第5章「闇に訪う者」
夜が更けても、町の者達は火事の後始末にせわしげに
走り回っていた。
バギル達も作業を手伝おうと彼等に申し出たのだが、
「神国」からやって来た神々への畏れや敬いの感情と、
怪物を倒した事へのねぎらいから、宿でゆっくり休んで
ほしいと町の者達から勧められてしまったのだった。
仕方無くバギル達は旅館に戻り、風呂と食事を済ませ
る事にしたのだった。
それぞれはあてがわれた部屋に戻り、暫く休息を取る
事にした。
町のあちこちが火事などで焼けていたが、幸いにも温
泉を町の旅館や浴場に送る導管は無事だった為、バギル
はひとり露天風呂でくつろいだ。
宿泊客の姿もまばらで、帰り支度がどうとか、危険な
所には居られない、と言う様な話し声も廊下の向こうか
らバギルの耳に聞こえて来た。
「・・・レックスを先刻から見かけねえんだけど。」
風呂から上がり、タンクトップと短パン姿で旅館のロ
ビーにやって来たバギルは、ソファでうたた寝をしてい
たティラルへと声を掛けた。
「!・・・・ああ。レックスか?彼ならここの裏庭でト
レーニングをしているよ。」
軽く目をこすり、ティラルはバギルのやって来た廊下
とは反対側を指差して答えた。
「そうか・・・。」
バギルはティラルの向かいの席に腰を下ろし、テーブ
ルの上にある飲用の温泉の入った1リットル入りのボト
ルへと手を伸ばした。
「もらうぜ。」
「ああ。」
そう答えるティラルの表情に、何処かうかない様子が
見て取れる事に、バギルは漠然と気が付いた。
温泉で淹れたアイスティーを口にしながら、ティラル
は時々、裏庭へと続く廊下の方へ目を向けていた様だっ
た。
いつもとは違う今日のレックスの様子を気遣っている
様にも見えた。
バギルには判らない、長い付き合いの内に通じ合う何
かが、ティラルにレックスの心の異変を知らせているの
だろうか・・とも、バギルは思った。
バギルがボトルの水を半分程飲み干したところで、そ
の後ろを慌ただしく荷物をまとめた一団が、ロビーの受
け付けへと通り過ぎて行った。
今日の宿泊の予定の取り消しを、声高に受け付けの女
将に告げていた。
このところの怪物の出現によって、火事などで直接被
害を受けるだけでなく、怪物を恐れた観光客の足が遠の
く事でソエリテの温泉関連の観光は随分と打撃を受けて
いたらしかった。
バギル達が聞いた話では、ここ最近頻繁に出現する種
類の怪物は凶暴性を増し、以前出現していたものに比べ
て負傷者や建物の被害等も増加しているらしかった。
「・・ファイオがこの前倒したヤツも、そこそこ強かっ
たって言うから、ある意味ファイオもソエリテの町を助
けた事になるのかなぁ・・・。」
ボトルの水をすっかり飲み干し、バギルは溜息をつい
た。今回も後少しの所でファイオに逃げられ、ラデュレ
ーへの手掛かりを無くしてしまったのだった。
アイスティーのお代わりに使うのに返してもらおうと
ボトルを指差しかけたティラルは、少し困った様に小さ
く息を吐いて手を引っ込めた。
「あ、悪い・・・。」
バギルは慌てて空のボトルをテーブルに置いた。
「いや、構わないさ。」
ティラルは軽くバギルに笑いかけた。
「・・ファイオと言えば、彼女・・いや、彼か。邪神を
連れていたと言う事は、このソエリテにレイライン集束
点があると言う事だな・・・。」
顔にかかる長い黒髪を掻き上げ、ティラルは微かな溜
息をついた。
「神国」の最高機密であり、禁忌である事柄。レイラ
イン集束点についてバギルやティラル達が・・いや、紫
昏でさえも知らせれている事は余りに少なかった。
この星の・・大地の生命力とでも呼ぶべき根源的なエ
ネルギー。一般に「気」とか「精」と言う風に呼ばれて
いるものだった。
それが天地に川の様な流れを形作り、大小様々の規模
で集束している・・・。
