第15章「同化」
ソエリテの町の外れにある岩山の麓に、ザヘル神殿か
ら射出された黒い邪神の一体が立っていた。
既に変形を終えて両肩の角はアンテナの様に空高く伸
び、その下半身は岩に食い込んで地下深くへと潜り込ん
でいた。
この岩山も小さなレイライン集束点としてベナトに目
を付けられ、今まさにザヘル神殿の地下へと、集束点の
エネルギーを汲み上げて送り込んでいるのだった。
その汚怪な柱の足元へと、一つの黒い闇が忽然と現れ
た。
闇は黒いドレスの形を取り、豊かに流れる黄金色の髪
を戴いていた。
「何とか後三十分はもちそうね・・・。」
フィアンは、レイラインのエネルギーに耐え切れず少
しずつひび割れ始めている邪神を眺めて呟いた。
それから片手に持っていた袋から、幾つかの水晶の小
さな板や端子を取り出すとすぐ、フィアンは水晶片の一
つを邪神の柱に放った。
水晶片は邪神の柱に半分程めり込むとそこで止まり、
何度か点滅しながら柱の表面に無数の不可思議な流線か
らなる模様を展開していった。
その模様が柱の全てを覆う頃には、レイライン小集束
点からのザヘル神殿へのエネルギーの供給は停止してい
った。
ごく僅かな分のエネルギーがフィアンの持つ水晶の霊
具に注ぎ込まれたのを最後に、邪神の柱の機能は完全に
停止したのだった。
それを確かめると、フィアンはザヘル神殿の内部へと
向けて姿を消した。
夫エンフィールドから貰った神霊具の指輪の力で、体
力はまだ幾らか残ってはいたが、それでも老いたその体
は外を動き回るだけで絶えず苦痛と疲労を訴えていた。
フィアンの歩みを支えていたのは、「虚空の闇」に関
する事象は自らが責任を持って対処しなければならない
という、神々の哲理に対する誇りだった。
◆
魔神の脳から伸びた無数の触手が、ゆっくりとザヘル
の体中へと絡み付き、その皮膚を突き破って体内へと潜
り込んでいった。
痛みを感じる事は全く無かったが、その様子に今更の
様にザヘルは怯え、思わず魔神から離れようと僅かに後
ずさった。
「・・恐れる事は無い・・・。これで、お前自身がより
強大な神へと進化するのだ・・・。そのままそこで、じ
っとしているだけでいい・・・。」
ベナトの呼び掛けにザヘルからは怯えの感情も消え去
り、その場へと踏み留まった。
そうする内に、魔神の触手がザヘルへとたかり、程無
くその体は触手の束の中に埋没していった。
「ザヘルよ・・・。「世界を生み出し、形作る力」は、
もうすぐ手に入るぞ・・・。」
ベナトは何処か空々しい口調でザヘルへと囁いたが、
最早、ザヘルの耳には届いていない様だった。
「・・・。」
ベナトの傍らを漂いながら、ルフォイグはただ冷やか
にザヘルの変貌していく様子を眺めていた。
既にルフォイグの関心はレックスとティラルからは消
え、その念動力も消滅してしまっていた。
「・・・一体、何が始まるんだ・・・?」
身体の自由を取り戻したティラルは、石の床の上にう
つ伏せになっていたレックスの体を抱え起こした。
相変わらず意識を失ったままのレックスを気遣いなが
ら、ティラルは息を呑んで成り行きを見ているしかなか
った。
◆
怪物神の赤黒い指の一部が鋭い鞭となってしなり、ネ
ザンの胸を呆気無く貫いた。
全てはレックスの記憶通りに、アローザと自分を残し
た全ての仲間は怪物神に無残に殺されてしまったのだっ
た。
「くそぉぉっっ!!」
その叫びもまた、当時レックスが上げたものと寸分の
違いも無かった。
記憶を頼りに怪物神の先手を打ち、仲間を庇おうとし
て動いたものの、体の動きは当時の記憶に束縛されてい
るらしく、全ては空しい結果として終わってしまった。
「!!」
声にもならない咆哮が怪物神から上がり、その赤黒い
手の一閃で森の木々は瞬く間になぎ倒されていった。
風圧で半ばからへし折られ、或いは裂けてしまった木
々の間から、血まみれの仲間達の死体が見え隠れしてい
た。
自分もこのままあいつに殺されてしまうのか?
アローザを守るにはどうしたらいい・・・?
