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第1章「黒い渕」

挿絵(By みてみん)


 暗がりの中で思い出すのはいつも、光り輝く金色の髪

と、燃える様な強い意志を湛えた――深く澄んだ紺碧の

瞳だった。

 部屋に満ちた暗黒の幕を見つめる父の脳裏では、自分

に笑顔を向けてから、力強く歩み去って行く愛娘の後ろ

姿が何度も甦っていた。

「お父様!あたし、レックスと――仲間達と一緒に旅に

出るのよ!!」

 父が引き止めたところで娘は聞き入れはしなかった。

 己の行く道は己で決め、その失敗や危険の責任も全て

自らの身に引き受けて逃げる事の無い、強い娘だった。

「アローザ・・・。」

 暗闇の中で愛娘の名を愛し気に呟き、父神ザヘルは泣

きながら、いつ迄もその場にうずくまり続けた。

 どれ程の日々を、ザヘルはその闇の中で泣いて過ごし

て来たのか。

 神の身といえども、青春を謳歌する若い娘を持った若

い父親の面影もザヘルには既に無く、悲嘆と怨嗟の中で

彼は初老の時を迎えようとしていた。

 西方の火神レックスとその仲間達と共に旅に出たアロ

ーザは、その数カ月後、一束の髪だけとなってザヘルの

許へと戻って来たのだった。

 それから百五十年の月日が流れた。ザヘルは一つの決

心と共に自らの神殿の地下に引き籠もり、外に出る事を

やめた。

「アローザ・・・。また失敗だ・・・。」

 握り締めた一束の金髪へ愛しげに頬を擦り寄せ、ザヘ

ルは涙混じりの溜息をついた。

 失敗する度に自らの掌中で一本、また一本と減ってい

く束の軽さをつくづくと感じ、その悔しさと情けなさに

また涙が溢れ落ちるのだった。

『・・今日も失敗か・・・。』

 冷たい声と共に、深い闇を孕んだ部屋へ芒とした薄白

い光が現れた。

挿絵(By みてみん)