紫昏から形ばかり受けた講義の内容を思い出しながら
ティラルはもう一度小さく溜息をついた。
「・・そしたら、俺はもう寝るから。いつファイオや怪
物が出るかも判らないしな。」
ティラルに倣ってレックスの事はひとまず放っておく
事とし、バギルは立ち上がると自分の部屋へと戻って行
った。
◆
剣の代用にした棒切れが鋭い音を立てて空を切り、或
いは宙の一点へと向けて凄まじい速度で繰り出された。
長い時間、そうしてレックスは素振りを続けていた。
だが、どれ程トレーニングに没頭しようとしても、レ
ックスの心からは苛立ちや鈍い痛みが消える事は無かっ
た。
・・・アローザが生きている訳は無いのに。
最後の旅で魔神と戦い、魔神に融合されてしまう寸前
に自爆死したアローザの姿を、レックスは決して忘れる
事は出来なかった。
魔神と同化しつつも、尚、それでも何処かで生き続け
てくれていたなら・・そんな他愛の無い幻想が、レック
スの心の片隅にいつ迄も巣食っていたのを、今日の怪物
騒ぎで思い知ってしまったのだった。
「・・・!」
思い詰めた様な表情で更に素振りを続け、やっと腕の
筋肉が上げる悲鳴を自覚したところで、レックスは一息
つく事にした。
「ふう・・・。」
棒を地面に置くと、レックスは傍らの平らな庭石の上
へと腰掛けた。
あの怪物達がアローザの筈がない・・・。
汗を拭い、緋色の髪を掻き上げ、レックスはふと夜空
を見上げた。
雲一つ無い夜空に広がる星々の密やかな輝きに、レッ
クスはアローザと同じ顔をしたフィアンとその夫・・運
命の星の神エンフィールドを思い起こした。
地上の神々には想像も出来ない暗黒の深淵を司り、残
酷な程冷たい美しさに輝く「虚空の闇」の女神に、レッ
クスはアローザの面影を重ね続けてきた。
仲間達の死後もレックスはひとりで、或いはその時々
の道連れと様々な冒険の旅を続けてきた。
旅の前に、いつしか同じ姿をしたフィアンの許を訪れ
る様になったのは、心の空しさを埋めようとする無意識
の働きだったのか。
・・そんな物思いに耽る自分に気付き、レックスはふ
っと自嘲の笑みを漏らした。
レックスは再び立ち上がると、もう一度棒を拾い上げ
て素振りを再開した。
◆
ザヘル神殿本殿の地下研究室・・。
ザヘルは変わらぬ闇の中に、うずくまる様に座してい
た。
逃げ出した失敗作のアローザは、またソエリテの町中
で暴れ、多くの犠牲者を出したと聞いたが、ザヘルにと
ってはそうした事など、全くどうでもいい事だった。
割れた水槽の破片と床にまき散らされた疑似羊水液を
片付けた後に、新たな水槽を据え付け、ザヘルはその前
でうずくまり続けていた。
水槽の隅に取り付けられた小さな機械が電子音を立て
て、新しく放り込まれた細胞が胎児の姿を取り始めた事
を知らせた。
その音に顔を上げ、ザヘルは水槽の中の様子を血走っ
た目で見つめ続けた。
そこへ、忽然と灰色の影が朧ろ気に揺らめき、ベナト
が研究室の扉の側に出現した。
ベナトの姿と気配に気付くと、ザヘルは絞り出す様な
声で自らの無念を訴えた。
「・・・また、失敗してしまいました・・・。また・・
・後少しと言うところで・・・。」
水槽の側に近付いた灰色のマントの裾にすがりつく様
にして、ザヘルはいつ迄も理想の娘が得られない悲しみ
に呻いた。
「そうか・・・。」
ベナトは灰色のフードで顔を覆ったまま何の感情を表
す事も無く、暫くの間はザヘルの言葉を聞くふりをして
いた。
「・・そこな御方よ。」
ザヘルの苦悩など全く無視した口調で、巻貝状の影が
天井から唐突に降って来た。
魔神の制御の為に施された言魂の為に、ベナトの名を
呼ぶ事も制限されたルフォイグが、ゆらゆらとベナトと
ザヘルの周囲を漂っていた。
「ワシは一体何しに「虚空の闇」から召喚されたのだ?
