第7話 命の灯火
「雫ちゃんお疲れさん。ありがとう、助かったわぁ」
風呂掃除を終え、渚から受け取ったタオルで濡れた手足を拭く。
五月も終わる日の夕方。雨の今日は出かける事も無く、三人で民宿の掃除をして過ごしていた。
「お風呂沸かしておいたよ」
「ありがと。湧いたら雫ちゃん先に入ってええよ」
廊下の向こうから電話の音が響く。海里を呼んだが返事が無い。渚が「もうっ」と脱衣所を出て行った。
雨どいを伝う雨音が心地いい。ガラス戸を閉めたまま空を見上げると、どんよりとした灰色の雲がどっしりと覆っていた。
いつもならこの時間は夕陽が射し込む。少し前までは当たり前だったそんな景色が、梅雨になった今は恋しく感じた。
「雫、風呂掃除ありがとな」
二階から降りてきた海里が、疲れた様子で座布団に胡坐をかいた。
「廊下の奥が雨漏りしててさぁ。とりあえず応急処置して何とか止まったけど、念の為、でかいバケツ置いといたよ。このまま降り続いたら夜中にまた漏るかもな。渚は?」
雫が答えようとすると、渚が上機嫌で部屋に戻って来た。にやにやしながら、小さなメモ用紙を顔の横で見せびらかしている。
「宿泊の予約が入りました!いやぁ、なかなかお客さんが来んかったから嬉しいよねぇ。明日の午後に到着予定でーす。お昼は途中で食べて来るらしいから、夕飯と翌日の朝食をお願いしますって言うてたよ。お客様は女性おひとり。海がよく見える部屋が良いみたいやから、二階をご案内しますって言っといたよ」
「まじかよ。二階、雨漏りしてんぞ」
「嘘っ!何それ」
渚が階段を駆け上っていく。海里もその後に着いて行った。
ひとり残された雫は、部屋に戻って着替えを取りに行くことにした。
突き当りを左に曲がった廊下の奥から、渚と海里の声が聞こえてくる。雫は部屋のドアをそっと閉めた。
風呂からあがると、二人は台所に立って夕飯の支度を始めていた。
渚が味噌汁用の豆腐を手のひらに置いて器用に包丁で切りわける。海里は黄色と赤色のパプリカを切り、冷蔵庫から牛肉を取り出した。
「雫、ここ任せて良いか?俺も冷める前に風呂入っちまうわ。牛肉とパプリカ炒めるだけだから。調味料は渚が合わせたのがここにあるんだ」
「うん。大丈夫」
エプロンを着け、海里と場所を変わる。渚は鍋に厚揚げとちくわを入れ、目分量で調味料と水を入れて煮始めた。雫は熱したフライパンに牛肉を投入する。
ジュッという音と共に、柔らかそうな赤身に火が通っていく。パプリカを加えて油が全体に回ったら、砂糖と醤油と酒を合わせたものを回しかけ、一気に炒める。
パプリカは艶々に、牛肉も甘辛い調味料が絡んだら完成だ。
隣の鍋では、ふるふると厚揚げが煮汁の中で震えていた。ちくわもしっかりと味が染みた色をしている。落し蓋の隙間から漏れてくる匂いだけでも、お腹が空いてきた。
「雫ちゃん、お料理もだいぶ慣れたんちゃう?上手い上手い」
「嬉しい。ありがとう」
最初は野菜を切ったり洗ったりするだけだったのも、今では料理の全ての工程を任せて貰えるようになった。
民宿を営む一員となれているようで嬉しい。今日の風呂掃除も、渚に頼まれた時はとても嬉しかったのだ。
「私、少しずつでも役に立ててるかな」
わかめと豆腐が入った鍋に味噌を溶いていた渚の手が止まる。ただでさえ大きな目を更に開き、きょとんとした表情を見せた。
「何言うてんの。当たり前やん。雫ちゃんは一生懸命やってくれてるし。大体、役に立つとか言う問題ちゃうで。ここにおるだけで意味があるんやから」
「そっか……。良かった」
嬉しくてにやけそうになるのを堪えながら、牛肉の甘辛炒めを大皿に移した。
「海里にもっと甘えてみ。多分、海里もそうして欲しいと思うよ。昔から、ずーっとあいつは雫ちゃんの事を気にかけて来てるから。ほんまやで。ほら、あれもその証拠やし」
渚が縁側の向こうを顎で指す。しっとりとした濃緑の葉先から次々と雨が流れ落ちる朝顔。
種を植えて数日で芽が出た空色アサガオは、今ではその葉を大きく広げて日々ぐんぐんと成長しながら、支柱にツルを巻き付けていた。
「色んな経験を雫ちゃんにして欲しいみたいやで。まぁ、田舎で何も無い分あんな事しか思いつかんみたいやけど。朝顔の芽が出た時、雫ちゃんが喜んでくれたってずっと家で言うてたもん」
用意しておいた小皿に厚揚げを移し、料理を居間に運ぶ。
風呂からあがった海里と三人で食卓を囲み、早めの夕食となった。
「あの、二人にお願いがあるんだけど」
