第13章「昏き女神」
ソエリテの町でザヘルが言魂の力で空間を歪め、「虚
空の闇」への穴を開いた事を、フィアンは神国神殿の自
室のベッドの中で感知した。
老い衰えてはいても、「虚空の闇」に関する一切の事
柄は、フィアンの知覚に補足されていたのだった。
「・・・疑似魂まで穴の中に投げ込むだなんてね。」
深く美しい青を湛えた双眸が、天井のシャンデリアを
見上げた。
フィアンが苦し気な溜息を漏らしたところに、天井の
片隅から声が響いてきた。
「・・噂通り、具合は良くない様だな。」
その声の後に些やかな光の一点が出現し、それはすぐ
に天井の一隅に黒と白から成る神影を作り出した。
「わざわざ冥界から通信とは、珍しい事もあるものねえ
・・・。」
フィアンは力無くそう言って、天井から降り立つヴァ
ンザキロルの立体映像へと目を向けた。
通信・・と言うよりも、分身の遠隔投影に近い方法ら
しく、ヴァンザキロルの立体映像は、漆黒のマントと衣
をふわりと翻し、音も無くフィアンの頭許へと立った。
「ダイナ山脈のソエリテと言う町に「虚空」への穴が開
けられた。それに伴ってその地のレイライン集束点のエ
ネルギーが消耗している。その影響でソエリテ近くの冥
界の入り口にも空間の異常が出ている・・・。」
挨拶らしい言葉も無く、ヴァンザキロルは冷厳な表情
で用件を切り出した。
「ええ、知っているわ・・・。」
「だろうな。」
フィアンのその返答を、ヴァンザキロルは待つまでも
無かった。
彼が冥界と地上との境界を往来する一切のものを知覚
出来る様に、フィアンもまた「虚空の闇」と地上との境
界の出来事については知悉しているのだった。
「冥界としては、このままこの異常を放置しておく訳に
はいかん。」
ヴァンザキロルは少し俯き、フィアンの白く美しい顔
を見下ろした。
その動きと共に、冥王の白く輝く髪の幾本かが黒衣の
肩の上を流れた。
「「虚空の闇」の穴については、君の仕事だ。」
ヴァンザキロルは何の感情も込めず、ただ静かな声で
穏やかにフィアンへと言い渡した。
「ええ・・・。善処しましょう。」
フィアンもまた静かな、だがはっきりとした口調で応
えた。
そこには、病床に伏せる老齢の女神に対して困難な仕
事を迫る冥王を、酷薄と責める者は居なかった。
例え誰かが居たとしても、世界の調和を司る仕事の一
端を担う神々の思いや行為に口を挟む事は、決して出来
ない事だった。
「私は冥界への通路の修復に取りかかる。通路に関する
資料はここに・・・。「虚空の闇」の穴を塞ぐ際の参考
にしてくれたまえ。」
透明な輝きを放つ一枚のデータカードを、ヴァンザキ
ロルはフィアンの枕元にそっと置いた。
「それでは。」
ヴァンザキロルはそれだけを言い置き、すぐに姿を消
した。
冥界の通路の歪みはヴァンザキロルが対処する。
「虚空の闇」への穴はフィアンが対処する。
ただ、それだけの事だった。
「・・さて。ソエリテの空間は・・・。」
枕元のデータカードを手に取り、フィアンは激しい倦
怠感と頭痛の襲う体をゆっくりと起こした。
ザヘルが地上世界へと開いた穴の正確な位置を探ろう
と、ベッドに座ったまま精神集中を始めかけたところで
・・今度は、レックスが「虚空の闇」の邪気の直撃を受
けた事を感知した。
「・・ますます面倒な事になったわねぇ・・・。」
額に滲む汗をハンカチで拭い、フィアンは紅く小さな
唇に似合わぬ大きな溜息を漏らした。
だが、フィアンにはこのまま伏せっている事は許され
なかった。
必ずソエリテに行かなければならない。
よろよろと立ち上がり、いつもの黒いドレスに着替え
ると、フィアンは絶え間無く襲う倦怠感を堪えながら寝
室の扉を開けた。
「・・あらあら。」
何の驚きも無く、フィアンは居間のソファに腰を下ろ
していたエンフィールドを見た。
フィアンが寝室から出て来たのを見ると、エンフィー
