第18章「安寧」
「街の人達はどうなっちまったんだ……?」
パラの後ろに乗ったバギルが呆然と呟いた。
「判らないが……。」
パラの近くに幻獣に乗って浮かぶゼズもまた、腐敗と
崩壊の進むソエリテの街並を呆然と見下ろした。
そこにザヘル神殿の辺りから幾本かの火柱が二、三
度立ち上った。
「フィアンか?」
ファイオの幻獣に乗っていたレックスは思わず身を
乗り出したが、ゼズはゆっくりと頭を振った。
「いや、違う…。このエネルギーは…邪神のものだ。」
腐肉の堆積に妨げられ地下の様子は知る術も無かっ
たが、火柱を作り出すエネルギーの波動はゼズ達のよく
知った邪神のものだった。
ゼズか知覚を研ぎ澄ますべく精神を集中すると、邪神
達の放つエネルギーがより地下深くへと潜って行く気配
が感知出来た。
最早邪神達は幻神達の命令下には無く、独自の――
いや、レウ・ファーの意志の下に活動していた。
邪神に与えられた最優先の命令――レイライン集束点
の占拠を成し遂げる為に。
「あたし達の命令も無しに……?」
パラは驚きながら眼下の腐肉の堆積と化したザヘル神殿
を見下ろした。
「仕方無いワヨ……。」
ファイオは諦めの表情で溜息をついた。
邪神の反応はより地下深くへと潜行しており、微かな
エネルギーを辛うじてゼズは認識していた。邪神達が未だ
無事なのは、フィアンがまだ何もしていないのか……
或いは出来なかったのだろうと、ゼズはルフォイグを撃退
した後の疲労したフィアンの様子を思い出していた。
「――「世界を生み出し形作る力」……か。」
ふと呟くゼズの脳裏を様々な言葉や思考が駆け巡って
いた。
ザヘルは結局その力を得る事は出来なかった様だった
が――そもそもザヘルに「力」の事を吹き込んだ、あの灰色
のマントの神は何者だったのだろうか。
それに何よりも、ザヘルの魔神と化した姿は余りにも容易
にレウ・ファーの姿を連想させた。
――では、レウ・ファーもやがては、ザヘルの様にあらゆる
ものへと侵食と融合を行なっていくのだろうか?
「……。」
そこ迄思索を巡らせ、恐ろしい結論を垣間見る前にゼズは
思考を中断した。
「――あれが…親子、というものなの……?」
ゼズの近くに浮遊しながら、パラは全く別の事柄に思いを
馳せていた様だった。
幻神ではあり得ない親子と言う関係――親子の愛情や執
着というものは、一応の知識としては知っていた。
だが、ザヘルの様に強く……そして簡単に歪んで変わり果
ててしまう心の有様は、パラに激しい衝撃を与えていた。
「……地上の事って判らない事ばかりだわ…。」
パラは暗い表情で俯き、両手で顔を覆った。
自らの目が涙に潤み始めている事にパラは気付いた。
自らの胸の内に悲しみや哀れみの感情が抑え難く渦巻い
ている事もまた、パラは知った。
幻神の少女はザヘルとアローザの運命を悲しみ、生まれ
て初めて他者を哀れんでいるのだった。
◆
短い時間の内に一面が汚泥と腐肉の海と化し、緩慢な
速度でザヘル神殿の地下広間は崩れて潰れようとしていた。
「――逃がしてしまったわね……。」
ひび割れた霊具のブレスレットを外し、フィアンは疲労の
色の濃い溜息を吐いた。
先刻レックス達がザヘル神殿上空で目撃した火柱は、邪神
達が更に地下の階へと進む穴を開き、また同時にフィアンを
攻撃した時のものだった。
ルフォイグを撃退した事で霊具に込められていた神霊力を
殆ど使い尽くし、邪神達を破壊する余力はフィアンには残っ
ていなかった。
レウ・ファーもそれを見越して最後の最後迄、幻神達の護
衛を離れさせて迄邪神を待機させていたのだろう。
ふと、フィアンは邪神の開けた地下への穴にずぶずぶと
流れ落ちていく一塊の腐肉の山へと目を向けた。
先刻迄ザヘルであったそれは、他の腐肉と混ざり合い、
ザヘルの面影は何処にも無かった。
――アローザが甦るのならば。
哀れな父神の願いを思い起こしながらも、フィアンはただ
冷厳に…何の同情も哀れみも無い表情で、沈み行く肉塊
を見つめるだけだった。
「――流石に疲れたわね。」
汚泥の緩やかな流れに足を取られ、フィアンは血の気の
