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第16章「昏いモノ共」

 狂気に血走った瞳の昏い輝きはそのままに、電子回路の様

な模様と赤黒い肉菅に置き換わったザヘルの顔が、にやりと卑

しい笑みを浮かべた。

 「虚空の闇」へと続く穴の中に注入した擬似魂から創り出された

眼球と脳だけの魔神は、瞬く間にザヘルの胸部に埋没し、既にザ

ヘルの肉体の一部と化していた。

 ザヘルの体のあちこちからは赤黒い肉管が現れ、それらは周囲

の石壁や柱、床へと食い込んで行き――広間の全てを侵食するの

にさほどの時間は掛からなかった。

 広間への侵食が進むと同時に、ザヘルの脳内では不可思議な意

識の覚醒感が生じていた。

 肉管は感覚器でもあるのか、瞬時に周囲の大量の情報がザヘル

の頭脳へと流れ込み――ザヘルの脳内でそれらの全ては理解され

処理されていった。

 未だ開かれたままの「虚空の闇」への次元の穴から尚も溢れ出て

来る邪気を、肉管から次々に絡め取っては吸収していくザヘルの姿

はもはや元の火神の姿を一片も留めてはいなかった。

『……手に入れたのか……?これで……「世界を生み出し形作る力」

……を……?』

 際限無く拡張していく様な精神と肉体の感覚に、ザヘルはやや困惑

気味に呟いた。邪気を吸収し続ける事で神霊力の増大も実感出来て

いたが、世界を生み出すと言う程の特別な力を得たと言う実感にはま

だ乏しかった。

「――レウ・ファーの紛い物が出来おったか……。」

 眼下で蠢く一塊の肉管を一瞥し、誰にも聞こえない程の小さな呟きが

ルフォイグから漏らされた。

「順調だ……。」

 満足気に頷き、ベナトはザヘルの側へと歩み寄った。

 ザヘルの様子は全てベナトの分身の目を通して「奥の院」へと送信さ

れ、細大漏らさず記録されていった。

「お前は今、正に魔神へと進化し……「世界を生み出し形作る力」を得

つつある……。」

 ベナトの囁きがゆっくりとザヘルの辛うじて残った耳から染み渡り、ザヘ

ルは血走った目を歓喜に震わせながら見開いた。

 そこに。

「――ティラル!レックス!!無事かぁぁっっ!?」

 ザヘルの感動に水を差す様に大広間の入り口の向こうから、バギルの

叫び声が接近して来た。

「…バギル! お前こそ無事だったか?」

 幻神達と共に広間に飛び込んで来たバギルに、ティラルは労わりの声

を掛けた。

「…ザードはどうしたよ?……それに、そいつらは…?」

 奇妙な夢見の後でまだ調子が戻りきらないものの、レックスはいつもの

傲然たる口調でバギルに問い掛けた。

 レックスの敵意の視線にゼズ達も警戒心に身を硬くした。

 そこにバギルが割って入り、

「ザードには逃げられた…。けど、今はそれどころじゃないんだ!」

 バギルがゼズ達に助けられた事を説明し掛けた背後で、ゼズの硬い呟

きが漏らされた。

「一足遅かったか……。」

 ゼズは魔神と化したザヘルの姿を見て、厳しい表情に顔を強張らせた。

「どういう事だ?」

 レックスが怪訝そうに首をかしげた。

 そんなレックスをうっとおしそうに眺め、ファイオは邪気の腐臭に眉をし

かめてフリルのハンカチを取り出した。

「…ゼズが言うにはネ、あのザヘルとか言うヤツを放っとくと、ソエリテの町

全体が侵食されてヤバイって言うのヨ!」

「やばいとは……?」

 ティラルの問い掛けに答えるより早く、ゼズはレックスとティラルの肩にも