死への恐怖感や、仲間達を殺された憎悪や憤怒に混乱
する意識が、レックスの胸中に当時のまま生々しく甦っ
てきた。
レックスの喉は緊張にひりひりと焼けつき、炎熱剣を
握る手はじっとりと汗ばんでしまっていた。
レックスがどうする事も出来ずに立ち尽くしている内
にも、怪物神は肉管の寄り集まった胸元から、仲間達の
死体の数と同じ分だけ、先端が尖った触手を放出した。
放たれた触手は鋭く宙を舞って、仲間を串刺しにする
と、その死体を素早い動きで怪物神の胸元へと引き寄せ
たのだった。
仲間達の死体に食い込んだ触手は瞬時にその体内に根
を張り、怪物神へと吸収されていった。
「・・・何て事を・・・!」
レックスの近くで剣を構えていたアローザが、憎々し
げに呟いた。
怪物神は死体を体内へと吸収し終わると、レックスと
アローザには構わずに、鮮血に染まった石柱へと体を向
けた。
僅かの時間、無防備に石柱を眺めている怪物神の背を
見ながら、レックスは「神々の森」での邪神の行動を思
い出していた。
何かを計算し、この石柱を破壊しようとしているのだ
ろう・・と、レックスは直感した。
「アローザ!逃げるぞ、今の内に!」
レックスは、憎悪に満ちた眼差しを怪物神へと注いで
いるアローザの側へと急いで駆け寄った。
ここが自分の記憶の世界であるのならば、ここから逃
げたところで一体何になるのか・・・。
そうは思いつつも、レックスはアローザの腕を掴み、
そう言わずにはいられなかったのだった。
「レックス!!冗談じゃないわ!みんなあいつに殺され
たのよっ!このまま引き下がれないわっ!」
頭に血を上らせ、アローザは怒りと敵意に満ちた叫び
を上げた。
レックスの言葉に耳を貸さず、アローザが自分の剣を
構え直したところに、大きな打撃音が響き渡った。
レックスとアローザが音のあった方角へと顔を向ける
と、怪物神がその巨大な拳を石柱に向けて何度か打ちつ
けていた。
怪物神の大きさや強さに比べて、所々苔むした石柱は
細く頼り無いものでしかなかった。
が、レイライン集束点を守る装置にふさわしく、その
周囲には不可視の堅固な防御壁が展開されていたのだっ
た。
筋肉で膨れ上がっていた怪物神の腕が、石柱を打つと
同時に瞬時に消し飛び、ぶつかり合った力の強烈さを物
語っていた。
その怪物神の拳の力は、先刻迄レックス達が戦ってい
た時よりも数段激しかった。
どうやら怪物神は、仲間達の神霊力を吸収し、それを
我が物として利用している様だった。
「・・アローザっっ!!」
咎める様にレックスは怒鳴ったが、アローザはそれに
構わず、渾身の力を込めた火炎弾を怪物神の背中へと叩
きつけた。
無防備な怪物神の背に全弾が命中し、赤黒い肉管と白
い陶器片で構成された体を紅蓮の塊が次々に貫通してい
った。
「ざまぁみろ!」
肩で息をしながら、アローザは変わる事の無い深い怒
りと憎しみの目で怪物を睨み据えた。
炎の広がっていく中にあって、しかし、アローザが怪
物神へと負わせた傷も、僅かな時間の内に癒えてしまっ
ていた。
アローザの放った火炎弾の余波が、怪物神になぎ払わ
れた倒木を焼き尽くしていっていると言うのに、怪物神
自身は火傷一つ負ってはいなかった。
それから暫くして、灼熱の紅い色に焙られる怪物神の
白い仮面の様な顔が、ゆっくりとアローザとレックスを
振り返った。
レックスはアローザを自分の後ろに下がらせると、炎
熱剣を構えた。
レイライン集束点の結界の防御壁を破る為には、まだ
エネルギーが怪物神には足りないのだろう。
そして、そのエネルギーを・・・怪物神は、アローザ
とレックスを吸収する事で補おうというのだろう。
レックスの予想通り、怪物神は身を屈めると、その巨
体に似合わない敏捷な動きで火炎をかいくぐってレック
ス達へと襲い掛かって来た。
振り下ろされる怪物神の赤黒い拳を躱し様、レックス
の放つ炎熱剣の真紅の斬線が怪物神の白面へと疾った。
火炎を噴き出す切り傷へ、更にアローザの放つ火炎弾
が追い打ちをかけた。
「!!!!」