 微かな光ではあったが、それ迄闇の中に沈んでいた幾

つかのものが光の中にぼんやりと姿を現し始めた。

 数基の小さな円柱から構成されるコンピュータや、そ

の端末と思われる銀板のキーボード。微かな光の下で模

様も定かではない絨毯の上には無数のデータカードディ

スクが散乱していた。

 そしてその向こうには、柩を思わせる水槽が列をなし

て微かな光と闇の狭間で揺らめいていた。

「・・・はい。また、です。」

 涙を拭いもせずに、ザヘルは声のした背後を振り返っ

た。

 薄白い光を暗い部屋の中に放つ神は、灰色のマントで

全身を覆い尽くし、朧げな影の様に佇んでいた。

「あなたに色々と教えて頂いたと言うのに、この百年以

上もの間、失敗ばかりです・・・。」

 アローザの髪の束を力無く握り、ザヘルはぼんやりと

灰色のマントの神を見上げ、それから背後の闇の中に見

え隠れする水槽の列へと目を向けた。

 時折小さな泡が水槽を満たす液体の中で生じていた。

 ザヘルの血走った眼差しは、その液体の中で蠢くもの

へと、慈愛と嫌悪が複雑に入り混じりながら注がれてい

た。

 一つの水槽の中には、ミイラの様に干からびた五体を

備えた者が。別の水槽には赤黒い肉管や神経繊維が女の

頭部に緩やかに収束している姿が。

 辛うじて豊かな肢体と美しい金髪を保つ者もまた、腹

部や後頭部から肉の管や細かな牙の生えた触手が伸びて

いた。

『お前の娘はまだ甦らないか・・・。』

 水槽の中で眠り続ける失敗作達を見つめるザヘルの様

子は、既に正気を失っているかの様だった。

 灰色のマントの神は、両手で必死にアローザの髪の残

り少ない束を握り締めるザヘルの形相を、何処か品定め

するかの様に見下ろした。

 いや、既に、この灰色のマントで素性を隠した神の邪

悪な申し出を受け入れた時点で、ザヘルの正気は失われ

ていると言ってもよかった。

 死んでしまったアローザの細胞から、クローンを作り

出す知識と技術を与えられ、ザヘルは百年以上もの間、

娘の再生実験を続けてきたのだった。

 だがその成果は未だ実らず、神の娘になり損なった怪

物達ばかりが地下の水槽を埋め尽くすだけだった。

 度重なる失敗は、愛娘への愛情を妄執へと変質させ、

娘の姿を中途半端に再現する怪物達の数々は、ザヘルの

狂気をより深く強固なものへとしていった。

 灰色のマントの神は、訪問の度に深まるザヘルの狂え

る様子を見て何処か満足気に一つ頷き、重々しく口を開

いた。

『ソエリテの町とその山々を司る土地神・・火神ザヘル

よ・・・。私は今日、新たなる知識と技術を発掘し、こ

こに持参した。お前の研究の完成に必ずや役立つであろ

うと・・・。』

 仰々しい灰色の神の物言いは、奇妙な力を内に秘めて

ザヘルの耳へと染み入った。

 ザヘルは惹きつけられる様にして、灰色のマントの神

の差し出す手を見つめていた。

 その手の中には、一つの紋章が刻印された銀色のデー

タカードがあった。

 一つの瞳に広がる六枚の花弁――太古の邪悪な神々の

集まりである「武装魔導集団ヌマンティア」の紋章の実

物を、ザヘルは初めて目にした。

『「虚空の闇」の中から、古い時代に生まれた魔神を地

上に召喚する技術がこの中に記録されている。その魔神

の助力があれば、お前の願いも叶えられる事だろう・・

・。』

 眼前に朧ろ気に佇む灰色の影からの囁きを、ザヘルは

ただ呆然と聞いているだけだった。

挿絵(By みてみん)