浮力を生み出す平板状の幻獣を召喚して装着させた。

 突然の浮遊に戸惑うティラルとレックスを横目で見ながら、ファイオは自

らの乗る幻獣の浮かぶ位置を更に高くした。

「――これが、ヤバイって言うのヨ!」

 ファイオが指差した石造りの床はほんの一瞬前まではティラルとレックス

が立っていた位置だった。

 そこは既にザヘルの肉管の侵食が始まり、変質が広がっていた。

 改めてティラル達が周囲を見回すと、地下の大広間は既にほぼ全てが

ザヘルの体から伸びた肉管に侵され、何かの体組織や内臓を連想する物

質に変貌していたのだった。

 広間の宙空に浮かぶバギルやレックス、ティラル、幻神達の存在を最早

気にした風も無く、ザヘルはゆっくりと目を閉じた。

 念願の娘の復活に取り掛かるべく、ザヘルは興奮する精神をなだめつつ

神霊力をその片手へと集中させていった。   

 宙に突き出されたザヘルの右腕から一本の肉管が解け――その先端が

ゆっくりと膨れ上がっていった。

 膨張を続ける赤黒い肉塊は、頭と四肢らしき物を形成していき、床の上

へと落ちた。

 ザヘルの見開かれた双眸は鬼気を放ちつつその肉塊を見つめていた。

 どれ程の精神集中が行なわれていたのか、ザヘルの肉体と化した肉管の

寄り集まりは互いに震え、擦れ合い、ざわざわとのた打ち回った。

 手を触れられる事も無く、ただザヘルの鬼気に満ちた視線に射抜かれ続け

る肉塊は、見えざる力に引き伸ばされ、捏ね回され、その姿を変じ始めた。

 赤黒い斑模様は白く透き通り、すらりと伸びた胴体は豊かで瑞々しい娘の四

肢を形作り――その頭部には黄金に輝く優美な流れが浮かび上がり、それは

忽ち柔らかで艶やかな金髪へと変わっていった。

「おお……!」

 愛しい娘の姿を取り始めた肉の塊を眺めながら、ザヘルは恍惚と息を漏らし

た。

 ザヘルの脳裏に刻まれた記憶の通りに、肉塊の頭部は瞳を浮かび上がらせ、

鼻梁や唇が刻まれ、懐かしく愛おしい娘の面影が次第に――しかし確実に形成

されていった。

「あれは……。」

 自分の幻獣に跨りながら、パラは思わず前に乗っているバギルの衣の裾を掴み、

息を呑んだ。

 パラの呟きを、傍らに浮かぶそれぞれの幻獣の上でゼズとファイオも耳にしつつ、

三柱の幻神達は皆同様の事柄を想起していた。

 ザヘル程の執念や精神集中は無いものの、あの――肉の管と塊から四肢を形作

る技は、レウ・ファーが分身であるレウ・デアを生み出す所にそっくりだ、と――。

「――アローザよ……。」

 赤黒い斑とぬめりにまみれた肉管の塊に変わり果てた父神――ザヘルの愛しげな

呼び掛けに、同じ肉管から生み出された紛い物の愛娘は従順な声を返した。

「はい……お父様……。」

 今や生前のアローザと寸分違わぬその声と顔で、アローザはザヘルの前に立って

いた。

 このアローザは、怪物へと変わることも無く、知能が生まれずに暴走する事も無い。

 血走ったままの瞳でザヘルは、アローザを愛しげに見つめ続けた。

 長い――気の遠くなる様な長い年月の実験の果てに、やっとザヘルは愛する娘の

再生を成し遂げたのだった。

「やっと……、やっと、会えたのだな……。」

 最早まともな手ではありえない肉管の寄り集まりの一つが、アローザの頬をそっと撫

でた。

「……はい…。お父様…。会いたかった・・・。」

「やっと、やっと……私の思い通りのお前が生まれたのだな……。」

 嬉しそうに目を細め、アローザへと囁きかけるザヘルの姿にレックスは激昂した。