怪物神は悲鳴一つ上げる事無く、炎に包まれた上半身
をのけ反らせながら後退した。
・・・ここ迄の全ては、ほぼ、レックスの記憶してい
る通りの出来事だった。
・・・これから、何が起こるかも、レックスは覚えて
いた。
のけ反ったまま、怪物神は胸部から鉤爪の様に尖った
触手を繰り出してきた。
それを躱そうとレックスが焼けて炭化した倒木に足を
掛けた瞬間・・・焼けて脆くなっていたその木が砕けて
姿勢を崩してしまった事も・・・レックスは、よく覚え
ていた。
「レックスッ!!!!!」
アローザの悲鳴の様な叫び声を聞くレックスの眼前へ
と、鉤爪の触手は容赦無く襲いかかってきた。
・・・そんなレックスを庇って飛び出して来たアロー
ザが、レックスの代わりに触手に貫かれた事も・・・は
っきりと覚えていた。
「・・・ア、・・・アローザァァッッ!!!!」
記憶の通り、レックスは声の限り叫び、そのまま後ろ
に倒れ、生焼けの倒木で激しく背中と頭を打ちつけた。
一秒にも満たない筈の瞬間、仰向けのレックスの視界
には、ひどくゆっくりと動く火炎と黒煙の立ち上ってい
く青空が広がっていた。
記憶よりも体に力を入れてレックスが体を起こした時
には、既にアローザは力無くうなだれたまま怪物神の胸
元へと宙を舞って引き寄せられていた。
アローザがレックスの叫び声に、何事か応えようとし
たが、その唇からは赤い血の珠が零れ落ちるのみで言葉
にはならなかった。
「・・・!!!!!!!」
また同じ出来事を・・・同じ悲しみを味わうというの
か?
また自分は愛する者を守る事が出来なかったというの
か・・・?
レックスの悲しみと怒りに炎熱剣のまとう炎は激しさ
を増し、レックスは激昂の絶叫と共に怪物神目掛けて突
進していった。
怪物神の胸元に磔にされたアローザを目指し、レック
スは死に物狂いで炎熱剣を振り回した。
凄まじい火炎を伴った剣の一閃が、レックスへと振り
下ろされた怪物神の片腕を爆炎と共に吹き飛ばした。
闇雲に繰り出される火炎の威力を支え切れず、炎熱剣
を握るレックスの腕や足腰が重い痛みと痙攣に襲われた
が、レックスにはそんな事を気にする余裕も無かった。
怪物神は腕の再生を待たず、再び鉤爪状の触手を繰り
出したが、レックスは炎熱剣を力任せに振り回し、次々
に焼き払っていった。
「アローザッッ!!」
すぐ目前迄に迫りながらも、間断無く再生されてはレ
ックスへと叩きつけられる拳と触手に阻まれて、アロー
ザには仲々近付く事が出来なかった。
そうする内にも怪物神の触手はアローザの体内へと根
を張り、吸収が始まろうとしていた。
アローザの柔らかな体に太い管が走り、網目状にぶく
ぶくと音を立ててそれらが浮かび上がっていく様子が服
の上からでもはっきりとレックスには判った。
「畜生ッッ!!」
レックスの目尻に僅かに涙が滲み、半ば悲鳴の様な絶
叫が空気を震わせた。
自らの記憶の世界の出来事とは言え、もう一度アロー
ザを失う悲しみと苦痛をレックスは味わいたくはなかっ
た。
・・・いや、限り無く現実感を伴った世界の中だから
こそ、せめて今度こそは、アローザを助け出したいと思
ったのだった。
「・・・レックス・・・。」
絞り出す様な微かなアローザの声が、レックスの耳へ
と届いた。
記憶では、それは全ての終わりを告げるアローザの別
れの言葉だった。
「アローザ!!待てっ!待ってくれっ!!」
しつこく繰り出される鉤爪の触手を斬り伏せ、レック
スは必死にアローザへと駆け寄ろうとした。
真っ直ぐにレックスはアローザを見つめ、アローザも
また血まみれの顔でレックスを見つめ返した。
アローザの頭部はまだ怪物神の触手に侵食されてはお
らず、最後の決意を秘めて、苦悶の中にも凛然とした清
々しさと穏やかさがあった。
アローザへと全ての注意が向いた隙をつかれ、怪物神
の鉤爪の触手がレックスの太腿を貫いた。
「畜生ぉぉぉっっっ!!」
歯を剥いて吠え、レックスは触手を叩き斬り、触手を
太腿から引き抜いて再び走り出した。
このままアローザを失ってたまるか・・・!
