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第10話 天上の華

「彼岸花?」


「龍見神社の前の田んぼ沿いにめちゃめちゃ咲くんだよ。綺麗なんだぜ。極楽浄土、つまり天国に咲く花なんだってさ。真っ赤で妖艶でさ。雫も感動すると思うんだよ」


「そうなんだ」


そう言って雫は味噌汁を飲み干した。


「いつ頃咲くんやったかなぁ。毎年気付いたら咲いてるなぁーって感じでしか見た事ないからなぁ」


 渚は壬生菜の漬物を食べ、お茶を飲んだ。居間のカレンダーは九月になっていた。


「雫、どうしたんだ?」


「ん?あぁ、ううん。何でもない」


「疲れた?今日、早起きして釣り行ってたから眠なったんちゃう?片付けは私と海里でするし、もうお風呂入って部屋戻り」


海里も頷く。食事を終えた雫は風呂を済ませて部屋へ戻る事にした。ひとりになると押し寄せる不安を紛らわすように窓を開ける。


八月の終わりから、夜風が一層ひんやりと感じるようになった。


ざぁっと雄大な波音が立ち、黒い海面に凜とした三日月が冷たい光を落とす。


「西本さん……」


雫に優しくしてくれた西本も、雫を想ってくれていた祖父も、今はもうあの向こうにいるのだろうかと漆黒の空に目を細めた。


『この夕陽見たらな。人生なんてのは、苦しくたって楽勝やと思えるんや』


五歳の雫に、祖父がこの海を見ながら言ったあの言葉が蘇る。


 苦しい事も確かに吹き飛んじゃうくらい、ここは綺麗だよ。でも……


「だからこそ死にたくない。死にたくないよ……死にたくないよぉ」


開けた窓の向こうに広がる夜空には無数の星が瞬く。雫の弱弱しい声は、夜の闇に霧散する。


鼻の奥がツンと痛む。潤んだ目を擦った瞬間、どんどんと涙が溢れ出した。


「雫、まだ起きてるか?」


どれくらい時間が経っただろう。遠慮がちな海里の声に、ベッドに突っ伏していた顔を上げる。


だが、雫は返事をすることが出来なかった。


「明日、朝六時に海で待っててほしい」


海里はそれだけ言うと、階段を降りて行った。理由はわからないが、時計を六時にセットした。


零時を回っていた。部屋の壁に取り付けた日めくりカレンダーをちぎる。


「九月三日」


それは、雫にとって最期の日であることを示していた。




「雫」


優しい声が聞こえる。


「おいで、雫」


色白の細い手を差し伸べられる。


 おかあ、さん


お日様の匂い。春風のぬくもり。古いアパートの窓にかかった白いカーテンが、草花の香りを抱いた風でふわりとゆらめく。


雫は立ち上がり、差し出される母の手に小さな手を重ねる。ふわりと抱き寄せられた母の胸は温かく、甘い香りがした。


 おかあさん


母の優しい微笑み。遠い記憶にあった夢だろうか。のちの悲しい記憶に塗り替えられてしまった古い記憶。雫の心の深い所に閉ざしていた記憶だった。


「雫」


振り返ると祖父が立っていた。あまり笑顔を見せない祖父の、だけど優しさを帯びた瞳が、雫を見つめている。


「悔やまない人生なんて無い。悲しみの無い人生なんて無い。命は必ず尽きる。雫は最期まで、その命を精一杯生き抜けば良いんだよ」


祖父が遠のく。母もすぅっと雫の手を離して白の彼方へ消えてしまった。




外はまだ薄暗かった。目覚まし時計より早くに起きてしまった雫は、波打ち際を灯台に向かって歩いていた。約束の時間にはまだ少し早い。


灰色がかった水平線を見つめて砂浜に腰を下ろした。


さらりとした砂が手から零れ落ちる。凪いだ静かな海に、白い三日月が浮かんでいた。


いよいよ今日が最期の日だ。


いつ消えてしまうのかわからない手のひらを見つめる。不思議と昨夜のような感情は湧かなかった。


夢のせいだろうか。母に対するわだかまりも消え、祖父が待ってくれていると確信を持てた安心感からだろうか。


「おはよう。雫」


「海里、どうしたの」


駆け寄る雫を制した海里は足元を指さす。その手には、懐かしい子供用スコップが握られていた。


「宝探しすんぞ。はい、これ持って」


戸惑う雫にスコップを握らせた海里は、少し離れた所に胡坐をかいて座る。


「宝探しって……何を隠したの?」


「それは見つけてからのお楽しみだ」


スコップで足元の砂を掘ってみる。何もない。手当たり次第掘ってみるが、やはり何も見つからなかった。