「ふざけるなっっ!!何が思い通りのアローザだッ!!」

 ザヘルへと歯を剥かんばかりに吠え掛かり……溢れんばかりの怒りにレックスの拳

が震えた。

「こんなのはただの……ただの人形遊びじゃねぇか…ッ!」

 ザヘルの狂気と妄執に弄ばれる目の前のアローザの姿は、アローザがとてつもなく

汚されているような嫌悪感をレックスに催させていたのだった。

「アローザは、てめぇがこんな下らねェ人形遊びをする事なんて望んでねェ筈だぜ

ッ!」

 レックスの悲痛な叫びも、しかしザヘルには届いていなかった。

 ザヘルはただ愛し気にアローザを抱き寄せ、滂沱たる涙を流しながら偽りのアロ

ーザとの再会に感動していたのだった。

「……おやおや。」

 明ら様な悪意と嘲笑のこもった声が、不意にレックスの頭上から降って来た。

「地上を這い回る低級な神々の戯れ言じゃな。」

 ルフォイグの声は頭上かと思うと背後へと移り、かと思うと次の瞬間にはゼズ

やファイオ達の間から聞こえてきた。

「お前達の想いも言葉も行為も――全ては死者をネタにした、ただの幻想に

過ぎぬ。」

 この上も無く冷たく、何の感慨も含まれていないルフォイグの嘲笑が邪気と共

に広間の空気へと溶けていった。

 虚空の闇に巣食う邪悪なこの神にとって、ただ足元の虫けらを気紛れにいじっ

ているのに過ぎない――侮りと嘲りに満ちた言葉がレックスへと続けられた。

「――あの娘が死んで苦しくて辛いのは、あやつやお前の心だけ。死んでしまっ

たアローザは、最早痛くも痒くもない。」

 ザヘルやレックスを嘲弄するルフォイグの言葉は、その禍々しい邪気と共に

レックス達の背筋に冷たいものを走らせていた。

「――辛いのは、あくまでお前達の心。」

 ルフォイグの薄笑いの混じった声を聞きながら、レックスは先刻の邪気に飲ま

れた時に見た不思議な夢を思い出していた。

 禍々しく悪意に満ちたルフォイグの声音は、あの夢の中の――アローザの形を

借りた邪なものの気配によく似ているとレックスは思った。

「――ルフォイグ。その辺にしておけ。ザヘルの仕上げに取り掛かる。」

 ザヘルと偽りのアローザから少し離れた場所で、何処か持て余し気味にベナトが

ルフォイグへと呼び掛けた。

「やれやれ。面白い所であったのに。」

 ルフォイグは溜息をつくように巻貝状の頭を震わせると、それっきり、レックス達

には興味を失った様子で、ベナトの側へと跳躍した。

「…!」

 圧倒的な神霊力の差にレックスは何一つ言い返す事も出来ず、きつく拳を握り

締めた。

 ――からかわれているのだ。ルフォイグの言葉は、あの夢の中の邪なものより

も遥かに悪意に満ちた始末に負えないものの様だった。

 気紛れに子供が虫等を傷つける事に似た、ちょっとした残酷さの様に、この

虚空の闇の魔神は暇潰しにレックスの心の傷を刺激していたに過ぎなかった

のだった。

「ゼズ……。このままザヘルを放置しておくとどうなる…?」

 額に緊張の汗を滲ませつつ、ティラルはゼズへと問い掛けた。

「……今日の内にこのソエリテの街はザヘルと同化するだろう…。」

 ザヘルの書庫で見た資料や日記を思い出しながら、ゼズは硬い声でティラル

へと答えた 。

 「虚空の闇」や地上世界のレイライン集束点からエネルギーを吸い上げ、地上の

様々な物を侵食、融合していく神――。

 だがゼズの脳裏を掠めたのはザヘルではなく――空中城塞に座す白磁の仮面の神

だった。

 ゼズはレウ・ファーの目指そうとしているものが何なのかを垣間見た様な気がして