食事を終えて一息ついたころ、外はすっかり暗くなっていた。時刻はもうすぐ七時になろうとしている。後片付けを済ませ、お茶を飲んで落ち着いたタイミングを見計らって雫が切り出す。
「蛍が見たい、です」
「ほたる?あぁ、この辺りは六月だな。川とか行ったらすぐ見つかるんじゃねぇかな。良いぞ。時期になったら連れて行ってやるよ」
「良いやん。大人になってからは見てないけど、めっちゃ綺麗やで。今も手つかずの自然は多いから、いっぱいおると思うよ」
円卓に置いた菓子入れから、海苔の付いた煎餅を取り頬張る。その向かいで海里もお茶の入った湯呑をぐいと傾けた。
「あの……ホタルブクロも一緒に見たいの」
予想外のお願いに海里がむせそうになる。渚も「ホタルブクロ?」と、煎餅をお茶で流し込んだ。
「ホタルブクロって。もしかしてジュンさんから聞いたか?」
頷くと、海里が「やっぱり」と納得した。
「俺が昔見たのは山の中だったな。山で、蛍もいる場所って事だろ。……まぁ、絶対両方が見られるは限らないけど、それでも良いなら来月に行ってみようぜ」
その日の夜は海里が言っていた通り、廊下の奥で外の雨音に混じってバケツに雨粒が跳ねる音が聞こえていた。
ポン ポン ポン
時々ゆっくりになったり、続けざまに聞こえたり。応急処置だけだから漏るかもとは聞いていたが、やはりこれだけよく降るとその通りになってしまった。
このまま放っておいても大丈夫だろうか。部屋に来る前に一度見たら、かなり大きめのバケツが置かれていたので溢れる事は無いかもしれないが、少し心配にはなる。
古い民宿。やはりいつかは無くなってしまうのだろうか。祖父が生きた場所。雫にとっても想い出の詰まったこの場所がいつか無くなってしまったら。急に寂しくなって、布団の端を握る。
街灯もない海辺。雨が打ち付ける窓の向こうは、月の無い黒塗りの世界だ。それでも、灯台は今も海の彼方を照らしている。果てしない海で迷う事の無いように。
私にとっての、海里と渚みたい。
死んだと思ったひとりぼっちの雫に、いつも寄り添い変わらぬ笑顔を向けてくれる二人は、暗い海を示す灯台の光のようだ。
また一つ、ぽんっとバケツを雨粒が打つ。その音に耳を澄ませているうちに、いつのまにか眠りの世界に落ちていた。
目が覚めて最初にバケツを確認しに行ったら、何とか溢れずに済んでいた。雨もすっかり上がり、天気予報では今日は梅雨の中休み。
これから数日は晴れが続くらしい。溜まっていた洗濯物を二人が来る前に片付けておくことにした。
雨上がりのベランダに出ると、床板や裏山の木々の匂いが瑞々しさを含んでいた。
白い朝陽が雫に降り注ぐ。小さな波が打ち寄せるゆるやかな弧を描く浜辺と、海にせり出した防波堤の先端に立つ白い灯台。長い髪をふわりと撫でる海風までもが愛おしい。
あと僅かな時間しかここに居られないと思うからだろうと、雫は水平線を見渡した。
三か月後のここに雫はいない。
それでもこうして海は波を立て、風に乗ってトンビが飛び、朝には太陽が昇って、白い月が黄昏時の空に佇むのだろう。
巡る四季の中、渚と海里はここで日々を暮らしていく。そこに自分がいないと思うと、目の前にある当たり前の日常が宝物に見えてくる。
三人のエプロンがはためく。洗濯物を干し終えて一息吐いたところで、玄関の鍵を開ける音が聞こえた。
朝食を終えると、海里が「よし!」と立ち上がった。その声に驚いたように、庭木に止まっていた鳥が小さく鳴いてバタバタと飛び去った。
「二階の廊下、昨夜の雨漏りで天井が染みちまってるし、お客さんには一階に泊まって貰おう。俺、サクッと掃除してくるわ」
「じゃあ私は買い物でも行ってこよかな。雫ちゃん、どうする?一緒に行く?」
海里が掃除用具を取りに階段横の物置に向かった。渚も鞄を肩にかけ、スマホをズボンのポケットに入れた。
「ううん。私もここの掃除手伝う」
「そっか。じゃ、行ってくるね。力仕事とかは海里に任せてゆっくりしときや」
雫の肩を二度叩く。なんとなく含みを持たせたような笑みを浮かべた渚は、民宿を出て行った。
「雫、廊下の掃き掃除してくれるか?」
海里に渡された箒を受け取り、玄関へ続く廊下を掃く。
廊下の小窓を開けると、梅雨で多くの湿気を含んだ民宿に、涼やかな風と朝陽が射し込む。
居間の向かいにある六畳の客間では、海里が窓辺に風鈴を釣っていた。
縁側と同じホタルブクロの形をした風鈴がリンと鳴る。
掃除の済んだ部屋で海里は満足気に「おし。終わり」と、腰に手を当てて風鈴を見上げた。
物置に箒と塵取りを仕舞っていると、かがんだ拍子にポケットから巾着が落ちた。