引いた顔でよろめいた。
何とか姿勢を立て直し、脱出すべくフィアンは瞬間移動の
言魂の封じられた宝珠をドレスの胸元から取り出そうとした。
「虚空の闇」への次元の穴は既に閉じられ、ザヘルは死に、
何とかフィアンの虚空神としての仕事は終わった。
逃亡したベナトを追ったルフォイグも、再び呪詛を発動させ
た以上、後僅かの時間の内に死ぬ筈だった。
邪神を破壊出来なかった事を心残りに思いつつ、取り出した
宝珠を空中に浮かべようとしたところで――
「!」
ずるりと汚泥が大きく移動し、フィアンは思わず姿勢を崩し
てしまった。
宝珠が手から飛び出し、汚泥の上へとフィアンは横倒しに
なりかけた。
「……迎えに来て良かったよ。」
聞き慣れた声と共に、不可視の反発力がクッションと化し、
フィアンの体をふんわりと空中で受け止めた。
フィアンの手から飛び出した宝珠を手に、エンフィールドの
姿が現れた。
「何とも情け深い事ね、天極の神様は……。」
表情一つ変えずにフィアンは、自分を心配そうに見るエンフ
ィールドを見上げた。
「脱出しよう。この神殿はすぐに潰れてしまう。邪神の事は
残念だったが…。」
手にした宝珠をそっと空中に浮かべ、エンフィールドは
宙に横たわったままのフィアンを振り返った。
「どうやら運命の巡り合わせはレウ・ファー達の悪事に
味方している様だな…。」
エンフィールドの言葉にフィアンは溜息をついた。
「そうね…。この私が邪神達の始末にしくじるなんてね。」
フィアンの言葉を聴きながら、エンフィールドの精神集
中を受けて宝珠の輝きが増し始めた。
「…但し、運命が味方するのは途中までだがな。」
神々や人間の運命を司るエンフィールドは、最後にそ
う付け加えた。
宝珠のまばゆい光が辺りを包み込み、潰れて形を失っ
ていく地下の広間から二神は立ち去った。
◆
ラデュレーでレウ・ファーは邪神達がザヘル神殿の
レイライン集束点を占拠した事を確認した。
神殿の地下深くで邪神達は再び卵状の姿となって
硬化し、来たるべき時に備えて眠りに就いたのだった。
「これで二つか。」
レウ・ファーは空中に映写したソエリテの地図を消し、
次に神州大陸の地図を映した。
「――ルフォイグはどうやら追い付いた様だな。」
傷付き弱ってはいてもルフォイグの神霊力の波動は
レウ・ファーのセンサーに認識され、その位置を知る
事が出来た。
ルフォイグはベナトを追って、現在神国神殿の「奥の
院」に居た。
◆
「奥の院」に逃げ込めば一安心と思っていたのも束の間、
ベナトの後を追ってルフォイグは院の内部へと侵入して来
た。
「奥の院」に張り巡らされた防御壁も、「虚空の闇」の魔神
の力によって難無く破られてしまっていた。
「おやおや失敗か。」
「何ともはや、無能な事じゃのう。」
必死に廊下を走り抜けるベナトの周囲で、幾つかの神影
が嘲笑の言葉を発していた。
中にはベナトとルフォイグの巻き添えを恐れて逃げ出す
者も居たが、自分の力を過信する者達は高みの見物を
決め込んでいた。
「……待…てッッ、ベナト……ッッ!!」
腐って骨まで露出した片手を振り上げ、ルフォイグは
ベナトに向けて衝撃波を放った。
咄嗟にベナトは両手を翳して防御壁を作ったが、凄まじ
い力に防御壁毎弾き飛ばされてしまった。
衝撃の余波は周囲で高見の見物をしていた神々をも
巻き込み、辺りは瞬時に灰燼と化した。
「…ひいっっ!!」
片腕がちぎれ飛んだ事を気にする間も無く、ベナトは
必死で起き上がると再び逃げ始めた。
本能的にベナトは地下のドームに向かっていた。
「奥の院」を束ねるあの青いマントの神ならば何とか
してくれるだろう――。
ベナトは恥も外聞も無く、青いマントの神へと助けを
乞いにドームへと逃げ込んだ。
「…逃がすかッ……!!」
腐敗の進行により肉体の半分が溶けて崩れながらも、
ルフォイグは地下のドームへと姿を現した。
「…ベナト…。お前を…殺してから……でないと…
腹の虫が……治まらぬ…わッ!!」
自らの体も焼け爛れてしまうのも構わず、ルフォイグ
は辛うじて残っている片手に光球を作り出し、ドームの