ルドは円板を戴く杖を突いて立ち上がった。
白銀の長衣の裾を引きながら、エンフィールドはフィ
アンの前へと歩み寄り、かつての妻の血の気の引いた貌
を真っ直ぐに見上げた。
「もう一度訊こう・・・。早急に次の「虚空神」を立て
て、その者に神格を禅譲するつもりは無いのか?」
かつての妻を思い遣る夫の言葉には、しかし、何処か
諦念の感情が滲んでいる様でもあった。
「・・・神格と言うのは、私達の場合は原則、終身の筈
よねえ。」
フィアンは型通りの答えを元夫に返し、何処か清しい
表情で微笑んだ。
「農耕神」「音楽神」と言う様な、人間と関わりの深
い事象を司る神々と違い、ヴァンザキロルやエンフィー
ルド、フィアンの様な、空間や一つの世界の調和に関与
する神々はその寿命が尽きる迄、その神格に就くという
形が一般的だった。
フィアンの様に老い衰えた状態にあっても、その職か
ら解放される事は仲々有り得ない事だった。
「・・そう言うと思っていたよ・・・。」
困った様に眉を寄せながらも、エンフィールドはそっ
と微笑みを返した。
白銀の長衣の懐から小さな巾着袋を取り出すと、フィ
アンへと差し出した。
「私の神霊具だ。体力、神霊力の一時回復用と、緊急時
の空間転移用・・・。お前の事だから、ここ暫くの療養
で自分の神霊具の手入れをする間も無かっただろうと思
ってな・・・。」
「有り難う・・・。」
珍しくフィアンは素直に、かつての夫からの志を受け
取った。
袋一杯に詰め込まれた神霊具の量に、別れて後も尚、
フィアンを思い遣る夫の真心を見る様だった。
フィアンは早速幾つかのブレスレットや指輪を取り出
し、身に付けていった。
星々の運行を司る天極の神・エンフィールドの持ち物
に相応しく、その神霊具に秘められた神霊力の莫大な量
は並の神々の数百神分の神霊力と等しかった。
指輪やブレスレットに込められていた力でフィアンの
体力は一時的に回復し、青冷めていた顔にも赤味が差し
てきた。
袋の口を閉じると、フィアンはそれを自分のドレスの
腰に括り付けた。
「じゃあ、私はまず紫昏の所に出掛けて来るわ。」
神霊具の効力も永続的なものではない。体力の回復し
ている内に手早く用事を済ませようと、フィアンはやや
気急わしい様子で玄関を出た。
「そうか。気を付けてな・・・。」
そう言って、エンフィールドもフィアンの後に続いて
玄関を出たが、突然廊下で立ち止まったフィアンの腰に
白銀の冠を軽くぶつけてしまった。
「どうした?」
子供程の背丈しかないエンフィールドは、自分より遙
かに背の高いフィアンを見上げて問い掛けた。
「・・本当に、今日は来客があるわねえ。」
フィアンは少し疲れた様な口調で、小さな溜息をつい
た。
フィアンの横に出て来客の姿を確かめる迄も無く、き
つく立ち込める縹色の寒々しい神霊力の気配によって、
エンフィールドは何者がここにやって来たのかを即座に
悟った。
「エアリエル・・・。私達に何の用だ?」
エンフィールドはやや緊張に顔を強張らせながら、廊
下に佇むエアリエルへと問いを放った。
天空の星々の運行を司り、強大な神霊力を持つ高位の
神々の一柱に名を連ねるエンフィールドと言えども、太
古の神国で暴虐の限りを尽くした魔神は、警戒すべき相
手だった。
「・・・そう警戒なさらないで頂きたい。そこの大魔女
神を娶った天極の神にしては、私如きに過剰な反応では
ありませんかな?」
伸ばし放題の髪の間から覗く縹色の美しい瞳が、から
かう様な笑みと共に細められた。
エアリエルがそこに居るだけで、周囲は薄暗く沈み、
空気もまた寒々と凍てついていく様な錯覚があった。
「その気になられれば、私など、即座に消滅させられる
というのに・・・。」
エアリエルの言葉を、エンフィールドは露骨に顔をし
かめた不愉快そうな表情で聞いていた。
天空の星々の運行を司り、一般の神々や人間に霊的加