雫がここに来た時に唯一持っていた物。旅館で出会った西本の電話番号が書いてあるメモと、ブルートパーズのおもちゃ。
事故の時にポケットに入っていたメモに付く生々しい血は、雫の現実を表すようにこびりついている。
再びポケットに仕舞い、物置の扉を閉めた。
「お疲れ。休憩しようぜ」
冷蔵庫からサイダーを取り出し、グラスに注ぐ。
しゅわしゅわと透明の中に泡が弾けるのを見ていると、梅雨を超えた先にある夏を思い起こさせる。
「朝顔、成長してきたなぁ。初めてにしてはかなり良い感じじゃね?なっ」
半袖を肩まで捲り上げ、サイダーを飲んで炭酸に声を唸らせる。
海里の筋肉質な腕に、また胸の奥で鼓動が強くなってしまった。
「最近は夜ちゃんと寝てんのか?」
「うん。おじいちゃんのノート見る事も無くなったし寝てるよ。お母さんの事も、海里たちのお陰で会う事が出来て、ずっと抱えてたもやもやも軽くなったから」
そう言うと海里は満足気に「良かったじゃん」と、にんまり笑顔を見せた。
四時を回った頃、予約客である真山智美がやって来た。
真山はまだ梅雨だというのに既にしっかり日焼けした肌に、お団子に結った黒い髪。エスニックを思わせる色柄のゆったりとしたシャツとパンツ姿の、個性的でおっとりとした雰囲気の人だった。
「すみません、二階の部屋を取らせて頂いていたんですけど、廊下が雨漏りしてまして。一階の部屋も窓から海が見えますから、そちらに泊まって頂こうかと」
「雨漏り?私見てみましょうか?」
民宿について早々、縁側が気に入ったらしい真山は風鈴の下に座りその音を楽しんでいた。
独身の真山は昨年古い家を買い、自分で改修工事をしているらしい。
彼女の申し出に流石の渚も断ったが、物凄い興味を示した海里が「是非お願いします」と、二階に案内してしまった。
「ちょっと天井見ても良いですか?こっちの押し入れから上がれないかな」
すぐ隣の部屋の押し入れから慣れた様子でひょいひょいと上っていった真山は、しばらくしてから降りてくると、海里と何やら話し込む。二人はそのまま民宿の裏にある倉庫へと出て行った。
「来たばっかりのお客さんに何させてんねん、ほんま」
ぼやきながら、渚が天ぷら用に粉と卵、水をかき混ぜる。雫は隣で絹さやの筋を取っていた。
「ちょっと真山さんとホームセンターまで行ってくるわ」
台所の勝手口から顔を覗かせた海里は、そう言うとさっさと扉を閉めてしまった。
「は?ちょ、待って――」
渚が洗った手を拭いて慌てて追いかけた時には、車を取りに真山と二人で夕陽が浜を出て行った後だった。
「美味しい!サックサク」
大葉の天ぷらを食べて幸せそうに笑みを浮かべている。
夕飯は、天ぷらと絹さやの卵とじ、サザエのつぼ焼きだ。
雫はキモと呼ばれるサザエの緑の部分が少し苦手だが、真山はその身を慎重に抜き、綺麗に出たのを見て「ここが一番好きなのよね」と、嬉しそうに頬張る。
ビールを勢いよく流し込んで「幸せだ!」と今日一番の大きな声で叫んだ。
「いやぁ、真山さんのお陰で助かりました。ありがとうございます」
「あれでもう漏らなきゃ良いんですけどねぇ。一応素人だから……。でもうちも最初は盛大に雨漏りしてたのを私が直したから、大丈夫だと思います」
ふわふわの卵でとじた絹さやは雫が作った。渚も海里も、真山もとても美味しいと褒めてくれた。
リン、と梅雨の夜の少し湿っぽい音を風鈴が奏でる。殆どテレビを点ける事の無いこの民宿では、風鈴や風の音、虫の声なんかもテレビ代わりのBGMとなる。
「今夜は二階、使わせてもらっても良いんですよね?さっき海里さんが部屋に風鈴を付けてくださいましたし。天井の染みなんか、古い家を大事に使い続けてる証ですし、気にしませんから」
真山はどうしても上の部屋に泊まりたいらしく、頼み込まれた海里が一階の部屋に付けていた風鈴を付け変えたらしい。
夕食後、海里が家に帰るという事で渚が民宿に泊まる事となった。
「明日、朝イチで来るわ。雫はゆっくり寝とけよ。渚、あと宜しくな」
海里が帰ってから、風呂を終えた真山と渚、雫とで居間に集まる。
真山のリクエストで梅酒を出した。あてになる物が無いので、台所にあった煎餅や水羊羹も用意して円卓を囲むと、いつの間にか女子会が始まっていた。
「三十歳になるまでは両親も結婚はまだかーってうるさかったし、私も内心焦ってたんだけど、超えてみたら案外何てことなくてさぁ。どうせなら一人で生きていける力を付けようって思って、郊外のボロ屋を買ったのよ。父親が建築関係の仕事してたから、相談したり、自分で調べて見よう見まねであちこち修理したりね。壁を豪快にバリバリ剥がすのは勇気が要ったけど、やってみたらこれが結構気持ち良くてさ。気付いたらどんどんはまっちゃって、築五十年超えのボロ屋が今や綺麗な家になったのよ」