 神々や人間達から生じた負の精神エネルギーが流れ込

み、ふきだまっている世界、「虚空の闇」・・・。そこ

には想像も出来無い程の恐ろしい邪神や魔神が満ち溢れ

ている事は、ザヘルも知っていた。

『その命すら惜しまぬならば、素晴らしい成果が待って

いよう・・・。』

 ザヘルの返事も待たず、灰色のマントの神はその囁き

と共にデータカードをそっとザヘルの手に握らせた。

 一瞬、ひんやりとした銀板の感触が広がり・・それは

すぐに、汗ばんだザヘルの手の中で生温かいものへと変

わった。

 「ヌマンティア」の神々の邪悪な知識と技術への恐怖

や嫌悪感も、「虚空の闇」の魔神達への畏怖も、己の命

を失う事への恐れも、愛娘アローザを甦らせるというザ

ヘルの狂おしい感情の昂りの前に、既に消え去ってしま

っていた。

「娘を・・アローザを甦らせる為ならば・・・。」

 ザヘルの返事は決まりきっていた。

 灰色のマントの神は、その答えに大きく頷いた。

『それでは、準備を始めよう・・・。』

 灰色のマントが翻り、その神は部屋の暗闇の彼方へと

再び歩き始めた。

 その後に続き、ザヘルはふらふらと立ち上がると、カ

ードを握り締めて灰色の影を追った。

「・・・それで、何という魔神を召喚するのですか・・

・?」

 ザヘルの問いが、少し嗄れた様な声で灰色のマントの

神へと放たれた。

 その半ば迄が部屋を満たす闇の中に沈もうとする、灰

色の朧ろ気な揺らめきから、微かな返答の声がザヘルに

戻って来た。

「・・その魔神の名は、ルフォイグ・・・。遙か大昔、

「ヌマンティア」の神々が創り出し、使役していた魔神

だ・・・。」

            ◆

 ひび割れてくすんだ色の石の床から伝わる震動と、め

まぐるしく流れ始めた窓の外の空と雲の様子から、空中

城塞都市ラデュレーが再び何処かに移動を始めた事を幻

神達は知った。

「バギル達は、ここには間に合わなかったか・・・。」

 ツタや木々が生い茂る自室のベッドに腰掛け、ゼーム

はふと思い出した様に呟いた。

 レウ・ファーに洗脳されたザードを連れ戻しに・・そ

う強く言い放つ、バギルの紅く輝く瞳をゼームは思い出

していた。

 バギルの願いが果たされるのはいつだろうか・・そん

な事を気紛れに考えながら、しかしそれもどうでもいい

事だと、ゼームはベッドに横たわった。

 忽ちの内に、激しい脱力感と睡魔とがゼームを深い眠

りの中へと連れ去った。

 田舎町のシーボームを森林に沈め、土地神ランタやレ

ウ・ファーの邪神と戦った事で、ゼームの体力や神霊力

は極端に消耗してしまっていたのだった。

 ゼームが眠りに落ちる寸前、その脳裏に泡の様に、深

い森林と化したシーボームの風景が浮かび上がり、また

すぐに闇の中に溶け崩れていった。

            ◆

 神国神殿。本部とも本殿とも呼ばれる巨大な建物の一

室で、紫昏はシーボームから帰還したレックス、ティラ

ル、バギルの三神を迎え、ささやかな酒と食事の用意を

してその労をねぎらった。

 しかし、レックス達への紫昏の報せはその疲労を増す

ものでしかなかった。

「・・つい先刻、ラデュレーは移動を開始し、また姿を

消してしまったそうだ・・・。」

 テーブルの上に並べられた酒や食事も、一遍にその輝

きを失い、味気無いものへと変質してしまった。

「クソッ!そりゃねえぜ!!」

 緋色の髪を苛々と掻き、レックスはソファの上に乱暴

に座り込んだ。

 ソファのバネが大きく軋み、土と枯れ葉で汚れた真紅

のマントがゆらゆらとレックスの体にまとわりついた。

 レックス達は「神々の森」の鳥神・鵬の神殿から護法

庁の紫昏へとラデュレーの位置を伝え、紫昏は邪神や土

地神ランタとの戦いで消耗してしまったレックス達に代

わってすぐに監視係を派遣したのだった。

 その間に神国神殿で、ラデュレーに乗り込む為の神員

や装備を整える・・筈だったのだが、その筋書きはあっ

さりと破られてしまったのだった。