護を与え、その運命から様々な災厄を退ける役目を担う
エンフィールドにとって、激情を煽り立て魔物や怪物達
を以って神々や人間達を嘲弄するエアリエルの存在は、
本来許し難いものだった。
だが、「神国」は、どんな神も共存を許す郷であり、
エンフィールドが一方的にエアリエルを滅ぼす事は許さ
れてはいなかった。
「・・「神国」はどの様な神も自由に生きられる。だが
それは各々の分をわきまえ、互いに譲り合う事で成り立
っている。自由と野放図をはき違えた者がどうなるかは
・・・エアリエルよ、御身が一番よく理解している筈だ
と思うが?」
何処か険を含んだエンフィールドの声音だった。
エアリエルは太古の時代、「神国」を訪れ多くの都市
や集落、山や森、湖等を破壊し、そこに生きる多くの神
々や人間達を虐殺した。
本来、エアリエルにとって「神国」の殲滅はた易い事
だった。
だが・・今も「神国」は滅びておらず、神々や人間も
死に絶えてはいない。
「神国」では、どの様な神も生きる事が出来ると同時
に、どの様な神も、他者の存在を脅かし殺戮する場合に
はそれ相応の報いを受ける事になっているのだった。
それは決して、特定の審判者の様な者が裁きを下すと
言う訳ではない。
人間達は時に「運命」や「巡り合わせ」等と呼び、神
々は「因果の法」とも呼ぶ事がある。
自らの行為の報いは、必ず自らに戻って来る。
強大な力を欲しいままに振るう者もまた、相応の報い
が自らに戻って来る・・。
「神国」の神々の間の平安は、こうした目には見えな
い不可思議な因果律によって保たれていたのだった。
魔物や怪物達の頂点に立ち、邪悪で強大な神霊力を誇
るエアリエルもまた、その「殺す自由」を謳歌した報い
を受け、「神国」で生きるのに相応しい分をわきまえた
神にならざるを得なかった。
「あなたとのお話は後にしたいのだけど。」
エアリエルの存在を全く恐れた風も無く、フィアンは
冷厳な口調で応えた。
縹色の魔神、魔物共の総領、と他の神々や人間達から
忌み恐れられているエアリエルも、「虚空の闇」の調和
を司るフィアンの前では、何処か緊張している様でもあ
った。
「一つ話がしたかった。今、ソエリテで「虚空の闇」へ
の穴が開いた様だが、ソエリテの土地神ザヘル・・いや
彼を操る「連中」の今回、本当にやろうとしている事は
一種の模擬実験ではないのか・・・?」
流石のエアリエルも、虚空神の職務を果たすべく急い
でいるフィアンの足を止め続ける程、愚かでも命知らず
でもなかった。
早口で尋ねるエアリエルの問いには、自身もまた悪し
き創造を司る神として様々な実験や研究に携わっている
者としての、純粋な知的好奇心がある様だった。
わざわざソエリテに出向き、ザヘルやベナトに実験の
中止を警告して、彼等の実験を児戯とせせら笑ったもの
の・・彼等の実験の真実の内容について、エアリエルと
しては何かしらの興味を惹かれるのも正直な気持ちだっ
た。
「そうね・・・。」
エアリエルの問いに、フィアンは表情一つ変えずに頷
いた。
「ヌマンティアの技術を使って、恐らくは魔神を作り出
そうという愚かな実験・・・。誰が今回の実験を企んだ
のかは、薄々は判っているでしょう・・・?」
何の感情もこもらないフィアンの言葉に、エアリエル
は黙って頷いた。
フィアンの傍らでエアリエルを見上げながら、ふとエ
ンフィールドはソエリテの町の事を考え、また、エアリ
エルの何処か落ち着かない様子に気が付いた。
フィアンの許を頻繁に訪れるあの火神の若者の行末が
気になり、折りに触れ自分の職務に支障の無い範囲で彼
に関する様々な星の運行を覗き見てきた。
ソエリテの町をレックスが今回訪れる事も、既にエン
フィールドには知れていた。
今、ソエリテの町そのものには、レイライン集束点を
狙うレウ・ファーと、ザヘルを操って禁忌の実験を行お
うとしている、フィアンやエアリエルの言う「連中」の
