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極道の娘が悪役令嬢に転生したら、婚約破棄より先に侯爵を殴っていた〜謎の青年と異世界で恋に落ちました〜

作者: 雫石しま
掲載日:2026/08/11

 親指を強く握り、拳に力を込めた。衛兵が槍を振り上げるが、間に合わない。私の拳は風を切り、オルファ侯爵の左頬に重苦しい音を響かせた。拳が当たった瞬間、鈍い衝撃が腕に響き、侯爵の顔が歪むのが見えた。床に崩れ落ちたオルファ侯爵は、顔を赤らめる。彼は頬を庇い、尻餅をついたまま身動きが出来ない。私は彼を見下ろして言い捨てた。


「この世界、舐めると痛い目見るぜ?」






 数分前のこと。






 私、獅子頭橙子は部屋住みの若い衆が運転する、黒いハイクラスミニバンの後部座席で、偉そうに脚と腕を組んでおりました。若い衆といえばピンと来る方も多いのではないでしょうか……。そう、私は獅子頭組の跡目……お嬢様なのです。え、極道?「怖っ」、と誤解されがちですけれど、日常は一般庶民となんら変わりはありませんのよ。ほほほ。


 組長である父は事務所の革の椅子に腰掛け、若い衆を厳つい顔で怒鳴っております。それはもう鬼の如く。「怖っ」けれど自宅に帰れば母の尻に敷かれ、腰にエプロンを巻いて皿洗いをしています。ソファに腰掛け、テレビのリモコンを弄る母が影の組長のようなものです。


 私も組長の娘ですから贅沢三昧、我が儘三昧と思われがちですが、昨夜のご飯はシシャモでした。あ、それは……北海道産の立派なシシャモでしたけれど。それに最近、親を困らせたことといえば、ピアノを習いたいと言ってピアノを買ってもらって、二ヶ月で飽きた程度。可愛いものだと思いません?


 と、自己紹介はここまでにして。


 私の乗った車が右折しようと交差点で信号待ちをしていたら、対向車線からスピードを緩めることなく大型トラックが突っ込んで来たの。実は、獅子頭組は敵対組織との激しい抗争の真っ最中。それは敵対組織トラックだったってわけ。「お嬢!伏せてください!」若頭の川上が声を張り上げた瞬間、激しい衝撃音と粉々に砕け散るフロントグラス。ガラスの破片が頬を切り、激痛が走った瞬間、意識が暗闇に飲み込まれた……。


「お嬢!橙子さん!」


 一瞬の出来事とはこのことね。走馬灯のように人生が浮かぶ……といってもまだ18年だからあっという間に終わっちゃったわ。短い人生だったな……あぁ、甘酸っぱい恋もしたかったな……。



その数分後



「……って、マジか!嘘だろ!」


 そう叫んだ私は、我が目を疑った。ドレスの重い布が肌にまとわりつき、それはもう……まるで優美な演劇の衣装。空気には古い木材と香水の匂いが混じっている。その空間は映画の撮影スタジオと思しき大広間で、天井では豪華なシャンデリアが光を放っていた。着飾ったドレスの女性や、正装の男性が私を取り囲み、私の背中をじっと見ていた。衛兵の槍がやけに重厚で、冗談抜きでヤバいと思った。


「なに……これ」


 目つきの鋭い衛兵に拘束され、身動き一つ取れないまま階段を見上げると、恰幅の良い黒髭の男性が王座にゆったりと腰掛けた。次いで、その隣に若く小柄な女性が寄り添う。


「なに、なんなのよこれ!」


 彼女は扇子を広げ口元を隠し男性に歩み寄った。「この女がいなければ、オルファ侯爵の地位は安泰ですよ……」そう囁くといやらしい笑みで私を見下ろす。オルファ侯爵は鼻で笑い、「こんな小娘に私の地位が脅かされるとでも?」と彼女の華奢な手を握った。黒髭の男性は目を瞑ってしばらく考え、決心したように王座から立ち上がった。


「オランジェット・ドナー伯爵令嬢!私はこの場で、そなたとの婚約を破棄する!」


 私にはなにがなんだか分からなかった。「まぁ!オルファ侯爵はどうなさったのでしょう!」驚きがさざなみのように押し寄せる。どうやら、あの黒髭はオルファ侯爵という名前らしい。そこで……ふと気がついた。


「公爵?こ、う、しゃ、く?いつの時代の話よ?」


 ふと見ると、壁には重厚な装飾が施された大きな鏡があった。鏡の中の女性は、ひどく驚いた顔で私を見ている。試しに私が口を開けると、彼女も同じように口を開ける。勢いよく頭を振ると、腰までのプラチナブロンドの髪が揺れた。


「え!?これ……私!!?私なの!!?」


 オランジェットと呼ばれた女性は私のことだった。私は自分の体が、他の人間の体の中に閉じ込められたような恐怖を覚えた。すると黒髭はとんでもないことを言い出した。


「オランジェットには、アレクシス王太子殿下の暗殺の容疑で断罪とする!」


 耳にしたことのない言葉に、私は衛兵に、「断罪ってなんですか?」と尋ねた。すると彼は気の毒そうな顔で、「斬首刑です」と頷いた。


(ざ、斬首刑ってあれですか!?首がドスっと切られて、転がるあれですか!?)


 私が、自分が断頭台に上る姿を想像し、青白く顔色を変えていると、黒髭は無情にも牢獄に連れて行け!と言い放った。斬首とか、牢獄とか有り得ないし、アレクシス王太子殿下なんて会ったこともない。どれもこれも、自分には身に覚えのないことばかりだ。「わかりました。はい、そうですか」と受け入れることなんて出来ない。


「立て」

「……」


 衛兵の槍が私を立ち上がらせた。その瞬間、私は、ただ長いだけで邪魔なドレスをめくりあげる。白いドロワーズ(パンツ型の下着)が顕になり、取り囲んでいた貴婦人方は気恥ずかしさで短い悲鳴をあげ、男性はきまりが悪く目を閉じた。窮屈なハイヒールを脱ぎ捨て、槍を蹴り落とすとそれらは鈍い音を立てて大理石の床に転がった。若い衆に習った護身術が役立つ日が来るとは、物騒な世の中になったものだと自分でも驚いている。


「な、なんだ!」


 黒髭はひどく慌てた顔で王座から立ち上がった。これまでしおらしくしていたオランジェット伯爵令嬢が豹変し、目を吊り上げ唇を強く噛んで突進して来るのだから驚くのも無理はない。私はドレスの裾をつまんで階段を勢いよく駆け上がった。肩で息をした私は大きく吸い込むと、親指を握り拳をつくり脇をしめた。


シュッツ!


 親指を強く握り、拳に力を込めた。衛兵が槍を振り上げるが、間に合わない。私の拳は風を切り、オルファ侯爵の左頬に鈍い音を響かせた。拳が当たった瞬間、鈍い衝撃が腕に響き、侯爵の顔が歪むのが見えた。床に崩れ落ちたオルファ侯爵は、顔を赤らめる。私は彼を見下ろして言い捨てた。


「この世界、舐めると痛い目見るぜ?」


 この時、私はオランジェット・ドナー伯爵令嬢が真の暗殺者なのか見極めたいと思った。煌びやかな大広間は、驚きの騒めきと日々の鬱憤を晴らすかのような拍手が巻き起こった。


「どうやらこいつ、とんでもない野郎かもしれないな」


 私はオルファ侯爵を見下ろし、隣の女性を見た。この世界で生き残るには、まずこの女の正体を暴くしかない!睨みつけると、彼女は扇子で口元を覆い隠しニヤリと笑う。二人の間に目には見えない衝撃が走った。


 私は極道の娘としての鋭い勘と闘争心を武器に、自らの運命を覆すべく動き出した。でも……このあと捕まっちゃうんだけどね。


「ねぇ……私、本当になにもしていないのよ?」

「今は口を閉じなさい、オランジェット様」


 牢獄に連れて行かれる途中、衛兵の誰かが意味深な目で私を見た。

 激怒したオルファ侯爵は衛兵たちに命じ、私を牢獄へと押し込んだ。途中、何人かの衛兵の手を噛んだが革のグローブが邪魔をして、逆に私の歯が痛んだ。ドレスの裾を摘んで脚をばたつかせてみたが意味もなく、私は湿っぽくカビ臭い石の階段を引き摺り降ろされた。


「やめて!もう離してよ!逃げないから!」


 私は衛兵たちの手を振り解く。すると、容赦なく背中を突き飛ばされ、私は冷たく固い石の床に転がった。


「イタタタ、なにすんのよ!」


 膝が擦りむけ、血が滲んだ。思わず衛兵を睨みつけると、彼は気圧され後退りした。


「あー……私、どうなるんだろう」


 断頭台に立った自分の姿を想像し震え上がっていると、鉄の格子戸が絶望的な音を立てて閉まる。あああっ!衛兵が鍵をかけ、ガチャンと回した。


「ちょっ……まっ待ってぇぇ!」


 静まり返った石の廊下を、衛兵のブーツと鍵束の音が遠ざかって行った。私の胸は緊張でドクドクと脈打った。


「……まさか自分が牢屋に入るなんて」


 私の頭には獅子頭組の若い衆が刑期を終え、刑務所から出所した祝いの席が頭に浮かんでは消えた。鯛のお頭……美味しかったな。いや……私もここを出所したい。


「そうよ橙子!これは冤罪かもしれないのよ!諦めたら終わりなんだから!」


 首を振って周囲を見ると、陽の光が差し込む鉄格子の小窓があった。爪先立ちで見上げると、そこにも鉄柵がガッチリとはめ込まれ、逃げられないようになっている。耳を澄ますと、のどかな小鳥のさえずりが聞こえてきた。それが逆に虚しく感じられた。


「私って死んだの?」


 私は思い切り頬をつねってみた。痛い。やはり私は、オランジェット・ドナーの体に入ってしまったのか?私は……でも、オランジェット?オランジェットって誰?


「ここは日本なの?それとも・・・ヨーロッパあたり?」


 私は英語が大の苦手だった。話し言葉が理解出来るということは、やはりここは日本、ちょっと変わっているけど……日本よね。


「でも、あの色はないわー……ビジュアル系バンドのライブ会場かよ!」


 大広間で私を見下ろしていた、着飾ったワンピースの女性や正装の男性の髪と目の色がとんでもなく派手だった。それはまるで、若い衆に連れ立って”みかじめ料”を集金して回った飲食店の看板のよう……。


「髪が金とが銀なら許容範囲……でも目が青とか赤とか!あの目はカラコンなの!?」


 それにしても、いつまでもここにいては埒があかない。これは、邪魔よね!私は、薄汚れてしまった白のドレスの裾を引き裂き、膝丈のワンピースにした。切れ端の布はリボン代わりに、乱れたプラチナブロンドの髪をひとつに結えた。


 そこで私は、見回りの衛兵たちの囁き声を聞いた。


「王太子の死は侯爵の仕業だって聞いたぜ」

「まさか……侯爵は王党派で王太子の後ろ盾だろ?」


 やっぱりあの黒髭が黒幕だ。時代劇でよくある「お主も悪よのぉ」ってあれ。


ガンゴンガン!


 そして私は無駄な足掻きだと知りつつ、汗をかきながら独房の鉄格子を蹴り続ける。その音は、細長い暗い廊下に悲しく響いた。


「この世界、牢獄の壁まで固すぎるわ……まったく!」

「……無駄だよ」


 すると、隣の独房から落ち着いた低い声が響いてきた。それまで物音ひとつしなかったので、独房には自分しかいないと思っていた。私は、飛び上がって驚いた。


「無駄だよ……その扉は魔法陣でシールドされているから力ずくでは壊せないよ」


 え?何ですと?今、なんと仰いました?

「あのぅ……魔法って言いました?」


 私は、いきなりのファンタジー発言に驚きが隠せなかった。確かに、壁には古びた魔術の刻印らしきものが描かれている。


「……外の鍵を使わないと開かないよ」


 不思議発言を繰り返す隣の独房を覗いて見る。鉄格子越しでハッキリとは見えないが、薄汚れた服を着た男性が諦めたような表情で座っていた。顔は泥で汚れているが、どこか気品のある雰囲気が漂っている。


(……へぇ、何者なんだろう、面白そう)


 彼は、獅子頭組と兄弟の契りを交わした、安藤組の跡目と雰囲気が似ていた。跡目はちょっと……いや、かなり男前だった。私は鉄格子に顔をつけるとその男性に話し掛けた。


「ねぇ、あなたも反逆者?それともこの牢獄の常連さん?」

「…………」

「恐喝?窃盗?薬ヤクの売買?密輸?なんの罪に問われているの?」


 自分自身、もう少しまともなことを聞けばよかったと思った。けれど、身近なキーワードがこれしかなかった。すると彼は微かに笑った。


「反逆者か……まぁ、そんなところかな。じゃあ君は?」


 私は立ち上がると胸を張った。


「獅子頭橙子、極道の娘だよ。冤罪でここにぶち込まれたのよ。この世界、舐めてると痛い目見るぜ?」

「極道?何だそれは。しかも君の名前……変わってるね」


 彼は極道という言葉に興味を持ち、首を傾げた。そして立ち上がると私に近寄った。ブロンドの髪に、金色の瞳をしていた。長く伸びた前髪から覗く目は鋭く、美しかった。


「君……面白いな。本当の名前は?」


 私は、ああ……そうだった今は、あのややこしい名前だ……と思い返し、プラチナブロンドの髪を掻き上げた。


「この世界じゃ、オランジェット・ドナー伯爵令嬢って呼ばれているみたいなの。面倒臭い名前でしょ。早口言葉か……って」


 私は呆れた顔で溜め息をついた。


「しかも橙だいだいでオレンジって安直すぎでしょ?」


 彼は薄髭の生えた顎に触れると、なにか考え込んでいた。天井から滴る雨水の音だけが独房に響く。


「ドナー、ドナー伯爵……地方貴族の出生か」


 彼は、思い出した!という顔で、まじまじと私の顔を見る。


「オランジェット、オランジェット・ドナー!……王太子暗殺の犯人か!」

「冤罪だって言ってるでしょう!」

「……断頭台行きだな」

「私がここにいること自体が間違いなのよ!」


 私は酷い剣幕で彼に噛み付く。


「あなたこそ……なんでここにいるのよ!」


 彼は鉄格子に寄り掛かると、私の目を見つめた。私は思わず息を止め、金色の瞳に吸い込まれるのを感じた。彼の瞳に私が映っている。胸の高鳴りを感じた。


「私は……真実を探りに来た。君と同じくここにいるべき人間じゃない」

「真実を探りに?なんのこと?」

「今にわかるよ」


 その時、牢獄の廊下から鉄格子を激しく揺する音が聞こえて来た。「おい!やめないか!」衛兵の慌てた声、「うるせぇ!その鍵をかせ!」囚人たちが暴動を起こし、脱走を試みている。私は目を輝かせた。


「ねぇ!今が脱獄のチャンスだと思わない!?」


 私は青年に声を掛ける。彼は冷静に……ゆっくりとした口調でこう言った。


「脱獄は危険だ……でも君と一緒なら面白そうだ」


 私はその目に強い意志と光ものを感じた。


「気に入った!あなたの名前は!?」


 彼は一瞬迷ったが、力を込めて叫んだ。


「レオンと呼んでくれ!」

「レオンね!私はオランジェで良いわ!」


 囚人たちの暴動は成功した。彼らは衛兵の槍を奪い、叫びながら出口へ殺到した。私とレオンの独房の前を、いかにも犯罪を犯しそうな顔つきの囚人たちが、我先にと牢獄の出口へと向かって走って行く。


「待って!助けて!鍵を開けて!」

「開けてくれ!」


 けれど囚人たちは、自分が逃げることに手一杯で、私とレオンを振り返る気配はなかった。私は両手で鉄格子を握ると思い切り蹴り上げ、囚人たちの注意を引こうとガタガタと揺らした。レオンも、「鍵をくれ!頼む!」と声を張り上げている。


「助けて!お願い!こっちを向いて!」

「助けてくれ!」


 一人の囚人が私たちの悲痛な叫びに足を止め、ポケットから牢屋の鍵束を取り出した。「待ってろ!今開ける!」けれど独房の鍵はなかなか見つからなかった。焦りが見え始めたその瞬間、レオンの独房の鍵がカチャリと音を立てた。


「……開いた!」

「レオン!助けて!」


 レオンは前髪を掻き上げると、囚人から受け取った鍵束から私の独房の鍵を探し出そうと指を忙しなく動かした。けれど、それらしい鍵を見つけて鍵穴に差し込むが、ビクリとも動かない。私の額には汗が滲み、足は地団駄を踏んだ。


「早く!レオン!衛兵が来ちゃう!」

「分かっている!」


 レオンの表情にも焦りが見え始めた。すると、牢屋の奥から複数の衛兵が走って来た。物々しい足音に、重厚な槍がぶつかり合う。それは次第に力強く激しさを増し、レオンは眉間にシワを寄せ目を閉じると唇を噛んだ。