真山はざらめの煎餅を食べる。醤油のしょぱさとざらめの甘さが程よくて雫もお気に入りの物だ。
渚も煎餅を食べつつ、少し前のめりで真山の話に聞き入っていた。
「あんなに結婚だ孫だってうるさかった父も、家の修理で色々相談してたらノリノリでさ。前より良い関係が築けてるのよね。挙句の果てには『結婚が全てじゃない。智美が自分のやりいたい事を見つけたなら、父さんはそれで良い』って、後押しまでしてくれてんのよ。母も台所が使えない間、ずっと食べ物を届けてくれてね。家が住めるくらいにまでなった時には、食べきれないくらいご馳走作ってパーティーまでしたのよ」
クスクスと肩を揺らして笑い、梅酒のグラスを傾ける。雫がお茶を飲む隣で、渚は「凄いですねぇ」と深く感心していた。
「そういえば海里君、運転上手いよね。私、車庫入れ苦手でさぁ、左折も駄目なのよ。高速道路なんて怖くて乗れやしない。細い道で対向車が来たら冷や汗通り越して脂汗よ。でも彼、スイスイーって行っちゃうから思わず上手いねなんて言ったら『世話になってる家族が運転苦手だから、俺が出来てなくちゃって思って練習したんです』って言ってたわ。あれ、渚ちゃんの事よね」
渚は「えぇ、まぁ」と恥ずかしそうに苦笑いする。
渚の母親も仕事場までは原付で通っているらしい。渚に至っては何処に行くにも自転車移動。車に関しては、ペーパードライバーだ。そんな二人の役に立ちたいと、海里が練習する姿が雫には容易に想像できた。
「海里君、優しそうだし明るいからモテるんじゃないって聞いたら『今はやらなきゃいけない事があるんです。俺の気持ちより、今はそっちを優先したくて』って言ってた。何かよく分かんなかったけど、素敵だなぁって思っちゃった。自分の気持ちを後回しにしてって事は、誰かの為に優先したいことがあるって事でしょ?あの若さでそれが出来るって、凄く優しい証拠だと思う」
民宿に来るまでの長旅のせいもあるだろう。グラス一杯の梅酒にすっかり酔いが回っているらしい真山は、頬を赤らめて目がとろんとしている。
ゆらゆらと体を左右に揺らしながら、気持ちよさそうに笑っていた。
「真山さん、部屋行きましょうか。あんまり酔っちゃうと階段が危ないですから」
「そうねぇ。そうしようかなぁ」
ふらふらと洗面所に行き歯磨きを済ませた真山は、渚に連れられて階段を上る。雫はその間にテーブルの上を片付ける事にした。
「片付けてくれたんや。ありがとう。真山さん、寝る前に嬉しそうに窓から海眺めてはったわ。海が好きなんやって。高い所から見渡す海が好きで、どうしても二階が良かったらしいよ。理由聞こうおもたら寝てもうたわ。ふふっ。寝つきの良さは海里にも負けなさそうやな、あの人」
渚が洗面所に行くと、暫くして歯磨きをする音が聞こえてきた。
誰かがいる夜は久しぶりだ。階段を上り、部屋の前で立ち止まって耳を澄ますと、奥の部屋から微かに真山の寝息が聞こえる。
渚が居間の電気を消したようだ。真山が泊まる予定だった部屋の襖が締まる音がした。
誰かの音が聞こえる夜も悪くない。酒に溺れた母が唸る声でもない。情も何もない義父の冷たいいびきでもない。なんとなく心地良いのだ。
部屋に入り扉を閉める。窓を開けると、今日も黒い海に月明りがたゆたい、薄暗い沖で立ち上がる小さな波が、ざぶん、ざぶんと音を立てていた。
『もしかして海嫌いだったかな。それとも暗いのが駄目とか?』
西本の優しい口調を思い出す。雫が苦手な暗く孤独な夜のイメージも相まって、怖いと思っていたこの景色。
だが、もう怖いなんて微塵も感じない。それどころか、美しいと思える。
海里と釣り糸を垂らした海。沢山の命が輝く海だという事を、海里が教えてくれた。
雨の日には荒れに荒れるが、晴れた時にはまたその景色に心を奪われる。夜の海もまた、心穏やかにさせてくれるという事に、ここに来てようやく気が付いた。
海里が優先したい事とは何だろう。
ふと、真山の言葉が引っかかる。前に、海里は雫の事を昔から気に掛けていると言っていた。
もしかして、と思ったが慌ててかぶりを振る。
「自意識過剰って言うんだよね。こういうの」
誰もいない部屋に思わず漏れた笑みに恥ずかしくなった雫は、布団を頭までかぶった。
「うっそ、朝からお刺身食べれるなんて!」
顔を洗って居間にやって来た真山が、食卓に飛びつく。