・・二つの禍々しい星の影響があった。
エンフィールドが見立てた星の運行では、ソエリテの
町については、お世辞にも良い運命が待っているとは言
えなかった。
そしてそれは、今、ソエリテに居る者達・・レックス
やバギル、ティラル、また幻神達の危機的状況をも同時
に意味していたのだった。
「・・エアリエル。御身の気に掛ける幻神の行末も気に
なったのか?」
ソエリテで行われている禁忌の実験への知的好奇心と
・・もう一つ、エアリエルは幻神ラウ・ゼズの運命も気
になっている様だった。
何気無く発せられたエンフィールドの言葉に、エアリ
エルは珍しく、人間染みた微かな笑みを浮かべた。
強大な神霊力を誇るエアリエルと言えども、個々の神
々の辿る運命の道筋を見通す事は出来なかった。
恐らくは気紛れなものだろうが、あの魔神にも占いや
神託を求める様な気持ちがあったのか・・と、エンフィ
ールドは軽い驚きの感情を覚えた。
「まあ、それもありますかな・・・。」
ふっと、エアリエルは困惑の感情に軽く眉を寄せ、小
さな溜息をついた。
だが、エンフィールドはエアリエルに対して、穏やか
な笑みを返す事しか許されてはいなかった。
「私の神格上、ラウ・ゼズの運命についても話す事は出
来ない・・・。」
「彼が私と共に創造神への道を取るかどうか・・。大変
興味はあったのですがね。」
エンフィールドの答えに、エアリエルはわざとらしく
大きな溜息をついた。
判りきっていた答えでも聞かずにはいられなかったと
でも、この魔神は思っていたのだろうか。
「お先に失礼するわ。」
エンフィールドとエアリエルの遣り取りにさっさとフ
ィアンは背を向け、紫昏の居る神国神殿の下の階へと歩
き始めた。
「・・今、「連中」はソエリテで魔神を作っている真っ
最中といったところか・・・。」
足早に遠ざかっていくフィアンの背を見送りながら、
エアリエルはフィアンの冷たく美しい顔の下にある焦り
の感情に気が付いた。
それからエアリエルは、まだ間近に立つエンフィール
ドの錫杖の星座板へと目を落とした。
「次は創造神イジャ・ヴォイでも作り出すつもりですか
ね、あの「連中」は・・・。」
「連中」への嘲笑とも侮蔑とも取れる感情の滲む言葉
を残し、エアリエルはエンフィールドへと軽く会釈をし
て姿を消した。
縹色に揺らめく空気の余韻が残る廊下の一隅を、エン
フィールドは小さな溜息と共に一瞥すると、踵を返しフ
ィアンの後を追った。
◆
その日、紫昏は護法庁の仕事を終えて、レウ・ファー
への対策をサウルスと話し合うべく神国神殿本殿にやっ
て来たばかりだった。
紫昏もまた本殿に自室を持っており、その扉の前で北
方の大地の神は紫昏の到着を待っていた。
「お待たせしたようですね。」
「いや・・・。」
首もとのネクタイを緩めながら、紫昏は鋼板の扉に手
を翳した。
指紋や神霊力の波動の確認は一秒とかからず終わり、
小さな電子音と共に玄関の扉は開いた。
「さ、どうぞ・・・。」
紫昏がそう言ってサウルスの方を振り返ると、大柄な
サウルスのマントの後ろに二つの女神の影と、更にその
後ろに星座板を頂く錫杖が見えた。
「こ、これはどうも・・・。」
ゴレミカにフィアン、エンフィールド・・・。
彼等の姿に気付くと、紫昏もまた僅かの間、困惑と軽
い緊張の表情を浮かべた。
しかし即座に紫昏は気持ちを切り換え、サウルス達を
部屋の中へと招き入れた。
約束も交わさず、何の前触れも無くゴレミカ達が訪れ
るというのは余程の事なのだろう、と、紫昏は緊張した
表情のままゴレミカ達をリビングへと案内した。
「ダイナ山脈のソエリテという町で空間歪曲が起こって
いるわ。」
ソファに腰を下ろすと早々に、フィアンは紫昏へと切
り出した。
「ついては虚空神からの要請として、護法庁には第一級
の虚空災害対応の準備を今すぐお願いするわ。」
