーハウス、と言ったら良いのか。館の回りは他の建物もなく、まさに人里(本当に人が住んでいるのかとはまた別の意味合いで)から隔絶された場所だった。
浴びる程呑ませられるのかとばかり思っていた《珠》だが、一日に一粒。寝る前に出て来る。
食事は一日三回、プラスおやつ付き。食べ易いものが多いが、基本はホテルで出てくるような豪華な洋食かフレンチだが、何日かに一回のペースでイタリアン、インドカレー、日本食やら中華まで出て来た。さらにはまさしくアフタヌーンティーなのか、三段のケーキスタンドのイングリッシュアフタヌーンティーが出て来たり、テラスに野点が設置されて和菓子と抹茶が出て来た事もあった。あまり食欲も湧かないから、申し訳ないが口を付ける気にはならなかった。それでも多少は食べるよう促されるから、その分だけは摂るようにはしている。
着るものは元の世界と変わらない下着一式に、ぞろりと長いワンピース。肘までの手袋に、ハイソックス、布製のバレエシューズのような靴。色は全て白。さらにその上からムスリムの女性が着るような、露出が一切ない衣装を着せられた。
誰にも姿を直接見せてはいけない、と言われている以外には、とても穏やかで贅沢な暮らしである。
・・・正直、何かが間違っているとしか思えない。
この館に移動させられてから、私の身の回りの世話をするのだという女性二人に、護衛役だという男性が二人と女性が一人、四日に一回のペースで訪れる、初めて会ったあの仮面の白衣の男。私に会う時は、必ず仮面の男と同じ白い仮面を全員が付けている。
どうやら、本当に私を直接見てはいけないと徹底されているらしい。
誰にも姿を直接見せず、大人しく《珠》さえ呑んでいれば、窮屈とはいえ穏やかな生活。元の世界と比べれば、これほど穏やかで怠惰な生活もない。
豊かで、満ち足りているはずなのに、心だけがどんどん衰弱していく。真綿で包み込まれて、そのまま窒息させられそうな、そんな狂気がうっすらと漂う。
ペットをひっそり生かすような、贅沢で窮屈なーーーーーー水槽。
※※※
声が出せないとは、ここまで精神的に落ち込むのか、と改めて思った。
口から出るのは、重い溜め息だけだ。
声が出なくなってからは、ストレスが溜まりまくっているこの現状に、なす術も無い。まず、一般的に声が出なくなるような異常事態は、かれこれ一ヶ月は続いている。病気なら治っていくのだが、私の場合はどうやってか封じられているので自力で声を出すことは不可能。
身の回りの世話をしてくれる人たちは、基本的に私と同じ空間に居ない。いや、居たがらない、というのが正しい。
居たとしても必要最低限で、手早く仕事を終えて出て行ってしまう。嫌われているのか云々以前に、初めて会った時に「わたし共では、巫女姫様のお傍に侍る事は本来叶わぬ身、どうかご容赦下さいませ」と言われた。あれ、コレ、嫌われてる以前の問題じゃ無くない?
いつの間にか、自分の呼び名は「巫女姫様」になっていた。姫という年齢でもなければ柄でもないのだが、これも訂正しようが無いので放置している。何を持ってして「巫女姫様」なのか、その意味は非常に気になるけれど。
が、相談したくても相談の仕様が無い。
その中であの初めて会った仮面の男ーーーもう会う他人は全て仮面だから、分かり易く白衣と心の中で呼んでいる。だって誰も名乗らない。確かに、呼ばれる事の無い名前なら名乗るだけ無駄なのかもしれないがーーーは、割と自分の意思を伝え易い相手だ。なによりちゃんと話をしてくれる。業務連絡みたいでそっけないけど。それに、この、《天上界》に来てからの醜態を全て知っている相手だからこそ、もう羞恥心もかなり薄まっている。遠慮なんてしてやるだけ無駄だ。
だが、此処に来てから驚いてばかりである。
「あまり、体調は良くない様子ですね。仕方が無い、といえばそれまでですが」
・・・驚いた事に、こうして何故か自分の体調に気遣う様子すらある。
この白衣が来るときだけは、ぞろぞろ長いブルカを脱いで、白いワンピース姿になる。診察と、吞ませた《珠》の取り出しの為らしい。いい加減白衣ではなく医者と呼ぶべきか。
「女官から、あまり食欲もないと聞いています。何か希望の、食べたいものはありますか?」
ふるふる、と顔を横に振る。特に何かが食べたいとか、食欲がかなり薄まっていた。何も動かず、寝てるか外を眺めるかしかないのでは腹も空かない。
そんな心境をどう捉えたのか知らないが、白衣は一つ溜め息を零して言葉を続けた。
「・・・でしょうね。明日から、日中に限りますが行動範囲を広げる許可が出ました」
は?