辺りを火炎の朱に染め抜き、鬼神と化して駆けるレッ
クスを、アローザは愛しげに見つめていた。
ほんの僅かの間、アローザは目を伏せ・・・そしてす
ぐに顔を上げると、父神ザヘルから教えられた一つの言
魂を早口で詠唱した。
レックスが言魂の威力に巻き込まれない内に、と。
「・・雷よ来たれ、炎の舌と共に
・・そは祭壇を央に据えて猛り、
・・灼熱と雷撃の包囲以って
・・四方より撃破の御手をひらめかそう」
アローザの詠唱に伴って、凄絶な閃光と轟音の塊がレ
ックスの眼前で生じ、超高熱の白光と爆風が瞬時に集束
した。
「・・・!」
声にならない絶叫を上げ、その瞬間、レックスを突き
動かしていた激情は深い深い絶望へと変化した。
怪物神とアローザに向けて集束した爆炎は、今度は周
囲へと広がっていき、激しい熱風がレックスの全身を叩
いた。
レックスの体は呆気無く宙へと舞い上がり、怪物神か
ら遠く離れた倒木の重なり合う中に叩き落とされた。
レックスは、アローザを死なせたくはなかった。
・・・アローザもまた、レックスを死なせたくはなか
ったのだろう。自らを犠牲にして迄も。
「アローザ・・・。」
小さく呟きながら、レックスはアローザの姿を求めて
倒木の折り重なる中からよろめきながら這い出した。
全てはレックスの記憶の通り、惨劇は抗い様も無く繰
り返されてしまった。
アローザの詠唱した言魂の威力は怪物神の立っていた
位置だけに集中しており、その周囲の木々や地面はさほ
ど焼けてはいなかった。
レックスは、黒い円と化したその場所を呆然と眺めて
いるしかなかった。
・・力が欲しかった。アローザを守り、怪物神を退け
る程の・・・。強い力が。
アローザをまたも守る事が出来なかった絶望感に打ち
ひしがれながら、レックスは膝をついた。
・・力さえあれば。
そう思いつつ、レックスは激しい高熱で灰塵と化した
怪物神とアローザの居た方向へと再び顔を上げた。
・・力が欲しいか。
何者かが、レックスの近くでそう囁いた様な錯覚があ
った。
暫くして爆煙が風に流れ去り、黒焦げの地面が露わに
なったその場所には・・信じ難い事に、頭を残して怪物
神と同化した無傷のアローザが立っていた。
「・・・レックス・・・。」
どす黒く変色してしまった血を、その紅い唇から垂ら
しながら、アローザはレックスへと呼び掛けた。
つい先刻のアローザの声とは別のものの様な、暗く冷
たい響きを以て、彼女の声は辺りの空気を震わせた。
眩暈を感じる程の衝撃と驚愕とが、レックスの体を強
張らせていた。
いつしか、周囲の風景は形を失って暗がりの中に溶け
込んでいた。
怪物神と同化したアローザと、レックスだけが、朧気
に揺らめく濃い影の支配する世界に立ち尽くしていた。
怪物神は・・或いはもっと暗く、禍々しい何かは、ア
ローザの口を借りて、レックスへと語りかけてきた。
「これが・・お前の「心の深い闇」・・・。」
血まみれのままのアローザの顔が、レックスを虚ろに
見つめていた。
アローザの顔と声とで、何処迄も暗く深い場所から響
いて来る呼び掛けは、レックスへと続けられた。
「・・私を生き返らせたいのでしょう・・・?」
レックスはその言葉に大きく身を震わせた。
全てを見透かされた一言だった。
「・・「世界を生み出し、形作る力」・・・。あなたは
力が欲しいのでしょう?」
「力なら売る程あるぜ!他の弱っちぃ連中と俺様とを一
緒にするな!!」
即座に、弾かれた様にレックスは目の前のアローザに
向けて反論した。
「何も無いわ、あなたには・・・。ただ、強がっている
だけよ・・・。」
レックスの感情の全てを見通したアローザの言葉に、
レックスはそれ以上言葉を続ける事が出来なかった。
何処か、嘲りの感情の滲んだアローザの柔らかな囁き
声は、容赦無くレックスの心を突き刺していった。
「・・世界征服も、冒険の旅も、財宝も、戦いも。・・
・全ては私の為にあった事だわ・・・。私が喜べば、あ
なたも喜び、嬉しかった。・・私が死んで、ネザン達が
死んで全てが終わって・・・あなたには何が残ったと言
うの・・・?」
アローザの言葉は、レックスが今迄自分の心の片隅に
無理矢理追いやって忘れようとしていた、自身への問い
掛けに他ならなかった。
レックスは急速に全身の力が抜けて倒れそうになるの
を感じた。
何か抗い難い渦の様な力に捕えられてしまったかの様
な錯覚があった。
薄闇が陽炎の様に揺らめく中で、レックスはゆっくり
と膝をつき、手をついていた。
眠気にも似たけだるさに襲われ、レックスの体からは
少しずつ力が失われていき、意識も遠のき始めていた。
「・・力があれば。」
アローザの囁く声が、何処か深く遠い場所からレック
スの耳へと届いた。
・・力があれば、アローザとの生活を再び送る事が出
来るのか・・・?