「今朝採れたイカらしいですよ。さっき買って来たんです。せっかくですし、イカ刺しを食べて貰おうと思って用意しました」
台所から出てきた海里が、マアジのたたきと卵焼きを持って来た。渚が味噌汁とご飯、お茶を乗せたお盆を運ぶ。
「私が昨日、買い出しの時にイカ好きって言ったから?ありがとうー!頂きます!」
真山と同じく、雫もイカ刺しから箸をつけた。透き通るようなイカは、とろっとした舌触りと、甘みがある。
マアジのたたきは、ぷりぷりとした身に大葉を散らして醤油を垂らした、爽やかな一品だ。
一緒に食卓を囲んだ雫も、あまりの美味しさに瞬く間に平らげてしまった。
「昨日のサザエでも大満足だったのに、朝からこんなご馳走が貰えるなんて幸せだわ。昨日、飲みすぎなくて良かったぁ」
真山が卵焼きを食べる隣で、海里が「酒飲んだのか?」と渚に尋ねる。「ちょっとだけだよ」と渚が小声で返した。
「大丈夫よ、何にも言ってないから。ふふっ」
海里が心配そうに雫と渚を交互に見た。反射的に目を逸らす渚に、雫もお茶のお代わりを淹れる為に席を立った。
それから真山は海里と一緒に釣りに行き、帰って来たと思ったら今度は水着に着替えて飛び出すと、サーフボードにうつぶせに乗って腕で漕ぐパドリングを教わっていた。
「楽しんでるねぇ。最初は穏やかそうな人やと思ってたけど、結構快活な人やね」
玄関前で眺める雫の後ろで、渚が腰に手を当てて笑った。
「何でも挑戦したいらしいよ。昨日、寝る前に言ってた。生きてるうちに出来る事を沢山経験したいんやって。多少の怪我も挑戦した証やってさ。アクティブやねぇ。私も海里に釣りは教わったけど、生き餌が触られへんのよね。サーフィンとか泳ぎは私も負けへんのやけど」
波に乗るようにボードにうつぶせになった真山が懸命に漕いでいる。
少し離れた所から海里が合図するように口を開いた次の瞬間、ボードの上に数秒だけ立ち、ガッツポーズをしたまま海に落ちていた。
「あははっ、ちょっと立てたな!凄い凄い!」
渚の拍手と笑い声に気付いたのか、二人がこちらに手を振る。
その上空を飛行機がゆったりと雲の線を引いていく。
やがて白い飛行機雲は周りの青に滲んで消えていった。
「お世話になりました。もうすんごい楽しかった。海里君も、遊んでくれてありがとね」
「いえいえ、俺も楽しかったですから。ちょっと出かけようと思ってるんで、ついでに駅まで送っていきますよ」
海里が真山の荷物を持ち、外に出る。歩きだした真山が思い出したように足早に戻って来た。
「二階の部屋に泊まらせてくれてありがとね。昔、婚約してた人と海は正面から見るか高い所から見るか、どっちが好きかで揉めたのよ。くっだらないでしょ?でも、私は上から見るのを譲らなくてね。ふふっ、それが別れた理由。元々些細なことで気が合わなかったんだけど、そのくだらない食い違いで別れを決めたのよ。でも、ここの海を見てやっぱり再確認したわ。私は海は上から見るのが好き。価値観が合わないんじゃ仕方ないわよね」
あまり理解できないでいる渚と雫が苦笑いしていると「あぁ、でもね」と付け足した。
「波の下から見るのも好きかも。海里君とサーフィンして思ったわ。新しい事に気付かせてくれる人って素敵よ。彼の好きな人が誰なのか私にはわかんないけど、人生は一度きりだから、あなた達も時間を大切にね」
そう言ってウインクをした真山は、離れた所で待つ海里の元に走って行った。
「雫、おはよー!起きてるか?」
梅雨の晴れ間から再び一週間降り続いた雨だったが、ようやく今朝は薄日がさした。
海里がドタバタと階段を駆け上がって来る足音が、夕焼けの家に響き渡る。
時刻は六時半だ。丁度着替えを済ませて降りようと思っていた雫が部屋を出ると、既に目の前にいた海里に小さな悲鳴を上げてしまった。
「今日は晴れたから朝顔の植え替えするぞ!はい、まず名前を書こう」
庭に出て、新しく用意された幅広の植木鉢にマジックで名前を書く。
「これで良いかな」
「おう。じゃ、やるぞ」
渡された軍手をはめて、身を寄せ合うように葉を茂らせる朝顔を植木鉢から取り出す。
「そーっとだぞ。根っこを傷つけないように……うん!良いんじゃね?」
海里が「上手い上手い」と雫の頭をわしゃわしゃと撫でる。それから二人掛かりで支柱代わりの大きなネットを張る。気付けば七時半を回っていた。
二人の様子を見ていた渚が「朝ごはん出来たよ」と、良い匂いを漂わせた朝食を円卓に並べた。
「あー、駄目だ、やられた」
朝からずっと薄曇りのある日。
海里が引き上げた餌の無い釣り糸を目にして肩を落とす。