「……すまない」

「え!?」


 レオンは鍵束を石の廊下に置くと踵を返した。私は絶望感に目を見開く。


「ちょ……ちょっと待って!鍵を開けて!」

「今からじゃ間に合わない!明日まで待て!」

「……そんな!」


 衛兵たちの、「あいつは逃すな!捕まえろ!」衛兵の隊長が剣を抜き、怒号を上げてレオンの背中を追いかけて来た。


「レオン!」

「オランジェ、必ず助ける!」

「レオン!待って……!」


 私は鉄格子に額を押し付け、喉が裂けるほど叫び続けた。


 こうして私は、牢獄の独房にひとり取り残されてしまった。レオンは助けると言ったが、いつ、どこで、どうやって助けるというのだ。知り合って間もない、素性の分からない男性に期待すること自体、間違っていたのか。


「この世界……義理も人情もないな……」


 私は静まり返った独房の中で、鉄柵で仕切られた小窓を見上げて呟いた。その時、オランジェットの記憶らしき断片がチラッと頭をよぎったけど、すぐ消えた。

 こんな時でも腹は減る。私は木のトレーに雑然と置かれた石のように硬いパンと、冷えた野菜スープの上澄みを前に胡座をかいていた。惨めさが込み上がるが、けれどひもじさに打ち勝つことが出来なかった指先は、プライドを捨てその塊を握った。パンを両手で持ち左右に引っ張ってみたが、それはメキメキと音を立て木屑のように呆気なく崩れた。足元に散らばるライ麦の粉、鼻をひくつかせたドブネズミがあちらこちらから集まって来る。その光景に怖気が走った。


「……くっ、トメさんの肉じゃがが、食べたい!」


 家政婦のトメさんの作る温かな肉じゃが……砂糖と醤油の塩梅が絶妙な肉じゃが……けれど今の私は囚われの身……。


「日本の刑務所の方が……もっと美味しいものを食べてるよね……うん」


 私は愚痴をこぼしつつ、ドブネズミとのディナーを楽しむことにした。


「……ん?」


 すると、石畳の奥から鎧の重厚な足音と剣の擦れる気配が近づいてきた。それはもぬけの殻になった牢屋を素通りし、月明かりが差し込む私の独房の前に立った。「……な、なに?」彼は私を見下ろすと、言葉を発することもなく、恭しく冷たい石の床に跪く。


「あのう……な……んでしょうか?」


 私の声は緊張で掠れ、上擦っていた。衛兵は顔を上げると、黒い鎧の奥の瞳を揺らす。


「オランジェット様、今しばらくこちらでご辛抱下さい」


 それは昼間、独房に引き摺られて来た時に聞いた声だった。この様子からして衛兵はオランジェット・ドナー伯爵令嬢に近しい存在、味方なのだろう。私は石のようなパンを投げ捨て、鉄柵を力一杯に掴んだ。鉄柵の禿げた感触がこれは現実なのだと思い知らされる。ドブネズミは我先にとパンに齧り付く。鉄柵の音が、空虚な地下牢に虚しく響いた。彼は唇の前に人差し指を立て、「お静かに……!」と目配せをする。


「私、なにをしたの!?本当におう……おう……?」


 聞き慣れない言葉に私は戸惑った。


「王太子様です」

「そう!王太子さんを殺しちゃったの!?」


 私の声は静寂を切り刻み、彼の鋼の腕にしがみついた。鋭い鎧の音が響きわたる。


「いえ、王太子様はご無事です」

「良かった……!」

「ご安心ください」


 私は、顔も見たこともない王太子とやらの無事に、安堵の息が漏らした。独房に天井から滴る水音が侘しく響く。この名もない衛兵は落ち着いた低い声で「リバーとお呼びください」そう言って頭を下げた。そして無情にも、明日の朝、私が断頭台に登る時刻を告げる。明けの刻……それは日本でいうところの月が沈み、太陽が昇る頃だと思われた。


「それって……午前5時?6時頃……?」


 普段なら、ベッドでぬくぬくと毛布を被り涎を垂らしている頃だ。絶望と焦燥が渦を巻いて押し寄せる。私はプラチナブロンドの髪をクシャクシャと掻き、足は激しく地団駄を踏んだ。もう、理解の範疇を超えている!


「もう!何でこうなっちゃったのぉぉぉ!」

「オランジェット様……お静かに……」


 私はまた叱られてしまった。


「……ごめんなさい」


 それにしてもこの遣り取り……リバーの冷静で知的な身のこなし、包み込むような言葉遣いはどこかで、既視感という……あれ? どこかで会った?いや、そんな筈はない。こんな厳つい鎧を着た知人友人なんて一人もいない。


「それでは明日、階段を登ったオリーブの茂みでお助けします」

「ありがとう!リバー!」

「オランジェット様……お静かに」


 私はまた叱られてしまった。それにしてもこの声、この仕草……既視感というより、まるで会ったことがあるような?黒い鎧の奥の瞳は優しく、私とリバーの間に緩やかで温かな時間が流れた。


温かい!?いや、全然、寒いし!


 鉄格子から夜の湿り気を帯びた風が滑り込み、独房を足元から冷やしてゆく。這い上がる冷たさに震えていると、リバーは肩ではためいていた深紅のマントを脱ぎ、そっと手渡してくれた。触れた鋼の指先は雪のように冷たかったけれど、不安な私の心を解きほぐすには十分だった。


「……っ」


 私は目を瞬いて堪えたが、頬を一筋の涙が伝う。この獅子頭橙子が人前で泣くなんて有り得ない。けれど私の涙はポロポロと溢れ、その姿にリバーは戸惑っているようだった。


「ごめん……気にしないで」

「……はい」


 そこで重厚な鋼の足音が遠くから響いてきた。リバーは私の手を優しく解き、また恭しく頭を下げた。鎧の音が耳に冷たい。孤独と不安に押しつぶされそうになる。


「オランジェット様、それでは……おやすみなさいませ」

「……うん」


 衛兵の交代の時間が来たのだろう、石畳の通路の奥にランタンの明かりがゆらゆらと揺らめいている。リバーは踵を返すと鎧の音と共に、長い影を残して姿を消した。私は涙を手で拭い、彼が貸してくれたマントを羽織って独房の隅に蹲った。気味の悪い動物の鳴き声が孤独な房に反響する。明日の朝には冤罪で断頭台の階段を登る。リバーは助けてくれると力強く頷いたが、彼一人でどうするというのだろう……そこで私はあることに気づいた。


「……この匂い」


 リバーの深紅のマントからは、森の奥深くで深呼吸をしたようなウッディな香りが漂ってきた。それは今、獅子頭組でトレンド第一位のオードパルファムの香りと全く同じだった。そこで私は「え、そんな単純な……」という答えに辿り着く。


「でも……」


 誰が決めたか、私の名前は橙子。橙子とは、橙色の橙……オレンジ、そしてオランジェットという実に単純明快なネーミングセンス。私は胡座をかいて腕組みをした。


「その流れでいくと……そうなるよねぇ、うん」


 オランジェットを「様」と呼ぶリバーは彼女の家臣なのだろう。そうなると……。日本での私の側近はただ一人。


「……川上よね、リバーだし」


 冷徹で残忍、狂犬と恐れられる獅子頭組の若頭。その名は、川上。細長いサングラスを外せば切り裂くような鋭い眼光で誰もが道を譲った。(ただし……女子供には優しく、ご高齢の方には手を貸す優しい面も持ち合わせている)その川上は私のお目付け役で、どこに行くにも一緒だった。


「……だから、彼氏なんて夢のまた夢!」


 下駄箱に入っていたラブレターは蒸したタバコで業火の如く焼き捨てられ、校門で待ち合わせたクラスメイト(男子)は迎えのBMWに引き摺り込まれ詰問された。私の甘酸っぱい初恋は、蕾のまま花開くことはなかった。


「川上か……そりゃ……助けてくれるよね」


 きっと彼は、明日の朝、その身を挺しても私を守ってくれるだろう。けれど問題は、リバーにその記憶があるかどうかだ。あの事故の瞬間に、私がオランジェットになったように、川上もリバーになったのかもしれない。荒唐無稽だがそう考えると納得がいく。


「そうなると……若い衆のみんなも……この国のどこかに?」


 私は鉄格子の向こうに顔を覗かせる丸い月を見上げた。その月は涙が溢れるほどに綺麗な月。リバーのマントに頬擦りをしながら、私は浅い眠りについた。

 朝霧が独房の中に立ち込める。私はこれから断頭台へと向かう。リバーは助けてくれると言ったがどうやって衛兵の槍から守ってくれるのか。私は自分の体を強く抱きしめ、身慄いした。外に繋がる小さな鉄格子の窓は薄っすらと明るく、馬のいななきと人のざわめきが恐怖心を煽る。もうすぐ明けの刻だ。


「川上……頼んだわよ!」


 私は両足で石の床を踏みつけ立ち上がった。するとその時、複数の鋼の鎧と、鋭い剣の音が近づいて来た。その音は一糸乱れぬ速さでゆっくりと私を断頭台へと導く。覚悟を決め、拳を握り仁王立ちで衛兵たちを睨みつける。獅子頭橙子はいつ、どんな時も取り乱さない。それでも衛兵たちは鎧の奥から鋭い視線で睨みつけた。


「おはよう、って感じじゃないわね」


 一人の衛兵が腰から鍵束を取り出し、独房の鍵穴に差し込んだ。鈍い音が響き、鍵が軋む音で開く。私は隙をついて飛び出そうとしたが、もう一人の衛兵に呆気なく腕を締め上げられた。


「い、痛いじゃない!離してよ!」


 私の悲痛な声が緊迫した空間を切り裂いたが、それは虚しく、魔法陣が描かれた石壁に吸い込まれた。衛兵は槍で私の首を締め上げ、「歩け、何をしても無駄だ」と絶望へと突き落とす。カビ臭い通路を、ハイヒールの鋭い音が響き、重々しい鎧の足音がそれに続いた。


「自分で歩けるわよ」


 衛兵は一瞥しただけで何も答えず、私の首には槍が交差したままだ。息苦しさと緊張で、鼓動が早くなる。長い石畳の廊下を歩くと急に視界が開け、その眩しさに思わず目を閉じる。そこにはリバーが言っていた階段が続いていた。石壁に灯る蝋燭、私と衛兵の影が長く伸びる。心臓が今にも破裂しそうだ。その先には鉄の門が佇み、目を細めるとその向こうに青々としたオリーブの枝が風に揺れていた。


「ここね……」


 私が階段を登り切ったと同時に、オリーブの樹が激しく揺れ、青い実が土の上に落ちる。


 茂みの中から黒い影が剣を振り翳して飛び出してきた。その男性は鎧を脱ぎ、見窄らしいシャツと擦り切れたパンツを履いていた。臙脂色のブーツが石壁を蹴り上げ、宙に高く舞い上がる。乱れる黒髪に厳しく鋭い目、それは確かに川上を思い起こさせた。リバーは鈍く光る剣を振り回し、叫び声を上げ衛兵を切り付ける。剣と鋼の鎧が激しくぶつかり合い、鋭い音を立てた。


「オランジェット様!お逃げください!」


 そこまでは良い。確かに格好いい。けれど私の手首と腰は毛羽だった荒縄で、キツく結ばれている。逃げようにも身動きが取れないのだ。


「えーっと……この縄を切ってくれないかなぁ」


 私は衛兵と剣を交えるリバーの後ろ姿に呟いた。手首に巻かれた荒縄は、逃げようと足を踏み出そうとするごとに手首に食い込み激しく痛んだ。荒縄を握った衛兵は、意味深に口元を歪ませ、私を引き摺るようにして人垣が出来た広場に連れ出した。


「……忘れていた」


 そうなのだ、日本でも川上は役に立たなかった。抗争で敵対する事務所に押し入っても、寸でのところで相手の組長を打ち損じてしまう残念な若頭なのだ。


「忘れていたわ……川上って……ここでも使えないってことか」


 衛兵と剣を交えるリバーを尻目に、私は断頭台の前に立たされた。砂埃の舞う広場には、これから始まる残虐なショーを一目見ようと、豪華な衣装を身に纏った貴族や、粗末な身なりの国民が集まっている。その一段上には豪奢な椅子に深々と腰掛けたオルファ侯爵と、扇子で口元を隠すミーア男爵令嬢の姿があった。皆、人ごとだと思い、何やらにやけた顔でヒソヒソと話している。


「マジかよ……」


 振り向くとリバーは数人の衛兵に囚われ、槍で動きを封じられていた。その顔は口の端から血を流し、沈んだ暗い目は「無念……!」と項垂れていた。いや、残念無念なのはリバー、お前だよ……と私は脳内でツッコミを入れた。


 私は夜明けの空に聳え立つ断頭台を見上げた。木製の階段を踏みしめれば、そこには鋭い刃が血を求めて鈍く輝いている。私の喉はカラカラに渇き、こめかみが押し付けられたように痛んだ。それでも私の目は、厳しくオルファ侯爵を捉える。睨みつけられた彼は気圧されたが、無情にも椅子から立ち上がった。


「これより!ダントン・アンガス王太子、殺害の罪にてオランジェット・ドナーを極刑に処す!」


 オルファ侯爵の声を合図に、鼓笛隊が前に進み出た。小刻みに叩くドラムロールがその場を盛り上げ、広場は異様な熱気に包まれる。周囲を見渡すと、誰も彼もが目の色を変えてその時を待っているようだった。背筋を冷たいものが流れた。そこで私は、力の限り叫んだ。


「オルファ!王太子は死んでいないんだよな!?」


 彼の白い眉がピクリと動いた。私はその一瞬を見逃さなかった。オルファ侯爵は何かを知っている。いや、彼こそがこの茶番劇の主人公なのだ。私はその罪を被り踊らされているだけの哀れな人形……けれどそんなことは、この獅子頭橙子が許す筈はなかった。


「何を言っているのだ、オランジェット!観念してその階段を登れ!」

「私は嘘をつく奴が大嫌いなんだよ!」


 私は、荒縄を握っている衛兵の股間を思い切り足で蹴りあげた。彼は呻き声と共にその場に崩れた。そして私は、わずかな自由を手に入れた。両手の荒縄は今も動きを封じていたが、足は思い通りに動かすことが出来た。私はハイヒールを脱ぎ散らかし、オルファ侯爵に向かって一目散に走った。


「うおぉぉぉ!」


 私は地を切り裂くような雄叫びを上げ、足裏は力強く大地を蹴った。砂埃が舞い上がり、風下の見物人たちは咳き込んだ。ドラムロールの音が止む。何人かの衛兵が槍を持って行先を遮ったが、私は容赦無く体当たりをした。鋼の鎧は硬く腕と肩が痛んだが、そんなことに構っている暇はなかった。相手が伯爵令嬢ということもあり、油断していた衛兵たちはドミノのように次々と倒れていった。


「オルファ……お前だけはゆるさねぇ」


 私は髪を振り乱し、肩で息をするとオルファ侯爵の前で仁王立ちした。彼は、また頬を殴られるのではないかと慌てて腕で顔を隠す。ミーア男爵令嬢はその滑稽な姿をほくそ笑んで見下ろした。私は彼女を凝視すると、そのドレスを踏みつけにじり寄る。真っ白なドレスを着ていたミーア男爵令嬢は、私がつけた泥の足跡を見て眉間にシワを寄せ、扇子を勢いよく閉じた。


「ミーア、お前も何か知っているな?」

「あら?何のことかしら……私、何のことか分からなくってよ?」

「てめぇ……!」


 荒縄で縛られた拳を振りかぶり、オルファ侯爵目掛け振り下ろそうとした瞬間、私の腕は屈強な衛兵に捻り上げられていた。


「痛っ!離せよ!」


 無駄な足掻きと知りながら暴れてみたが、黒い鎧の奥は鋭く厳しい眼差しで、もがいてもそれは意味を為さなかった。それどころか、肉食獣が獲物を仕留めたように舌舐めずりをしている。背筋に怖気が走った。気を取り直したオルファ侯爵が、わざとらしく咳払いをし片手を挙げると、その合図でふたたびドラムロールが鳴り響き、広場に高揚感と悲壮感が入り混じる。


「リ、リバーは!?」


 オリーブの樹を見遣ると、リバーは衛兵の槍で拘束され身動きが取れない。やはりリバーは川上で間違いない……。私は体をばたつかせながら「冤罪だ!私は何もしていない!」と声を大にしたが、その声も虚しく広場の中央に放り出された。「オランジェ様!オランジェ様!」リバーは何度も私の名前を叫んだが……もう遅い。目の前には断頭台の階段が、私が登るのを待っている。


「マジかよ……」


 私は衛兵の槍で背中を突かれ断頭台へと向かった。震える足を踏み出すごとに、古びた木製の階段が軋んだ。足裏に、ささくれが当たり痛む。遂に最後の段に足を掛け、広場を見渡す台の上に登った。誰も彼もが好奇の眼差しで私の見窄らしい姿を見上げている。オルファ侯爵は実に満足そうに、椅子の肘掛けに体を預けていた。オランジェット・ドナーは一体何を見てしまったのか……私は益々、興味が湧いた。こうなれば意地でもこの窮地から逃れなければならない。だが、今、私は木製の床に座らされ、処刑人に首を掴まれている。呼吸が浅くなる、握った手のひらが汗でじっとりと濡れた。万事休す。