いつしか朦朧とし始めた意識の中で、レックスは昏い
力への誘いに身を委ねようとしていた。
「・・レックス・・・!」
混濁し始めたレックスの意識の中に、不意に、鮮烈な
アローザの姿と、澄んだ呼び声が湧き起こった。
暗黒の中に玲瓏と佇んでいる白く美しい面影と、豊か
に流れる黄金色の髪の輝きは、もしかしたらフィアンの
ものだったのかも知れない。
「・・レックス!・・・あなたの冒険や戦いの旅は、終
わってなんかいないわ・・・!」
「・・!!」
愛しさの込められた力強い響きを持つその声に、レッ
クスははっと顔を上げた。
弾かれた様にレックスが思わず立ち上がった瞬間、周
囲に満ちていた暗黒の揺らめきは次第に退いていき、消
滅していった。
レックスの眼前に佇む怪物と同化しているアローザの
姿はそのままに、先刻のフィシテ島の景色がレックスの
周囲に甦っていった。
「・・私の夢も想いも・・・あなたの中で生き続けてい
るわ・・・!」
顔を残して怪物に同化された血まみれのアローザのそ
の言葉に、レックスは激しい驚きに打たれた。
「・・・本物のアローザなのか?」
或いはこれも、自らの記憶の再生でしかないのか?
確かめる術も無いまま、レックスはただ、アローザの
注ぐ慈しみの眼差しを受け止める事しか出来なかった。
アローザの夢・・。
フィシテ島のあの場で、この言葉を聞いたかどうかは
レックスの記憶には無かった。
しかし、今迄の旅の中で・・例えば船旅の途中の船上
で。高地にある洞窟の遺跡で。格闘家達との試合の後で
・・・。
折りに触れ、仲間達と酒を酌み交わし、語り合った中
に、アローザのその言葉は出て来た筈だった。
夢がある、と、アローザや他の仲間達・・レックスも
また、互いに語り合った。
太古の時代の神々の遺跡の発見。伝説の財宝の発掘。
最強の武術神との決着。武闘大会での優勝・・・。
夢や想いの内容自体はありふれたものでしかなかった
が、それらをアローザや仲間達と語り合い、旅を続ける
中で実際に挑んできた記憶は、レックスの胸の中に決し
て褪せる事の無い熱い想いを刻み込んでいた。
・・何故、忘れていたのだろうか。・・・いや、忘れ
ようとしていたのか。
「・・レックス・・・!」
自らの血に濡れても尚、アローザの瞳は深い蒼い色を
湛えながら、レックスへと真っ直ぐに向けられていた。
俄にはレックスが言葉を返す事も出来ない内に、アロ
ーザの紅い唇から再び言魂が紡ぎ出され、先刻と同様の
大爆発が起こされた。
火炎と爆風に周囲の木々がなぎ払われ、暗黒の揺らぎ
とフィシテ島の風景とがつぎはぎの様に混ざり合い、吹
き飛ばされていき・・全ては、陽炎の様に薄く消え去ろ
うとしていた。
「レックス・・・。「世界ヲ生ミ出シ形作ル力」ヲ、欲
シクハ・・・。」
アローザの顔の部分だけが爆発で消し飛び、大きく抉
り取られた傷口を晒す怪物神が、未だ消えない悪夢の残
滓の様にレックスへとふらふらと歩み寄って来た。
「力ガ欲シ・・・クハ・・・ナイカ・・・。「世界ヲ生
・・・ミ出シ・・・形・・・作ル力」ヲ・・・。」
抉れた傷口から薄桃色の肉片が分泌され始め、再生を
始めた怪物神を避けもせず、レックスは炎熱剣を構える
と真っ直ぐに睨み据えた。
朱を帯びた刃のまとう火炎の真紅の輝きだけが、輪郭
を失い薄れいくこの世界にあって、唯一の鮮明な色彩と
光を放っていた。
「!」
レックスは力強く地を蹴って怪物神の懐へと飛び込ん
だ。
怪物神が避ける間も無く、炎熱剣のまとった火炎が瞬