戦慄した。

 だが、エアリエルがゼズに語った「世界を生み出し、形作る力」――創造神イジャ・

ヴォイの力。その様な原初の神の超絶な神霊力の獲得には、ザヘルの今の様子だけ

ではまだ無理な様にもゼズには思えた。

 ――レウ・ファーも、ザヘルを操るベナトも。

 まだ何かをゼズ達やザヘルには隠して、何かを行なっている……。

 そんな直感がゼズの思考の内で生じていた。

「仕上げだ、ザヘル――。「虚空の闇」の邪気をもう一段階吸い上げろ。」

 ベナトの命令に、最早正気を失くした様子のザヘルは、血走った目のままゆっくりと

頷いた。

「クソ!! そんな事させるかよッ!!」

 レックスは歯噛みし、半ば無駄と思いつつも「虚空の闇」の穴へと触手を伸ばすザヘル

へと火炎弾を放った。

「虫がうるさいのう。」

 ルフォイグのひと睨みで火炎弾は呆気無く途中で失速し、消滅した。

「レックス――。この場はとにかく脱出するんだ……。」

 ルフォイグの力の前に無駄な足掻きとは思いつつも、ティラルは抜刀の姿勢を崩さず

レックスへと声をかけた。

 そんなティラルへとルフォイグから嘲りの声が降った。

「――逃がしてやってもいいが、ザヘルがここまでの段階になったのだからもう逃げら

れはせんよ。」

 ザヘルの体から伸びた触手は幾本も「虚空の闇」へと繋がる次元の穴へと潜り込み、

そこから上がる得体の知れない呻き声や唸り声ごとどす黒い煙や粘塊を吸い上げて

いった。

「……ォォ…ッッ!」

 濃密な邪気を大量に吸収し、ザヘルは体中から伸びる無数の肉管と触手をのた打

たせ獣染みた咆哮を上げた。

 それと共に、広間の床や石柱を侵すザヘルの肉管の勢いも増していった。

 そんな肉管のうねりの間から、ザヘルの吸収し切れなかった邪気の余波が嵐の様

な力を以って噴出し――広間中を荒れ狂った。

「クソッ!」

 レックスの悔し気な唸りも邪気の嵐の中に吹き飛ばされ――レックスやティラル、

バギルもゼズ達も、紙屑の様に空中に投げ出され、翻弄されるしかなかった。

 ゼズ達の乗っていた幻獣達も主の精神集中の乱れによって、次々と形を失い異空

間へと還っていった。

 実際には数秒程の時間――レックス達にとっては数分にも感じられる時間、上下

左右の感覚が麻痺する程に空中で掻き回され――突然、空中を荒れ狂う邪気の

嵐は停止した。

 何処が地面で天井なのか混乱したままレックス達は広間の床の上へと落下してい

った。一瞬、硬い石の床に落ちる衝撃を想像して皆は身構えたが――予想に反して

ずぶずぶと異様に軟弱な水袋の様な感触の肉管の上へと落ち込んだのだった。

「――「次元の穴」を維持する集束点からのエネルギーが弱まっているぞ・・・。」

 ルフォイグは巻貝の奥から薄く光る目玉を動かし、邪気の嵐の消えた原因をベナト

へと告げた。

「一体何故・・・。」

 ベナトは白いフードの下で小さく唸った。このまま邪気の供給が止まってしまうと

ザヘルの神霊力は不充分なままで魔神になってしまう・・・。

 出来ればザヘルを素材にした「実験」は最後まで済ませておきたい――それが

ベナトの思惑だった。

「――ほれ、邪魔者が来たぞ。」

 「実験」の不充分な終わりを心配し苛立つベナトをからかう様な口調で、ルフォイグ

は何者かの訪れを知らせた。

 ――赤黒い肉管の擦れ合う音やザヘルの呻く声が満ちた広間の一角に……不意に、

冷たく昏い気配が溢れ始めた。

 その一角から広間の空気はしんと静まり、冷え冷えと沈んでいき――その黒い気配