 ラデュレーの移動や、監視係の追尾から逃れる事は誰

もが充分予想していた事ではあったし、時間との勝負だ

と判ってはいたものの、やはり、後少しの所でラデュレ

ーを見失ってしまった事は、レックス達にとって精神的

にかなりのダメージを与えた。

「・・・もぉ、今日は解散。俺はもう寝るから後は任せ

た・・・。」

 シーボームからの疲労が一気に噴き出したのか、声に

いつもの張りも無くなり、眠た気な目をこすりつつバギ

ルはふらふらと部屋を出て行ってしまった。

「・・そうだな。ラデュレーの捜索はもう少し続けても

らう事にして、私も少し休ませてもらうよ・・・。」

 はっきりとは表情には表さないものの、ティラルもま

た、溜息を漏らしながらソファから立ち上がった。

「判った。・・・何か判ったらすぐに知らせよう。」

 ティラルの言葉に紫昏は頷いた。

 バギルやティラルがそんなやりとりをしている間も、

レックスはがつがつと半ば自棄気味にテーブルの上の食

事を頬張り、酒を流し込んでいた。

 元々、少ししか用意していなかったせいもあり、バギ

ルとティラルが部屋を出て行った後すぐに料理は無くな

ってしまっていた。

 ラデュレーという獲物を取り逃がしてしまって不機嫌

なレックスを刺激する事を避け、紫昏は、

「私も一度護法庁に戻るよ。」

 そう言い残すと、部屋を後にした。

 レックスは紫昏達が部屋を出て行ってからも、しばら

くの間、憮然とした表情で腕を組んだままソファに座り

続けていた。

 こんな事ならば単独ででも先にラデュレーに乗り込ん

でおけばよかった・・と、レックスは苛々とした表情で

宙を睨み続けていた。

 暫くの間、レウ・ファーや幻神達を相手にラデュレー

で立ち回る自分の勇ましい姿を思い浮かべていたが、そ

れは途中で、再び湧き起こった空腹感によって遮られて

しまった。

 先刻たいらげた量はレックスの胃袋を充分満たすもの

ではなかったのだった。

「・・・しゃあねえ。メシでも食いに行くか・・・。」

            ◆

 神国神殿の本殿内や、神域自体にも食事の出来る店や

場所は多くあったのだったが、レックスは気分転換も兼

ねて、久し振りに神域のふもとにあるヴァティという町

迄下りる事にした。

「クソッ、面白くねぇな・・・!」

 レックスは未だ冷めない苛立ちを持て余しながら、木

々の鬱蒼と生い茂る小道を歩いていた。

 既に日は傾きかけ、ヴァティへと続くなだらかな小道

は薄暗い闇をあちこちに孕み始めていた。

 神国神殿に急ぐ者、ヴァティの宿に帰る者など、まば

らな人や神の影がせわしげに小道を行き交っていた。

 神国神殿の正門からふもとの幾つかの町までモノレー

ルやバスも通ってはいたが、ヴァティ迄は徒歩で二十分

程だったので、徒歩を選ぶ者も少なくはなかった。

 ヴァティ迄後十分程・・丁度、神国神殿と町との中間

に差しかかったところで、不意に人通りが途絶えた。

 遙か先を行く人影が道の彼方に吸い込まれて消えたの

を見届けると、レックスは立ち止まって腕を組んだ。

「・・おい!出て来な!先刻から尾けて来やがって・・

・。一体俺様に何の用だ!?」

 レックスの声に、近くの藪の中から一つの黒いマント

姿が現れた。フードを頭からすっぽりと被り、神種も素

性も容姿も全く判別する事は出来なかった。

「ん?一人か・・・?確か二人居ると・・・。」

 勘が鈍ったかと首をかしげるレックスの背後へ、もう

一つの黒衣が音も無く迫った。

「・・何だ。やっぱ二人か。」

 別段慌てた様子も無く、レックスは腕を組んだ姿勢の

まま体をずらし、背後からの襲撃を軽やかに躱した。

 黒いマントの裾がレックスの近くで揺らめいた。勢い

余ったその者は、鉤爪を小道の舗装にめり込ませてしま

った。

 だが、その黒マントの者は不自然な前傾姿勢のまま、

背後のレックスへと腕を突き出した。

 その異様な関節の曲がり具合に、やっと幾らかレック

スの警戒心が動き始めた。

挿絵(By みてみん)