時に怪物神の体を貫いた。
レックスの神霊力の込められた火炎は瞬く間に怪物神
の体内を走り、その体を紅い火柱へと変えていった。
あの幾つもの冒険の旅の中でアローザや仲間達と過ご
してきた日々と、そこで培われた想いは、どんな力を以
ってしても二度と創り出す事は出来ないだろう。
アローザの・・仲間達の夢も想いも、変わらずに自ら
の胸の中に生き続けている。
それで、いいのだ・・と、焼け崩れる怪物神の無数の
肉片をその身に受けながら、レックスは目を閉じた。
昏い場所への誘惑ではない、何処かとても安らかな感
覚の中で、レックスの意識は今度こそ途切れた。
◆
「ほぉ・・・。」
レックスの体がぴくりと震えた様子に気付き、ルフォ
イグは珍しく感心した様な声を上げた。
「う・・・。」
石の床の上に横たえられ、今迄微動だにしなかったレ
ックスは、急に眉をしかめ、はっと目を見開いた。
「レックス!大丈夫か?」
すぐ傍らでレックスを見守っていたティラルは、安堵
と驚きの混ざる声を上げ、慌ててレックスの上半身を抱
え起こした。
「・・・ここ・・・は・・・?」
レックスは頭を押さえ、辺りを見回した。
意識の消失した時間の自覚が僅かだった為に、一瞬、
ここがフィシテ島なのかザヘル神殿なのか、レックスは
混乱してしまっていた。
「・・・そうか、俺、妙な夢を・・・。」
レックスは奇妙な夢から無事に目を覚ました事に、ほ
っと安堵の息をついた。
「夢・・・?」
ティラルの訝しげな呟きに、意外な者の言葉が続けら
れた。
「いいや、夢ではないぞ。半ばは眩惑じゃ。・・・「虚
空」からの邪気の直撃を受けた者は、皆、大きな「力」
への誘いや呼びかけを受ける夢を見せられる・・・。」
暫く離れた位置で浮遊している筈のルフォイグの声は
レックスとティラルのすぐ耳元で聞こえていた。
もしこの場にザードが居合わせていれば、ダイナ山脈
の北でレウ・ファーの神霊石の封印が解けた時にザード
の心の内で起こった現象を、理解出来たかも知れなかっ
た。
「その夢から覚める者は、滅多には居らぬがのう。」
単純に感心している様子のルフォイグの視線が、レッ
クスへと注がれた。
得体の知れないルフォイグの姿を警戒しつつも、レッ
クスはルフォイグの禍々しく粘りつく様な視線を受け止
め、睨み返した。
それからふと、広間の奥にある水晶柱の装置やその前
に立つ者達の方へと視線を移したところで、レックスは
驚きに息を呑んだ。
「!・・・何だ、ありゃ・・・!!」
「あれは・・ザヘルだ・・・。」
レックスの驚きに満ちた問い掛けに、ティラルは険し
い表情で答えた。
水晶柱の装置の前に、灰色のマントの神とルフォイグ
とに見守られて立っていたのは、ザヘルの面影を幾らか
留めた眼球と脳と肉管で構成された異形の神だった。
胸部には脳状の球体が融合し、一つの大きな目を見開
いていた。
その脳の周囲から、あるいはほんの数分前迄は手足で
あったものから、汚怪な粘液に濡れて光る無数の赤黒い
肉管が伸び、辺りの床や柱に食い込んでいた。
肉管が床の石材に食い込むとすぐ、その組成を変質さ
せていき、電子回路を思わせる模様が浮かび上がった後
にザヘルの肉体の一部として赤黒い肉質のものへと変化
していくのだった。
周囲の全てのものを侵食し、自らの肉体の一部として
同化していくザヘルの力は、「虚空の闇」から地上へ逆
流させた邪気を吸収しながら、神殿の地下全てへと及ん
でいきつつあった。