いい加減、この様な低級な神の周りをうろうろするだけ
では退屈で仕方が無いぞ・・・。」
柔らかな触手を思わせる細長い手をゆらゆらと揺らし
て、ルフォイグは僅かに巻貝状の頭を振るわせた。溜息
をついている様でもあった。
ベナトは、ルフォイグの嘲りを含んだ声を聞き流し、
ザヘルへと片手を差し伸べた。
灰色のマントの端から覗く鱗に覆われたベナトの手の
中には、一枚のデータカードがあった。
「・・・それは・・・?」
首をかしげるザヘルに、ベナトはフードの内で薄い笑
いを浮かべて答えた。
「今日はお前にとって、大変興味深いと思われる記録を
持って来た。・・そして、このルフォイグにもいよいよ
働いてもらう時が来た。」
カードを受け取ったザヘルを、ベナトは部屋の片隅の
コンピュータの端末の前に促した。
ふらふらと立ち上がり、ベナトに促されるままにザヘ
ルがカードを机上の読み取り機に差し込むと、小さな水
晶球から放たれた光線がカードの内容を空中へと映し出
した。
「これは・・・!?」
驚きと懐かしさの入り混じったザヘルの震える声が、
薄闇の研究室の中に響き渡った。
立体映像の中で揺れる豊かな黄金色の髪、次々に炸裂
して真紅の華を開く火炎弾・・そして、アローザと戦う
のは白い仮面の様な顔を頭部に戴く、肉管のより集まっ
た異形の怪物だった。
「・・お前の愛しい娘の最後の戦いの記録だ。」
背後に立つベナトの説明も耳に入っているのかいない
のか、ザヘルは余りの懐かしさに涙ぐみながら映像に見
入っていた。
それは、何処かの島へ宝探しに上陸したアローザとレ
ックスとその仲間達が出喰わした怪物・・いや、異形の
魔神との戦いの記録だった。
この魔神との戦いによってアローザや仲間達は命を落
とし、レックスだけが辛うじて助かったのだった。
「おお・・・アローザ・・・。」
宙空の立体映像は生きていた時そのままに、アローザ
の肌や髪の質感を忠実に再現していた。
剣を振るい、火炎を魔神へと叩き付ける愛娘の姿に、
ザヘルは感極まってむせび泣いた。
「・・アローザの戦っている相手は、ただの怪物ではな
い・・・。」
ザヘルの感激など意にも介さないベナトの冷たい声が
響いた。
怪物の体は大小の赤黒い肉管と触手が絡まり合い、ヒ
トらしき肢体を形成していた。その巨体は優にアローザ
達の身長を超えて、周囲に生い茂る木立程大きかった。
その頭部らしき部分には、縦に長い平面的な一つの瞳
の模様があり、その下には小さな穴の様な二つずつの目
と口とがあった。
そうした顔の部分は白磁の仮面の様な質感を持ってい
た様だった。
アローザやレックスの放つ火炎弾に焼かれながらも、
魔神は瞬く間に肉体を再生していった。
また、魔神の放つ触手の触れた草木や岩、地面迄もが
魔神の肉体の一部と化して、その部分から放たれる触手
の鞭などがアローザ達を攻撃して苦しめた。
「・・・あの怪物は一体・・・?」
ザヘルのまだ涙の混じる声での問い掛けに、ベナトは
相変わらず冷たく答えた。
「あれもまた、神だ。」
「・・・あ、あの怪物も、神・・・、だと・・・言うの
ですか・・・?」
アローザへの感慨の一方で、研究者としての好奇心を
も掻き立てられ、ザヘルは衣の袖口で涙を拭うと、ベナ
トへと顔を向けた。
ベナトの被った灰色のフードが頷く横で、ルフォイグ
の吐き捨てる様な言葉が聞こえて来た。
今迄何処か超然としていた「虚空の闇」の魔神にして
は、余りにも生々しい嫌悪の感情が露わになっていた。
「神も何も・・・!全く忌々しい!ワシは知っているぞ
っ!」
「虚空の闇」に潜む魔神達は、そこで起こった出来事
を千里眼の様な能力で大概の事を知る事が出来た。
ルフォイグもまた、その力でその神の事を幾らかは知
っているのだった。
そのルフォイグが忌々しいと口にするとは、一体どの
様な魔神なのか。ザヘルは戦慄しながらベナトの答えを
待った。
空中に映し続けられる立体映像の中で異形の魔神は、