ぽかんと口が開いたが、目の前に立っている白衣は何も気にせず続きを話し出した。微妙に視線を自分から逸らしながら。
「範囲はこの屋敷の中と庭、柵があるところ迄です。紹介した護衛が後ろ・・・まぁ見えない位置に居ますがお気になさらず」
見えない位置と言われても、ブルカで視界ははっきりいって最悪なのだがどうしろというのか。まだ歩き回れるだけマシなのか。いや確かに見えない位置ならまだ気にせずに済むか。
取り敢えず脱いでいたブルカを取り、目元のレース部分を突き出して更にそこに指を指す。
「・・・視界が悪い、と訴えられてでもですね、流石にそこまでは私ではどうしようもないんですが。私達もコレで防衛しているとはいえ、お互いに予防と気遣いは必要かと」
防衛ってなんだ。
白衣の言葉に突っ込みたいが、突っ込めないのではっきりと不満を顔に表してみた。なけなしの表情筋を総動員する。もう一度ぐい、とブルカを突き出してレース部分を指差す。
「・・・・・・ああ、分かりました。分かりましたから、レースの部分をもう少し外が見え易い様にしますから、それで妥協して下さい」
勝った。
ちょっとした満足感と達成感に、そのまま白衣にブルカを押し付けた。心境としては小さい子供がちょっと我が儘を通した感じの達成感である。まさか二十歳過ぎてこんな気持ちになるとは思わなかった。
抵抗されると思ったが、案外大人しく白衣はブルカを受け取る。
「他に、何かありますか?」
他、と聞かれてぱっと思いついたのは、正直な改善点だった。
白衣から再びブルカを取り、被って口元を指差す。
「・・・・・・・・・無理です」
たっぷり溜めて、白衣が言ったのはその一言だった。
取り敢えず諦めずもう一回、ブルカの口元を指差し、その後用意してあった紅茶のカップを持つ。さらに扉の外を指差した。此処に来てからボディランゲージならぬジェスチャーはかなり上達したと思う。
「・・・何となく仰りたい事は分かりました。が、人間の心理として理解はしますが、彼女達と一緒にお茶をしたいという希望は、彼女達の為に諦めて下さい」
何と、白衣はコレだけのジェスチャーで理解できたらしい。しかもほぼ正解である。
努力すれば此処にいる女官さんと、この白衣と同じようにコミュニケーションが取れるのでは、と思ったのだ。
あわよくばお茶会ならぬ女子会がしたい。此処に来てから他人とのコミュニケーションに飢えているのだ。コミュニケーションがマトモに取れるのが仮面白衣だけとかなにそれ寂しすぎる。元の世界では人付き合いなど面倒で仕方がなかったが、無くなったら無くなったで辛い。
「彼女達は私ほど力が強くありません。護衛の騎士達も、です。申し訳ありませんが、私でもこの仮面がなくては巫女姫様とお話する事はおろか、こうしてお会いすることすらままなりません」
はっきりと言い切られ、流石にちょっと落ち込む。いや、薄々分かってはいたが、一回ぐらい尋ねてみても良いじゃないか。尋ねた事実が大事なのだ。
見るからにしょんぼりしたのが見ていられなかったのか、白衣が椅子を引いたのが視界の隅に入った。
「・・・女性ではありませんが、私ならお茶ぐらい付き合います」
テラスの窓にほど近い、陽の当たる位置に用意されたテーブルと椅子のセット。珍しく二人分用意された椅子の片方を軽く引いて座る様に促した。
「一人で過ごして頂く時間が長いのは、私どもも承知の上で強いています。まだ、私しか意思の疎通が出来ない事も、まだまだこれから改善していくことになるでしょう。ですが、それまでは、わたしで我慢して頂けないでしょうか?」
・・・・・・この状況に置いたのは紛れもなくこの白衣なのに、なんでそんな申し訳無さそうな顔をするのだろう。
自分でも、この白衣が全ての元凶というわけではないと理解している。中間管理職のようなものなのだろう。上層部の意向で召還され、その召還されたモノの管理を任された。ただそれだけ。
ただ、ずっと傍に居てくれたのもこの白衣だった。
召還直後から、泣いて暴れ、自殺紛いを繰り返していた自分の傍に居た。時には枕やクッションだけではない、カトラリーから食器類、果ては花瓶までこの白衣には投げつけた記憶が在る。しかし、この白衣は無情な現実を突きつけ続けて、私の正気を保たせた。憔悴していき、声を奪われて僅かな表情と身振りしかできなかった私の意思を汲んでくれた。首を振るだけで済むような問い掛けしかしないのは、優しさなのか。
悪いのは全部《天上界》なのに、しかも《兵器》としての召還だったのに、絆されてしまいそうだった。いや、既に半分くらいは絆されているのかもしれない。もう、元の世界に帰れないと諦めてしまったからなのか。
はは、と泣き笑いのような表情を浮かべて、白衣の引いた椅子に腰掛けた。
久々に差し向かいで飲んだお茶の味は、お菓子の味は、なんだか妙に甘く感じた。
※※※
《珠》の取り出しは、かなりあっさりしている。
白衣の差し出した両手の上に自分の両手をのせ、お互いの額を触れさせる。まるで母親が子供の熱を測るような感じだ。その状態で、待つ事暫し。
こんなままごとみたいな事で取り出せるのかと本気で疑問なのだが、私はだいたい十秒程度で気絶しているので正確な所は分からない。ただ、この時に白衣の仮面の隙間、眼の部分から、この男の眼がとても綺麗な、深い青色をしているのだと気がついた。海、というより湖のような、深いが澄んだ水の青。吸い込まれてしまいそうだと、本気で思った。次の瞬間には気絶から眼を醒してベッドの上だったりする。
特に取り出している白衣本人が何も言わないので大丈夫なのだろう。
「無事に今回も取り出せました。ではまた四日後に伺います。《珠》自体は女官に渡しておきますので、忘れずに飲んで下さい」
薬を出す医者か薬剤師みたいだな、と思いつつこくりと頷いた。
どんどんと、私が居心地良い様に作り替えられていく水槽に、本当にこのままで良いのだろうかと、一抹の不安を抱きながら。
※※※
まだ、人魚姫は本当の役目を知らない。