空は次第に色を持ち始め、水平線の上に紫とピンクの帯が浮かぶビーナスベルトが現れた。


「こんな広い砂浜で見つかんないよ」


「苦労して得たものってのは、どんなに他人から見てくだらない物でも大事な宝物になるんだぞ。っても、もう時間も無いかもしんないし……」


そう言って、雫の周りに小さな円を描いた。


「この中を探してみ」


半径二メートルほどの円だった。幼い頃、同じように雫の周りに描いた円よりずっとずっと小さかった。


「……うん」


そこに隠されているものを察した雫は、同時にその円の小ささに胸が苦しくなった。線のギリギリの所を掘る。小さな塊が砂と一緒にスコップの上にあった。


「見つけて来てくれたの?」


纏わりついた砂を払うと、姿を現したのはブルートパーズだった。


「ごめんな、もう探さないって約束したのに。やっぱ諦めきれなかった。見つけた時、めちゃめちゃくすんでてさ。川で洗って来たんだ。細かい傷は入っちまったけど、結構元通りになってない?」


海里の言う通り、表面に細かな傷はあるが美しい海色は変わっていない。


雫はそれを握り、胸に抱きしめた。空は次第に光を帯び始める。


ブルートパーズを抱く両手に光が差す。


太陽が昇り始めたのかと裏山を見たが、山のシルエットを浮かび上がらせる程度の陽光を放っているだけだ。


雫自身が光の粒子を放っていたのだった。


「雫、やっぱり消えちまうのか……」


海里がその手をそっと包み込む。


「ここに戻って来て良かったか?楽しかったか?」


その声は震えていた。温かい海里の手が、温度の無い雫の身体に流れこむ。雫は静かに頷いた。


「渚に会えて。海里に会えて、すごく、すごく楽しかった。毎日が幸せで、だからこそ悲しくて。かき氷食べたり、釣りしたり、お料理したり。花火も。朝が来るのが楽しみだった。夜眠るのも寂しくなかった。それに――」


山の向こうに太陽が昇り始める。


「私が大人の姿でここに戻って来た理由がわかったよ」


一度空に向かい始めた太陽は、みるみるスピードを増すようだった。


海里の左頬に陽光が射す。雫の身体も右半身が光に飲み込まれようとしていた。


「おじいちゃんが昔言ってたの。人を好きになるのは良い事だって。恋だけじゃない、友情も家族愛も。それだけで、大切な想い出が増えるって。大往生できなくても、成し得なかった夢があっても、大切な想い出を抱いて旅立てたら俺はそれで大満足だって。私ね、海里の事が大好きだよ。やっぱり海里は私の大切なおにいちゃ――」


海里の表情が歪む。唇を噛みしめ、眉をひそめる。まだ消えていない半分の雫の身体を抱きしめた。


「俺は……俺は」


そこまで言って海里が口を噤む。


もう体の半分は光に飲まれて無いというのに、胸が苦しい。こみ上げた涙を抑え込む力も無い。


次々にあふれ出す涙は、海里の肩を濡らした。


「海里!」


渚だった。民宿の前にある物陰に隠れていたらしい渚が、今にも泣きだしそうに表情を歪ませ、両手にこぶしを握って叫ぶ。


「大事な人は、目の前におる時に気持ち伝えなあかん!あんたが一番わかってるやろ!」


雫の背中に回された腕に力がこもる。海の香りが雫の胸を更に締め付け、心をぐらつかせる。


 この温もりの中にいたい。二人の傍にいたい。


気付くと声を上げて泣いていた。


そんな雫の顔を真っ直ぐ見つめた海里の顔が涙で歪む。海里の手が、頬を伝う涙を拭った。


「俺もいつか雫のいる所に行くから。まだまだ先かもしれねぇ。だけど、その時は一緒に彼岸花見ようぜ。天国にも咲いてるんだ。そんで、空の上から花火を見よう。だから待っててくれよ。ジュンさんと、母さんと一緒にさ」


残っている左手で、止めどなく溢れる涙を拭う。海里の目を真っ直ぐ見つめ返して、力強く頷いた。


「俺は雫の事好きだよ。兄ちゃんとしてじゃない。可愛い妹として見てるんじゃない。俺は雫が好きだ」


太陽が半分以上顔を出す。優しい青空と、凪いだ海。


海里の向こうから、こちらを見つめる渚の姿があった。泣きじゃくって目を真っ赤にした渚が、懸命に笑顔を作っていた。


「ありがとう。ありがとう。私も大好きだよ。だから、またね――」


光が雫を完全に飲み込む直前。


 リン


風の無い静かな海に、微かに風鈴の音を聞いた気がした。

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