中を逃げ続けるベナトへと投げ付けた。
「…た…助け……ッッ!!」
霊具も既に使い果たし、神霊力も尽き、ベナトの体は
呆気無く光球に貫かれた。
「――何とも騒々しい…。」
薄暗いドームの中に、不意に仄かな光が浮かび上が
った。
「……!!」
自分達を束ねる者の名前も知らないまま、ベナトは
血を吐き倒れ掛けながらも青いマントの神へと手を
伸ばした。
「小さな神が紛れ込んだものよ。」
それはどちらに向けて呟かれたものか。何の感情も
こもらない声がドームの内に響き、青いマントの揺らめき
がベナトとルフォイグへと近付いて来た。
「…助けて…下さい…。」
床の上に倒れながらも必死に伸ばされるベナトの手の
ほんの少し前で、青いマントの神は立ち止まった。
ベナトもルフォイグも、どちらも瀕死の様相で青いマン
トの神の眼前に在った。
程無くして、小さな痙攣を最後にベナトは床の上で息
絶えた。
それを満足気に見届けたルフォイグは、今度は「奥の
院」全ての者を道連れに死ぬべく、古い時代の言魂の
詠唱を始めた。
「…地上の低級な……神々と自爆…するの…も……
一興か…。」
ルフォイグの目は邪悪な笑みに細まった。
「「虚空の闇」の片隅を徘徊する小さな神よ。自爆ならば
外でやるがよい。」
侮蔑の感情すらこもらない蔑みの言葉が青い神影から
発せられた。
それと同時に、まだ無事だったルフォイグの発声器官
が麻痺し言魂の詠唱は打ち切られてしまった。
「……!?」
声も出せないままルフォイグが青いマントの神へと目を
向けたと同時に、周囲の景色が一変した。
「――ッ!?」
青く晴れ渡った空に、淡い雲がまばらに流れていた。
神国神殿のある半島は、ルフォイグの遥か下にあった。
一秒とかからずにルフォイグは神国神殿の遥か上空の
空間に放り出されていたのだった。
瀕死とは言え仮にも「虚空の闇」の魔神であるルフォイ
グの言魂を封じ、一瞬にして外部へと放り出す事等、なま
じの神では為し得ない事だった。
あの青いマントの神は何者だったのだろうか。自分の
知らない恐ろしい神が地上にも居たものよ…と、ルフォイ
グは先刻の青い神影を思い返した。
もはやこれまでか――。
自分よりも遥かに低級な神によって施された呪詛で
朽ちていく無念を噛み締めながら、ルフォイグの体は
少しずつ落下を始めていた。
最早、上空に留まる為の浮力を作り出す事も出来ず、
腐肉と体液を青い空に撒き散らしながら、落下の速度は
次第に速くなっていった。
「――お前の神霊力は私が貰い受けよう。」
流れる雲の間から、合成された電子音声と一本の触手
が落下するルフォイグへと追いすがった。
ルフォイグの体を素早く絡め取った触手の向こうには、
青空に穿たれた黒い穴の様な漆黒の影があった。
その黒影はシルクハットとマントの形を取り、白い仮面
を頭に戴いていた。
レウ・デア――いや、レウ・ファーか。
レウ・デアとはレウ・ファーの分身……本体から離れた
所で様々な活動をする端末だった。
ルフォイグは嘲りの混じる視線をレウ・デアへと向けた。
「「虚空の闇」の魔神の内、低級な神とは言え、このまま
死なせるのは惜しい。」
低い電子音声の呟きが漏らされ、ルフォイグに絡まった
レウ・デアの触手は瞬時にその体内へと根を張った。
「――昔ありし、今は無し
――崩れ落ち、わだかまり、それは為されなかった
――今はありし、昔無し
――流れ去り、滴り落ち、それはありはしない」
詠唱された言魂は、「無効還元呪詛」だった。
いつの間に習得したものか、レウ・デアの言魂によって
ルフォイグの腐敗は完全に止まった。
「……どいつもこいつも、低級呼ばわりしおって…!」
声も戻り、ルフォイグは憎悪に満ちた叫びを上げた。
肉体の大半を腐敗で失っていたが、そこから元の体に
復活する事はルフォイグにとって本来た易い事だった。
だが、体内に侵入したレウ・デアの根が再生を阻み、
ルフォイグの体の吸収を始めたのだった。
ずるずると音を立てて分解されたルフォイグの体は、
レウ・デアの体内へと取り込まれていった。
「…クソッ!!レウ・ファーよ!! お前もいつか思い知れ!