「オランジェ!」


 その時、私の頭上を荒縄が掠め、陰鬱とした空間を切り裂いた。太く頑丈そうな荒縄は、広場の中央に聳え立つ銅のポールに音を立て、大蛇のように絡みついた。


「……え、なに!?」


 私は処刑人の脚を蹴り上げ、声のする方へと振り向いた。荒縄の行方を目で辿ると、二階建ての屋敷のバルコニーに、一人の青年が含み笑いでその端を力強く握っていた。青年はリバーと同じく見窄らしい格好をしていたが、どこか気品が漂っていた。ブロンドの髪、金色の瞳。それは牢獄で、隣の独房にいたレオンだった。

 レオンは荒縄を素早い動きで手に巻き付け、ざらつく繊維が掌に食い込む感触を確かめながら、バルコニーへと脚をかけた。その姿は、まるで獲物を仕留める前の獣のようだ。オルファ侯爵は彼の姿を目にすると、信じられないといった表情で身を乗り出し、思わず椅子から立ち上がった。そして叫ぶ。


「やつを逃すな!捕らえよ!」


 その形相は必死で、眉間にシワを寄せ口元はワナワナと震えていた。衛兵たちは一斉に槍を持つと玄関のドアに体当たりし、中へと押し入る。勇ましく弓矢を構えた衛兵の姿に驚いた人々は、我先にと物陰に隠れ、鼓笛隊は楽器を放り出して逃げた。シンバルの音が砂埃の舞う広場に虚しく響く。


 私の髪を掴んでいた処刑人たちは、思いもよらぬ出来事に慌てふためいた。頭上を飛び交う矢尻、それは飛び魚のように宙を切り裂いた。


「何をしているのだ!早く処刑してしまえ!」


 オルファ侯爵の声は上擦っていた。


「処刑!?こんな所で死ぬ、獅子頭橙子じゃねぇ!」


 いや。正確には事故で一度死んでいるよな……うん。けれどそう易々と、この首を切り落とされちゃ困るってもんよ。オランジェットの体に憑依した獅子頭橙子がどこに行ってしまったのか……謎のまま死ぬなんて、真っ平ごめんだ。


「うおりゃっ!」


 私は最後の力を振り絞り、処刑人たちに体当たりをした。恰幅の良い一人はその場で尻餅をつき、もう一人は小さな叫び声をあげて処刑台から転げ落ちた。私の手首は荒縄で拘束されたまま。それでも、砂に塗れた処刑台に膝をついて起き上がり、ただ一点を睨みつけた。鈍く光る刃の向こうには、怒りで顔を赤くしたオルファ侯爵と冷めた表情のミーア男爵令嬢がいる。奴らは王太子殺害の罪をオランジェット・ドナーに擦りつけ処刑しようとした。


「許せねぇ……」


 握り拳に力を込めたその瞬間、私の体は眩しい朝日が降り注ぐ空へと、ふっと羽ばたいた。羽ばたいたような気がした。ギシギシと鋼のポールが軋む甲高い音が耳をつんざき、冷たい風が頬を鋭く掠めてゆく。けれど、すぐに湿り気を帯びた温かな手が私の脇腹を強く抱きしめた。レオンの体温がじんわりと染み込み、ブランコのように大きく揺らされながら、向かいの教会の尖塔の屋根へと飛び移る。着地の衝撃が膝を震わせる中、見上げると、逆光に浮かぶレオンのブロンドの髪が金色に透け、朝の光を浴びてあまりにも眩しかった。


「本当に助けに来てくれたんだ……」


 朝を告げる青銅の鐘がけたたましく鳴り響く中、二人の足音が屋根の上で軋んだ。


「君は……なかなか勇ましいね」


 レオンは目を細め、肩をすくませて小さく笑った。私もつられて笑ったけれど、教会の屋根の上はゾッとするほど高く、広場で指差す人々が蟻の行列みたいに小さく見えて、今度は膝がガクガク震え出した。彼は私の腕をそっと掴み、脇差の短剣を滑らせるように抜くと、手際よく手首の荒縄を切り裂いた。縄が落ちる音が風に紛れ、解放された手首には青紫色の痛々しい痕が浮き彫りになっていた。レオンは眉を寄せ、「大丈夫かい?」と少し掠れた声で囁きながら、私の顔を真正面から覗き込む。


「あー、大丈夫だよ」


 揺れる深い金色の瞳が私を捉えて離さなかった。


「痛そうだ……、後で薬草を塗ろう」

「ありがとう」


 レオンは、美しく繊細なまつ毛が私の頬にそっと触れるほどの至近距離で、不安そうに眉を寄せた。パーソナルスペースが異常に狭いのか、目が悪いのか……とにかく息がかかるほど近い。その吐息が温かく甘くて、私の胸は一気にときめき、鼓動が馬鹿みたいに乱れ跳ね回った。頬が熱い。自分でも赤くなっているのが分かる。ついさっきまで断頭台の上で膝をつき、死の恐怖に震えていたのに……今はもう、天にも昇る気分だ。


 甘酸っぱい、恋。恋ってこれか! 

とうとう私にも来た! 


 恋、恋……?と思った瞬間、ドーベルマンのように鋭い目をした川上の顔が脳裏に浮かんで、我に帰った。


「はっ!リバーは!?」


 教会の尖塔の十字架にしがみつきながら、冷たい石の感触を胸に感じて広場を見下ろすと、人相の悪い数人の男たちがリバーを引きずるようにして走り去っていく姿が目に入った。その慌てふためく後ろ姿は、まるであの時、組同士の抗争で若い衆が川上を庇いながら血まみれで逃げてゆく姿と重なった。


「やっぱり……みんなこの国に来ているんだ」


 掠れた声で独り言が漏れる。風に吹き飛ばされそうなほど小さな呟きだったのに、レオンは鋭く耳を澄ませたのか、不思議そうに、どこか訝しげに首を傾げてきた。


「……誰の話?この国って?オランジェはこの国の人間じゃないのか?」


 私は焦った。心臓が喉まで跳ね上がる。ここで正直に言えばすべて終わりだ。自分がどこの国にいるのか、そもそも自分の家がどこにあるのかも分からない。ここは、とにかく分からないフリをしてその場を凌ぐしかない。


「……私、オルファ侯爵に婚約破棄を言い渡されて……その……そのショックで、自分が誰だか分からないの」


 声が震えた。緊張で喉がからからに乾いて、掠れて心許ない。


「名前は分かるのに?」


 レオンの声は優しいままなのに、その奥に好奇心と、ほんのわずかな疑念が混じっていた。風が頬を打つ。ごまかせなかったかもしれない……。


「えーと……」


 レオンは優しく微笑むと、静かに右手を差し出した。握って、という無言の誘いだ。私は怯えながらも震える指先をそっと彼の掌に乗せた。次の瞬間、温かく大きな手が優しく包み込み、ぐいっと引き寄せられる。胸と胸が触れ合い、熱が伝わる。鼓動が重なり、どちらのものか分からなくなるほど近かった。


「このままここにいても仕方ない。僕たちの隠れ家にご招待するよ」


 掠れた声が耳をくすぐる。言葉が終わるより早く、レオンは私の体を軽々と抱き上げた。そして教会の屋根から、まるで猫か野獣のように、隣の屋根へと音もなく飛び移る。一歩ごとに風が髪を逆撫でし、広場から放たれた衛兵の矢が空しく空を裂いて落ちていく。私は確かに、自由を手に入れた。


 レオンの胸の鼓動が、まるで鼓笛隊の太鼓みたいに私の体に響いてくる。厚くて熱い胸板にぎゅっと身を預けてしまえば、もう完全に恋する乙女だった。こんな胸キュンは生まれて初めて……。学校の男子なんて、足元にも及ばない。私はここぞとばかりに、彼の首に回した腕にぎゅうっと力を込めた。レオンは少し驚いたように瞬きをして、ブロンドの髪の隙間から金色の瞳を覗かせ、小さく笑った。


「なに? 怖い?」


 その声は低くて甘くて、耳の奥で溶けそうだった。咄嗟に私はそっぽを向き、「怖くなんかない!」と突っぱねた。レオンは真っ赤に染まった私の顔を覗き込み、「やっぱり君は面白いな」と目を細める。幾つの屋根を駆け抜けただろう……彼は背後を振り返り、足を止めた。


「もう、いいかな……オランジェ、自分で歩けるかい?」

「……え、うん」


 追っ手の衛兵の鎧がガチャガチャ鳴る音は、もう遠くに消えていた。レオンが急に指先に力を込めた。「オランジェ! しっかり掴まって!」低い声が耳元で響くのと同時に、彼の腕が私の体をさらに強く抱きしめる。次の瞬間、まるで猫が舞うように、屋根の端から音もなく飛び降りた。風が一気に頬を打つ。視界がゆっくりと傾き、朝の光が金色に滲んで、まるでスローモーションの夢の中みたいだった。地面が近づいてくる。でも怖くない。レオンの腕の中だけが確かな重さと熱さで、私を包んでいた。砂煙がふわりと舞い上がり、静かに地上に降り立つ。衝撃なんてほとんど感じない。ただ、レオンの胸が大きく波打つだけだった。


「ここまで来れば大丈夫だろう」

「う……うん!」


 レオンはブロンドの髪を掻き上げ、肩で息をしながら左手を差し出した。額にはうっすらと汗が滲んでいる。「やっぱり……重かった?」彼は私の手を握りながら「ちょっとね!」と戯けて笑った。冗談だと分かっていても胸がチクリとした。「ごめん」ダイエットをしておけばよかった……でも待って、この体はオランジェット・ドナーのもので、私じゃない……いや、私でもあるのよね!?どっちが私なの!?思考がぐるぐるして、もうこの状況についていけない。レオンの手は温かくて、でも私は頭の中が大混乱だった。


「さぁ行くよ!」

「……えっ!」


 レオンは手をしっかりと握り、石畳の道を真っ直ぐ走った。それは吹き抜ける風のように速かったが、私が転ばないか、何度も笑顔で振り返った。「転ばない?」「大丈夫?」なので私は邪魔なドレスの裾をたくし上げ、その逞しい背中を追いかける。レンガ作りの街並みが流れては消える。こんなに走ったのはいつだったか、中学校のマラソン以来かもしれない。息が上がり呼吸が短くなる、汗が滲む……けれどレオンの手は羽根が生えたように私を違う景色へと連れて行ってくれる。


 どれくらい走っただろう、教会の尖塔が遥か彼方に見える。彼は噴水のある広場で急に立ち止まった。私は思わずつんのめり、レオンの背中にぶつかってしまった。


「……なに?どうしたの?」

「……しっ!」


 レオンは急に人差し指を私の唇に当て、言葉を封じた。次の瞬間、私の手を強く引いて、細く暗い路地へと滑り込む。陽の光が届かない石畳はびっしょりと濡れ、緑黒い苔が這っている。鼻を突くカビと腐った水の臭い。牢獄の奥を思い出させる、湿った重い空気だった。

足元をドブネズミがチョロチョロと横切り、思わず「ひっ」と声が漏れそうになる。でもここで叫んだら終わりだ。ぎゅっと握り拳を作り、歯を食いしばって堪えた。ポタ、ポタ……どこからか水が滴る音だけが響く。背筋に冷たいものが這い上がる。さっきまで朝日の中で煌めいていた時間が、急に色褪せて見えた。こんな場所に連れ込まれて……これからどうなるのだろうか?


レオンの手はまだ熱いのに、私の心は凍りつきそうだった。


「……あ」


 路地の奥、腐った木の匂いが漂う先に、ほのかな灯りが漏れていた。苔むした壁にへばりつくように、一軒の朽ち果てた小屋が佇んでいる。静寂なのに、どこか大勢の息遣いがざわめくような気配がした。レオンが振り返り、金色の瞳を細めて小さく笑う。


「ようこそ。僕らの秘密の要塞へ」

「よ……要塞?」


 こんなボロ小屋が?私が目を白黒させていると、彼は地面から小石を二つ拾い上げ、二階の板戸に向かって軽く投げた。コツン、コツン。乾いた音が路地に響き、石はすぐに落ちる。するとすぐに、ガチャリと重い鉄のかんぬきが外れる音。続いて、錆びた蝶番が軋むような音を立てて、玄関の扉がゆっくりと開いた。奥から、暖かな灯りと、誰かのざわめきが漏れてきた。


「おう!レオン、お姫様はどこだい?」


 扉から顔を出したのは、頭に角付きの毛皮帽子を被った、まるで熊みたいな大男だった。肩幅が扉いっぱいに広がって、腰を屈めても頭が枠にぶつかりそう。


……あれ、この帽子、どこかで見た。バイキング? 魔法世界って本当に何でもアリなんだ……。呆然と立ち尽くしている私の姿を見て、大男は目を丸くして、ぽっかりと口を開けた。


「こりゃあ、大したお姫様じゃねえか」


 そりゃそうなる。ドレスの裾は自分で大胆に引き裂いたせいでボロボロだし、プラチナブロンドの髪はリボンで無理やり束ねただけで乱れ放題。顔も手足も泥と埃。さっきまで断頭台に立ってた女が、急にこんなボロ屋敷に現れたんだから、驚くのも無理はない。


「こん……こんにちは」

「おう、まぁそんな堅っ苦しいことは無しだ、さぁ入った。入った」

「お邪魔します」


 レオンが優しく「大丈夫だよ」と目を細めて微笑み、ゆっくり頷く。私はその笑顔に背中を押されて、恐る恐る扉をくぐった。中は意外に暖かかった。ランタンの柔らかな灯りが揺れ、木の丸テーブルを囲んで男たちがカードに興じている。暖炉の前ではエプロンの女性が大きな鉄鍋をヘラでかき回していて、野菜とハーブの甘い匂いが部屋中に満ちていた。


 昨日から何も口にしていない胃袋が、グゥゥゥッと盛大に鳴った。恥ずかしい……。


「さぁさぁ、お客人がお食事だ。どいたどいた!」


 バイキングが豪快にテーブルを叩くと、カードがバサバサと飛び、男たちはぶつぶつ言いながら床に散らばった札を拾い、席を空けてくれた。エプロンの女性が笑顔で木のトレーに、湯気の立つ野菜スープと焼きたてのパンを載せて運んでくる。


「どうぞ、ゆっくり召し上がれ」

「いただきます!」


 待っていられなかった。もう両手でパンを掴んでガブリ。その豪快な食べっぷりに、男たちは腹を抱えて笑った。


「こりゃとんでもねぇ、伯爵令嬢様だ」

「……う、美味しい」


 牢獄で出された石みたいなライ麦パンとは全然違う。ふかふかで、バターとミルクの香りが口いっぱいに広がって、涙が出そうになった。

 私が二個目のパンに食らいつき、空になったスープ皿を「おかわり!」と女性に手渡したその瞬間、木戸にコツンコツンと小石が当たる音がした。この要塞の仲間が帰って来たのだ。ポーカーカードを手にした一人の男が素早く立ち上がり、扉の隙間から外の様子を窺い確認する。頷くと、慎重な手つきで鉄製のかんぬきを抜いた。蝶番が軋んだ音を立て、木の扉がゆっくりと開く。


 朝の逆光が一筋、埃の舞う室内を切り裂いた。その光の中に、血まみれの男を肩に担いだ数人の影が、よろめきながら浮かび上がった。担がれている男の腕はだらりと垂れ、服は裂けて赤黒く染まっている。部屋中の空気が、一瞬で凍りつく。


「……!」


 私は小さく悲鳴をあげ、手にしていた皿を床に落とした。皿が割れ、それは驚きの声と共に粉々に砕ける。「ごめんなさい!」咄嗟にしゃがんで破片を拾おうとしたが、女性が箒を取り出し「大丈夫ですよ」と首を傾げ微笑んだ。


「……リ、リバー!」


 血まみれで担ぎ込まれた背の高い男は、間違いなくリバーだった。男たちの肩にぐったりと預けられたリバーは、奥の小さな部屋へ運ばれ、藁の敷かれた簡素なベッドにそっと降ろされる。痛みに顔を歪めながらも、追っ手を振り切れた安堵で、深く長いため息を吐いた。あの鋭い目が、今は虚ろに天井を見つめている。胸のあたりがどす黒く染まり、息も荒い。私は震える足で立ち上がり、思わずそのベッドへ駆け寄ろうとした。


「オランジェ……待って」

「……え!?」


 レオンが私の手首を握った。その力は思いの外強く、荒縄で締め付けられていた青紫の跡が熱を持ち、ピリピリと傷んだ。リバーは私を監獄から逃すために衛兵と剣を交えて負傷した。その胸に縋りつきたい、手を握りたい、せめて声をかけてやりたい。なのに、レオンの指は私の手首を離さない。彼の横顔は、いつもの優しい微笑みを消して、硬く引き締まっていた。何を考えているのか、まるで分からない。金色の瞳が、静かに、でも鋭く、私を見据えているだけだった。