レックスとアローザの火炎弾に焼き砕かれながらも、凄
まじい再生力を見せつけ、彼等を苦戦させていた。
「・・「世界を生み出し、形作る力」というものがある
・・・。遙かな太古の時代・・・いや、この宇宙創成の
原初の時に、創造神イジャ・ヴォイがその力で、この世
界の全てを創り出したと言う力だ・・・。」
「・・・??」
アローザ達と魔神との戦いの記録の内容からは全くか
け離れた様な、唐突なベナトの言葉に、ザヘルは一瞬、
呆気に取られてしまった。
「世界を生み出し、形作る力」・・創造神イジャ・ヴ
ォイ。そうした言葉は、大部分の神々にとっては、子供
の頃に聞いた昔話や伝説の中のものでしかなかった。
「この・・・お前の娘を殺した魔神は、その「力」の一
部を使って生まれた「虚空の闇」の神。」
おいおい・・ベナトの言葉を否定しようとしたルフォ
イグの声は、瞬時に生じた小さな火花によって遮られて
しまった。
ルフォイグに施された言魂の呪詛は、ルフォイグを確
実にベナトの支配下に置いていた。
おいおい・・嘘ばかりを。正確には、「力」を求める
者達が「ヌマンティア」の知識や技術で生み出した神、
だ・・。
発せられる筈だった言葉を飲み下し、ルフォイグは代
わりに小さな舌打ちの様な音を、巻貝状の頭の何処から
か発した。
余計な事を・・。ベナトはフードの下からルフォイグ
をうっとおしそうに一睨みし、ザヘルへと話し続けた。
「「世界を生み出し、形作る力」の一部とは言え、それ
を有するこの種の魔神の力ならば、この地上で望む事は
殆ど全て叶える事が出来る。・・お前の娘も、お前の望
むままに創り出す事が出来るだろう・・・。」
半ばは偽りで、半ばは真実。
ベナトの言葉に対し、成り行きを見守っていたルフォ
イグは、心の中で呟いた。
勿論、ベナトにもザヘルにもそれは聞こえはしなかっ
たが。
「・・この神は、結局、アローザの力によって焼き殺さ
れてしまった。」
ベナトは故意にスイッチを切り、立体映像を消した。
この先には、魔神にアローザが融合され、捨て身の自
爆で魔神を焼き殺す場面が記録されていた。
娘を想う父の心に付け込むには衝撃的な場面を避けよ
うという、ベナトの意図だった。
映像が掻き消え、再び薄闇に戻った空間を見つめ続け
るザヘルの横に立ち、ベナトは最後の誘惑の言葉を掛け
た。
「お前が望むのならば、この種の魔神をもう一度「虚空
の闇」から創造する方法を教えよう・・・。」
ベナトが言い終わるのを待つ迄も無く、ザヘルに否の
返事がある筈も無かった。
「私がアローザの為になる事で、望まない事がありまし
ょうか・・・。」
ザヘルの答えに、ベナトは満足気に頷いた。
「・・・だ・・・。」
ベナトは魔神の創造の方法をザヘルへと口にした。
だが、それを聞いた瞬間、ザヘルはベナトを見つめた
まま目を見開いて硬直した。
「今・・・何と・・・?」
生唾を飲み込む音が、自らの頭の中に異様に大きく響
くのをザヘルは感じた。
振るえながら握り締めたザヘルの拳が、じっとりと汗
ばみ始めていた。
そんなザヘルの様子を気にした風も無く、ベナトはも
う一度恐ろしい説明を繰り返した。
「・・レイライン集束点のエネルギーを使い、「虚空の
闇」へと繋がる次元の穴を空けるのだ。それによって、
この神殿の地下実験室に魔神の創造の為の力場を作り出
す・・・。」
「レ、レイラインを・・・。」
ザヘルはぎこちない動作で、額に浮いた汗の玉を衣の
裾で拭った。
レイライン集束点・・それは、「神国」の神々にとっ
て最大の秘密であり、禁忌だった。扱いを一つ間違えば
星そのものを破壊し、全ての生命を滅ぼしてしまう圧倒
的なエネルギー。
ベナトはそのエネルギーを利用しようと言うのか。
僅かに残された理性がザヘルへと警告を発していた。
娘恋しさに、「神国」の神々の全てを敵に回し、世界
を滅ぼしかねないエネルギーを扱おうというのか?