今日は午後から渚がバイトに行き、海里とこうして灯台の下に並んで釣りを楽しんでいた。
かれこれ二時間経つが、未だ一匹も釣れていない。
「今日は無理かなぁ」
海里が呟くのと同時に、雫の釣り竿が微かに動いた。
初めて餌を付けているのだ。慌てて竿を強く握り、リールを巻く。
次第に魚が引く力が強くなり、雫も負けじと急いで巻いていく。
その動きに気付いた海里が「まじか!焦るなよ、魚の動きを感じながら」と、雫の手を海里が上から握ってサポートする。
ドキドキして手のひらに汗が滲む雫をよそに、海里はまっすぐ糸の先の水面を見ていた。
「だあああっ、駄目だ。切れた!」
ふっと竿が軽くなる。餌ごと糸を切られてしまったらしい。それからも二人で海に糸を垂らしていた。
灰色の雲が覆う空に、真山の言葉を思い出す。
「真山さんが、人生は一度きりだから時間を大切にしなさいって言ってたの。私、すごいわかる気がする。だけど、だからってどうしたら良いのかもわからない。おじいちゃんがくれたこの奇跡の時間を、私はどう生きたら良いんだろう」
真山に言われてからずっと考えていた。眠る前、ひとりきりの布団に潜ると決まってそんな疑問で頭が埋め尽くされる。
「雫は、今のこの時間も無駄にしてるって思うのか?」
海を見つめたまま訊ねる。雫はすぐに答えられなかった。無駄だとは思いたくない。こうしている時間も、雫はとても好きだったのだ。
「こうして晴れたり曇ったり、日々変わる空を眺めてぼーっとしてさ。水平線の向こうに何があるんだろうって考えたり、とんびの声聞いてぼーっとしたり、波音聞きながら今日は釣れねぇなぁって思ったりさ。そう言うの、全然無駄じゃないぞ。寧ろ一秒一秒の些細な時間を大切にしてるって思わねぇか?無駄って言うのは、俺が昔やってたみたいに他人を陥れたり、傷つけたりしてる時間だよ」
海里が自嘲めいた笑いを浮かべた。
「あんまり深く考えんな。俺は雫のしたい事を叶えてやりたい。だけど、雫がこういう時間も楽しいって思ってくれるなら、俺はそれで良いと思ってるんだぜ」
雫の背中を軽く叩く。いつもの海里なら頭を撫でるところだ。不思議そうにしているのがバレたのか、海里は「あぁ」と困ったような表情を見せた。
「渚に、雫を子ども扱いすんなって言われたんだよ。女子はそういうの敏感なんだってさ。別にそんなつもりじゃ無かったんだけどさ……いや、そうだったのか?わかんねぇ」
まるで子供をあやすように撫でる海里の表情。それが少し寂しいと感じた時もあったのは事実だ。
だけどいざそれが無くなると、物足りないと思ってしまう我が儘な自分がいる。
「海里は……私のしたいと思う事を叶えてくれるの?」
心臓が鼓動が激しくなる。海里が頷くのを前に、雫は自分が今からしようとしている事に頭がくらくらしそうになっていた。
「何かあるのか?」
海里がこちらを向くのと同時に、雫は竿を置いて動いた。
「えっ。ど、どうした?」
海里の首に手を回すようにして抱きついた。海里の首筋から漂う海の匂いと体温が、雫の顔を火照らせる。
勇気を振り絞ったは良いものの、恥ずかしすぎてそれ以上身動きが取れない。
「もしかして、雫のしたい事ってこれか?」
落ち着いた口調で海里が言う。すぐ横にある顔を見れないまま小さく頷いた。
そんな雫の背中に海里の両手が回された。
何も言わないまま抱き締める。激しく脈打っていた血管も心臓も、いつのまにか静かになっていた。
二人の足元で波がたぷんたぷんと甘い音を立てる。
残された時間を、生きていれば過ごせたであろう大人の姿で。
背中に回された海里の腕に少し力が入るのを感じながら、海里の鼓動を感じていた。
「雫ちゃん、どう?」
長かった梅雨もようやく終わり、いよいよ夏を肌に感じるようになった夕方。
丹後のとり貝を網で焼き、すだちと醤油を掛けて食べる。ぷりぷりとして歯ごたえもあるとり貝は噛むたびに甘みが広がる。
それはもう絶品だった。初めて食べるとり貝に雫はすっかり虜になっていた。
「凄く美味しい。私、これ好き」
「いっぱい食えよ。ほら、これからちょっと歩くからしっかり体力つけとかねぇと」
海里が自分のとり貝を雫の皿に入れた。
今日の夕飯は焼いたとり貝、キジハタの刺身は海里が釣って来たものだ。トビウオのつみれが入ったお味噌汁と、小松菜と油揚げの煮浸しもある。
渚の母親が京都の大原に行ったお土産で買ってきてくれた柴漬けも食卓に並んだ。
「おばさん元気になって良かったな。この柴漬け買って来た時も、三千院で撮った写真とかめっちゃ送って来てたもんな」