 レックスへと突き出された鉤爪が引っ込み、そのまま

握り締められた拳が白光を迸らせた瞬間、火炎弾が放出

された。

 黒いマントから覗く腕や拳の、斑模様や赤黒い血管の

浮き出た皮膚を観察する余裕は持ちつつも、レックスは

瞬時に炎熱剣を抜いて火炎弾を斬り伏せた。

 切り裂かれた火炎弾はただならぬ威力を秘め、周囲の

木立を吹き飛ばし、石畳で舗装された小道を焼き抉って

いった。

 レックスが炎熱剣を構え直す暇も与えず、黒マントの

者は拳に火炎を溜めてレックスへと迫った。

 ばさ、と自らの動きによって広がるマントの重みを感

じさせない俊敏な動きだった。

「!」

 相手の紅蓮の拳が自らへと達する寸前、レックスは炎

熱剣の柄でその拳を受け止め・・空けた自らの片手を一

閃、灼熱の炎の帯を黒マントへと浴びせかけた。

 黒いマントのあちこちに朱色の炎の舌が這い、慌てて

その者は背後に飛びすさった。

「おのれ・・・。」

 レックスに焼かれた者の背後で、もう一人の黒いマン

ト姿の憎しみのこもった低い声が響いた。

「・・ク・・ス・・・」

 燃え上がり、はぎ取られていく黒いマントの下から、

何処か呻きにも似た女の声が聞こえて来た。

 程無くして、体のあちこちに紅蓮の火炎の塊をまとわ

りつかせた、豊かな金髪と紺碧の双眸の美しい女の姿が

レックスの前に露になった。

「・・フィアン!?」

 その女は、レックスが仄かな想いを寄せる虚空神フィ

アンの姿にそっくりだった。

 その姿に流石のレックスも虚を突かれ、炎熱剣を振る

う力が鈍ってしまっていた。

 もう一人の黒いマントの者は、すっぽりと被ったフー

ドの下から、あっさりと心乱れたレックスの姿に嘲りの

眼差しを向けていた。

 次の攻撃に移る事に僅かな躊躇を見せるレックスの隙

を見逃さず、火炎をまとう女へと命令が飛んだ。

「殺せ!」

 フィアンの姿をした女は、異様に細く、斑模様や赤黒

い血管の浮き出た肢体をしならせ、レックスへと飛び掛

かった。

 仮にも火神を名乗るレックスが女の繰り出す火炎にそ

の身を焼かれる事は無かったが、見かけによらぬ腕力に

よってレックスは黒く焼け焦げた茂みの中へと弾き飛ば

されてしまった。

「クソ!」

 レックスは、服やマントに絡まる焦げた木の枝に構わ

ず茂みの中から這い出そうと上半身を慌てて起こした。

 しかしレックスに立ち上がる暇を与えまいと、女は異

様な前傾姿勢のまま、両手を鉤爪状に尖らせて突進して

来た。

 レックスは自らへと迫り来る、美しい女の貌から目を

離す事が出来なかった。

 この顔はフィアンを・・レックスが慕う虚空の魔女神

を真似たものなのか?

 レックスが想いを寄せる女神に似せた怪物を作り、レ

ックスの心の隙を突いて殺そうとする何者かの企みなの

だろうか?