「レイラインを・・・。」
もう一度、ザヘルは呻く様に声を絞り出した。
長い事躊躇い続けるザヘルを見下ろし、ベナトはそっ
と囁きかけた。
「・・お前ならば出来る事だろう?・・・ソエリテのレ
イライン集束点の管理者ならば・・・。」
いつしか頭を抱え込み、座り込んでいたザヘルは、そ
の言葉に一瞬、怯えた様に大きく体を震わせた。
火山帯を持つダイナ山脈には大小幾つかのレイライン
集束点が存在していた。
ザヘルもまた、神国神殿本部から密かに集束点管理者
の任務を拝命していた神の一柱だった。
娘の死後、土地神としての公務も中途半端なままで、
娘の再生に血道を上げるザヘルに集束点の管理者として
の仕事は実質的には務まってはいなかった。
全ては初めから・・「奥の院」の秘かな細工によって
ザヘルに管理者の任務を外させなかったベナトの思惑の
中で動いていた事だったのだった。
「・・・。」
ベナトはうずくまるザヘルを見下ろし、その一応の返
答をもう暫く待つ事とした。
全ては初めからベナトによって決められていた事だっ
た。ザヘルがベナトの訪れを受け入れ、愛娘の再生をベ
ナトのもたらす技術に頼った時から・・・。
「・・娘を甦らせたいのだろう・・・?」
ベナトの囁きを、何処か形式めいたものの様に感じ取
りながらも・・ザヘルは、やっと顔を上げた。
娘の再生を願った時に・・ベナトの訪れを受け入れた
時に、ザヘルは決心した筈だった。
例えどの様な禁忌に触れようとも、娘の再生を成し遂
げよう、と・・・。
「承知、しました・・・。」
ザヘルの決死の想いの込められた返答に、ベナトはフ
ードの中でほくそ笑み、頷いた。
「では、手始めに、邪神が必要だ・・・。」
◆
夜もすっかりふけり、町の者達もひとまず復旧作業を
撤収し、町は山間の田舎町に相応しい静けさを取り戻し
ていた。
バギル達も宿のそれぞれの部屋で眠りに就いていた。
「・・・!」
そこに、深夜の静寂を破る女将の甲高い悲鳴が響き渡
った。
「な、何だ何だ!?」
ぼさぼさの頭で半ば寝惚けながら、バギルは部屋の扉
を開けて廊下へと飛び出した。
レックスやティラルもほぼ同時に部屋から姿を現して
いた。
悲鳴を上げたきり、がたがたと震えながら廊下の隅で
へたり込んでいたのは、夜間の見回りをしていた当番の
女将の様だった。
彼女の視線は、ひたすら廊下の窓の一つへと注がれて
いた。
「・・・あいつは!」
レックスが素早く、既に用意していた炎熱剣の柄に手
を掛けた。
三階のガラス窓のすぐ向こうには、夜目にも美しい艶
を放つ金髪の女の姿を半ば留めた、肉管と瘤に覆われた
半妖半女の怪物の姿が三つ・・真夜中の悪夢の様に張り
付いていた。
瘤と管の絡まり合いの様な怪物の手が、そっとガラス
窓に手を掛けて開けていった。
怪物の方は静かに開けるつもりだったらしかったが、
鍵が掛かっていた為に、鍵の部品が大きな音を立てて弾
け飛んだ。
開けられた窓から異様な前傾姿勢で、怪物達は順番に
廊下へと入って来た。
常夜灯の薄明かりに照らされるその姿は、昼間ソエリ
テの町を暴れ回り・・また、以前、レックスに不意討ち
を掛けてきたものと全く同じ種類の怪物達だった。
半妖半女の怪物達は、深夜の廊下に居並ぶと、緊張の
面持ちで身構えるバギル達へと虚ろな視線を注いだ。
他の部屋の泊まり客が異変に気付き、何事かと扉を開
けると、次々に悲鳴や絶叫が響き渡り、また次の瞬間に
は驚愕と恐怖に、扉にすがる様にして客達は硬直してい
った。
「・・客達の避難を・・・。」
険しい顔で怪物達を見据えたまま、ティラルがレック