「病院のベッドで『もう旅行も行かれへんのかなぁ』ってしょげてた人やから、もうすんごい嬉しかったと思うよ」
渚が柴漬けを食べ、ご飯を口にする。さっぱりとした柴漬けは、ご飯のお供にはこれ以上ないくらいぴったりだ。雫も残しておいた柴漬けを口直しに食べ、手を合わせた。
「そう言えば昨日のバイト、やけに帰りが遅くなかったか。どっか行ってたのか?」
「えっ……いや別に何も無いよ。残業やん、残業。その後、買い物とか行っててん」
明らかに一瞬うろたえた渚が、誤魔化すように笑う。
「ふぅん。いくら平和な町だからって、あんま夜にうろうろすんなよ」
「わかってるって。別に一人じゃ――」
空の食器を重ねていた海里の手が止まる。
「いや、なんでもない。気を付けるって。なんかあったら海里に連絡するやん」
「それなら良いけどさ。おし。じゃ、片付けて出発するか!」
夕飯の後片付けを済ませ、虫に刺されないよう薄手の上着を着て荷物を用意した頃には六時になっていた。
夏も近いこの季節、外はまだまだ明るい。優しい茜雲が広がる夕陽が浜の海もまた、空の色を映して穏やかな波音を立てる。そんな目を奪われるような美しい風景の中に、白い灯台が照り映える。
「裏山は近いけど、そっから川まではそこそこ距離あるからな。坂道も結構あるから頑張れよ。何かあったら迷わず言う事。わかったな?」
渚が「はーい」と敬礼ポーズを取る。雫も隣で頷いた。
山に入ると、ぐんと気温が下がる。頭上でさわさわと葉擦れの音を立てる木々の向こうに、少しずつ茜雲に濃い青が混ざりゆく空が見えた。
湿っぽい匂いがするのは、今朝早くに降った雨のせいだろうか。雨上がりの日が一番ホタルが飛ぶらしいので、運が良いのかもと少し嬉しくなる。
海里が先導して、渚と並んで後ろを着いていく。ツンとするような独特な土の匂いが不思議と癖になる。
あちらこちらから可愛らしい鳥の声が響く森の中。
舗装された参道を道なりに進んだ。坂道をどんどん上り、細い道を一列になって歩く。
途中、シダの葉が足に触れて、虫と勘違いした渚が悲鳴をあげた。
その悲鳴に驚いた雫が木の根に躓いて転びそうになったのを、海里がすかさず脇を支えてくれた。
「足、くじいたりしてないか?」
「ごめん!急にでかい声出したから……」
雫が平気だと足を動かして見せると、二人は「良かった」と胸を撫で下ろした。
「渚、虫めちゃくちゃ嫌いなくせによく着いて来たな。ホタルだって虫だぞ。大丈夫なのかよ」
「だって、雫ちゃんとこういう事するの初めてやから、一緒に来たかったんやもん。それにホタルは綺麗やし、子供の頃は大好きやったから大丈夫!やと思う……多分」
自信なさげに声が小さくなる渚に、海里が「大丈夫じゃねえだろ、それ」と笑う。
杉の木が密集した場所に、最後の力を振り絞る柿色の夕陽が斜めに射し込む。枝が無く遮るもののない木々の足元には、一直線に美しい陽光が降り注いでいた。
海里が腕時計に目をやると、時刻は七時を過ぎていた。
「川あったぞ。明るいうちに着いて良かった。ホタルブクロは俺が探すから、二人はそこで待っててくれ」
海里が言うのをよそに、渚と雫も川辺の草をかき分けてホタルブクロを探し始める。
山の清流は、無色透明でとても綺麗だ。ちょろちょろと流れる水音もとても癒される。
「おいおい、川にはまんなよ。足元よく見るんだぞ」
「わかってるって。虫は苦手やけど、ドジっ子なわけじゃないから」
「私、この辺り探してみるね」
それぞれ手分けして探すことになり、雫は比較的流れが緩やかな場所を探す事にした。
大きな岩に沿う水流、さらりとした手触りの川。何一つとっても新鮮で、まだホタルブクロも蛍も見ていないのに、雫は楽しくて仕方なかった。
「わっ――」
石に足を取られてつんのめった。
左手の斜面から川にせり出していた木の枝を咄嗟に掴んだお陰でなんとか転ばずに済んだが、バランスを崩した拍子に足首をひねってしまった。
「大丈夫か!」
雫の声に気付いた海里がこちらに駆けて来る。渚も足元に気を配りながら追いかけてきた。
座り込んだ雫が足をさするのを見た海里は、すかさず背負っていたリュックを降ろして、包帯を取り出す。
手際よく足首に巻き付けた海里に、渚は「流石は元バスケ部。幽霊部員でも、そういう技術は持ってたのね」と感心していた。
「ん。雫、来い」
「えっ……」
海里が雫に背中を向けてしゃがみこみ、両手を出す。
「あっちにホタルブクロあったんだ。運んでやるから行こう」
「で、でも」
ためらう雫の身体を、渚が支えて立ち上がらせる。