依頼というには、フィアンの口調も表情も厳しく、誰
も逆らいうる事は出来ない力を秘めている様だった。
虚空災害・・その言葉に、紫昏もサウルスも表情に厳
しさが増し、紫昏は即座にガラステーブルの上の通信球
へと手を伸ばした。
空間が歪み、他の世界とつながる現象自体は件数は少
ないものの珍しい事では無かった。
しかし、つながった先が「虚空の闇」で、そこから邪
気が逆流したり魔神や怪物が出現する等の危険な現象が
起こる場合は、災害として扱われ、然るべき対応を迫ら
れる。
通信回線が護法庁の直属の部下の姿を映しだすとすぐ
に、紫昏はソエリテの全住人の即時避難の命令を下し、
それに対応する者達の部署の編成を急がせた。
一分と経過しない内に、ソエリテの住人の避難に取り
かかった旨の部下からの返事が入り、避難完了迄の予想
時間と避難した住人の受け入れ先の資料が、紫昏の手元
に立体映像として映し出された。
「御苦労。何かあればすぐに私に連絡を頼む。」
「判りました。」
紫昏の言葉に、部下は頭を下げ通信を打ち切った。
「流石ですわ。」
ソファに唯一腰を下ろさず、相変わらず誰もに後ろ姿
を見せたままゴレミカは紫昏へと感嘆の言葉を掛けた。
「いえ。・・それより、虚空災害とは穏やかではないで
すね。ソエリテの様な小さな田舎町で、一体何が?」
ゴレミカへと軽く頭を下げ、紫昏はフィアンへと目を
向けた。
フィアンは冷たい表情のまま、少しの間無言で座り続
けていた。
その様子に紫昏が訝しげな表情を浮かべかけたところ
で、不意に通信球から呼び出し音が鳴り響いた。
「・・・私だ。何かあったのか?」
「それはこちらが聞きたいですな、長官殿。」
その声に遅れて、護法庁の事務局長の立体映像が結ば
れた。
紫昏と同じ位の年齢の才気走ったその男は、何かにつ
け庁の内部で紫昏に反発をする者達の筆頭だった。
「奥の院」へと籍を移した前の局長との癒着など、黒
い意味での関わりも深いという噂もあった。
「何の理由も示さず、ソエリテの全住人の二十分以内の
避難とは。ただ虚空災害というだけでは、住人の不安や
混乱を鎮める事は出来ませんよ。」
紫昏はまたこいつか、と疲れた様に小さな溜息を一つ
吐いた。レウ・ファーへの護法庁の対策本部の編成を、
あれこれと難癖を付けて遅らせたのもこの男だった。
「住人の不安や混乱の防止も考えて人材は選定している
し、住人への情報公開も随時行うように指示は徹底して
いる・・。」
紫昏の説明も、この男に何処迄聞いてもらえているか
は内心非常に心もとなかった。
「そうはおっしゃりますが、今の時点でソエリテの住人
には護法庁からの情報提供はまるで行われていない。空
間歪曲や虚空の魔神達の確認すら。これでは・・・。」
「黙りなさい。」
フィアンの冷たい一言の下に、事務局長の舌は凍りつ
いた。
「既に「虚空の闇」への穴は開いているわ。場所等の詳
細は追ってソエリテに派遣された者達へ教えるし、何よ
りも、今回の避難は虚空神から護法神への命令だわ。護
法庁の誰にも異議を唱える事は許しません。」
「フィ・・・フィアン・・・様?」
事務局長側の通信球の調整をしたのか、局長の顔がガ
ラステーブルの上を回転した。
自分の発言を遮る者の顔を見てやろうという局長の傲
慢な感情は、ソファに座すフィアンの姿を認めるや否や
瞬時に萎縮し・・エンフィールドやゴレミカの姿を映像
越しとはいえ目の当たりにするに至っては、恐怖にも近
い感情に変化してしまっていた。
「し、失礼を・・・。」
何事か言い訳めいたものを言い募ろうとするものの言
葉にはならず、局長が通信を終えるよりも早く、フィア
ンは人差し指を通信球に向けて回線を切断した。
「時間も無いのにうるさい事・・・。」
フィアンもまた紫昏と同様に、うんざりとした表情で
溜息をついた。
そこに、ゴレミカはそっとフィアンへと近付き、ソフ