ザヘルの運命とお前も同じ結末よ!!」
捨て台詞として投げ付けられたルフォイグの言葉も、
レウ・デアの体内へと吸い込まれて消えた。
「――お前も所詮、ただの道具…。」
ルフォイグの捨て台詞に何の感情も、その白磁の仮面
には表れる事は無かった。
ルフォイグを吸収し終えると、レウ・デアはラデュレー
へと飛び立っていった。
◆
「あ! 」
バギルはソエリテの街から少し離れた丘の上で休んで
いる大勢の人間達を見つけて指差した。
何事かを誘導し、慌しく働いている大勢の護法庁の制
服を来た者達の姿もそこにはあった。
「どうやら街の人々は無事の様だな……。」
ティラルはほっと息を吐き、丘の上の様子を見た。
「――で、アンタ達はいつ迄乗ってンのヨ!」
うんざりと言う風に溜息をつき、ファイオは自分の幻獣
に同乗しているティラルをじろりと見た。
「……そうだな…。」
ファイオの視線に困惑しながらティラルは返事に詰まっ
た。
自分達の旅の荷物や飛翔板はザヘルの魔神化の騒ぎ
の中で失われてしまっていたのだった。
「ま、適当なトコに下ろしてくれ。適当な近くの町迄行くから
よ。」
戦いの緊張から解放されて、呑気に笑いながらバギルは
言葉通り適当な場所を指差した。
「そうだな……。」
適当と言われてもゼズは生真面目に、まだ無事に残って
いる街道近くが良いだろうと、歩き易そうな場所を目で探した。
そこに、天の片隅がちかちかと点滅し、一つの星の様な
光が森の一つへと降下して行った。
「――この気配は…。」
光の中から神の気配をゼズは感じ取った。
「フィアンだ!!」
ゼズの後ろでレックスは思わず叫び、光の下りた地点へと
向かうようにゼズに命令した。
ゼズ達がその場所へと向かうと、草むらの上に横たわる
フィアンの姿があった。
その傍らにはエンフィールドと――ヴァンザキロルの姿も
あった。
幻獣から降りて急いで駆け寄るレックスの後ろから、バギ
ルが驚きの声を掛けた。
「何であんた迄地上に…?」
仮にも自分の師匠をあんた呼ばわりしながら、バギルは
滅多にある筈の無い冥界の主の出現に首をかしげた。
バギルやレックスがフィアン達に駆け寄っている内に、
背後で幻獣達が再び空へと上昇を始めた。
「え? おい!」
バギルが振り返り、浮かびかけた幻獣シウ・トルエンの
足の様な物へと手を伸ばした。
「何処に行くんだ?」
ティラルが訝しげに問うと、ゼズの横に幻獣を浮かばせ
ながら、ファイオは小馬鹿にした様に鼻で笑った。
「ラデュレーに帰るに決まってンじゃない。」
その答えにバギルは戸惑った。
「レウ・ファーの所に戻ってどうするんだ? このまま逃げ
ればいいじゃないか!」
敵として対立する者にも思い遣りの言葉を掛けるが、
バギルのその言葉はゼズ達には受け入れられる事は
無かった。
「…余計なお世話だ。」
ゼズは呟く様に答えた。
「レウ・ファーに騙されてるんだぞ!? ザヘル神殿を見た
だろ? あんな危険な所にお前等を送り込んで…。」
何の打算も無く誰にでも同じ様にバギルはこうした思い
遣りの言葉を掛けるのだろう。
そんなバギルに悲し気な目を向けるゼズの横で、ファイオ
は苛立たし気に野太い声を張り上げた。
「うっさいワネッ!! レウ・ファーがどうだろうと、アタシは神
国の連中に仕返ししなきゃ気が済まないのヨ!!」
「何で!」
睨み合うファイオとバギルを交互に見つつ、パラもまた
戸惑いながらも同様の憎しみの言葉を口にした。
「――私も、地上の神々は嫌いだわ…。地上の神々に
復讐する力が、レウ・ファーにはあるもの。」
ザヘルとアローザ親子の運命を哀れみ、悲しみつつも、
パラの心の根源には地上の神々への憎しみが拭い難く