スとバギルに指示を出そうとした。
ティラルの言葉の半ばで、怪物達は笑みらしき表情を
浮かべた様だった。
・・半顔が赤黒い触手や瘤で覆われた、美しい女の名
残を留める顔で。
深夜の怪物の悪夢に立ち尽くす宿泊客達には目もくれ
ず、怪物達はバギル達をそれぞれの目標と定めて躍り掛
かって来た。
「・・みんな、早く逃げるんだ!」
客達へのティラルの叫びと、怪物の放った火炎弾の爆
発音が重なった。
廊下の窓が爆風で一斉に吹き飛び、小さな火炎の紅い
舌が深夜の外気へと伸ばされた。
火炎弾の爆発は目くらましのつもりだったらしく、炎
の退かない内に、怪物達はそれぞれ一斉にバギル達へと
襲いかかっていった。
流石に、廊下を軽くあぶる程度の火炎にバギル達が怯
む筈も無く、三神はそれぞれに剣を抜き、拳を構え、怪
物達の襲撃を受け止めた。
「・・・今迄と様子が違うな・・・。」
瞬時に怪物の手足や触手を斬り払い、ティラルは今回
の怪物の行動への違和感を口にした。
手当たり次第に暴れ回っていた今迄と全く違い、今回
の襲撃は、明らかに何者かの判断に従った行動だと言え
た。怪物達の戦い方や、襲撃目標など、怪物達に知能が
無ければ、何者かが操っているとしか思えない程整った
動きだった。
ティラルによって幾太刀もの傷を受けながらも、例に
よって怪物は短時間の内に体を再生していった。
「・・クソッ!」
炎熱剣に巻き付く怪物の肉管を忌々し気に睨み、レッ
クスは歯噛みした。
三体の怪物の半顔は、やはりどれもアローザに似た形
をしていたのだった。
「・・レックス!お前は客の避難を頼む!」
ティラルの片手の一閃で放たれた真空の刃が、炎熱剣
に絡む肉管を切り裂き、ティラルはレックスと怪物の間
に割って入った。
「何だとぉ!?このオレ様が敵に後ろを見せられるかよ
っっ!!」
「・・レックス!」
歯を剥いて吠えるレックスを、ティラルは厳しい一睨
みの視線の下に黙らせた。
その様子に、バギルでさえも一瞬身をすくませた。
「・・・クソ、後は頼むぜ。」
仕方無くレックスは炎熱剣を鞘に納め、廊下の片隅や
客室の扉近くで呆然と立ちすくむ宿泊客達へ、怒鳴り声
を上げながら避難を促した。
「死にたくなけりゃあ、さっさと逃げやがれ!!」
凄まじい剣幕で駆け寄って来るレックスに、客達もま
た凄まじい勢いで取るものも取り敢えず、寝巻のまま非
常階段へと疾走し始めたのだった。
客達を誘導する・・と言うよりも追い立てるレックス
へ再度襲いかかろうとした怪物の一体に、ティラルは一
瞬の内に迫り、その背後から剣を串刺しにした。
剣から逃れようと、怪物は甲高い声を上げてもがいた
が、ティラルの手で怪物の体を貫通した剣は微動だにし
なかった。
「!」
そこへ、最初にティラルに狙いをつけていた怪物の方
が、その隙にがら空きのティラルの背に向けて肉管の一
つから火炎弾を放った。
「ティラル!」
バギルは自分を襲う怪物の相手で手一杯で、声を上げ
る事しか出来なかった。
しかし、ティラルは片手で怪物の胴体に剣を突き立て
たままその動きを封じながら、もう片方の手を振り翳し
て小さな竜巻を作り出した。
竜巻は火炎弾を正面から受け止め、その風圧で瞬時に
火炎を四散させてしまった。
幾らかの知能は備えているのか、ティラルにあしらわ
れる二体の怪物は、女の顔の部分が、虚ろな目のままが
ちがちと歯を鳴らした。
何処か、憎悪を感じさせる様な振る舞いだった。
ティラルは更に追い打ちに真空の刃を放って怪物の体
を両断し、後退させた。
常夜灯の明かりの下では色も定かではなかったが、何