「レオン?」


 すると、仄暗い廊下の奥から、杖をつく重い音が近づいてきた。軋む床板が微かに震え、天井の梁までその響きが伝わるような、静かで深い威厳があった。天窓から差す一筋の陽光が埃を金色に染め、キラキラと舞う中を、深緑のフードを目深に被った背の低い老人がゆっくりと現れた。腰が曲がり、黒いローブの裾が床を擦る。右手に握られた古びた杖の先端には、大きなエメラルドが鈍く光っていた。まるで、深い森の奥から抜け出してきた賢者そのものだった。部屋の空気が一瞬で張り詰め、誰もが息を呑む。老人がフードの下から顔を上げたとき、皺の奥に宿る瞳だけが、鋭く、まるで全てを見透かすように輝いていた。


「その者か?」


 声は嗄れていたが、穏やかだった。


「……はい」


 リバーを担いできた男が小さく頷くと、老人は杖を握りしめたまま、ゆっくりとベッドに近づいた。深緑のフードをわずかにずらし、皺だらけの顔を覗かせる。枯れた唇が動き、誰にも聞き取れぬ古い言葉が低くこぼれ始めた。


「……何これ、本当に魔法の世界じゃん」


 私は思わず呟いた。エメラルドの先端が仄かに緑の光を灯し、リバーの胸の裂けた服の上にかざされる。血の臭いが立ち込める中で、宝石は次第に深い色を帯び、まるで生き物のように脈打った。


 老人の声が一段と低く、部屋の空気を震わせる。「アウルの森の精霊の、御心のままに」その瞬間、緑の光が傷口に流れ込み、血の流れがぴたりと止まった。肉が上下し、裂けた皮膚がゆっくりと塞がっていく。リバーの苦悶の表情が、ほんの少しだけ和らいだ。


「すごい……爺ちゃん、すごい!」


 思わず声が飛び出した瞬間、バイキングの巨大な手が私の口を慌てて塞いだ。老人はフードを深く被り直し、杖に皺だらけの顎を乗せて、ニヤリと笑った。歯の欠けた口元が不気味に歪む。


「爺ちゃんじゃねぇ。ロバ宰相様って呼べ」

「ロバ……」


 頭に浮かんだのは草原で草をムシャムシャ食べているロバだった。でも、このロバ宰相は明らかに只者じゃない。リバー、いや、川上の命を救った人だ。


「ロバさん……ありがとうございます。この恩義、絶対に忘れません」


 深く頭を下げると、ロバ宰相はゆっくりと杖を掲げた。先端のエメラルドが、ぴたりと私の額の前に止まる。冷たい緑の光が瞳に映る。老人は私の目をじっと覗き込み、にやりと笑った。


「お主……なぜ器の中に、二人おるんじゃ?」

「……は、はい!?」


 一瞬、空気が凍った。


(やっぱり……! オランジェット・ドナーの体の中に、私と彼女が……二人いるってこと……!?)


 私は両手で自分の頬をパチン!と叩いて、目を思いっきり見開いた。


「え……ええええっ!?」


 ロバ宰相は「ふっふっふ……これは愉快じゃ、愉快じゃ」と低く喉を鳴らし、ローブの裾を床に引きずりながら、エメラルドの光と共に仄暗い廊下の奥へと消えていった。杖の音がトク、トク、トク……と遠ざかり、最後にぴたりと止む。ギィ バタン 扉の音が閉まる音が響いた。


 残された私は、頭を抱えてその場にしゃがみ込みそうになった。


(やっぱり……この体、本当に「二人」いるってバレちゃった……!?)


 息を呑み、恐る恐る周囲を見渡した。けれどみんな興奮と安堵でざわついている。バイキングが「すげえや、ロバ宰相様の力に勝てるやつはいねぇな!」と大声で笑い、女性が涙ぐみながらリバーの額に手を当て、男たちが肩を叩き合って喜びを分かち合っている。誰も、私の方を見ていない。


 ただ一人、レオンだけが、静かに、こっちを見ていた。腕を組んで壁にもたれ、金色の瞳を細めて、じっと見ていた。その視線が、まるで私の奥底まで覗き込むみたいに、まっすぐ突き刺さっていた。

 ロバ宰相は、この体の中に、獅子頭橙子とオランジェット・ドナーが封印されていることを見抜いた。周りの仲間たちは、リバーの傷が癒えてゆく奇跡に夢中になり、その風のような呟きを、誰も耳にしていない。けれどレオンは違った。壁にもたれ、ブロンドの髪から覗く金色の鋭い目は、私の青ざめた瞬間も、唇が震えた瞬間も見逃さなかった。


「オランジェット……ちょっといいかな?」


 レオンは私に手招きをした。その指が触れるたび、それは命令のように感じた。彼は木の手すりに掴まると、力強い一歩を踏み出す。ギシギシと軋む木の階段を登る彼の背中を私は追いかけた。窓から降り注ぐ陽光に埃がキラキラと舞い、彼のブロンドの髪は光に透け、神々しいほどに美しい。けれどそこにいつもの柔らかな微笑みはなかった。


「座って」

「……うん」


 蝶番が軋むドアを開け、案内された部屋の天井には蜘蛛が巣を張り、埃を被ったクローゼットや等身大のひび割れた鏡が佇んでいた。ここは女性たちが使っているのだろう、数着の質素なワンピースが壁に掛かっていた。彼はゆっくりと木の椅子を引き、私に座るようにと促した。その目は鋭く私を射抜いた。階下からは朝食の笑い声と食器の音が賑やかに響いてくるのに、ここだけがまるで別の世界。静けさが耳鳴りのように重い。レオンはドアに背を預け、腕を組んだまま、静かに口を開いた。「……さあ、話してくれないか。君は一体、どっちなんだ?」


 私はゆっくりと立ち上がり、ひび割れた鏡の前に歩み寄った。埃と蜘蛛の巣の隙間から、歪んだ自分が覗いている。プラチナブロンドの長い髪。透き通るような青い瞳。白い肌に、まだ消えきらない縄の痕。私は震える指を伸ばし、鏡の中の彼女の頬に触れた。冷たいガラスに触れたはずなのに、なぜか温かい感触が伝わってくる。


 彼女も同じように頬に手を当て、そっと微笑んだ。……これが、オランジェット・ドナー伯爵令嬢。でも、同時に、私の指先の震えも、彼女の指先の震えも、まったく同じだった。私は鏡に向かって、小さく呟いた。「……ねえ、私……どっちが本当の私なの?」


 私はひび割れた鏡に映るオランジェット・ドナーの青い瞳を、まっすぐに見つめたまま、そっと息を吸った。すると、まるで水面に落ちた石の波紋のように、頭の奥で何かが揺れた。……白いドレスを着せられた幼い自分が、大きな鏡の前で立っている。


 母の冷たい指が肩に置かれ、「微笑みなさい、オランジェット。貴女はドナー家の顔よ」と囁かれる。


 次に浮かんだのは、十五歳の誕生日。オルファ侯爵が庭園で跪き、婚約を申し込んだ日。

薔薇の花束を抱えた彼の瞳は優しかった。けれど、私の返事は決まっていた。


「はい、喜んで」


 まるで人形みたいに微笑みながら、心の中では、誰かの声が小さく叫んでいた。


(嫌だ、嫌だ、こんなおじさんと結婚したくない!)


 そして、最後に鮮明に蘇ったのは。王太子暗殺未遂の罪を着せられた法廷の日。貴族たちの嘲笑。オルファ侯爵の、失望と軽蔑が入り混じった視線。私は壇上で膝をつきながら、初めて本当の感情を口にした。


「私は……悪くない」


 その瞬間、胸の奥に別の声が重なった。


(当たり前だろ。私は獅子頭橙子だ。極道の娘が、こんなところで土下座なんかするわけねえだろ!)


 ……ああ、そうか。オランジェット・ドナーは、ずっと泣いていたんだ。本当の自分を押し殺して、完璧な伯爵令嬢を演じ続けて、泣いていた。でも、もう泣かない。私は鏡の中の彼女、いや、私自身に小さく呟いた。


「大丈夫。もう、誰もお前を無理に笑わせたりしない。これからは、私が守るから」


 そこで、はっ、と我に帰る。目の前に立つレオンが、息を詰めて私を見ていた。金色の瞳は、もう笑っていない。静かな、でも確実に燃えるような疑念が、底から湧き上がって確信へと変わっていくのが分かった。


「誰が誰を守るの?」

「……それは……その……」


 全部、聞かれていた。「……君は、やっぱり」レオンの声が低く震える。


「オランジェットじゃない……んだね?」

「……そう、みたいだな」


 私の口から零れたのは、オランジェットの優雅な声じゃなく、どこか低くて掠れた、獅子頭橙子の声だった。レオンの瞳が、一瞬、大きく揺れた。言い訳なんて、もうできなかった。


 さっき鏡の中で見た記憶、オランジェットの涙と叫び、王太子暗殺未遂という濡れ衣……全部が頭の中で渦を巻いている。私はゆっくりと振り返り、レオンをまっすぐ見つめ返した。


「ごめん。私……どっちも私で、どっちも私じゃない、って感じなんだ」


 声が震えた。でも、もう逃げない。


「この体には、オランジェット・ドナーがいる。でも、同時に、獅子頭橙子って名の、別の女もいる」


 「……そうなのか。信じられないな」


 レオンの声は低く、どこか遠くを眺めるように揺れていた。好奇心と疑念が絡み合い、まだ答えを決めかねている。


「私だって……信じられないよ」


 私は小さく笑った。喉の奥が熱い。今、初めて知ったオランジェットの孤独、完璧な令嬢を演じるために自分の心を偽った苦難の日々。でも、もう違う。胸の奥から、熱いものが込み上げてくる。


「でもね、レオン」

「……なんだい?」


 私は一歩踏み出し、彼の金色の瞳をまっすぐ見つめた。


「私は……オランジェットを、助けたい。この子を、もう二度と泣かせたくない」


 声が震えた。でも、嘘じゃない。これだけは、絶対に譲れない。


 私はゆっくりと息を吐いた。


「……ねえ、レオン。オランジェットが王太子を暗殺しようとした、って本気で思う?」


 レオンは黙って首を振った。答えは決まっている。


「私も思わない」


 私は拳を握りしめた。独房で聞いた衛兵たちの嘲笑が、今でも耳に残っている。「オルファ侯爵が……」「王党派の後ろ盾だった侯爵が、王太子を切り捨てたんだ」欲に目のくらんだ人間は、婚約者だろうがなんだろうが、平気で裏切る。


「……あいつ、オランジェットを、最初から駒としか見てなかったんだ」


 胸が煮えるほど熱い。怒りと、哀しみと、そして何より、「絶対に許さない」私はレオンをまっすぐ見据えた。


「私は……オランジェットを、必ず助ける。この濡れ衣をはがして、本当の裏切り者を暴いてやる」


 私はテーブルを拳で叩いた。埃が舞い上がり、ひび割れた鏡が震える。重苦しい静寂を、怒りだけが鋭く切り裂いた。レオンは壁にもたれたまま、腕を組んで目を閉じた。長い睫毛がゆっくりと伏せられ、静かに、深く、頷く。「……分かった」それだけだった。でも、その一言に、すべてが込められている気がした。

 階段を降りながら、軋む手すりを指でなぞる。何年も何十人もがここを上り下りしたのか、木はツルツルに磨き上げられていた。レオンが低い声で語り始めた。


「ここにいるのは全員、王党派だ。今の国王と王太子を支える、最後の砦なんだ」


 足を止めないまま、彼は続けた。


「でも最近、保守派が動き出した。表では穏やかに見せかけて、裏で軍を動かし、国政をひっくり返そうとしている」


 薄暗い廊下に、ランタンの火が揺れる。


「王太子暗殺未遂の噂も、全部その一環だ。そして……急に浮上したのが、オルファ侯爵の謀反」


 レオンは苦く笑った。


「侯爵は王党派の最大の後ろ盾だった。それが一夜にして裏切り者扱い。……あまりにも都合が良すぎる」


 私は思わず足を止めた。


「……つまり、オルファ侯爵が本当に裏切ったんじゃなくて、誰かにそう見せかけられている?」


 レオンは静かに頷いた。


「その可能性が高い。そして、その誰か……は、きっと王太子のすぐ近くにいる」


 最後の言葉は、ほとんど吐息のように小さかった。


「ちっ」


 王党派だの保守派だの、頭の中でぐるぐる回る。要するにこういうことだ。この国は今、組と組の抗争中。王党派の親分は国王と王太子。対する保守派の親分は、まだ顔も出さず裏で糸を引いてるだけの、義理も人情もクソもない臆病者。そいつが、オランジェット・ドナーに全部の罪を着せて、高みの見物。濡れ衣を着せたまま、綺麗な顔で笑ってるんだろう。


 ……ふざけんな。胸の奥、胃の底から、熱い塊がぐつぐつと沸き上がってきた。極道の娘として育てられた血が、久しぶりに疼いた。こっちはもう、ただの転生者でも令嬢でもない。獅子頭橙子だ。義理を欠く奴は、許さない。人情を踏みにじる奴は、ぶちのめす。私は拳を握りしめて、レオンを見た。


「……レオン。その保守派の親分、絶対に暴いてやる。そして、オランジェットの無実も、必ず晴らしてやる」


 声が震えていた。でもそれは怒りではなく、決意だった。


 階段を降りきると、奥の部屋からほのかな灯りが漏れていた。藁のベッドに横たわっていたリバーが、もう上半身を起こしている。開いたシャツの胸元には、まだ黒く乾いた血がべっとりとこびりついている。でも、さっきまで深く裂けていた傷は、もう赤い細い線だけが残り、肉がぴったりと塞がっていた。リバーは自分の胸をそっと撫で、腕の裂傷も指でなぞって、信じられないという顔で首を傾げている。


「……リバー」


 その時、鋭い目が私の姿を捉え、驚きの表情を浮かべた。


「……オランジェット様! ご無事でしたか!」


 リバーの声が裏返り、潤んだ目をこすりながら、藁ベッドから半身を起こそうとする。


「いや、ありがとう。お前が時間を稼いでくれなかったら、私は今頃……」


 断頭台からの光景を思い出すと今でもゾッとする。私が言葉を濁すと、彼は唇を噛んで、深々と頭を下げた。


「お役に立てず……申し訳ございません」


 女性たちが「念のためよ」と薬草を塗り、包帯をグルグル巻きにする。もうすっかりミイラ男だ。(……って、どこかで見た光景だな)日本でも、組の抗争で逃げ遅れて蜂の巣にされかけた川上が、病院のベッドで同じようにグルグルに巻かれてた。どの世界に来ても、この鈍臭さは変わらない。ふと周りを見渡すと、暖炉の前でカードを片付ける男たち、鍋をかき回す女たち、壁にもたれ腕を組むレオン……。その全員が、まるで獅子頭組の若い衆に見えてきた。


 なら、レオンも。


 私は小さく息を呑んで、レオンを見た。彼は静かにこちらに歩み寄り、リバーの肩にそっと手を置くと、私の視線に気づいて、わずかに頷いた。やっぱり……この要塞にいる全員が、日本から飛ばされた“転移者”なのか?