ァの後ろから小声で囁きかけた。
「ソエリテで起こっているのは、・・・六百年前の北ダ
イナと類似の現象ですね・・・?」
その問いに、フィアンは背後のゴレミカを振り向く事
無く小さく頷いた。
「はい・・・。貴方のお考えの通りです。」
フィアンもまた小声で答えた。
それと同時に、わざわざゴレミカが空間歪曲程度の事
件でこの場にやって来た理由を何となく納得したのだっ
た。
六百年前の北ダイナと言えば・・レウ・ファーが誕生
した場所だった。ゴレミカはレウ・ファーの誕生の場面
に居合わせながら、誕生の阻止に失敗したのだった。
今回のソエリテの空間歪曲が「虚空の闇」から魔神を
生み出す為の実験によるものだと、ゴレミカも知ってお
り・・尚の事、内心落ち着かない思いもあったのだろう
・・・。
神々の内で最高、最古、最貴の女神と讃えられ、並ぶ
者無き神霊力を誇ってはいても・・ゴレミカもまた、通
常の姿は地上の世界に肉体を具えて存在している神の一
柱に過ぎず、普段は完璧な存在でも全知全能の存在でも
あり得なかった。
「・・今回のソエリテで行われるのは、恐らく「誕生」
の実験だけでなく、・・・「融合」の最終段階迄一気に
行うつもりなのでしょう。・・・あの「連中」は。」
あの「連中」・・今度は、侮蔑の感情を滲ませながら
フィアンは溜息を漏らした。
こうしている内にも、自らの感覚に捉えられる「虚空
の闇」と地上世界の間の空間の歪みや、ソエリテで誕生
しつつある魔神の神霊力の波動に、フィアンは知らずそ
の美しい白い顔を焦りの感情に曇らせていた。
「そうですね・・・。」
ゴレミカもまた、その後ろ姿の向こうに沈鬱な表情が
あるだろうと、誰もが容易に想像出来る溜息をついたの
だった。
エンフィールドは目を伏せたままフィアンの隣に腰を
下ろし、フィアンとゴレミカの会話に口を挟む事は無か
った。
紫昏とサウルスもまた、自分達の理解を超える女神達
の会話を敢えて記憶に留めようとはしなかった。
「紫昏殿・・・。護法庁の協力、感謝するわ。」
そう言うと、フィアンはゆっくりと立ち上がり、リビ
ングの入り口へと足を向けた。
何処へ・・紫昏はそう尋ねかけて、口を噤んだ。
フィアンの次の行き先はソエリテに決まっていた。
ソエリテの住人達の安全を確保し終えたフィアンには
次の仕事が待っていたのだった。
ドレスに括り付けていた袋から空間転移用の小さな宝
珠を取り出し、フィアンはそっと空中に浮かべるとその
輝きの中に姿を消した。
◆
フィシテ島の奥地でレックス達一行を迎えたのは、半
ば壊れかけた岩人形達だった。
レックス達より先に島の奥に進んでいった何者かの破
壊し損なった何体かが、レックス達を新たな敵と認識し
て再び起動した様だった。
全てはレックスの記憶通り、殆ど相手にもならない岩
人形達を仲間達は次々に破壊していった。
アローザもまた、活き活きとした様子で火炎弾を岩人
形の体内へと打ち込み、瞬く間にそれらを粉砕していっ
た。
自らも記憶の通りに岩人形を破壊していきながら、レ
ックスはしきりにアローザの方へと目を遣った。
当時はさして意識もせず、単純にアローザと共に戦っ
ている事を喜んでいた。
これが、最後の旅だったというのに・・。
勿論、その時のレックス自身は、これが最後の旅だと
いうつもりなど全く無かった。
まだまだこの先、何十年も何百年も・・アローザや仲
間達との冒険の旅の日々が続くと信じて疑いなどしなか
った。
岩人形を全て破壊し終えて再び歩き続けると、獣道が
終わり、ちょっとした広場の様な場所へとレックス達は
やって来た。
巨木がほぼ円形に広場を取り囲み、その一か所がぽっ
かりと開き、また次の場所へと続く道が見えていた。
この広場は恐らくは、本来、侵入者を迎え撃つ最後の
場所なのだろう。
今迄とは比べものにならない程多数の岩人形達が先行
者によって破壊され、広場のあちこちに累々と積み重な