沈んでいた。
「どうして…。」
思いが通じない事への悲しみの感情がバギルの紅い
瞳の中で揺れた。
バギルの思い遣りを理解しつつも、何処か押し付けが
ましく感じ、ファイオは意地の悪い言葉を投げ掛けた。
「バギル…。ザードがあンなになったのは、洗脳なんかじ
ゃなく自分から望んでの事だって、知ってた?」
それは少し前にも「神々の森」でゼームが語った言葉
でもあった。
「自分で力が欲しいってネ…。」
ファイオの言葉に、バギルは弾かれた様に声を荒げた。
「違う!! そんな事は無いッ!! ザードはそんな奴じゃ…。」
ふと一瞬、哀し気に唇を噛みながらも、ファイオはいつも
の調子で小馬鹿にした様にバギルを見下ろした。
そしてもうそれ以上バギルに取り合おうともせず、幻獣
ファ・ジャウナを上空へと飛翔させた。
パラも黙ってその後に続いた。
ゼズは尚も自分達を引き止めようとするバギルから目を
逸らし、溜息をついた。
「……君達との馴れ合いもここ迄だ。」
幻獣シウ・トルエンが小さな翼を震わせると、ゼズの姿も
また忽ち上空へと舞い上がって行った。
後ろで横たわるフィアンの事が気になりつつも、レックスは
ファイオがバギルに言っていた言葉を思い返していた。
――自ら、力が欲しいと望んだ。
ザヘル神殿の地下でルフォイグが言っていた。
「虚空の闇」からの邪気に当てられた者は、大きな力への
誘惑の夢や語り掛けを受ける。
…それならば、ザードはその誘惑に応じたのだろうか。
アローザとの夢の中でレックスもまた、あの昏い呼び掛けに
応じていたら、ザードの様になっていたのだろうか?
そんな事をレックスが思っている内にも、ゼズ達の姿は
夕暮れの空の中の小さな点と化してしまっていた。
「御無事の様で何よりです。」
ティラルは背後を振り返ると、青ざめた顔色で横たわって
いるフィアンへと声をかけた。
バギルもまた、ひとまずはゼズ達の事を諦め、フィアンの
傍らに立つ冥王ヴァンザキロルの方を振り向いた。
黒衣を覆う純白のマントとその上を流れる豊かな白い髪
は夕焼けの空気の中で薄い朱に染まっていた。
「どうして冥王のあんたが地上に…?」
バギルの問いにヴァンザキロルは静かな笑みを返した。
「先刻のザヘル神殿の騒ぎで、地上と冥界を繋ぐ次元の
穴の一つが歪んでしまったのでな。修理に出向いたのだ
……。」
今は腐肉の堆積するばかりのザヘル神殿の方角を指
差すヴァンザキロルの手には、幾つか古い時代の彫刻が
施された指輪が輝いていた。
「――それとザヘルの魂を回収しに、か?」
何処か冗談めいた笑いを浮かべながら、レックスはヴァン
ザキロルを見つめた。
だがその目は決して笑ってはおらず、ひたむきさの様な
ものをも湛えて真っ直ぐに死と魂の行方を司る冥府の王を
見つめていた。
ザヘルと――アローザの魂は、正しく冥府に導か
れたのだろうか、と。
僅かの間、ヴァンザキロルは黙ってレックスの表情を
見ていたが、
「……ああ。そうだ、それもあるとも。」
わざとらしく、何処か大仰な口調を装い、ヴァンザキロル
は大きく頷いた。
しかし冷厳な光を宿す三つの黒瞳は、大仰な口調の
中でもその鋭さは変わる事が無かった。
「如何なる善神も罪神も、死ねば我が冥府へと導き――
安らぎの彼方へと誘おう。」
薄闇をあちこちに孕み始めた茜色の森の景色の中で、
黒白の衣を纏って悠然と佇む神の姿は、確かに冥府への
案内者たる風格を備えていた。
そんなヴァンザキロルを前にして、レックス達は自分達も
神と言う存在に名を連ねていながらも、生と死や魂の行方
というものに余りにも無知であると――今更の様に思い知
った。
「……しっかし、ソエリテも滅茶苦茶になっちまったな…。」