はやがて揺らめく漆黒のドレスと化し、黄金の光の流れる豊かな金髪の女神の肢体を

包み込んでいた。

「老いぼれが出しゃばるか・・・・・・フィアン・・・。」

 仄かな怯えと緊張を押し隠しつつ、ルフォイグは敵意に満ちた視線で不老の虚空神

の美貌を射た。

「フィアン……。」

 何処か安堵にも似た息を吐きながらも、レックスの言葉は舌の上で半ば凍りついた。

 美しく輝く双眸の青い光は、冷たさを宿して広間の全ての者を睥睨しつつ――

ザヘル、ベナト、ルフォイグへと向けられた。

 音も無く一歩を踏み出したフィアンの下へと、苦痛や苦悶の呻き声を上げてもぞ

もぞと蠢く「虚空の闇」から溢れ出た邪気の塊達が這い寄って行った。

 神や人の様な、或いは動物の様な輪郭を幾らか留めたその黒い物達を、

フィアンは何の躊躇いも無く細い靴で踏みつけ――或いはしなやかな手の

一振りで切り裂きつつザヘル達の所へと歩みを進めた。

 邪気とは言え、中には老若男女、時には幼児の顔もそこにはあった。

 フィアンの白く美しい手によって無残に切り裂かれて崩れいくそれらに、

レックス達はただ驚愕に立ち尽くすしかなかった。

「――ふん、老いぼれが死にに来たか。」

 一歩一歩迫り来る美しい姿の中に辛うじて老いの翳を見抜き、ルフォイグは

虚勢混じりに侮蔑の言葉を吐いた。

 若さに満ちた最盛期ならばともかく、神霊力の衰えた老境の今ならば何とか

フィアンに対抗し得ると言う慢心がルフォイグの言葉に滲んでいた。

「……あれが…虚空神か…。」

 その場から動く事も出来ず、分身越しとは言えベナトは初めて直にフィアン

を目の当たりにして――ただただその昏く美しい姿を眺めるしかなかった。

「この地上と、「虚空の闇」の境界を乱す者達へ制裁を下し、乱れを正す

為に来たわ……。」

 ただ冷ややかに、一片の感情も感じさせないフィアンの声がザヘル達を

貫いた。

 フィアンの声にただ立ち尽くすザヘル達をよそに、際限無く広間に溢れ

返る邪気は神々や人間の形を取って尚もフィアンの下へと殺到した。

 苦悶や呪詛の呻き声を発しつつ寄り集まる邪気の群れは、美しい女神に

救済や慈悲を求める亡者の群れをレックスやティラル達に連想させた。

「痛いのはお前自身ではないわ……。」

 フィアンはドレスの裾を掴もうとする朧げな女の顔をした邪気の塊の

一つを、冷え冷えとした声と共に踏み潰した。

「苦しいのもお前達自身ではない――。お前を見る者が痛くて苦しい

のよ…。」

 フィアンは無造作に邪気の群れを踏み潰しながら歩みを進めた。

 邪気とは言え、神や人の姿を取っている上に苦痛を訴えている

者達を平然と踏み潰すフィアンの姿はレックス達の理解を超えていた。

 邪気の素材は地上の神々や人間の発した負の精神エネルギーで

あり、邪気そのものに自我や意識がある訳ではなかった。苦悶の言葉も

表情も、何の実体も無い形だけのものでしかない――。

 そうは判っていても、眼前でありありと神や人の姿をしたものが苦痛を

訴えているのであれば、レックス達には平然とやり過ごす事は出来

なかった。

「…ここね。」

 フィアンはしばらく歩くと、ザヘル達から少し離れた水晶の装置の

反対側に立ち止まり、ドレスの胸元から一粒の宝玉を取り出して宙へと

放った。

 フィアンの立ち止まった場所にベナトは目を剥き、咄嗟にナイフ状に

尖らせた自らの爪をフィアンへと投げ付けた。

「!」

 しかしフィアンの放った宝玉は既にその周囲に強固な結界を展開し