っていた。
「・・・大丈夫?ちょっとそこに座りなさい。」
敵が居ないのを確認すると、アローザはネザンを座ら
せた。
先刻の戦いでネザンが岩人形に不意をつかれ、右足に
怪我をしたのも、全てレックスの記憶の通りだった。
アローザは小さな背負い袋から薬と包帯を取り出し、
手早く応急処置を行った。
「平気だぜ、この程度の傷!それに、この島のお宝を手
に入れれば、怪我だってふっ飛んじまうぜ!」
ネザンが笑いながら言う様子を、現在のレックスの意
識は、何処か寂しげな感慨を抱きながら見つめていた。
この場所に至る迄の全ての出来事が、レックスの忘れ
ていた細かい部分を除けば、全く百五十年前の記憶の通
りだった。
後はもう・・この広場の様な場所を通り抜ければ、そ
こに、運命の場所がある筈だった。
「・・!!」
巨木の茂みの彼方から、激しい爆発音がレックス達の
耳に届いた。
それに続き何者かの叫び声も、微かに聞こえてきた。
「向こうに誰か居るのか!?」
「岩人形を倒した先客かもね!」
口々にそう言い合いながらアローザや仲間達は立ち上
がり、目的地で起こった異変を確かめるべく駆け出した
のだった。
アローザの後に続きながら、レックスは急激に高まり
つつある緊張感に知らず、きつく拳を握り締めていた。
もう一度、アローザや仲間達が殺されていくあの光景
が繰り返される事に、レックスの足取りはとても重かっ
た。
巨木の間の道を抜けて、目的の場所へとレックス達が
やって来ると、そこには砂利敷きの広場があった。
明らかに神工的に磨かれた宝玉の様な輝きを持つ玉砂
利が、広場一面に敷き詰められていた。
レックス達のやって来た広場への入り口の丁度真向か
いには、不可思議な紋様や図形が刻印された二本の巨大
な石柱が聳えていた。
その石柱の近くで・・白い仮面を頭部に頂いた、赤黒
い肉管の絡まり合った肉体を持つ巨大な怪物が、何者か
をその手に握って立っていた。
「最後に、仲々御大層な魔物が居るじゃないの!」
アローザは、ここへ来て初めて、愛用の火炎剣を抜い
て身構えた。
仲間達もそれぞれの武器を取り出すと、身軽になるべ
く背負っていた荷物を近くの木の根元へと放り投げた。
白い仮面の怪物は、レックス達の方をちらと一瞥した
きり、再び手元の何者かに視線を落とした。
ネザンと同じ様な大柄な体格の初老の男らしいという
見かけ以外は、何処の何という神かは判らなかったが、
怪物との戦いに負傷し、顔の半分が腫れ上がり、白髪混
じりの土色の髪の毛には多量の血がこびりついて固まっ
ていた。
粘液でぬめった光沢を放つ赤黒い怪物の手に力が入り
始め、捕らわれの男は低く悲鳴を上げた。
「お宝を横取りされちゃ困るが、あいつを放ってもおけ
ないな。」
大振りの斧を構え、ネザンは怪物を睨み据えた。
「あの怪物も・・・どうやら何かの神の様だな。知能は
低そうだが。」
アローザの横で、数本のナイフを両手に挟んで身構え
ながら、リヒトは怪物から滲み出す神霊力の波動を分析
した。
レックスもまた炎熱剣を抜き、怪物・・いや、怪物神
とその手の中の男を見た。
・・当時は、怪物神に殺されかけていた男は、自分達
と同じ様に宝探しに来た者だとレックスは思っていた。
そして、怪物神の近くの不可思議な石柱こそが、宝の
隠し場所だと思っていた・・・。
「・・・!」
ちら、と石柱を何気無く一瞥したレックスの脳裏に、
突然閃くものがあった。
「ここは・・・。」
初めは些やかな閃きだったものが、次々にレックスの
記憶を刺激し、一つの結論を導き出した。
ここは・・この場所は、つい最近見た事のある場所に
とてもよく似ていた。
「行くわよ!」
レックスがその結論に辿り着きかけた横で、アローザ
達は怪物神を倒すべく駆け出していた。
あの石柱は、宝の隠し場所などではなかった。
あの怪物神と戦っていた男は、宝探しに来た者ではな