「……リバー、私を屋敷まで連れて行ってくれないか?」


 私はベッドの脇に膝をつき、リバーの耳元で小さく囁いた。記憶のないドナー伯爵家の屋敷。行けば何か分かるかもしれない。オランジェットの過去も、私がここに来た理由も。その時、リバーの耳がピクリと震えて、急に顔が真っ赤になった。


「……っ!?」


 目を見開いて、まるで雷に打たれたみたいに固まる。


「……どうした?」

「い、いえ! なんでもありません!!」


 首を、包帯がずれそうなくらい激しくブンブン振った。


「……変なやつだな」


 私は小さく笑って立ち上がった。レオンが「僕も行く」と静かに頷き、三人で要塞を出た。朝の陽射しが眩しい石畳の道を、足早に馬小屋へと向かう。遠くから馬のいななきが聞こえる。リバーはまだ顔を赤くしながら、私の半歩後ろを歩く。


(……まさか、耳元で囁かれただけでこんな反応って)


 川上、お前、やっぱりこの世界でも乙女かよ。

 歩きながら、また記憶が滲み出すように流れ込んできた。白い大理石の廊下。

いつも冷たい母の指が、オランジェットの肩に置かれる。「背筋を伸ばしなさい。微笑みなさい。あなたはドナー伯爵家の長女なのよ」同じ血を分けた双子の妹、ミランジェットは、母の隣で自由に笑っていた。


 髪を振り乱して庭を駆け回り、ドレスを汚しても叱られない。「ミランジェットはまだ子供だから」と、母は優しく許す。けれど、オランジェットには許されない。


 長女だから。伯爵家の顔だから。完璧でなければならない。泣いてはいけない。弱さを見せてはいけない。だから、いつもひとりで鏡の前で練習した。泣きそうな顔を殺して、微笑む練習を。夜、誰もいない部屋で、枕を噛んで泣いた。鏡の中の自分に、小さく呟いた。


「私……いつまで、こんなふうに生きなきゃいけないの?」


 その答えは、誰にも返ってこなかった。私は歩きながら、ぎゅっと拳を握った。


(もう、いい)

(お前はもう、ひとりじゃない)

(私がいる)


 胸の奥で、オランジェットの涙が、私の怒りに溶けていくのを感じた。


「ここだよ」


 レオンの「オランジェ、こっちだ」という低い声で、はっと我に返った。薄暗い馬小屋の中、藁の甘い匂いと馬の体温が混じり合っている。三頭の馬がこちらを見ていた。白い馬はレオンに気づくと、すぐに鼻を鳴らして近寄り、彼の手に大きな頬をすり寄せる。


 優しい琥珀色の瞳が細まり、まるで「遅かったじゃないか」と言っているようだった。


 レオンは苦笑しながら、その首筋を撫でてやる。一方、黒毛と赤茶の馬は、見慣れない私とリバーを見て耳をピンと立てた。黒い方は前脚で地面を蹴り、赤茶の方は急に後ろ足で立ち上がって、ヒヒィーン!と威嚇のいななきを上げる。


「……おっと、落ち着け」


 リバーが慌てて手を差し伸べるが、馬はさらに耳を伏せて興奮する。私は一歩前に出て、静かに息を吐いた。怖くない。馬は嘘をつかない。怯えているのは、こっちも同じだ。


「……大丈夫だ、私の名前はオランジェだ」


 私はゆっくりと手を差し出し、赤茶の馬の鼻先に近づけた。熱い息が指にかかる。最初は鼻を鳴らしていた馬が、ふっと息を落ち着かせ、私の手をそっと嗅ぎ始めた。レオンが驚いたようにこちらを見た。


「……馬、嫌いじゃなかったんだ?」

「ううん。初めてだけど……なんとかなる気がした」


 私は小さく笑った。だって、こいつらも私と同じだ。知らない場所に連れてこられて、怯えて、でも必死に生きようとしている。私たちは、同じだから。


 リバーが手綱を引いて、白い馬と赤茶の馬を小屋から連れ出す。


 赤茶の馬はリバーの黒髪に鼻を突っ込み、フンフンと熱い息を吹きかけて匂いを嗅いだ。

どうやら川上の匂いも合格らしい。尻尾を振って、嬉しそうに首を振る。レオンが白馬の鐙を整えながら、ちょっと困ったように私を見た。「オランジェット、君は馬に……乗れそうかい?」私は頷いた。


……まあ、乗ったことはないけど。


 でも、ドレスの裾はもう自分で力任せに引きちぎったせいで、膝上二十センチは軽く出ている。日本ならミニスカートなんて当たり前だけど、この世界じゃ完全にアウトな長さだ。レオンとリバーが同時に視線を逸らした。


 レオンは耳まで赤くなり、リバーは包帯の隙間から顔を真っ赤にして「うわっ……」と小さく呻く。「……見ないでよ」私が睨むと、二人は慌てて背を向けた。「見てない見てない!」「見、見てません! 誓って!」……嘘つけ。


 ちらちら見てたでしょ。私はため息をついて、赤茶の馬の鐙に足をかけた。


「行くよ。ドナー伯爵の屋敷まで」


 短い裾が風にひらりと舞い、朝日が素足を照らす。もう、隠すことなんて何もない。私はここから、オランジェット・ドナーの人生を、全部取り戻しに行くんだ。


 馬上の風は冷たく、でも気持ちがいい。私は赤茶の馬にまたがり、リバーが白馬、レオンが黒馬。三頭の蹄が石畳を蹴り、朝の市場を抜けると、たちまち街の外へ出た。道は緩やかな下り坂から、森の小径へ。


 木漏れ日がドレスの破れた裾をちらちらと照らし、馬のたてがみが私の頬をくすぐる。最初は鞍が硬くて尻が痛かった。鐙に足を入れる位置も分からず、馬が少し跳ねるたびに「うわっ」と声を上げてしまう。レオンが横から手を伸ばして、私の腰を支えてくれた。


「もっと膝で挟んで」

「……こう?」

「うん、上手い」


 彼の指が一瞬、素肌に触れている。熱かった。リバーは先頭を走りながら、時々振り返る。包帯の隙間から覗く顔は真っ赤で、視線が私の脚にいきそうになると慌てて前を向く。


……川上、相変わらず純情だな。


 森を出ると、広大な麦畑が黄金色に揺れていた。遠くに見える丘の上に、白い石造りの大きな屋敷が見えてきた。ドナー伯爵家の屋敷。


「リバー、あれがそうなのか?」

「はい、ドナー伯爵様のお屋敷です」


 胸がどきどきする。あの中に、オランジェットの過去が、全部詰まっている。私は無意識に手綱を握りしめた。


「……もうすぐだ」


 馬が最後の坂を駆け上がる。蹄の音が、まるで私の鼓動みたいに高鳴った。

 門柱の影から二人の衛兵が鉄槍を構えて現れた。だが、私の姿を認めた瞬間、槍がガチャリと下がる。


「……お、お嬢様!?」


 掠れた声が裏返る。見窄らしいドレス、泥と血にまみれた手足、引き裂かれた裾……

それでも、プラチナブロンドと青い瞳は、間違いなくドナー家の長女だった。衛兵の一人が真っ青な顔で踵を返す。


「オランジェット様がご帰還だぁっ!!」


 叫びながら、門の奥へと全力で駆けていった。もう一人が慌てて片膝をつき、頭を下げる。「お、お帰りなさいませ!すぐに執事を……」私はレオンの肩を借りて、やっとのことで馬から降りた。


 鐙から足を抜いた瞬間、膝がガクンと崩れそうになる。「痛った……」尻から太腿まで、痛い。慣れない鞍で半日近くも乗っていたんだから、無理もない。レオンが素早く腰を抱き、耳元で小さく笑った。


「……無理していたんだね」

「うるさい」


 私は睨み返すけど、足に力が入らなくて、結局彼に半分もたれかかる形になった。門の奥から、ドタドタと複数の足音が近づいてくる。どうやら、屋敷中が大騒ぎになりそうだ。


 馬番の少年が「わ、わわっ!」と慌てて駆け寄り、三頭の馬を宥めながら手綱を奪うようにして馬小屋へと連れて行った。衛兵はレオンとリバーの顔を一瞥し、眉をひそめた。

見慣れない男たちだ。だが、私がそばにいるのを見て、渋々鉄槍を下ろす。        


「……通ってもよし」


 石畳の長い道を、私たちはゆっくりと歩いた。左右に並ぶ楓の木が、朝の陽射しを受けて紅く揺れる。庭園の奥から、黒い燕尾服の執事が眼鏡を光らせながら全力疾走で駆け寄ってきた。「お、お嬢様っ!?」私の姿を認めた瞬間、足がもつれて転びそうになる。


 執事は両手を広げ、声を上ずらせた。「無事で……本当に、無事でいらっしゃいましたか!?」涙まで浮かべて、しかし私の泥だらけで破れたドレスを見て、言葉を失う。


 私は小さく頷いた。


「……ただいま、ジェームズ」

「おかえりなさいませ」


 執事の名を、なぜか自然に口にできた。オランジェットの記憶が、また一つ、静かに胸の奥で灯った。ジェームズは白いハンカチを取り出し、目尻に滲んだ涙を拭った。


 庭園の奥へ進むたび、記憶が波のように押し寄せる。薔薇のアーチをくぐると、甘い香りが鼻をくすぐった。……色とりどりの薔薇が朝露を光らせて咲き乱れている。噴水の水音がキラキラと響く。そして、白いブランコ。鎖が錆びて軋む音まで、はっきりと思い出した。


 ……あのとき、ミランジェットが「見ててね、オランジェット!」と笑って勢いよく漕いだ。高い高いと空に向かって跳ねて、でも次の瞬間、バランスを崩して落ちた。血が流れ、彼女は泣き叫んだ。母は私を睨みつけた。「あなたがついていながら! 何をしているの、オランジェット!」私はただ、ミランジェットの手を離してしまっただけなのに。「長女としての責任があるでしょう!」……責任、責任、責任。いつも私だけが悪い。


 いつも私だけが、許されない。薔薇の棘が指に刺さるような痛みが、胸の奥で蘇った。私は無意識に白いブランコに手を伸ばした。冷たい鉄の鎖が、掌に食い込む。


 扉がバンッと勢いよく開く。記憶の中の母と父が、息を切らして駆け寄ってきた。私は思わず両手を広げた。抱きしめてもらえると思った。無事でよかったって、泣いてくれると思った。でも。母の手が振り上げられた瞬間、世界が真っ白になった。


 乾いた音が鋭く切り裂く。頬が熱い。耳鳴りがする。


 体が横に倒れそうになるのを、レオンが慌てて抱きとめてくれた。「オランジェ!」母の声が、氷より冷たく響いた。


「なぜ……なぜ罪を素直に受け入れなかったの!?」


 父は俯いたまま、肩を震わせている。「我が家の恥だ……王太子暗殺の嫌疑をかけられたまま逃げ出すとは……」二人は、私が本当に罪を犯したと信じている。いや、信じたいと思っている。ドナー家の名誉のためなら、娘が死刑になっても構わないと。私は頬を押さえながら、ゆっくりと顔を上げた。熱い。頬が、胸が、目が。「……私は、無実だ」声が震えた。でも、はっきり言った。


「誰かに嵌められたんだよ。王太子を殺そうなんて、考えたこともない!」


 母の瞳に、失望と怒りだけが渦巻いている。レオンの腕の中で、静かに涙が頬を伝うのを感じた。でもそれは、オランジェットの涙じゃなくて。獅子頭橙子の、怒りの涙だった。


 「娘を信用しねぇ奴なんざ、母親じゃねえ!」


 私の口から飛び出したのは、完全に獅子頭橙子の言葉だった。低くて、荒々しくて、怒りが喉を焦がすような声。母は目を見開き、凍りついた。父も、信じられないという顔で私を見上げる。


「あなた……なんて言葉遣いを! 伯爵家の!」

「伯爵家なんざクソ喰らえだ!!」


 私は一歩踏み出し、母を真正面から睨みつけた。


「自分の娘が死刑になる方がマシだってか?名誉のためなら血の繋がった子を切り捨てられるってか?そんな家なんざ、いらねえ!」


 声が震えている。でも、もう止まらない。


「私は無実だ。誰かに嵌められたんだ!それを信じられないなら、もう二度と私の前に顔を見せるな!」


 母の顔が、初めて歪んだ。驚きと、恐怖と……ほんの少しの罪悪感。私は踵を返した。レオンが静かに頷き、リバーが呆然と口を開けたまま、私の後ろに続く。もう、ここは私の家じゃない。私は自分の足で、自分の人生を歩き出す。


「オランジェット、逃げるの?」


 そこで聞き慣れた声が私を呼び止めた。

 白いドレスの裾を優雅に翻して、ミランジェットがゆっくりと歩み出た。鏡に映したように同じ顔、同じ瞳、同じ髪。でも、微笑みが違う。底冷えするほど完璧で、どこか楽しげな微笑み。


「逃げるの?オランジェット」


 甘い、甘すぎる声。「そうよ、オランジェット……罪は受け入れなきゃいけないわ……逃げたりしたら、ドナー家の恥になるだけよ?」まるで台詞を覚えた人形のように、滑らかに言葉を紡ぐ。


 私は一瞬、息が止まった。(……こいつ)獅子頭橙子の勘が、背筋を電流みたいに走った。彼女の瞳の奥に、ほんの一瞬だけ、嘲笑がチラリと光った。喜びだ。私が苦しむのを、愉しんでいる。


(こいつ……最初から知ってやがったな)


 私は唇の端を吊り上げて、ニヤリと笑った。


「……へえ、ミランジェット……お前、ずいぶん楽しそうだな」

「あら、何のこと?」


 「予定は変更だ」私は踵を返し、レオンとリバーを従えて、侍従の「待ってください!」という叫びを完全に無視して玄関ホールへ踏み込んだ。大理石の床に、懐かしい靴音が響く。

暖炉の匂い、磨き上げられた木の手すりの感触、ステンドグラスから差し込む赤と青の光。

全部、体が覚えている。


 迷うことなく、二階への大階段を駆け上がる。踊り場で足を止めると、色とりどりの光がレオンの金髪を虹色に染めた。彼は無言で頷く。リバーは包帯の隙間から鋭い目を光らせ、私の半歩後ろに控える。


(私はもう、一人じゃない)


 赤いカーペットを踏み締め、廊下を真っ直ぐ進む。右が私の部屋。左がミランジェットの部屋。私は迷わず左のドアノブに手を掛けた。鍵はかかっていない。まるで、待ってましたとばかりに。「ここに、全部ある」私は静かに呟き、ドアを押し開けた。


 部屋の中は、甘ったるい薔薇の香水と、どこか腐ったような匂いが混じっていた。私は無言で奥へ進み、ミランジェットがいつも座っていた白い化粧台の前に立った。引き出しは三段。上段は香水瓶とリボン、中段は手紙と小物。下段は鍵がかかっている。


 レオンが後ろから「壊す?」と小声で聞いた。私は首を振る。「壊さなくても開く」私は化粧台の右側、薔薇の彫刻が施された小さな飾り板を指で押した。


 カチリ、と乾いた音がして、下段の鍵が外れる。オランジェットの記憶が教えてくれた。

子供の頃、ミランジェットが「秘密の宝物」と呼んで、私に見せびらかした場所だ。引き出しを開ける。中には、黒いベルベットの袋と、封蝋の押された数通の手紙。袋を開けると、紋章が刻まれた金のメダルが入っていた。


「この紋章は誰のものだ?」

「……どこかで見たことがある」


 レオンは腕を組んで眉間にシワを寄せたが、その紋章の主が誰であるか思い出せなかった。私はそのメダルをドレスのポケットに入れた。そして手紙の一通を広げる。


『ミランジェット様へ

 計画は順調。オランジェットは三日後に処刑台へ。

 その後は貴女がドナー家当主、

そして我が王妃となる日を楽しみにしております。』


 レオンの息が背後で凍った。リバーが低く唸る。私は最後の手紙を握りしめたまま、ゆっくりと振り返った。


「……全部、ここにあった」


 ミランジェットはドアを背後で静かに閉め、鍵をカチャリとかけた。白いドレスがまるで雪のように揺れ、唇の端に冷たい笑みが浮かぶ。


「ダメじゃない……人のラブレターを見ちゃ」


 その瞬間、頭の奥で何かがブチッと切れた。私は一歩で距離を詰め、ミランジェットの襟首を鷲掴みにしていた。細い首が、私の手の中で震える。


「姉ちゃんが死刑になる手紙がラブレターだと!?笑わせんな!」


 私は手紙を彼女の顔に突きつけた。


「この相手は誰だ!オルファ侯爵か!?お前、あのジジイと組んで私を殺す気だったのか!?」


 ミランジェットは掴まれたまま、青い瞳を見開いた。でも、怯えじゃなかった。愉しんでいるような、狂おしいほどの喜びだった。


「嫌だ、あんなおじいちゃん……オランジェットも侯爵と結婚しなくていいから良かったじゃない?嫌いだったんでしょ?」

「そんなこと知らねぇよ!」

「……ふふ」


 彼女は私の手を掴み返し微笑んだ。


「ほら、早くこの人を見つけ出さなきゃ……オランジェットは断頭台行きよ?こんなところで遊んでいていいの?」

「くそっ!」


 そしてミランジェットはレオンに向かってカーテシーで恭しくお辞儀をした。彼女の視線が、レオンに絡みつくように這う。


「そのお顔、どこかで拝見いたしましたわ……?」


 甘ったるい声。でも、その瞳の奥に、獰猛な光がチラリと灯った。レオンは一瞬、眉ひとつ動かさなかった。ただ、静かに右手を背中に回し、リバーが無言で一歩前に出る。


「……人違いだろ」


 低く、氷みたいな声。ミランジェットは小さく首を傾げて、微笑みを深くした。


「いいえ、覚えております。王宮の夜会で、王太子殿下のすぐ側にいらした、金髪の護衛騎士……いえ、今はもう“元”騎士でしたかしら?」


 部屋の空気が、一瞬で凍りついた。私はレオンの横顔を見た。完璧に無表情。でも、背筋を這うような殺気が、ほんの一瞬だけ漏れた。彼女は舌なめずりするように唇を湿らせ、囁いた。


「レオン・ヴァル・クライツェル様……王太子暗殺の夜、殿下を庇って行方不明になった、あの方ですわよね?」

「行こう」


 レオンは一言だけ、低く呟くと、ミランジェットの横をまるで空気のように素通りした。カチャリ、と鍵が回る。錆びた蝶番が重い音を立てて、扉が開く。その瞬間、金貨の紋章、

ミランジェットの引き出しにあった手紙、そしてレオンが私を助け出した理由。全てが、ぴたりと繋がった。レオン・ヴァル・クライツェル。


 王太子の側近だった金髪の騎士。


 王太子暗殺の夜、王太子の側から消えた“裏切り者”とされた男。だから、あの牢獄にいたんだ。私は握りしめていた手紙を、ぎゅっと胸に押し当てた。「……レオン」彼は振り返らない。ただ、開いた扉の向こうに、長い廊下と差し込む陽光があるだけ。背中が、ほんの少し震えていた。


「行くよ、オランジェ」


 その声は、もう優しくなんてなかった。静かで、冷たくて、でもどこか、壊れそうなくらいに痛かった。私は頷いて、レオンの後を追った。扉が背後で静かに閉まる。ミランジェットの笑い声だけが、甘く、毒々しく、廊下に響いた。


 レオンは私を赤茶の馬に乗せると、自分は白馬に跨ったまま、一言も発さなかった。ドナー家の門を出て、楓の赤い影が石畳に落ちる道を進む間も、麦畑へ差し掛かる間も、ずっと無表情だった。リバーと私は、どっちかが声をかけようか、と気を揉みながら何度か目配せした。突然、レオンの白馬がピタリと足を止めた。風が小麦を波のように揺らし、金色の髪を靡かせる。


 陽射しが眩しいのに、彼の金色の瞳だけが、どこか暗い影を宿していた。


「レオン……どうした?」


 私の声は裏返り、喉が詰まる。レオンは長い、長い溜め息を吐いた。まるで胸の奥に沈んでいた重いものを、ようやく吐き出すように。「……いや、なんでもない」彼は小さく首を振り、手綱を引いた。


 白馬が再び歩き出す。でも、私は見た。その横顔に、ほんの一瞬だけ、痛みと怒りと、そして深い悲しみが掠めて消えたのを。レオンはまだ、何も語らない。けれど私は、もう知っている。彼が背負っているものの重さを。そして、これから私たちが向かう先が、どれほど険しいかを。


 ミランジェットの言葉が正しければ、レオンは王太子の護衛の騎士だった。名前をレオン・ヴァル・クライツェル……彼が獄中で「確かめたいことがある」と力強く話した。私はドレスのポケットから、金貨を取り出した。


 風が金貨を冷たく撫でる。指先でこすっても消えない、異様な紋章。三つの蛇が絡み合い、中央に百合の花を喰らう紋章。王太子の寝所に忍び込んだ暗殺者が落とした、決定的な証拠。レオンはこれを確かめるために、王太子が本当に死んだのか、それとも「暗殺未遂」でどこかに隠されているのか、自分の目で見極めようとしているのか?