ており、ベナトの爪はフィアンへと至る前に細かなきらめきを放って

砕け散った。

「――おのれ・・・。」

 ベナトは悔しげに歯噛みした。フィアンの立つ場所はベナト達が設置

したレイライン集束点の制御装置の一部が埋め込まれていたのだった。

「――レックス、頼みがあるわ……。」

 そう言ってレックスの方を振り向いたフィアンを……レックスは何処か

遠く離れたものの様に錯覚した。

「……おう。」

 レックスは少し呆然と返事を返した。

 レックスは今迄、虚空神としての力を振るうフィアンの姿を見た事が無

かった。神国神殿の居室で冷たく優美な姿で座す女神と、今ここで容赦

無く神や人の姿をした邪気を踏み潰す女神とが同じ存在であるとは仲々

結びつかずにいた。

 何故――この女神を、アローザそっくりだと思い込んでいたのだろうか。

 その美しい顔以外、何一つ似てはいなかったというのに。

「――何だ、あの者は……? アローザに似ているが…誰だ?」

 フィアンの姿に対して怯えと戸惑いの感情を隠しもせずに、ザヘルは

傍らに佇む自らの創造したアローザを肉管の手で抱き寄せた。

「お父様……。私が居ます。怖がらないで。」

 そのアローザはザヘルの肉管に絡み付かれるまま、そう言って無表情に

ザヘルへと顔を向けた。

                   ◆

「――フィアンが来たか……。」

 奥の院の地下の大ドーム。その宙空に映し出されるザヘル神殿の様子を

眺める神々の間から溜め息が漏らされた。

「予想よりは遅かったかねえ。」

「やれやれ、今回の実験も後何処迄出来るのかのう。」

 無責任な口調で各々が勝手に騒ぎ立てる中、ベナトの本体は両手を広

げて奥の院の面々を制した。

「静かに!今更フィアンがやって来た所で我が分身から送られて来た

実験データの価値が損なわれるものではない!!」

 ベナトの鱗に覆われた指が鳴り、その近くに数式や画像等が映し出され

た。

「ザヘルの事、魔神の神工的な創成、同化や融合、制御その他――。

我々が知りたい情報は、充分に集められている!」

 ベナトは自らの成果を誇示し、一枚のカードディスクを居並ぶ神々

――特に青いマントの神へと向けて翳した。

「全ては我が理論の通り。<レウ・ファー>を制御する方法や手順に

間違いは無い!!」

 ベナトの熱のこもった弁舌に、双面球状の神が少しうんざりとしつつ

も、一応評価の声をかけた。

「ベナトよ。お前の今回の実験は概ね成功と言ってよい。「本番」にも

充分に役立つだろう。」

                    ◆

「――で、俺はどうすりゃいいんだ?」

 レックスはいつもの不敵な表情を繕い、フィアンの視線を受け止めた。

「少し時間を稼いで欲しいの。それと、私が力を貸すからザヘルを

滅ぼして。」

 フィアンの指示の途方も無さに、レックスだけでなくティラルやバギル、

ゼズ達もまた驚きに目を見開いた。

 今や広間――そして恐らくは既に神殿の殆どと同化している

ザヘルを相手に戦えと言うのだろうか。

「……この私を滅ぼすだと…?」

 フィアンの言葉に、ザヘルは血走った目を剥いて嘲笑った。

 傍らで成り行きを見守り――同時に奥の院に居る本体に情報を

送信し続けるベナトも、嘲りの感情に唇を歪めた。

「最早全ては私の思い通りになる――。そう、思い通りに……。」

 ザヘルは嗄れた声で、恍惚と息を吐いた。

 その恍惚と血走った目が、ゆっくりとレックスへと熱い憎悪の