かった・・。
アローザ達が怪物神に斬りかかり、銃を撃ち、斧を振
り下ろして戦う様子を見つめながら、レックスの心臓は
緊張に早鐘を打ち始めた。
怪物神がアローザ達の攻撃に意識を逸らされた隙を突
いて、捕らえられていた男が残された力を振り絞って木
製の小さな円盤を投げた。
その円盤が思いの外、凄まじい回転を行って怪物神に
ぶつかり、大量の神霊力の発動を伴った爆発を起こす様
を目の当たりにするに至って・・レックスは、自分の結
論が間違っていなかった事を確信した。
この石柱のある場所は・・この前行った「神々の森」
の鳥神・鵬が守る、レイライン集束点の結界の入り口に
よく似ていた。
怪物神に捕らえられているあの男が放った、大量の神
霊力が込められた木の円盤は・・神霊具の一種に間違い
無かった。
フィシテ島が何であったのかという真実に気付き、レ
ックスは弾かれた様にアローザ達の所へと駆け出し、空
しいと知りつつも叫び声を上げた。
「アローザァァッ!!やめろぉっ!!逃げるんだ!ここ
は宝の島なんかじゃなかったんだっっ!!」
このフィシテ島は、レイライン集束点の一つだった。
レックス達が情報屋から仕入れたお宝の情報とは、レ
イライン集束点の事が口伝に広まる内に歪められ、尾ひ
れが付いて変形してしまったものだったのだろう。
レックスは炎熱剣を振るって怪物神の腕を焼き切り、
その隙にアローザを連れ出そうと手を伸ばした。
「レックス!」
焼いても切っても再生を遂げる怪物神に、思わぬ苦戦
を強いられていたアローザは、レックスの姿に気付くと
ひとまず怪物神から離れるべく、差し出されたレックス
の手の方へと走り出そうとした。
だが、そうした僅かの間にも、レックスに切り落とさ
れた腕の切断面がざわざわと波打ち、幾本もの赤黒い触
手を伸ばして本体と再び結合を遂げた。
アローザは癒合を始めた腕の一振りに阻まれて、レッ
クスに近寄る事も出来なかった。
赤黒い肉管の寄り集まった体と、陶器の様な白い仮面
の顔・・そして、怪物を形作る肉管の随所にある、電子
回路の様な筋模様。
凄まじい速度の肉体の再生力とその姿は、レックスに
レウ・ファーの作り出した邪神を想起させた。
「レウ・ファー・・・?」
レックスは忌々し気に呟き、短時間の内に再生を終え
た怪物神の姿を睨み上げた。
逆光に暗く陰る怪物神の体の中で、頭部の白い仮面だ
けがはっきりとレックスの瞳に映っていた。
薄青い翳りを帯びた白い仮面には、何の感情らしいも
のも浮かんではいなかった。
・・レイライン集束点・・管理者・・お宝・・「世界
を生み出し、形作る力」・・邪神、怪物神、レウ・ファ
ー・・・。
様々な言葉が、瞬く間にレックスの脳裏をよぎってい
った。
錯覚なのか、直感なのか・・。
得体の知れない何かと、何処かで、レックスは自分達
の運命がつながっている様に感じ始めていた。
アローザ達の攻撃の手が僅かに緩んだ瞬間、怪物神は
無造作に片手に力を入れた。
ぐげっ、という声がその片手の中から上がり、怪物神
に捕まっていた男・・恐らくは、フィシテ島の集束点管
理者は、血を吐いて呆気無く絶命した。
「何て事を・・・!」
驚きと怪物神の残酷さへの怒りに、アローザは言葉を
失った。
怪物神は男の死体を握り締める手に更に力を込めた。
怪物神の掌からは無数の細い触手が伸び、男の死体を
滴り落ちる血の一滴も残さず包み込んで吸収し始めた。
やがて、僅かの時間の後に、男の死体は怪物神の掌中
にずぶずぶと音を立てて埋没していったのだった。
「何て事しやがる!」
怒りや憎悪を露に、仲間達は再び武器を振り立てて怪
物神へと立ち向かっていったが、怪物神の腕の一振りで
呆気無く全員が弾き飛ばされてしまった。
全ての出来事が、レックスの記憶の通りに進み、アロ
ーザと仲間達を失うその時が、すぐ目前に迄迫りつつあ
った。