 ミランジェは知っていた。だからあんな笑みを浮かべたんだ。金貨を握りしめる。掌が痛いほどに力を込める。「……レオン」私は馬を並べて、小さく呼びかけた。「王太子は、まだ生きてるかもしれない」レオンは一瞬だけ瞳を揺らし、すぐに前を向いたまま、静かに頷いた。答えは、もう出ている。私たちは王宮へ向かう。真実を、ミランジェの笑顔を、オルファ侯爵の裏切りを、謎の人物の仮面を、全部、引き裂くために。


 小麦畑で農夫たちが鎌を振り、黄金の穂がざわめくように倒れていく。遠くの丘で風車がのんびりと羽を回し、ひばりが青空に小さな弧を描いて舞う。風は穏やかで、太陽は優しく、

まるで何も起こっていないかのような、平和な午後。


 でもその裏で、王太子は行方不明のまま、姉を殺そうとした妹は屋敷で紅茶を啜り、オルファ侯爵は玉座の影で静かに笑っている。私は手綱を握りしめたまま、歯を食いしばった。こんな綺麗な世界だからこそ、腐った部分は根こそぎ抉り出して、陽の光で焼き払ってやる。馬を蹴る。赤茶のたてがみが風を裂き、三頭の蹄が大地を鳴らす。


 私たちは馬を深い森の茂みに隠し、手綱を木に巻きつけた。レオンが黒いマントを私にかけ、自分もフードを深く被る。リバーは包帯の上から灰色の布を巻き、顔の下半分を隠した。


「これで、お尋ね者とは見えないはずだ」

「……」


 逆に怪しいと思ったが、それは言わないでおいた。マンドラゴラの群生が、足首までびっしりと生い茂る小径に入る。踏み込むたびに、「ギャアアアアッ!」「イヤァァァァ……!」 根が引き抜かれるような、赤ん坊の泣き声とも女の絶叫ともつかない悲鳴が地面から湧き上がる。毎回、背筋が凍った。


「くそっ、慣れねえ……」


 リバーが耳を塞ぎながら呻く。レオンは無言で私の手を握り、黙って先を急ぐ。その手のひらは、熱くて、震えていた。


 マンドラゴラの悲鳴を背に、王都の裏門が見えてきた。石壁の向こうに、夕陽を浴びた王宮の尖塔が、鋭く空を突き刺している。もうすぐだ。私たちは顔を深く伏せ、三人の影を一つに重ねながら、静かに、確実に、牙を剥いた狼のように、王都へと滑り込んだ。


 教会の鐘が低く六つ鳴り、広場の喧騒が一瞬だけ遠のいた。断頭台はもう跡形もなく、木の床板を外す職人たちが汗を流している。……よかった。あの場所に二度と膝をつかなくていい。レオンの手が、私の手をぎゅっと強く握り直した。

熱が伝わる。まだ震えている。


 そのとき、マントの隙間から視界が開けた。教会の正面に、黒百合の紋章が染め抜かれた深紅の旗が、風もなくはためいている。十本、二十本……まるで葬列のようにずらりと並んでいた。重い扉がギィィッと開く。甲冑を纏った長身の男が、牧師と並んで現れた。銀の胸当てに、同じ黒百合の紋章。腰の剣は儀礼用ではなく、血の臭いを纏っている。


 男は牧師に軽く会釈すると、ゆっくりとこちらへ視線を向けた。紫の瞳。冷たく、底なしに深い。「ヴィンセント侯爵……」レオンが呟いた。黒百合と三つの蛇は、ヴィンセント侯爵の紋章だった。彼は教会との結びつきが深い。表向きは穏やかだが、黒百合騎士団を従え隣国を次々に滅ぼし、領地を広げている。


 まさか、ここで。レオンの手が、私の指を痛いほど締めつけた。リバーが息を呑む音が聞こえた。公爵は、まるで私たちの存在に気づいたかのように、薄く、優しく、そして絶対に逃がさない笑みを浮かべた。鐘が七つ目を打ち鳴らす。今、この瞬間、狩る者と狩られる者が、初めて顔を合わせた。


 ヴィンセント侯爵は王弟家最後の嫡子だった。


 母は先王の寵姫だったが、正妃の子(現国王)を産んだ途端、冷宮に追いやられた。ヴィンセントが七歳のとき、母は「病死」と発表され、密かに毒殺された。その死体を抱いた幼いヴィンセントは、母の耳元で誰かが囁く声を聞いた。「穢れた血は、いずれ滅ぶ」犯人は誰か、幼い彼には分からなかった。ただ、母の冷たい指が、自分の頬を掻きむしった感触だけが残った。


 ある夜、王宮で「王弟家の生き残りは危険」との密告がなされ、一夜にして「異端審問」の罪で追放される。追放されたその足で、ヴィンセント侯爵は地下に潜った。


 ……復讐のために。


 王家を、教会を、そしてこの国そのものを、根底から腐らせるために。黒百合騎士団の創設。死刑囚や異端者を集めて私兵団を組織。紋章は「百合を喰らう三匹の蛇」王家を象徴する百合を、毒と裏切りで喰らい尽くす誓い。


 目的はただ一つ「穢れた血は滅ぶ」を、自らの手で実現すること。現国王を病で衰えさせ、王太子を廃嫡し、最後に自分が「唯一の正統な王」として即位する。


 現国王と教会は、黒百合騎士団を、国を護る存在として信頼していた。ただ一人、王太子はヴィンセント侯爵に黒い影を感じていた。密偵を潜り込ませたが、数日後、彼は川に浮かんだ。疑念は確信に変わった。


 そしてヴィンセント侯爵はミランジェットを「次の王妃」ではなく、「次の傀儡女王」として選んだ。国民が「悲劇の令嬢」として同情し、担ぎ上げやすい 。そして何より、心が脆く、嫉妬に狂い、操りやすい完璧な人形だった。ミランジェットは自分が「愛されている」と思っている。


 ヴィンセント公爵の甘い言葉、夜ごとの密会、耳元で囁かれる「君こそが真の女王だ」という言葉。でもヴィンセントにとって、彼女はただの「替え玉」だ。王太子が死ねば、「悲劇の妹」ミランジェットを王妃に据え、自分が摂政として実権を握る。


 その後、適当な時期に「病没」させれば、王家は完全に断絶。あとは教会の神託をでっち上げて、自分が即位するだけ。ミランジェットは、最後まで自分が「愛されている」と信じたまま、毒を盛られるか、窓から突き落とされるか、あるいは「自らの手で」命を絶つよう仕向けられる。ヴィンセントは、そんな残酷な未来を、優しい微笑みとともに、もう決めている。だからこそ、私は絶対に許さない。「レオン」私は馬を止め、金貨を握りしめたまま振り返った。「王太子はまだ生きている。ミランジェットは……利用されてるだけだ」レオンは静かに頷いた。


「行くよ。王宮の、最深部へ」


 風が、黒百合の旗をはためかせた。まるで、嘲笑うように。


 私はレオンのマントの裾を掴んで、小声で訊いた。


「……ねえ、レオン。オルファ侯爵の隣で、黒い扇子を持っていた女……覚えている?『この女オランジェがいなければ、オルファ侯爵の地位は安泰ですよ』って、耳元で囁いていた……あれ、誰なの?」


レオンは一瞬、息を止めた。


「……あれは、ミーア男爵令嬢だがそれは表向きの名前。『毒の女』と呼ばれている。」


 低い、凍りつくような声だった。


「ヴィンセント公爵が飼っている『毒の女』だ」


 私は眉をひそめた。


「毒の女?」

「ああ。人の耳に甘い言葉を吹き込み、欲望を煽って操るのが専門。オルファ侯爵の屋敷にミーアが出入りしているのを見た者がいる」


 レオンは吐き捨てるように続けた。


「ミーアはオルファ侯爵と深い仲になり、オランジェ、君との婚約破棄を唆した」


 『毒の女』は毎夜、オルファ侯爵の耳元で囁き続ける。


「最初は『オランジェットを手放すのは惜しいですね』次に『でも、あの女を生かしておけば、侯爵の地位は脅かされます』そして最後には『あの女は王太子の暗殺を企てています』と……」


 私は奥歯を噛みしめた。


「……つまり、あの女がオルファ侯爵を寝返らせた……正確には、寝返らせたように見せかけた。侯爵は最後まで自分が裏切ったつもりでいるだろうが、実際は最初から、ヴィンセント公爵の罠に嵌められていた駒だ」


 レオンはフードを深く被り直し、物陰から王宮を見上げた。けれど私は不思議に思った。いかに王太子の護衛騎士といえ、なぜここまで詳しく知っているのだろうか……。


 私はレオンの袖を強く引いた。


「……お前、なんでそんなに詳しいんだ?」


 暗い路地の奥、街灯の光も届かない場所で、私は真正面から彼を見据えた。レオンはフードの下で、ほんの一瞬だけ目を伏せた。「……俺は、王太子の影武者だった」静かな、でも確実に私の胸を抉る声。


「表の護衛騎士は別にいた。俺は殿下の“影”として、常に三歩後ろに控えていた。だからこそ、……ミーアの動きも、オルファ侯爵が少しずつ壊れていく様子も、全部見ていた」


 彼は苦しげに唇を歪めた。


「暗殺未遂の夜、殿下は本当に毒を盛られた。でも死んでない。殿下は抜け道から逃がした」

「レオン、お前、大丈夫なのか?」

「……毒には慣れている」


 リバーが「しっ!」と鋭く唇に指を立て、背中を壁にぴたりとつけた。ガシャン、ガシャン、ガシャン……石畳を蹴る重いブーツの音。松明の火が揺れて、黒い甲冑が一瞬だけ赤く光る。肩に縫い付けられた黒百合の紋章が、まるで生き物のように蠢いていた。


「東の裏門から逃げた女と金髪の裏切り者がいるらしい」

「生きたまま捕えろ。公爵様のご命令だ」

「特に金髪のほうは……王太子の影武者だ!王太子の行方を知っているかもしれん!」


 低い、冷たい声。レオンが私の手をぎゅっと握りしめた。震えているのは、私のほうか彼のほうか、もう分からない。黒百合騎士団は十数人。松明の列が路地の入り口を過ぎ、奥へ奥へと消えていく。静寂が戻った瞬間、レオンが掠れた声で呟いた。


「……王太子と間違われたまま、か」


 苦い笑みが、闇の中で浮かぶ。


「結局、俺は今でも“死んだ王太子の影”なんだな」


 私は歯を食いしばった。違う。生きている。王太子は生きている。レオンも、私も、まだ死んでない。「……行くよ」私はマントを深く被り直し、リバーの背中を押した。レオンが囁く。


「次の路地を抜けて、王宮の地下水路へ。あいつらが表を騒いでるうちに、俺たちは裏から潜り込む」


 黒百合が狩人なら、私たちはもっと深い闇に潜む狼になる。

 鼻の奥が腐った卵と死体を混ぜたような臭いで痺れる。靴底にへばりつくぬるぬるとした感触は、腐った藻か、それとも……考えるだけで身の毛がよだつ。松明の火が赤く揺れるたび、岩壁に三人の影が巨大に歪み、まるで別の生き物みたいに蠢いた。リバーが先頭、片手に松明、もう片手で剣の柄を握りしめている。


 レオンが私のすぐ横を歩き、時々私の肩に手を置いて「大丈夫か」と無言で確かめる。水音がポタ、ポタ、と響く。足元をドブネズミが何匹も横切り、赤い目だけが闇で光った。


「……もうすぐ、旧王宮の地下牢に繋がる分岐だ」

「あの牢獄?」

「……そうだよ、僕たちがいたあの場所だ」


 レオンが低い声で囁く。


「そこから王太子の隠し部屋へ……殿下が生きているなら、必ずそこにいる」


 私は頷いた。喉が渇いて、声が出そうにない。松明の火が、突然大きく揺れた。リバーがピタリと足を止める。「……気配がする」前方の闇の奥、水路の曲がり角から、ゆっくりと別の火が近づいてくるのが見えた。誰かが、こちらに向かって歩いてくる。私たちは息を殺し、岩壁に身を寄せた。


 松明の火が揺れて、角の影がどんどん大きくなる。次の瞬間、でかい声が地下水路中にドーンと響いた。「おお!レオンじゃねえか!お前も来たのか!」……バイキングだ。あの要塞で会った、角付き帽子の大男。彼は片手に松明、もう片手に巨大な戦斧を担いで、ニヤリと白い歯を見せた。


「遅えぞ、遅えぞ!もうみんな集まってるぜ!」


 背後から、さらに複数の足音と松明の火が揺れる。要塞の仲間たちだ。カードをやっていた男たち、鍋をかき回していた女性、全員が武器を手に、顔に布を巻いて、地下水路に勢揃いしていた。


「ロバ宰相から王太子様は生きてるって聞いてな、俺たちも黙ってられねえ」


 バイキングが私の肩をバシンと叩く。


「お姫様も来てくれたか!ありがてぇ!」私は思わず笑った。「……みんな、ありがとう」レオンも、リバーも、目を見合わせて小さく頷いた。地下水路に、三十を超える松明が灯る。闇を裂く炎の列が、王宮の最深部へと、確実に進んでいく。


 まずはオルファ侯爵だ。王太子の後ろ盾として王党派を率いていた彼は、一夜にして裏切り者の烙印を押された。彼が王太子に毒を盛った犯人を、王宮内に手引きしたという噂が漣のように広がったのだ。彼は今、私が投獄されていた独房で後悔に苛まれていることだろう。


 地下水路の分岐を抜け、鉄格子の古びた扉を蹴り開ける。先に進む前に、私は足を止めた。


「……ちょっと寄るところがある」


 レオンが眉を寄せる。バイキングも「時間がねえぞ」と呟いたが、私は首を振った。「五分で済む」牢の最深部。私が三日間、死を待っていたあの独房。錆びた鍵を外す音が響く。


 松明の火が、奥の暗闇を赤く照らす。そこにいた。オルファ侯爵は、鎖で両手を吊られ、膝を折って座り込んでいた。


 かつての威厳はどこにもなく、髪は乱れ、頬はこけ、目は虚ろ。私の足音に気づいて、ゆっくりと顔を上げる。「……オランジェット……?」掠れた声。信じられない、という顔で瞬きを繰り返す。私は一歩、また一歩と近づいた。


「覚えているか?あんたが私に言った最後の言葉」


 オルファ侯爵の肩が震える。「『お前は国の恥だ』って」私は静かに笑った。「今、誰が恥だって?」彼は唇を震わせ、やっと、初めて、本当の恐怖に顔を歪めた。


「……俺は、嵌められた……あの女が……ミーアが……」

「知っている」


 私は冷たく告げた。


「だから、おまえはここにいる。私がいた場所に」

「オランジェット……、助けてくれ。婚約者じゃないか」


 オルファ侯爵の目から、涙が零れた。私は踵を返した。


「死ぬまで、後悔してな」


 蝶番が軋み、扉は閉まった。私は無表情なまま鍵を掛ける。もう二度と、この鍵は開けない。三日後、彼は私が登った断頭台で、神に跪くだろう。私は仲間たちのもとへ戻った。「……次は、本当の黒幕だ」松明の列が、再び動き出す。


 足元の水溜まりで小さなカエルがコロコロと鳴く。地上はすぐそこだ。レオンは無言で岩壁に歩み寄り、両手を一枚の岩に当てて、ぐっと横に押し滑らせた。ズズッ……!次の岩が縦に沈み、最後に現れたのは、王家の百合が深く彫られた古い石の扉。レオンは百合の花びらの中心を指でなぞり、静かに力を込める。


ゴゴゴゴ……!


