1/世界など理不尽だ、と被害者は啼く
世界など、理不尽ばかりだ
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「───巫女姫様、こちらにおいででしたか」
その声に、ゆっくりと私は眼を開けた。
視界に映るのは、白くぼんやりと霞んだレースと、木目の茶色。そして庭園の鮮やかな緑色。長い服の布越しに、固いベンチの感触と今まで枕がわりにしていた自分の腕の感触が戻ってきた。
寝覚めでぼんやりする頭に、さらに聞き慣れた声が降ってきた。
「巫女姫様、風が出て参りました。お部屋に戻りませんか?」
風?とゆっくり伏せていた状態を起こすと、確かに少し冷たい風が出てきていた。秋ではなく冬の香りを少しだけ纏わせた冷たい風だ。
寝起きの頭には気持ち良く感じるその風に、しばし当たれば流石に眼が覚めた。
「失礼致します、巫女姫様」
先程よりはっきり認識した声の主は、私が何も反応しないからか正面に回り込んできた。
まだ若い男だった。
二十代の半ば位に見える、柔らかそうな癖のある金色の髪と白い肌、すらりとした体躯の、まさに貴公子と言った風情の美青年だ。青い軍服を着ているが、それでも騎士というよりも貴族という印象が強いほど、彼の印象が柔らかい。ただ、一つ特異な点を上げるとしたら、その顔の上半分は白い仮面に覆われている。
仮面舞踏会に付ける仮面にしては飾り気の無い、つるりとした陶磁器の仮面。
「お部屋に戻られませんか?」
少し困ったように聞く彼に、私は首を縦に振った。面倒だが、戻った方が良いだろう。
立ち上がりながら、もう慣れた手つきでドレスの裾を捌く。………ドレス、というよりもブルカと呼ばれる衣装に近い。眼の部分だけはレースで外が見えるが、それ以外は手も足も出さないマントのようなシロモノだ。
慣れたくも無かったが、人間の順応性というのは以外にたくましいのだとつくづく思う。
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私は3ヶ月前、此処───≪天上界≫に召喚された、らしい。
らしいというのは、はっきり言って此処に来たときの事はあまり良く覚えていない。覚えているのは、辛うじていつも通りバイトから家に帰ってシャワーを浴びた事までだ。
髪を洗って体を洗って、その間にバスタブにお湯を貯めて。唯一の贅沢である湯船に浸かって、ああ疲れが取れていく───と身体を伸ばして寛いでいた。
ら、唐突に上から下から両サイドから、白い布にサンドイッチにされた。いや冗談抜きで。まるで自分が磁石にでもなったような感じで、バサッと。
結果、四方から布で襲われて無事でいられる訳もなく、まさに団子かみのむし、ミイラのよーな感じでごろんごろんと転がったのである。しかもなんか石造りの床に。これは布で包んでくれといて良かったと言うべきか否か。つーかけっこう痛かった。
パニックに陥った私は、ジタバタともがいたがさらに布がまとわりつくまとわりつく!!がんじがらめに拘束された時になって漸く、自分の異変に気が付いた。
「────────」
声が、出ない。
喉が、声帯が震える感触が全くしない。ただ呼吸をするためだけのモノになっていた。
「──────ッッッ!!!!!?」
そこから先は、気絶したのか、気を失わされたのか、よく覚えていない。
ただ、視界が真っ白から暗転したのだけは覚えている。
次に眼が覚めたら、すぐ側に仮面をした男が居た。
少し固いが、ベッドのようなものに寝かされ、丁寧にも布団が掛けられた状態で眼が覚めた。
黄金の麦のような柔らかい色合いの、少し癖のある長い髪をサイドで一つに纏めて、病院の医師が着るような白衣姿。顔の上半分は、白い陶磁器のような仮面で覆われている。
誰、と思うより先に、彼が呆れたような口調で話はじめた。
「───やっと意識が戻りましたか。まぁ計算通りですね」
「──────?」
「?ああ、貴女の声は出ませんよ。そういう風にしましたから」
あっけらかんと言われた言葉は、意味が分からなかった。
ナニを、言った?