バギルは大きな溜息をつき、ソエリテの方角を振り返った。
夕暮れの茜や薄紫の色彩に染まる山々の連なりの向こう
に、泥の塔の様な堆積がバギルの目に入った。
ザヘルの侵食した肉体が腐って汚泥と化しているの
だろう。最早そこには街と呼べる物は残ってはいなかった。
「フィアンもご苦労なこったな…。まさかあんた迄お出まし
になるなんてなァ!」
フィアンへの労わりの言葉をかけつつ、レックスは
次第にいつもの傲慢な口調と態度を取り戻しつつあった。
フィアンの顔の向こうにアローザを見る事は、もう無かっ
た。レックスの心の中では、アローザもフィアンも必要以上
に美化される事も重ね合わされる事も無くなっていった。
そんなレックスに何の感情も向ける事無く、フィアンは
疲労の翳を帯びつつもドレスの内ポケットから宝珠を取り
出した。
「――乗り物が無くなって大変でしょう。使いなさい。」
それは先刻、ザヘル神殿からレックス達を脱出させた
瞬間移動の言魂を封じた宝珠だった。
「おお! 悪ィな。助かるぜ!」
レックスは笑ってフィアンから宝珠を受け取った。
「――ソエリテは当分復旧は無理だな…。」
いつの間にかフィアンの傍らに佇んでいたヴァンザキ
ロルが独り言の様に呟いた。
「紫昏殿に街の封鎖を頼むとしよう…。」
ヴァンザキロルの言葉に、エンフィールドは星座板を
戴いた杖をついて重々しく口を開いた。
「封鎖? おい、そりゃどう言う事だ?」
ヴァンザキロル達の会話にレックスは思わず声を上げ
た。
「おい、レックス…。」
高位の神々の会話に割り込むレックスの失礼さに、
ティラルは諌めの手を伸ばした。
しかしヴァンザキロルは気を悪くした様子も無く、ティラ
ルへと片手を上げて応えると、レックスの方を向いた。
「レウ・ファーにこの街の集束点も占拠されてしまったの
だよ。邪神が据えられた以上、街を封鎖して邪神を
何とかするしかないだろう…。」
「邪神はもう、ザヘル神殿の地下で休眠しているわね。」
横たわったまま、フィアンが言葉を続けた。
これで大きな集束点は二つもレウ・ファーの手に落ち
てしまったのだった。
「――まあ、地上の神々の努力を期待するよ。」
ヴァンザキロルは何処か無責任とも聞こえる言葉を
バギル達に掛けた。
「さて。空間の歪みも修復した事だし、私はこれで冥界
に帰るとしよう。」
ヴァンザキロルはフィアンとエンフィールドに会釈をし、
白いマントを翻すと夕陽の差す木立の中へと足を向けた。
「――バギルよ。せいぜい地上で励む事だ。冥界で闇
雲に勝てもしない私に突進するだけが能ではないぞ。」
珍しく微かな笑みを浮かべ、ヴァンザキロルは武術の師
らしい事を語りながらバギルの前を通り過ぎた。
「ああ! 判ってるって! 勝てもしない、は、余計だぜ。」
バギルは少し拗ねた様に口を尖らせた。
夕暮れの中を白い幻の様に遠ざかりいく影を見送りな
がら、レックスは思わず片手を上げかけて止めた。
冥府の主を呼び止めて、レックスは何をしたかったのか。
冥府の主を呼び止め、問いかけずにはいられない。
それは生きている者の性かも知れなかった。
「――どうしたね?レックス。」
レックスの手の動きに気付き、ヴァンザキロルは足を止め
静かな声で問い掛けた。
僅かの間、レックスは言葉に詰まり立ち尽くしてしまった 。
冥界の主を前にして何を尋ねたものか――。いや、質問
したい事は既にレックスの胸の中にあると言うのに。
意を決し、レックスはヴァンザキロルへと問いを放った。
「……死者の魂は…安らかなのか……?」
唐突なレックスの問いにも、ヴァンザキロルはただ夕陽の
光を浴びながら薄闇の木立の間で静かに佇んでいた。
