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第024話 そのまま暮らす

その朝のことを、智也は誰にも言わなかった。


小テストには少し遅れた。教室の後ろのドアから入ると、先生がちらっとこちらを見た。山内も見た。智也は目を合わせず、空いている席に座った。


答案用紙の上には、すでに問題が並んでいた。


半分くらいしか分からなかった。


午後の面接では、店長らしい人に「朝、弱い?」と聞かれた。たぶん目の赤さを見たのだと思う。智也は「今日はちょっと」とだけ答えた。


店長はそれ以上聞かなかった。


採用かどうかは、後日電話すると言われた。


母から電話があったのは、二日後の夜だった。


画面に実家の番号が出て、智也は少し迷ってから出た。部屋では、換気扇が三秒遅れて大きな音を立てている。冷蔵庫の中の豆腐を食べようとして、手を止めていたところだった。


「ご飯、ちゃんと食べてる?」


最初に聞かれたのは、それだった。


「食べてる」


「野菜も?」


「たぶん」


「たぶんって何」


母は少し笑った。


智也は冷蔵庫を開けた。中には豆腐と卵と、半分だけ残ったキャベツが入っている。キャベツの切り口は少し乾いていた。


「キャベツある」


「あるだけじゃだめでしょ」


「食べるよ」


「ならいいけど」


母はそれ以上、亮介のことを話さなかった。智也も話さなかった。洗面台で泣いたことも、言う必要があるのか分からなかった。


「父さんは」


「お風呂」


「そっか」


「小テストどうだった?」


「普通」


「普通ならいいけど」


普通ではなかったが、説明するほどでもなかった。


電話を切ったあと、智也はキャベツを千切りにしようとして、途中で面倒になった。太いまま皿に載せ、マヨネーズをかける。豆腐はパックから出して、しょうゆを少し垂らした。


白い皿を使った。


欠けたところを親指で避けながら、低いテーブルまで運ぶ。もう、その皿が誰のものだったかを毎回考えたりはしない。考えないまま使える日が増えていた。


食べ終わってから、皿をすぐには洗わなかった。


流しに置くと、箸が一本だけ滑って排水口のそばに落ちた。拾い上げて水で流し、結局そのまま全部洗った。明日の朝に使う皿が一枚もないと困る。


困るから洗う。


それだけだった。


次の日、大学の帰りにドラッグストアへ寄った。


カミソリ売り場には、種類が多かった。替刃だけで高いものもあれば、使い捨ての安いものもある。智也はしばらく見て、前に自分が使っていたものと似た三本入りを買った。


レジの袋は断り、リュックの前ポケットへ入れる。


部屋へ戻ると、玄関の鍵はいつものように少し持ち上げて回した。靴を脱ぎ、リュックを床に置く。机の上には、未提出のレポート用紙と、飲みかけのペットボトルがある。洗濯物は取り込んだまま、ベッドの端に積んであった。


きれいな部屋ではなかった。


でも、知らない部屋でもなかった。


カーテンの閉まり具合も、ベッドの足元に置くと邪魔になる箱の位置も、暗いまま歩くと膝をぶつけるテーブルの角も、もう分かる。分かっているのに、時々ぶつける。ぶつけて、低い声で文句を言う。


誰に向けた文句でもなかった。


智也は洗面台へ行き、新しいカミソリの袋を開けた。


一本を棚の手前に置く。


兄の古い一本は、まだ奥にあった。


手に取って、少しだけ見る。


捨ててもよかった。


捨てなくてもよかった。


どちらでも、たぶん部屋は明日も同じように朝になる。


智也はそれを棚の奥へ戻した。新しいものを手前に置く。洗顔料と歯磨き粉の間に、収まりのいい場所ができた。


扉を閉める。


それで終わりだった。


燃えないごみの日は木曜だ。覚えている。覚えているけれど、今日ではない。捨てるならその日に出せばいい。忘れたら、次の木曜に出せばいい。


そのくらいのものとして、棚の奥にあった。


数日が過ぎた。


梅雨はまだ本格的ではなく、降りそうで降らない日が続いた。窓の水滴は前より少なくなったが、朝にはやはり下のほうが少し濡れている。智也はタオルで拭き、洗濯物の乾き具合を見て、換気扇を回した。


音は相変わらず大きい。


もう驚かない。


大学では、山内と同じ講義が週に二つあった。


学食で気まずくなってからも、山内は普通に話しかけてきた。変に気を遣う日もあれば、忘れたみたいに軽い日もある。たぶん、どちらも山内だった。


その日、講義が終わったあと、山内がノートを閉じながら言った。


「レポート、やった?」


「半分」


「半分やってるの偉いな」


「偉くはないだろ」


「俺、題名だけ書いた」


山内は真顔で言った。


智也は少し笑った。


「終わってるじゃん」


「始まってもない」


二人で教室を出る。廊下は湿気で少し暑かった。窓が開いていて、外からグラウンドの声が聞こえる。


「どっかでやって帰るかな」


山内が言った。


「図書館混んでるんだよな」


「学食は?」


「絶対しゃべる」


「もうしゃべってる」


「たしかに」


階段を下りながら、山内が智也のほうを見た。


「杉浦んとこ、机ある?」


智也は一段下で足を止めかけた。


すぐに歩き出す。


「あるけど、狭いよ」


「床でもいい」


「床はやめとけ。汚い」


「汚いのかよ」


「俺の部屋だし」


言ってから、智也は少しだけ口を閉じた。


山内は気づいたのか、気づかなかったのか、分からない顔でうなずいた。


「じゃあ、きれいになったら行くわ」


「一生来れないかも」


「片づけろよ」


山内が笑った。


智也も、少し笑った。


それ以上、その言葉のことは話さなかった。


俺の部屋。


頭の中で、遅れて繰り返した。


言い直さなかった。


その夜、智也はレポートを半分より少し進めた。机が狭いので、教科書を床に置く。床には洗濯物を入れるかごと、コンビニの袋があった。袋の中には、飲み終わったペットボトルが二本入っている。


きれいではない。


使ったものが、そのまま残っていた。


朝になった。


目覚ましは一度で止めた。窓の外は白く明るい。雨は降っていない。智也は布団から起き、カーテンを開けた。窓の下をタオルで拭く。


洗面台へ行く。


鏡の右端は、まだ曇っている。智也は少し左に立つ。水を出し、顔を洗う。新しいカミソリを手に取り、顎の下に当てた。


前より、よく剃れた。


すっと進む。けれど、同じところを二度なぞると、肌が少し痛んだ。智也は水で流し、指で顎を確かめる。


棚の奥に、透明なカバーが少しだけ見えた。


智也は手元の一本を手前に戻し、扉を閉めた。


朝食は食パン一枚だった。焼きすぎて、端が少し焦げた。コップに水を入れて飲む。テーブルの上には、開いたままの教科書と、昨日使ったシャープペンが転がっている。


片づける時間はあった。


でも、帰ってからでいいと思った。


リュックにノートを入れ、学生証をポケットに入れる。玄関で靴を履く。鍵をかけるとき、少し持ち上げて回した。


かちり、と音がした。


階段を下りる。


部屋の中には、洗っていないコップと、乾きかけのタオルと、開いた教科書が残っている。


帰ってきたら、またそこから続ければよかった。

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