 重い音と共に扉が内側へ開き、ひんやりとした夜風が一気に吹き込んできた。松明の火が三十本、まるで生き物のように激しく揺れた。奥は真っ暗。でも、かすかに……薔薇と薬草の匂いがする。王太子が隠されている、誰も知らない“隠し部屋”だ。


 レオンが一歩踏み出し、振り返った。「……行くぞ」私たちは息を合わせ闇の中へ、足を踏み入れた。

 苔むした石畳が、靴底を冷たく噛む。私の足音だけが、ぽつん、ぽつん、と空しく響く。……この頭上には、かつてオランジェットが毎晩のように通った廊下がある。オルファ侯爵と歩いた夜会への道。手を引かれながら、胸を高鳴らせて歩いた回廊。


「君は僕の誇りだ」と耳元で囁かれ、頬を染めた場所。全部、嘘だったのに。胸の奥底で、オランジェットが泣いている。氷の槍で心臓を貫かれたような、鋭くて冷たい痛みが、私の体を突き抜ける。


(ごめん……ごめんね、オランジェット)


 私は歩きながら、そっと胸に手を当てた。


(あんな男に、こんなに長い時間を……こんなに純粋な想いを、踏みにじられて……)


 涙が頬を伝う。でも、もう怒りじゃない。ただ、悲しみだけだ。レオンが私の前で立ち止まり、振り向いた瞳は、痛みを知る者だけが持つ色をしていた。


「……辛いか?」


 私は首を振った。でも声は震えた。


「この子が……すごく泣いている。私、まだ全部取り戻せてない」


 レオンは静かに、私の手を握った。


「取り戻すよ。今夜、全部」


 私は頷いた。涙を拭う。もう泣かない。オランジェットの分まで、私が笑ってやる。私が幸せにしてやる。だから、今は前へ。この先に待つ真実へ、そして、決着へ。


 松明を一つずつ、壁に差し込み、火を消す。闇が音もなく押し寄せ、残るのは薔薇と薬草の、甘く苦い香りだけ。香りが濃くなるほど、心臓の音が耳に響く。廊下の突き当たりに、古びた木の扉。王家の百合と、剣を交えた薔薇の彫刻が薄暗がりで浮かび上がる。レオンが扉の前で膝をつき、鍵穴に細い針金を差し込んで、わずかに息を吐く。


カチリ。


 小さな音。それだけで、扉が内側からゆっくりと開いた。中から、暖かな灯りが漏れる。薔薇の香りと、薬草の湯気。そして、微かに聞こえる、苦しげな呼吸。ベッドに横たわる青年は、金より少し薄い髪を乱れさせ、蒼白な顔で眠っていた。……王太子アレクシス。生きていた。レオンの膝が、床に崩れ落ちる音がした。


「無事だったか……!」


 レオンは枕元に跪くとその手を握った。王太子はうっすらと目を開け、その手を弱々しく握り返した。現代国語が苦手な私でも分かる……レオンは王太子に敬語を使うことなく駆け寄った。はて?これは?


 レオンは王太子の右手を両手で包み、額をその甲に押し当てた。


「アレク……!生きてた、本当に生きてた……!」


 掠れた、まるで少年のような声。王太子は、薄く目を開ける。熱に浮かされた瞳が、ゆっくりと焦点を結ぶ。


「……レオン……」


 弱々しい、でも確かに笑みを浮かべた声。


「ごめんな……お前を、裏切り者にしたまま……」

「うるさい、バカ殿下」


 レオンは顔を上げて、涙と鼻水まみれで笑った。


「生きているなら、それでいいだろ……!」


 ……あ。私は、はっとした。敬語がない。呼び方も『殿下』じゃなくて『バカ殿下』。


 二人は、主従なんかじゃなかった。幼い頃から、共に育った、剣を手に庭を駆け回り、夜の屋上で星を見上げて、『いつか一緒にこの国を変えよう』と誓い合った。親友だったんだ。だからレオンは影武者になった。けれどあの日、王太子は毒薬を飲んでしまった。それでレオンは裏切り者として牢獄に入れられた。


「……私も来ました」


 私の指が王太子の手に触れた瞬間、彼の瞳が恐怖で大きく見開かれた。「ミランジェット……!?」その声は、死の淵から這い上がってきたような、掠れた絶叫だった。


 部屋の空気が一瞬で凍る。私はゆっくりと首を振った。「違う……私、オランジェットよ」王太子の顔が、混乱と恐怖で歪む。「……でも、あの日……毒を入れたのは……君だった……」私は息を呑んだ。


 やっぱり、ミランジェットは私になりすまして王宮に入り込み、王太子のグラスに、ヴィンセントの渡した毒薬を一滴……。

 そして私は、その“双子の妹”の罪を、全部被せられた。だからオルファ侯爵は私を切り捨て、国民は私を“王太子毒殺未遂の悪女”と罵り、私は断頭台に立たされた。

 すべて、完璧に仕組まれた入れ替わりだった。私は震える手で、王太子の手を強く握り返した。


「……信じて、アレクシス」

「……でも……あなたは彼女とそっくりだ」

「私じゃない。殺そうとしたのは、私の顔をした妹よ」


 王太子の瞳に、涙が浮かぶ。


「……ごめん……ごめん、オランジェット……私は……君を、疑ってしまって……」


 私は首を振った。


「いいの。今、ここにいる。それで十分」


 あの断頭台からの光景が頭をよぎった。怖気が走る。レオンが立ち上がり、静かに剣を抜いた。頭上の回廊を、重い鎧の足音が列をなす。


「時間だ……ヴィンセントのご帰還だ」

 担架に乗ったアレクシスは、ロバ宰相の元へ運ばれるため、バイキングと二人の女たちが先導して地下水路の奥へと消えていった。残ったのは、私、レオン、リバー、そして要塞の仲間たち二十名。短剣が鞘の中で光り、戦斧が肩に載る。剣、槍、弓……それぞれが無言で武器を構え、靴音が石畳に響いた。


 レオンが私の横に並び、静かに囁いた。


「行くぞ、オランジェット……今夜で、全部終わらせる」


 私は頷いた。廊下の突き当たり、王宮の最上階へ続く秘密の螺旋階段。その上には、ヴィンセント公爵が待っている。そして、ミランジェットの笑顔が待っている。私はマントを脱ぎ捨て、ドレスの裾を最後に引きちぎった。


 もう、令嬢じゃない。もう、犠牲者じゃない。私は、獅子頭橙子であり、オランジェット・ドナーであり、今夜、この手で全てを奪い返す女だ。階段を駆け上がる。二十の足音が、一つの咆哮となって王宮を震わせた。さあ、決着だ。


 扉が蹴破られた瞬間、轟音と共に二人の衛兵が吹き飛んだ。ガシャン!甲冑が床に激突し、血の飛沫が大理石に散る。バイキングの戦斧が振り下ろされる寸前、衛兵の喉元に槍が突きつけられた。「現国王陛下を、あの毒で蝕んだのはお前たちだろ」低く、怒りで震える声。

 槍を持つ男の瞳は、家族を疫病で失った民の代表だった。回廊の左右で弓弦が鳴る。ビュン! ビュン!矢は正確に、黒百合の紋章を付けた衛兵たちの右腕を貫いた。剣を落とし、悲鳴を上げて膝をつく彼らを、私たちは踏み越える。矢を放ったのは、かつて王太子暗殺の濡れ衣で家族を処刑された者たちだ。その矢に込められたのは、国民の溜まりに溜まった不満と怒りそのものだった。


「道を開けろ」


 レオンが低く唸るような声で言う。衛兵たちは波が引くように両脇に後づさった。すると蝶番の音が鈍く響き、玉座の間の大扉が、ゆっくりと開かれた。中央に据えられた黄金の玉座が、燭台の火を受けて鈍く光る。

 その上に座るヴィンセント公爵は、黒と銀の礼装を纏い、まるで夜そのものを形にしたような静けさを漂わせていた。紫の瞳が、私たちを、いや、私だけを、じっと見据える。口元が、ゆっくりと弧を描いた。


「遅かったね、オランジェット嬢……いや……今は、獅子頭橙子、だったかな?」


 嘲笑とも慈愛ともつかぬ声が、玉座の間に響く。レオンが剣を半分抜き、リバーが短剣を握りしめた。仲間たちの背後で、弓が引かれ、戦斧が低く唸る。私は一歩だけ前に出た。


「ヴィンセント・ド・ランフォード……てめぇは今夜、ここで終わりだ」


 公爵は小さく笑い、玉座から立ち上がった。黒いマントが波のように広がり、階段を、一段、また一段、降りてくる。


「終わり? いいえ、始まりだよ……私の王座への、第一歩が」


 その瞬間、玉座の両脇の扉が開き、黒百合騎士団の重装兵が、壁のように立ち塞がった。ヴィンセントは最下段で立ち止まり、私に向かって優雅に片手を差し出した。


「さあ、オランジェット嬢。最後の舞踏を、踊ってくれないか?」


 燭台の火が、紫の瞳に妖しく灯る。


「テメェ!何が最後だ!」


 ミランジェットが、ヴィンセントの背後からゆっくりと現れた。白いドレスに、プラチナブロンドの髪を高く結い上げ、まるで人形のように完璧な微笑みを浮かべている。でも、その瞳は、狂っていた。


「オランジェット……やっと来たのね」


 薔薇のように可憐な声。


「あなたはここで死ぬの。私がドナー伯爵家の後継……そして、王妃になるの」


 でも、底に這う毒が、私の皮膚を粟立たせた。

 私は一歩、また一歩と前に出た。


「王妃?」


 私は、はっきりと笑った。


「ヴィンセントに捨てられたら、お前はただの“使い終わった人形”だよ、ミランジェット」


 彼女の微笑みが、ピクリと歪む。


「黙って!」


 ミランジェットが叫び、ヴィンセントの袖を掴んだ。


「公爵様!早くこの女を!この汚らしい裏切り者を!」


 ヴィンセントは、振り向かない。ただ、静かに、冷たく、言った。


「ミランジェット嬢。君の役目は、もう終わったよ」


 瞬間、ミランジェットの顔から血の気が引いた。


「……え?」

「王太子は死んだ。つまり、君はもう必要ない」


 ヴィンセントはアレクシス王太子が毒で死んだと思い込んでいる。ヴィンセントが初めて、ミランジェットに振り返る。その紫の瞳に、感情は一滴もなかった。


「さあ、退いてくれ。邪魔だ」


 ミランジェットの唇が震え、次の瞬間、彼女は私に向かって、狂ったように叫んだ。


「嘘よ!私が……私が王妃になるって約束したのに!」


 私は、静かに短剣を抜いた。


「約束?あんたは最初から、捨て駒だったんだよ」


 そして、はっきりと言った。


「ミランジェット・ドナー。お前の罪を、今ここで清算する」


 私は一歩で距離を詰め、ミランジェットの長いプラチナブロンドを左手で鷲掴みにした。


「この世界舐めると、痛い目見るぜ!」


 短剣が弧を描く。ザシュッ!美しい髪が束ごと宙を舞い、白い頬に赤い線が走る。刃は皮一枚、浅く裂いただけなのに、血がぽたぽたと大理石に落ちた。


「きゃあああああああっ!」


 ミランジェットは両手で顔を覆い、壁の大きな鏡に映る自分の姿を見て、絶叫した。髪は肩より上でばさばさに切り揃えられ、右頬に真っ赤な傷が走っている。完璧だった仮面が、たった一太刀で、崩れ落ちた。


「いや……いやぁぁぁっ!! 私の顔が! 私の髪が!!」


 彼女は床に崩れ落ち、鏡に向かって這いずりながら、狂ったように泣き叫ぶ。私は短剣を逆手に持ち替え、冷たく見下ろした。


「痛いか?怖いか?これがお前が私にしたことの、百分の一だ」


 ヴィンセントは静かに拍手した。


「素晴らしい。だが、まだ終わっていないよ、オランジェット」


 私は振り返らず、ミランジェットの髪をさらに強く引っ張り上げた。


「次はお前の番だ、ヴィンセント……この妹を使って、私を殺そうとした罪……、王太子殺害の罪、全部、吐いてもらう」


 燭台の炎が激しく揺れ、ヴィンセントの暗い紫の瞳を照らし出した。

 レオンが私の前を遮るように一歩踏み出し、剣を抜いた。刃が燭台の火を受けて、怒りの炎のように赤く光る。


「なぜ……なぜ、アレクを狙った」


 声は低く、震えていた。それはもう、主従の忠義じゃなかった。幼い頃から共に過ごした、たった一人の友を奪われかけた怒りだった。ヴィンセントは興味深そうにレオンを見上げ、小さく首を傾げた。


「おや……君は......なるほど、よく似ている。まるで……先王陛下の若い頃のようだ」


 その一言で、レオンの顔が凍りついた。「黙れ」剣先が小刻みに震え、レオンは歯を食いしばって一歩、また一歩と詰め寄る。ヴィンセントは微笑んだまま、腰の長剣をゆっくりと抜いた。銀の刃が、まるで月光のように冷たく輝く。


「私は大きな間違いを犯していたのかもしれない。あの王太子を殺すより、君を殺しておけば、すべてはもっと簡単だったのにね」


 レオンの瞳に、殺意が燃えた。「うるさい……!」二人の剣が、同時に閃いた。乾いた音が玉座の間に響き渡った。火花が散り、鋼と鋼がぶつかり合う甲高い音が轟いた。私はミランジェットの髪を放し、レオンの背中に声を投げた。「レオン! 生きて帰るんだよ!」レオンは答えなかった。ただ、剣に込めた怒りと悲しみを、すべてヴィンセントに叩きつけるように、激しく、激しく、斬りかかっていった。


 ガキンッ! ガギィィン!


 剣が火花を散らし、二人の刃が絡み合うたび、玉座の間に鋼の悲鳴がこだました。「なぜだ! なぜアレクを狙った!!」レオンの叫びが、怒りで喉を裂く。ヴィンセントは剣を弾き返しながら、初めて、仮面の下から本当の顔を覗かせた。


「穢れた血は、いつか必ず滅ぶ!私が、この国を根絶やしにするのだ!!」


 紫の瞳が、狂気で燃える。「何のためにだ!」レオンの剣が、ヴィンセントの肩を浅く斬る。血が黒い礼装に滲む。ヴィンセントは痛みすら感じないように、笑いながら叫んだ。



「私は排除された!母上も! 兄弟たちも!王家に“穢れ”とされた血が、すべて焼き払われた!!」


 その声は、もう人間のものじゃなかった。


「だから、今度は私が焼き払う!王家を、教会を、この国を、すべて灰にする!そして、私だけが残り、神の名の下に新王として君臨する!!」


 レオンは剣を握りしめ、涙と怒りで顔を歪めた。


「おまえの復讐のために……アレクを、俺を、オランジェットを、何の罪もない人々を巻き込むのか!!」

「……穢れた血はいつか滅ぶ」


 ヴィンセントは、静かに、静かに、狂ったように微笑んだ。


「どう言うことだ!」

「君こそが王太子、影武者のふりをした真の王太子だ」


 レオンの顔色が変わった。レオンが王太子?それじゃ、この二人は従兄弟だ。


「義理も人情もないのかよ! やめろよ! 仲良くすればいいじゃねぇか!!」


 私の叫びが玉座の間に突き刺さった瞬間、二人の剣が激しくぶつかり、火花が爆ぜた。レオン、いや、アレクシス王太子は、息を切らしながらも、剣を握る手に力を込めたまま、初めて私を振り返った。金色の瞳に、涙が光った。


「……違うんだ、オランジェット……こいつは……もう、昔のヴィンセントじゃない」


 ヴィンセントは、静かに笑った。


「そうだ。俺はもう、七歳のあの日に死んだ。母上を抱いて泣いた、あの日のヴィンセントは、王家に殺された」


 剣が再び閃く。


「だから俺は、この国ごと、焼き払ってやる!」


 その悲痛な叫び声を切り裂くように、レオンが叫んだ。


「影武者として生きてきた俺は、もういない!今ここにいるのは、アレクシス・フォン・レーヴェンシュタイン!この国の王太子だ!!この国を滅ぼす者は許さない!」


 剣が、激しく、激しく、まるで二人の過去を切り裂くようにぶつかり合う。私は、もう我慢できなかった。「ふざけんなよ!!」私は短剣を投げ捨て、二人の間に、真正面から飛び込んだ。プラチナブロンドの髪が床に舞い落ちる。