「さあ・・・な・・・。」
余りにも何気無く返されたヴァンザキロルの答えは、レック
スだけでなくバギルやティラル達をも呆然とさせた。
その口調は余りにも何気無く、何の含みも比喩も感じ取る
事は出来無かった。
「へぇ…ぇえ!?」
バギルはレックスの後ろで思わず頓狂な声を上げた。
今迄レックストヴァンザキロルの遣り取りを見守っていた
ティラルの顔にも不審気な表情が浮かんでいた。
「さあ……って、あんた冥界の王だろうがよ!?」
レックスは思わずヴァンザキロルの近くへと詰め寄った。
さあ――とは、余りにも冥府の主神とは思えない答えだった。
ヴァンザキロルはその三つの黒瞳で、訝しげな表情を
浮かべるレックス達を順に見渡した。
「――安らかである、と、答えればそれでいいのか……?」
穏やかな声でありながら、ヴァンザキロルの言葉には
厳しい拒絶が込められていた。
「生者に死者の事は判らない――それが理法だ。」
柔らかな朱と青紫の色の光に満たされた木々を背後に
ヴァンザキロルは厳然と言い放った。
フィアンとエンフィールドは彼らの間を取り成す事もせず、
ただ成り行きを見守っていた。
「――それに。」
ヴァンザキロルは言葉を続けた。
「例え冥王の名にかけて、死者の行方を答えた所で……
お前は納得しないだろう。」
自分の心を見透かした様なヴァンザキロルの言葉に、レッ
クスは肩を微かに震わせた。
白く流れる豊かな髪の下にある端正な顔が、僅かに優しく
微笑んだ様にも見えた。
「誰がどう言おうと……誰かの言葉では納得出来はしない
ものなのだよ……。生きている者には決して、死んだ者の事
は判りはしない……」
レックスはヴァンザキロルの言葉を聞きながら、何処か
ほっとした様な――割り切れない様な、複雑な想いを胸に
小さな溜息をついた。
誰の言葉でも納得出来ない――それは、レックス自身も
心の何処かで判っていた事だった。
アローザや仲間達との記憶や想いはいつ迄もレックスの
胸の中に在る――やはり、それでいいのだと…レックスは
改めて思った。
「そうは言うけどさ……。」
バギルは頭の後ろで手を組み、軽くヴァンザキロルを
睨んだ。
「そしたら、どうやったら死んだ奴の事が判るんだよ?」
バギルの問いに、ヴァンザキロルは即座に明快な答えを
発した。
「死んだら判るとも。私の下で修行を始めてもうだいぶ経
つと言うのに…そんな事も判らないのかね?」
「そりゃそうだ!!」
思わずレックスは吹き出し、大きな声を上げて笑い出し
た。
フィアンとエンフィールドもまた、軽い笑みと共にレックス
達を見ていた。
「な、何だよッ! そンなに笑うこたぁねえだろ!!」
バギルは顔を真っ赤にしながらレックスへと掴みかかろう
とした。
「ああ、悪ィ悪ィ。」
バギルの手をレックスは軽やかに躱しながら、まだ笑い続
けていた。
不思議と朗らかにレックスは笑いながらも、心の片隅にい
つ迄も消える事の無い鈍い痛みが残り続けている事を感じ
ていた。
――アローザは決して帰ってこない。
その変えようの無い事実はやりきれない心の痛みと化して、
これからもそれと共に生きていくのだろう……と、レックスは
漠然と思った。
◆
ソエリテの街を離れたゼズ達はゆっくりとした速度でラデュ
レーへと帰還しつつあった。
――2時間後には帰還と予想される。
レウ・ファーの支配下にあるコンピュータが予想を述べた。
大海原の遥か上空で、雲にも遮られる事の無い強い陽射
しがレウ・ファーの座す大広間に降り注いでいた。
そこに、ゼズ達よりも先にルフォイグを呑み込んだレウ・デ
アが姿を現した。
レウ・デアは本体の前でマントとシルクハットを脱ぎ捨て、