感情と共に向けられた。

「私の思い通りに――アローザよ…。レックスを殺せ!!」

 ザヘルの怒号にも近い命令と共に、それ迄人形の様に立ち尽くし

ていたアローザは、瞬時に床を蹴ってレックスへと肉薄した。

「!!」

 炎を纏ったアローザの拳をレックスは反射的に受け止めたが、

その威力は抑え切れずレックスの体を青白い炎が包み込み、数

メートル後方へと吹き飛ばした。

 更に追い討ちをかけようとしたアローザに、ティラルとバギルが

真空波と火炎弾を投げ付けて割って入った。

 が、アローザは無表情に片手を一閃し、厚い火炎の壁を作り出して

それらを消滅させてしまった。

「結構強そうじゃねえか。」

 バギルはアローザへと闘志に満ちた笑いを向けた。

 ソエリテの街に出没していた出来損ないの怪物達と比べて

明らかに力の差がありそうだった。

「君達は早く逃げるんだ。」

 アローザの炎から庇う様にゼズやパラ達の前に立ち、ティラルは

早口で話し掛けた。

 戦闘経験の無さそうな幻神達はティラル達にとっては足手まといでも

あった。

「逃げたいのはヤマヤマなんだけどネ……。」

 ティラルの思いを見透かしつつ、ファイオは野太い声で溜め息を

ついて広間の出入り口を指差した。

 紫のマニキュアを厚く塗った指の先には、辛うじて扉の名残を

留める赤黒い肉管の塊があった。

 とてもそれを破って脱出する事は出来そうもなかった。

「私達は私達で脱出の機会を伺う。君達の足手まといにはならない。」

 ゼズの言葉にティラルは軽く頷き、再びレックスの援護へと駆け出して

行った。

「――ねえ、わたし達に付いていた邪神達はまだここへは来ないの?

あいつらなら何とか出来るんじゃないの?」

 パラの素朴とも無知とも言える問い掛けに、ゼズは小さな溜め息を

ついて答えた。

「あの邪神達は恐らく――ザヘルに同化されたか、でなければ

……出番を何処かで待っているのだろう。」

「出番……ネェ…。」

 ゼズの答えを横で聞きながら、ファイオもまた溜め息をついた。

 邪神の出番――集束点の占拠。

 その為には幻神達の護衛も二の次だというのか。

 ゼズ達が広間の片隅に行き、成り行きを見守っている間にも、

アローザの猛攻は容赦無くレックス達へと繰り出されていた。

 ザヘルは愛娘が憎いレックスを殴り飛ばし、火炎を叩き付ける

様子を満足気に眺めていた。

「――そろそろ潮時か。」

 ザヘル達の様子を見下ろしつつ、ベナトはそう呟くとルフォイグ

を手招いた。

「我々はこの辺で脱出する。これ以上はこの場に留まるのは

危険だ。」

「――それは困るのう。久々の地上だ。こうした面白い見世物を

もう少し堪能したいものだが。」

 呑気な答えをベナトに返しながら、ルフォイグは一つの意図を

以って、結界の中で精神集中を始めたフィアンを見つめた。

「何を言っている……!」

 苛立たしげに声を荒げるベナトに対し、ルフォイグはくぐもった

笑い声を漏らした。

「……いい加減にしろ!お前を制御している呪詛を忘れたか!?」

 半ば怯えの感情が滲みつつもベナトは虚勢を張り、傲慢さを

繕ってルフォイグの外殻の一部に刻印された呪詛の紋様を

指差した。

 暴悪で邪悪な「虚空の闇」の魔神ルフォイグと言えども、その

呪詛が発動すれば限り無い苦痛の中で消滅してしまうのだった。

 ルフォイグは触手の様な腕をくねらせ、からかう様な笑い

声を上げた。

「まあ待て。フィアンの様子もデータとして集めたらどうかね?