「此処は、貴女方が理解できる言葉を使うのであれば≪天上界≫。今まで貴女が居た世界ではありません」
仮面の男は淡々と、気味が悪い位慇懃無礼な口調で話す。やや、呆れと憐憫を僅かに滲ませた口調で。
「貴女を、我々は≪兵器≫として召喚しました。その際、起こるであろう不都合は全て処理してあります。体質しかり、言語しかり、ああ、貴女のご家族、関わりのある人間全て、貴女がいなかったこととして処理致しました」
「≪兵器≫となって頂く為の措置として、貴女の≪声≫を封じさせて頂きました。今後、我々が封を解かない限り、貴女の声が出ることはありません」
「貴女を呼び出した理由ですが、人間は神の似姿ですから、我々が利用するのにうってつけなんです。その中で、〈適性〉を持っている貴女を呼び出しました。ご安心を、≪声≫以上に、我々が貴女の身体の何かを弄ったりは致しません」
はっきり言って、その説明は半分以上理解出来なかった。
理解出来たのは、もう元の生活は送れないこと。≪兵器≫として誘拐されたこと。≪兵器≫になるために声を奪われたことだけだった。
声を奪われたなんて、人魚姫みたいだと、泣き疲れた後にぼんやり思った。
声を出せないせいで、泣くことはできても叫ぶことは出来ない私は、しばらくは部屋で暴れまくった。手当たり次第にモノを床に叩き付け、更には仮面の男に向かってモノを投げ付けた。何故か、日差しが差し込む窓と扉はびくともしない。体当りしようがモノを叩き付けようが、かすり傷一つ付ける事も出来なかった。
いっそのこと死んでしまえたら、と叩き割った花瓶の欠片に手を伸ばせば、触れる前にその刃物が目の前から消えた。舌を噛み切るか、と思えば力を込めた瞬間気絶する。自分の身体に傷一つ付ける事すら出来ない事に愕然とした。
ただ、そんな泣いて暴れての抵抗が続いたのは三日だけだった。泣き疲れて、気絶するように眠った後、部屋は綺麗に戻っていた。
「気は済みましたか?」
眠りから覚めると、決まって仮面の男が同じ台詞を投げてきた。寝起きの頭でも、理解などしたくなかった。
「諦めてください。私たちは貴女を手放せません」
死んで逃げることも赦さないと、無情に突き付ける。もはや自分自身でも、自分の身体に傷ひとつも付けられないのに、どうしろというのだろう。
「泣いて暴れて、それで気が済むのであれば幾らでもなさってくださって結構。ですが、貴女の役目は変わりません」
≪兵器≫。
どんな≪兵器≫かなんて想像すら出来なかった。
そもそも、人間一人の生物兵器なんてたかが知れているだろうに、一体何を言っているのだろうか。
ああ、病原菌にでも感染させられるのだろうか?それならば要らない人間一人で充分事足りる。空気感染ならばそれだけで脅威だろう。
既にその時、心は死んでいた。
暴れる気力も、抵抗することも、泣くことも、どうでも良くなっていた。
「貴女の≪兵器≫としての仕事は、これから出される≪珠≫を飲んで頂くことだけです」
仮面の男が「こちらです」と差し出してきたのは、1センチぐらいの大きさの青い石だった。飴玉のように丸くて、つるりと表面は滑らかだが、明らかに質感は石。何となく、ラピスラズリのようだと思った。
「貴女の中でこの≪珠≫を熟成させて、私が取り出します」
どうやって取り出すんだろうとぼんやり思ったが、あまり深く追及しなかった。
もう、そんなことすらどうでも良い。いっそ取り出す時に一思いに殺してくれないかとすら思う。
「ご安心を、貴女の身体に危害を加えるモノではありません。ですが、この≪珠≫に人間の声は悪影響なのですよ」
・・・声が悪影響って、本当にどんな《兵器》なのか、全く想像出来ない。
まるで飴玉を差し出されるようにして促された《珠》に、抵抗する気は起きなかった。これがいっそ毒だったら良いのに、とは思ったが。
ただ、大人しくその《珠》を飲み込んでから暫くして、私の回りの環境は変わった。