かしらの体液がごぼこぼと噴出し、女の顔と金髪の部分
をも汚した。
ティラルは何処か哀し気に眉を寄せ、濃い色の体液に
汚された女の顔を見た。
レックスが、この女の顔をした怪物とは戦えないのだ
という事を、ティラルは改めて思い知った。
レックスは誰か親しい女性・・ほぼ間違い無くアロー
ザだろう・・の面影を、この怪物の顔に重ね合わせてい
たが、ティラルもまた、別の女性の顔として、この怪物
の顔を見知っていた。
・・「虚空の闇」の女神、フィアン・・・。レックス
が調子を落としているのは、アローザにもフィアンにも
似ているからなのだろう・・・。
そこに、階下からレックスの声が聞こえて来た。
「もうすぐ全員の避難が終わるから、そいつらをもう少
し足止めしといてくれ!!」
「ああ!!」
ティラルは力強く答え、一体の怪物を剣で貫き押さえ
たまま、再生して襲ってくるもう一体の方へもう一度鎌
鼬を叩きつけた。
「ちっ!」
バギルへ向けて一度に放たれた怪物の火炎弾が、瞬く
間に廊下と客室を焼き砕いていった。
バギルは軽く顔を覆うだけでやり過ごし、ティラルは
怪物を盾にする事で劫火を躱した。
しかし、火は瞬く間に燃え広がり、宿の他の階の柱や
壁迄もが焼け崩れ始めようとしていた。
「急げ!床が崩れる!」
ティラルの声に、バギルは一気にけりをつけるべく、
まだ無事な床を蹴って怪物へと迫った。
「・・・っりゃぁぁっっ!!」
拳に灼熱の紅気を溜め込み、怪物の懐に素早く潜り込
むと、バギルは怪物の胴の真ん中へと白光を放つ拳を叩
き込んだ。
「!!」
体内を超高熱のエネルギーで焼き尽くされ、怪物は体
のあちこちから青白い炎の筋を噴出させながら爆発し、
消滅した。
何とか一息つくバギルの後ろで、ティラルもまた、怪
物達の体内へとそれぞれ同時に圧縮空気の塊を撃ち込ん
だ。
圧縮を解かれた空気は怪物の体内を破壊し尽くし、飛
び散った微細な肉片が、周囲に燃え広がる炎の中で炭化
していった。
完全に炎に包まれ崩れ始めた廊下から、バギルとティ
ラルは急いで焼けた窓枠の向こうに見える庭園の大木へ
と飛び移った。
「また怪物の被害が増えたな・・・。」
木の枝にぶら下がったまま、バギルは大きな溜息をつ
いた。
「しかし・・・。今の怪物達は、・・・誰かの差し金な
のか・・・?」
ティラルは軽やかな身のこなしでバギルの近くの枝へ
と飛び移り、目前で炎上する宿の建物を厳しい表情で見
つめた。
怪物達は、今回は明らかにバギル達を目的にやって来
た様だった。
「俺達に、一体何の用があって・・・?」
バギルはまだぶら下がったままの体勢で呟いた。
でたらめに暴れ回っていた今迄とは違い、先刻の怪物
達の動きは、明らかに何者かの判断に基づいたものだっ
た。
バギル達を狙っての事ならば、一体誰が怪物を差し向
けたのだろうか・・?
「まさか・・な・・・。」
バギルの頭に一瞬、ザヘルの血走った眼が浮かんだ。
まさかザヘルが。
突拍子も無い自分の思い付きに呆れながらも、しかし
バギルは完全にはその思いを否定し切れなかった。
あのザヘルのレックスへの尋常ではない怒りと憎悪を
思うと、漠然とした胸騒ぎが広がるのをバギルは感じて
いた。
「!」
自分達の姿を見つけて、火事の被害の及んでいない庭
園からレックスが手を振っていた。宿泊客の避難は完全
に終わった様だった。
「・・・。」
次第に消防隊の鳴らすサイレンの音が宿に近付きつつ
あった。
バギルは暫くの間ティラルと共に、燃え上がる宿の様
子と眼下のレックスの姿を交互に見つめていた。