白磁の仮面を頂くだけの肉管の寄り集まりに戻った。
レウ・ファーは無言で自らの体を包む一枚の肉の花弁を
床の上へと下ろした。
平面的な模様の様な目が開いている花弁の上に、レウ・
デアは音も無く歩み寄った。
僅かな時間の内に花弁の上でレウ・デアはまとまりを失い、
無数の肉管や内臓器官へと戻り、花弁の中に吸収されてい
った。
「――ぉぉ……。」
その途端、レウ・ファーはその巨体を小さく振るわせた。
背後の大理石の壁に浮き出た電子回路の上を虹色の
光が縦横に駆け抜けた。
レウ・デアが持ち帰ったルフォイグの成れの果ては、レウ・
ファーに融合し、レウ・ファーの一部として消化吸収された。
「……下等とは言え、流石に「虚空の闇」から召喚された魔
神。エネルギーや情報の量は地上の神々とは比較にならん
な……。」
何の表情を浮かべる事も無い白い仮面からは、何処か食
事を吟味するかの様な……そして、満腹感を連想させる様
な響きが漏れた。
消化吸収され、ルフォイグの持っていた神霊力と知識の
全てがレウ・ファーの物として同化したのだった。
あらゆる存在との融合と同化――ソエリテの街でザヘル
が行なった事と同じ様に、レウ・ファーもまたそれを本性と
して行なう魔神だった。
「ふふ…!」
ルフォイグから得た知識から今回のソエリテに関する情報
を拾い出し、知らずレウ・ファーはくぐもった笑いを漏らし始
めた。
「ふふ……。ルフォイグめ、色々と面白い事を知っている
ものよ……。」
ルフォイグが誰に召喚されたのか。その召喚者は何を企
んでいたのか。
また、ルフォイグが気紛れに覗き見していたレックスの見
ていた邪気の夢もレウ・ファーの知る所となった。
「あの小僧がレックスだったとはな。」
百五十年前のフィシテ島の記憶をコンピュータから引き出
し、レウ・ファーは当時の事を思い返した。
百五十年前にフィシテ島のレイライン集束点に派遣した
怪物姿のレウ・デアの邪魔をした若僧達――その中にレック
スが居た事をレウ・ファーは初めて知った。
「……ふっ……ふはははははははッッ!!!!」
ザヘルが何の為にベナトに利用されたのか。
ベナト達の目的が何であるのか。
ルフォイグの知識からそれらを知ったレウ・ファーは、知らず
哄笑を広間中に響かせていた。
「愚かな年寄り共の集まりよ…。」
ひとしきり笑った後、レウ・ファーはルフォイグから得
た情報をひとまず片付けた。
レウ・ファー自身の誕生もまた、「奥の院」の者達が関わっ
ていたのだった。
「世界を生み出し、形作る力」を得る為に――。
「この私を、そうた易く制御出来るものか。」
侮蔑の笑いを含む声を発しながら、レウ・ファーは次の
レイライン集束点の分析データを空中に映し出した。
「奥の院」の者達が何を企んでいようと、レイライン集
束点は既に二つレウ・ファーの手の内に落ちていた。
せいぜい泳がせているつもりでいるがいい―― 。
レウ・ファーは眼前に映写された幾つかの文書や
立体地図を見た。
空間の一隅に映し出された円グラフが七十%、八十%…
と言う数字と共に、無色から次第に赤い色に塗り替えられて
いった。
次のレイライン集束点の位置を解析する作業は、後少しで
終わろうとしていた。
と言う訳で第3部完ですが、メモを見ると2000 04 23日曜 午後10時04分下書き完了、2006 04 15土曜 午後6:47清書完了とありました。下書き完了から今回「小説を書こう」に掲載するまでに12年ですか・・・。長いわー・・・。
第4部は現在あらすじをまとめている最中です。なるべく今年中には書き上げたいとは思っていますが・・・。頑張ります。
それでは第4部でお会いしましょう~