 数瞬の内にレックスの脳裏をそんな考えが駆け巡った

が・・そんな心の一隅で、しかし、何故かとても懐かし

い・・・鈍い痛みを伴った直感がレックスの心の中に膨

れ上がっていった。

「・・アローザ・・・なのか・・・?」

 レックスの呟きに、もう一人の黒いマントの者が身体

を微かに強張らせたが、レックスに気付かれる事はなか

った。

 だが、その顔がフィアンにしろアローザにしろ、レッ

クスは突進してくる女の両腕を一気に炎熱剣で斬り飛ば

した。

 腕から血も流さず、尚も立ち向かってくる女の姿はや

はり何らかの怪物の様だった。

 自らの慕う女神と同じ顔を持つ怪物の胸へと、レック

スは炎熱剣を突き立てた。

「レ・・・ック・・・ス・・・・ッ」

 怪物の女の喘ぐ唇が、何かの懇願の響きを含んでレッ

クスの名を呼んだ。

 窒息寸前の様に大きく口を動かし、苦痛に白目を剥く

美しい女神の顔に、炎熱剣を持つレックスの手が動揺に

大きく震えた。

 だが、次の瞬間には炎熱剣の放つ高熱と火炎とに包ま

れ、フィアン・・或いはアローザの顔を持つ怪物の女は

灰塵と化して崩れ去った。

「・・おのれ、失敗か。」

 悔しさに吐き捨てられる様に呟かれたその言葉に、レ

ックスはもう一人の敵の存在を思い出し、炎熱剣を構え

直した。

「・・覚えておれよ・・・。」

 憎悪に満ちた言葉を残して、もう一人の方はレックス

の目の前で忽然と姿を消した。

 瞬間移動だったのだろう。黒いマントの者の気配は既

に近くには無かった。

「・・アローザ・・・なのか・・・?」

 黒く焼け焦げ、所々熱で変形した石畳の小道へとレッ

クスは目を落とし、炎熱剣を持つ手を力無く下ろした。

 世界征服。強者達との戦い。古代の財宝を求めての冒

険。かつて、それは仲間達と共にあったレックスの生活

そのものだった。

 それは、とても楽しく、懐かしく、血のたぎるもので

あった。・・そしてそれらと同時に、悲しく苦しい、忌

まわしい記憶でもあった。

 若者らしい傲然とした振る舞いの中に無理矢理に押し

込めていた様々な感情と記憶が、今、レックスの心の中

に再び渦巻こうとしていた。

 夕闇の迫る小道に立ち尽くすレックスの姿は、直ぐに

濃い紫色の暗闇の中へと沈んでいった。

            ◆

 暗闇の中に赤味がかった微かな光の玉が一つ、二つと

浮かぶ地下の広間に、レックスを襲って失敗した黒いマ

ントの者が姿を現した。

『・・やはり、失敗か。邪神化の技術だけを慌てて使う

からだ。ルフォイグの召喚迄待てばよかったものを・・

・・。』

 赤味がかった薄闇の中で、変色した様に見える灰色の

マントを揺らしながら発せられた声には、何処か嘲りの

感情が滲んでいた。

 その横でザヘルは悔しさと憎悪に体を震わせながら、

黒いマントの者を迎えた。

「・・どうしても待てなかったのです・・・。娘をワタ

シから奪ったレックスだけは、自分の手で殺したいので

す・・・!!」

 血走った目を剥き、唇を強く噛み締めるとザヘルは眼

前に立つ黒いマントの胸元へと手を伸ばした。

 一気にマントを引き剥がしたその下には、濁った目を

して無表情に立ち尽くすザヘル自身の姿があった。

 マントを失うとすぐに、分身のザヘルは白煙と化して

崩れ去った。小さな水晶の破片が崩れた頭の辺りから出

現し、こつ、と広間の石の床に当たって砕けた。

 ザヘルは自らの分身を作り出して、それをレックス殺

害の刺客として送り出していたのだった。

 自分の力で、と言いつつ分身を派遣するザヘルの小心

さを、灰色のマントの神は取り立てて指摘する事もなく

広間の奥へと足を向けた。

 分身の派遣は、灰色のマントの神もまた同様だった。

『ルフォイグを召喚すれば、お前の娘の成り損ない共も

もう少しましに邪神化出来よう・・・。』

 娘の成り損ない・・灰色のマントの神の容赦無いその

言葉に、ザヘルの胸は激しく掻き乱されたが、きつく唇

を噛み締めたままザヘルは反発や悲しみの感情を全て抑

え付けた。

 娘の復活の知識と技術の為に、ザヘルはこの神に逆ら

う事は出来なかった。

『・・・時間だ。星々の配置が揃った。召喚に取りかか

ろう。』

 マントの裾からコンピュータの端末らしい小さな銀盤

を取り出し、灰色のマントの神はその表示内容を確認し

た。

 ザヘルの感情の乱れを一顧だにせず、地下の広間に用