滅多に見られん力が見られるぞ。」

 ベナトの研究者としての好奇心をくすぐるルフォイグの言葉だ

った。

 ベナト達がそんな会話を交わす内にもフィアンは精神集中と

共に自らの神霊力を高め、一つの言魂を発動させる準備を

整えていた。

 体力や神霊力を回復させるエンフィールドから借り受けた

霊具のエネルギーが次々に消耗し、その輝きを失っていった。

「――レックス。もう少しだけ頼むわよ。」

 フィアンの息切れに乱れる言葉も、戦いに集中するレックス

には届いていない様だった。

 ザヘルの注意がレックスとアローザの戦いに向けられている事が

幸いし、ついにフィアンの神霊力は一つの言魂を発動させるまで

に高まった。

 フィアンはドレスの胸元から三つの小さな宝玉を取り出し、

空中へと浮かべた。

「――昔ありし、今は無し

――崩れ落ち、わだかまり、それは為されなかった

――今はありし、昔無し

――流れ去り、滴り落ち、それはありはしない」

 たった四行の短い詩篇の詠唱にどれ程の力を必要と

したのか。フィアンの体中は小刻みに震え、その表情は

瞬く間に血の気を失った。

 言魂の力は宙に漂う三つの宝玉の中へと吸収され、

それらは三本の短剣へと変化した。

「レックス!」

 フィアンの声が走り、その細い指先から鋭い光が放たれた。

「!!」

 レックスへと飽く事無く襲い掛かっていたアローザは真横

からその光の直撃を受け、広間の床へと崩れ落ちた。

 アローザの体を突き抜け、レックスの眼前に浮かんでいた

のはその短剣だった。

「その剣をザヘルの本体に突き刺せば言魂が発動するわ

……。」

 フィアンの言葉と共に、ティラルとバギルの手元にも今

作られたばかりの言魂の力を秘めた短剣が出現した。

「突き刺せっても……。」

 澄んだ輝きを放つ水晶の短剣を手に取りつつ、バギルは

戸惑いながらザヘルの本体の方へと顔を向けた。

 アローザでさえ手強いと言うのに、魔神と化したザヘルに

剣を刺す事は容易な事ではなかった。

 その戸惑いは他の二神も同様の様だった。

「ザヘルを滅ぼすだと?その剣で?」

 ベナトはフード越しに訝し気にレックス達の手にしている

短剣を見た。

 見た目には頼りないただの短剣だったが、フィアンが

作り出した以上、それは凄まじい力を秘めているのだろう。

 ベナトにとってレックス達を皆殺しにする事はた易かった

が、フィアンがこの場に現れた時点で実験の失敗はある程

度覚悟が出来ていた。

 フィアンがどう出るかを様子見しつつ……分身を引き上げ

る頃合は既に来ているとベナトは感じていた。

 分身とは言え、何らかのダメージを受ければ、それは

奥の院に居る本体にも幾らかは伝わってしまうからだった。

「――フィアンよ!そんな低級な神にわざわざ神霊具を

作り与える真似をするとは、余程老い衰えてしまった様

じゃな!!」

 ベナトが引き上げの指示を出そうとした所で、ルフォイグは

甲高い笑い声を上げながらバギルの立っている場所に

瞬時に移動した。

 言魂の詠唱は本来、そのままその威力を対象にぶつけて

事は終わる。当然その反動は詠唱者に返るが、通常ならば

何の問題も無いものだった。

 わざわざ水晶の短剣に言魂の力を秘めさせ、力の反動が

自身に返らない様な手順を踏んだ事がフィアンの老衰を

語っていたのだった。

「さあ、それをよこしてもらおう。」

 ルフォイグはバギルの目の前に浮かび、巻貝の様な頭部

からぎょろぎょろとした眼光を覗かせながら、水晶の短剣へと

手を伸ばした。

 地上の神の一柱に過ぎないバギルは、ルフォイグの眼光を

浴びただけでひどい吐き気と眩暈に襲われ、ただ立ち尽くす

しかなかった。


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