「家族だろうが従兄弟だろうが、血が繋がってんだろ!だったら、殺し合う前に話せよ!!」


 私の声が、玉座の間に、初めて、静寂を呼んだ。二人の剣が、ぴたりと止まった。私は、涙と鼻水まみれで、二人を交互に睨みつけた。


「死ぬまで憎しみ合って、それで満足か?だったら、俺が先にぶん殴ってやる!!」


 沈黙。


 そして、レオンが、剣を下ろした。ヴィンセントも、ゆっくりと、剣先を床に落とした。私は、息を切らしながら、二人に向かって叫んだ。


「生きてるんだろ?だったら、生きて、向き合えよ!!」


 玉座の間が、死んだように静まり返った。剣が床に落ちる音が、乾いた鐘のように響く。レオンが膝をつき、ヴィンセントが、初めて、紫の瞳を揺らした。私は二人の間に立ち、震える声で、でも確かに言った。


「憎しみは、もう十分だろ」

「けれど母上を失った痛みも、家族を殺された痛みも、俺の中に腐ったままだ」


 ヴィンセントの頬に涙が伝う。でも、もう怒りじゃなかった。


「だから……もう、終わりにしよう……殺し合うのは、ここで終わりだ」


 私はゆっくりと歩み寄り、レオンの手を取った。そして、もう片方の手を、ヴィンセントに差し出した。


「生きてる。お前たち、二人とも、まだ生きてる」


 ヴィンセントは、私の手を見た。震える指が、まるで七歳の少年に戻ったように、小さく、小さく、伸びてきた。


「……俺は……もう、戻れない」


 掠れた声で呟く。


「戻れる」


 レオンが、初めて、従兄弟の名を呼んだ。


「ヴィンセント……悪かった……」


 二人の手が、私の手の中で重なった。熱かった。震えていた。でも、確かに、生きていた。ヴィンセントの瞳から、大粒の涙が零れた。レオンが、静かに言った。


「俺たちが失ったものを、これから、取り戻していこう。二人で」


 ヴィンセントは、初めて、幼い頃の笑顔を、ほんの少しだけ、取り戻した。私は二人の手を強く握りしめた。


「泣きたいだけ泣け。叫びたいだけ叫べ。でも、もう剣は置いてくれ」


 玉座の間に、誰かの嗚咽が響いた。それがヴィンセントなのか、レオンなのか、もう、誰でもよかった。朝日が、東の大きな窓から差し込んできた。血と涙にまみれた大理石の床を、優しく、金色に染めていく。憎しみの連鎖は、ここで終わった。これから始まるのは、痛みを抱えたまま、それでも前を向く、三人の、新しい物語だった。私は二人を見上げて、涙と笑みを一緒にこぼしながら言った。


「……さぁ、帰ろう。みんな、待ってるよ」


 王宮の大階段を、三人で並んで降りていく。朝日が、血の匂いを優しく溶かしていく。黒百合の旗はもう、誰にも降ろされずに風にはためいていたが、その下を歩く私たちの影は、もう敵じゃなかった。ヴィンセントは左肩を押さえ、それでも背筋を伸ばして、ゆっくりと歩いた。紫の瞳はまだ濁っているけれど、そこに宿るのは、もう復讐の炎だけじゃない。


 レオンが振り向くとヴィンセントは無言だが確かに『ありがとう』と呟いた。レーヴェンシュタインの未来は、この朝日のように眩く......優しい光に包まれることだろう。


 街の広場では、要塞の仲間たちが、リバーが、待っていた民たちが、静かに、私たちを迎えた。鐘が鳴る。八つ。新しい朝だ。私は深く息を吸って、空に向かって叫んだ。


「終わったよ!!もう、誰も死なせない!!」


 その声に、広場に集まった人々が、最初はぽつり、ぽつり、やがて、大きな歓声となって応えた。涙と笑いと拍手が、王宮の石壁を震わせる。ただ、牢獄に鎖で繋がれたオルファ侯爵がどうなるかは、神のみぞ知る……だ。







 一方、路地裏の要塞には、担架に乗せられた青年が運び込まれていた。天窓から差す一筋の陽光が埃を金色に染め、キラキラと舞う中を、深緑のフードを目深に被った背の低い老人がゆっくりと、一人の青年に手を翳す。腰が曲がり、黒いローブの裾が床を擦る……ロバ宰相だ。


 右手に握られた古びた杖の先端には、大きなエメラルドが鈍く光っていた。


「こりゃ……またレオンに瓜二つだね」


 青年を運んで来た男が小さく頷くと、老人は杖を握りしめたまま、ゆっくりと担架に近づいた。深緑のフードをわずかにずらし、皺だらけの顔を覗かせる。枯れた唇が動き、誰にも聞き取れぬ古い言葉が低くこぼれ始めた。


「……でた、ロバ爺ちゃんの魔法」


 私は思わず呟いた。エメラルドの先端が仄かに緑の光を灯し、苦しげな呼吸、蒼白の額に杖を翳した。ロバ宰相の声が一段と低く、部屋の空気を震わせる。「アウルの森の精霊の、御心のままに」その瞬間、エメラルドが放った緑の光が宙を舞い、弧を描くと、青年の口に吸い込まれるように流れ込んだ。すると荒かった息が穏やかなものに変わり、苦しげな息がぴたりと止まった。この青年は王太子の替え玉で毒を飲み、死の淵を彷徨っていた。彼の名はダントン。ロバ宰相の呪文により、ダントンの苦悶の表情が、ほんの少しだけ和らいだ。


「すごい……ロバ爺ちゃん、すごい!」


 思わず声が飛び出した瞬間、バイキングの巨大な手が私の口を慌てて塞いだ。老人はフードを深く被り直し、杖に皺だらけの顎を乗せて、ニヤリと笑った。歯の欠けた口元が不気味に歪む。


「爺ちゃんじゃねぇ。ロバ宰相様って呼べって言ったろ?何度言ったら分かるんだ、ん?」

「……そうだった、ごめん」


 ロバ宰相はゆっくりと杖を掲げた。先端のエメラルドが、ぴたりと私の額の前に止まる。冷たい緑の光が瞳に映る。老人は私の目をじっと覗き込み、にやりと笑った。


「お主……もう一人はどうした?」

「……は、はい!?」


 ロバ宰相はフードを捲ると目を凝らし、繁々と私の顔を見た。


「もう一人の女がおらぬ」

「......え?」

「泣いてばかりいた女が見えん」


 私は両手で自分の頬をパチン!と叩いて、目を思いっきり見開いた。


「え……ええええっ!?」


 ロバ宰相は「ふっふっふ……これは愉快じゃ、愉快じゃ」と低く喉を鳴らし、フードを被り直すと、ローブの裾を床に引きずりながら、エメラルドの光と共に仄暗い廊下の奥へと消えていった。杖の音がトク、トク、トク……と遠ざかり、最後にぴたりと止む。ギィ バタン 扉の閉まる音が響いた。冷や汗が脇に滲む。


「なぁ、もう一人の女って何のことだ?」


 バイキングが首を傾げて、角付きの帽子をがしがし掻いた。


「い……いやぁ、何のことかな?」


 私は自分の胸に手を当てて、ドクン、ドクン、と鳴る鼓動を確かめた。……確かに、オランジェットの涙も、悲しみも今は静かに寄り添ってくれている。彼女の気配がどこにもない。まさか……私、本当のオランジェットになったってこと!?


「ええええ!?ちょっと待って!?」


 私がパニックを起こしていると、ゆっくりと足音が近づいた。


「オランジェ……ちょっと良いかな?」


 レオンの手が肩に置かれた。私は、思わず彼の顔を見上げた。金色の瞳が、まっすぐに私を見つめている。もう『王太子の影武者』でも『護衛騎士』でもない、アレクシス王太子として。王太子……身分の違いに距離を感じ、切なくなった。


「えへへ……私、もうオランジェットじゃなくて、獅子頭橙子でもなくて……」


 言葉が詰まる。目頭が熱くなり、一生懸命、瞬いた。


「でも、どっちでもないってわけじゃなくて……どっちも私で……」


 誤魔化すように喋り続ける私を見て、レオンは静かに笑った。


「知ってるよ……君は、もう最初から“オランジェット”だった」


 彼は私の手をそっと取り、指と指を絡めて、ぎゅっと握った。


「オランジェット伯爵令嬢」

「な......なに?」


 私は、一瞬、息を止めた。朝日が街の石畳を金色に染め、風に乗って薔薇の香りが漂う中、レオン(アレクシス王太子)が、私の前で片膝をついている。金色の髪が風に揺れ、汗ばんだ手が、でも確かに私の指を包んでいる。


「……レーヴェンシュタインの王妃に、なってくれますか、オランジェット?」


 その声は、もう王太子のものではなく、ただの、恋する青年の声だった。私は、胸の奥が熱くなるのを感じた。オランジェットの涙も、獅子頭橙子の怒りも、全部が今は優しい鼓動に変わって「はい」と答えるのを待っている。私は、ゆっくりと、彼の前に跪いた。同じ高さで、同じ目線で、同じ笑顔で。


「……いいわ、レオン」


 私は彼の手を両手で包み、額をそっと彼の額にくっつけた。


「ずっとあなたの隣にいさせて」


 レオンの瞳が、涙で揺れて、でも、世界で一番幸せそうに笑った。そして朝の光の中、二人は初めてただの恋人同士として、静かに深くキスをした。


 バイキングの「うおおおおお!! やったぜぇぇぇ!!」という野太い歓声が轟き、リバーが真っ赤になって「うわっ……見ちゃダメか……いや、見たい……」と手を顔に当てながら指の隙間から覗き、ダントンは腕を組み、幼馴染の幸せに頷いた。要塞の仲間たちが口笛を吹き、拍手し、涙ぐみながら笑いちばん後ろで、ロバ宰相が「ふっふっふ……これもまた愉快じゃ」と小さく呟いて、杖で地面をトントンと叩いた。



 鐘が九つ目を打つ。


 その余韻が石畳の広場を震わせ、朝の空気を金色に溶かしていく。風が少し冷たい。けれど、私の頬は熱い。レオンの腕の中で、自分の鼓動が彼の鼓動と重なっているのがわかる。まるで二人がひとつだった頃の、遠い記憶みたいに。

 私はゆっくりと唇を離した。離れても、ほんの数センチ。息が触れ合う距離で、レオンの瞳を見上げる。そこには涙が光っていた。私のせいで零れた涙なのに、どうしてこんなに綺麗なんだろう。額をくっつけたまま、私は囁いた。


「……これから、ずっと一緒にいてくれる?」


 レオンは瞬きを忘れたみたいに私を見つめて、それから小さく、でも確かに頷いた。


「当たり前だろ」


 声が震えていた。いつも冷静で、どんなときも笑顔を崩さない彼が、こんなに掠れた声で。


「君のことは……一生、離さない。約束する」


 その言葉が胸の奥に落ちて、熱い塊になった。私は目を閉じて、ぎゅっと彼を抱きしめた。背中に回した腕に力を込める。もう離さない。私も、絶対に。


 ふと、広場のざわめきが遠のいた。誰かが息を呑んでいるのがわかる。貴族たち、騎士たち、街の人たち……みんなが私たちを見ている。でも、もう怖くない。私はゆっくりと顔を上げた。


 そして、今度は誰に遠慮することもない、はっきりとした声で言った。


「私、オランジェット・ドナー、この人と、幸せになります!」


 瞬間、広場が爆発した。

 歓声が、拍手が、笑い声が、涙声が、全部が空に舞い上がる。子供たちが旗を振り、老婆が手を合わせて祈り、騎士たちが剣を抜いて天に掲げた。朝日がその刃に反射して、まるで星が降ってきたみたいにきらめく。


 私はレオンの手を握りしめたまま、みんなに向かって深く頭を下げた。ドレスの裾は泥と血で汚れ、髪は乱れ、頬には涙の跡。でも、それが私だ。今の、私。


 もう“完璧な令嬢”なんかじゃない。


 泣き虫で、わがままで、失敗ばっかりで、それでも必死に走って、必死に傷ついて、必死に愛してきた、私。

 泥だらけで傷だらけで、でも誰より強く、誰より優しく、誰より自由な、私の、オランジェット・ドナーだった。


 レオンがそっと耳元で囁いた。


「歓声がうるさくて、聞こえなかったみたいだ」

「え?」

「もう一回、言ってくれないか? 今度は俺だけに」


 私は顔を上げて、くすっと笑った。それから、彼の耳に唇を寄せて、ほんの小さな声で言った。


「愛してる、レオン。ずっと、ずっと」


 レオンは目を細めて、幸せそうに笑った。

 朝日が私たちを、新しい未来を、まぶしく、まぶしく照らし続ける。

 鐘の音はもう聞こえない。


 でも、私たちの新しい一日が、確かに、ここから始まっている。

 朝の謁見を終え、レオンアレクシスは玉座の背に深くもたれたまま、ため息を一つだけ漏らした。重い金の冠が、今日も少し頭を締めつける。


「陛下、お疲れのご様子で」


 側近が心配そうに声をかけても、レオンは小さく笑って首を振るだけだ。疲れてなどいない。ただ、早く帰りたいだけだった。謁見の間で待っていたのは、七年前とは似ても似つかぬ光景だった。


 玉座の足元で、五歳の王子ユーリが木の剣を振り回し、七歳の第一王女リリアが「ユーリ、危ない!」と追いかけている。侍女たちが慌てて止めに入るが、子どもたちは笑いながら逃げ回る。


「……これが、王家の品格か」


 レオンが苦笑すると、奥の扉が開いた。


「レオン......また子どもたちを甘やかしてる!」


 白いドレスに薄紫のマントを羽織ったオランジェットが立っていた。王妃の冠は今日もしていない。ボサボサのプラチナブロンド、代わりに、髪に小さな桜の花を一輪だけ挿している。


「ほら、これ可愛いでしょ?リリアに貰ったの」


 オランジェットは優雅に微笑むが、ドレスには芝が付き、裾は泥で汚れている。


「......これはお前に似たんだ......オランジェ......」


 レオンは玉座から立ち上がり、子どもたちを軽く抱き上げてオランジェットに近づいた。「ママ!パパがまたユーリに負けた!」リリアが得意げに報告する。ユーリは恥ずかしそうに顔を埋めた。


「陛下が負けるわけないでしょ」オランジェットは笑いながらレオンの腕に自分の腕を絡めた。その瞬間、謁見の間の重い空気が、ふっと柔らかくなった。廊下に出ると、春の陽射しが差し込んでいる。


 レオンはオランジェットの腰に手を回し、小声で囁いた。


「……七年か」

「うん」

「まだ、夢みたいだ」


 オランジェットは足を止めて、レオンの顔を見上げる。


「私もよ。朝起きて、あなたが隣にいて、子どもたちが騒いで……こんな日が来るなんて、思わなかった」


 レオンは無言で彼女を抱きしめた。金糸の刺繍の入った王のマントと、王妃のドレスが絡まる。背中に触れる傷の感触を、レオンは今でも覚えている。あの日の血と泥と涙を、全部。


 ヴィンセント侯爵は黒百合騎士団を率い、辺境地の警護にあたっている。時々、王宮を訪ねては、可愛い甥や姪を膝に乗せ、魔獣と戦った武勇伝を聞かせ微笑んでいる。彼の紫の瞳に翳りはもう......ない。


「ねえ、レオン」


 オランジェットが顔を上げた。


「今日の夜、屋上で花見しない?子どもたちも連れて」

「……また、侍従たちが卒倒するぞ」

「いいの。王妃の特権よ」


 彼女は悪戯っぽく笑う。その笑顔は、七年前の広場で見た、あの泥だらけの笑顔と、まったく変わっていない。


 夜。


 王宮の屋上は、桜の花びらで埋め尽くされていた。レオンとオランジェットは並んで座り、子どもたちを膝に乗せている。リリアが「お星さま!」と指差す先で、春の星が瞬いていた。


「パパ、ママ、ずっと一緒にいる?」


 ユーリが小さな声で訊いた。レオンとオランジェットは顔を見合わせ、同時にはっきり答えた。「当たり前だろ」「ずっと、ずっとよ」子どもたちが満足そうに頷く。


 風が吹いて、桜の花びらが舞い上がる。

 オランジェットはレオンの肩に頭を預け、囁いた。


「ねえ、レオン」

「ん?」

「私たち、ちゃんと幸せになれたね」


 レオンは答えず、ただ彼女の手を強く握り返した。遠く、王都の鐘が九つを打つ。あの日の音と同じ、優しい響きだった。新しい国王と王妃は、もう完璧なんかじゃない。国政で揉めに揉め、子どもに手を焼き、夜中に二人で泣いたこともある。


 でも、それでいい。これが、私たちが選んだ、泥だらけで、傷だらけで、それでも誰より強く、誰より優しく、誰より自由な、私たちだけの、幸せだから。桜が散っていき、星が瞬いていく。そのすべてを、二人で、家族で、永遠に見守っていく。



お読みいただきありがとうございます


異世界北海道 夫を探して異世界へ来たら、夫にはもう妻がいました ~食堂酒場を開き、幸せになります~


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