意された幾本かの六角形の水晶柱の並ぶ前に立った。

 ザヘルもまたその後に続き、同様に水晶柱の前に立っ

た。

 既に手渡されていた小さな紙片に記された魔神の召喚

に関する古い言魂へ目を落とし・・僅かの間目を伏せる

と、ザヘルは意を決して顔を上げた。

 全ては、愛しい娘アローザの為に。

 その為には、「虚空の闇」に潜む魔神すら使役してみ

せよう・・。

 灰色のマントの神に促され、ザヘルは口を開いた。

 狂える父神の情愛は、遠い遠い昔に葬り去られた筈の

禁忌の詩篇を高らかに詠唱させた。


・・・たゆとう彼方の、底深い流れにあり

・・・こことあそこで、何者も全てが隔てられる薄膜

・・・一つの夜の薄闇と一つの夜の薄明かり

・・・お前はそこからだけ、何処からか浮かび上がる


 詠唱が終わると同時に、水晶柱は微かな白光を放ち始

めた。

 その白い光に呼応して、水晶柱の上の空間に微細な文

字とも紋様ともつかないものが帯の様に連なって揺らめ

いた。

 不可思議な帯は煙の様に一筋に寄り集まってねじれ、

ぎりぎり迄ねじれると呆気無くねじ切れた。

 それと同時に、帯のあった辺りの空間には、ぱっくり

と何かが口を開いたかの様な一つの裂け目が生じていた

様だった。

 ・・確かに生じていた筈なのだったが、神である筈の

ザヘルの知覚にもその裂け目は感知し難いものの様だっ

た。

 それこそが、この地上世界と「虚空の闇」との間に開

けられた次元の裂け目だった。

 その裂け目を通して、「虚空の闇」から何かが地上世

界へと這い出して来た。

 水晶柱の上の空間一杯に漲る質量を、ザヘルはただ恐

怖と驚愕を以って知覚した。

 目には見えず、手触りも無く、音一つ立てはしなかっ

たが・・ただ、そこに存在するという事だけがはっきり

と判る、圧倒的な質量の存在感。

 これが「虚空の闇」の魔神というものなのか。

 ザヘルは言葉も無く、身体を強張らせながら立ち尽く

していた。

 ザヘルの反応を当然の様に、フードの下から横目で一

瞥すると灰色のマントの神は、魔神召喚の言魂を引き継

いだ。


・・全ての暗がりの手触りを確かめ

・・ワタシはオマエを形作ってやろう

・・オマエの真実の息遣い、その真実の根元の中に

・・ワタシがオマエを毒する爪を仕込んでからのちに


 その言魂の詠唱の終わりと同時に、宙空の質感はひど

く平坦な、薄い暗黒の円盤へと変貌し、その中央から一

柱の魔神が姿を現した。

 「虚空の闇」の中では、地上の神々の五感に捉えきれ

ない姿をした神も居る。

 そうした魔神に形を与え、地上に定着させると同時に

その強大な神霊力を制御し・・尚且つ、裏切ればその魔

神を滅ぼす呪詛が発動する・・・。

 灰色のマントの神が唱えた言魂には、そうした力が込

められていた。

「――この様な、低級な神に呼び出されるとはのう・・

・。「ヌマンティア」の神々の方が、まだ遙にマシだっ

たぞ・・・。」

 低くくぐもった声を広間に響かせながら、その魔神・

ルフォイグはザヘル達の目の前に降り立った。

 体の半分を占める程の巨大な巻き貝を連想させる頭部

から、赤い光点が二つ覗いていた。

 その赤い眼の下からは異様にか細い胴と手足が垂れる

様に長く伸びていた。

 ザヘルはただ、魔神の地上への顕現に言葉も無く立ち

尽くすばかりだった。

 そんなザヘルには構わずに灰色のマントの神は恐れ気

も無く、広間の暗黒の中に爛々と赤い眼光を放つルフォ

イグの前へと進み出た。

「――「虚空の闇」の流れの只中に巣食う古えの魔神ル

フォイグよ!オマエを生み成し、折々に様々の事等に使

わしめた「ヌマンティア」の言魂の力は骨身に染みてい

よう?オマエが如何に高位の神と自称しようとも、言魂

の力はオマエをワタシ達の下に結び付けた。――努々、

忘れる事無き様に・・・。」

 古めかしく、また尊大な灰色のマントの神のルフォイ

グへの呼び掛けを横で聞きながら、ザヘルはただ呆然と

ルフォイグを見上げた。

 緊張に掌がじっとりと汗ばみながらも、懐の中のアロ

ーザの髪の束をザヘルは握り締めていた。

 愛しい娘の復活・・それだけが、ルフォイグの異様な

気配と姿よりも、ザヘルの精神を支配する全てのものだ

った。



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