「悪化したらどうすんの。もし海里がこけそうになったら、私が意地でも支えるから」
「そんな事にはならねぇよ。ほら」
海里の背中に身体を預けると、軽々と立ち上がった。背の高い海里におぶられると、いつもより視線が高くなる。
首に回した腕にぎゅっと力が入った。
「大丈夫。絶対落としたりしないから」
隣に寄り添うように渚が歩く。
海里が探していたポイントで降ろしてもらうと、白いホタルブクロが咲いていた。
祖父が言っていた通り、縁側に吊っている風鈴によく似たその花は、垂れた頭を夜風にふるふると震わせていた。
空は濃藍色に染まり、いつの間にかクリーム色の半月が空に浮かんでいた。流水音と森がざわざわと揺れる音。
ジーッ、ジーッと比較的近くから聞こえる虫の声はエゾスズだろうと海里が教えてくれた。
次第に暗さが増していく。
大自然の中、二人の表情が見えづらくなってくる事に不安を覚えた雫の背中に、海里がそっと手を添えた。
「俺も渚もいるから心配すんな」
小さな声で囁く。暗がりに目が慣れてきた頃、最初に声を上げたのは渚だった。
「ほら見てっ、川の向こう岸の草むら。今、ちらっと光ったよ。あ、今度はあっち!」
対岸の草葉の陰で光る蛍が見える。緑の葉を透かして輝く光はやがて飛び立ち、一斉に空中をふわふわと飛び回り始めた。
「凄い……」
息を呑む雫の肩を叩く海里が、彼のすぐそばの草むらを指さした。
細長い草の表面で蛍が光を弱めたり強めたりしながらじっとしていた。雫の足元にはホタルブクロがある。
こっちに来てくれる事を祈り、蛍の動きを見守った。
「雫ちゃん」
今度は反対側から渚がちょんと腕をつつく。ふよふよと飛んできた蛍が、渚の目の前を横切ろうとしていた。
雫の鼻の先までやって来た時、海里がそっと両手で包み込む。そのままホタルブクロの前で手を広げると、ふわりと飛んだ蛍がそのまま花の中に入った。
「海里すごいっ」
渚が胸の前でガッツポーズをする。白いホタルブクロに淡い光が灯る。まるでランプのように。
花を透かして光る姿はとても美しく、ふと顔を上げると三人の周りは乱舞という言葉がふさわしい程の蛍に包まれていた。
辺りいっぱいの柔らかい光。ぼうっと灯るホタルブクロ。二人の優しい横顔に、雫は胸が詰まるようだった。
「おじいちゃん。二人に会わせてくれてありがとう」
「雫、どうかしたか?」
隣で呟いた雫に、海里が尋ねる。
「ううん、何でもない。綺麗だなって。幸せだなって思って」
「私も、三人で見れてめっちゃ嬉しい」
夜の闇が優しい光に埋め尽くされる。
頭上の木々の合間から見える星と蛍の光が同化するような美しい光景を、三人は静かに見つめていた。
民宿に戻り、二人が家に帰る。雫は自室に戻ってベッド横の蛍光灯を点けた。
オレンジ色の丸い光が、さっき見た蛍を思い出させて頬が緩む。
祖父の机の引き出しから取り出した手帳と日記のノートを手に、ベッドに腰を降ろす。
雫の事が沢山書かれているノートの表紙をそっと撫でる。
ここに来るまで気付かなかった。自分の事を気にかけてくれている人がいるなんて、考えもしなかった。
母から隠れて祖父と電話をしていた時も、祖父との話で現実から逃れられることが嬉しかった。
だからこそ雫の話を聞かれる事を拒んでいたのだ。
せっかくの時間を現実に引き戻されることが嫌で、母との生活の話を聞かれると口を噤んでしまったのだった。
あの時、ちゃんと話していたら助けて貰えてたのかな。
そんな考えも浮かぶが、祖父はもういない。雫にも、あと僅かな時間しか残されていない。
今となっては無意味でしかない疑問を振り払うように、日記とノートを引き出しに仕舞った。
母とも会えたし、母の当時の気持ちを知る事もできた。ブルートパーズが私の名前の由来になった事まで知れたんだもん。もう一度、西本さんにも会えて。もう十分だよね。
ふとポケットに手を入れる。
「あれ?」
慌てて立ち上がり、もう片方のポケットにも手を突っ込む。
「無い……」
ブルートパーズとメモが入った巾着が無いのだ。いつもポケットにお守り代わりに入れていた物が、部屋にも一階にも見当たらない。
裏山に行く前には確かに今履いているズボンのポケットに入っていたのだ。
もしかして、落としたのかな。
参道で躓いた時だろうか。川で転びそうになった時だろうか。蛍を見るのにしゃがんだ時だろうか。
次々に考えるが、どれも山の中の事だ。まだ少し痛む雫の足では取りに戻れない。
暗い部屋でひとり肩を落とす。
窓の向こうには、月夜にたゆたう銀波の海が果てしなく広がっていた。




