【勝利の女神】
「島津勢、吉次峠に集結しております」
報告が入った瞬間、空気が変わった。
忠興は、静かに目を細める。
「数は」
「およそ八百」
わずかな沈黙。
「対する我らは、五百ほど」
その差は、重い。
だが――
「……迎え撃つ」
迷いはなかった。
—
「吉次峠か……」
小笠原が、低く呟く。
「守りに適した地形だ」
それだけで十分だった。
兵たちの表情が、わずかに引き締まる。
言葉にせずとも理解している。
――容易に落ちぬ場所だと。
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峠。
細川の兵が、静かに布陣していた。
狭く、曲がりくねる道。
見通しの悪い起伏。
足場も決して良くはない。
数で劣る側には、不利ではない地形。
「ここで止める」
小笠原の声が響く。
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「……多くないですか?」
ぽつり、と場違いな声。
リリエルだった。
凛が、すぐ横に控える。
「問題ありません」
短く答える。
だが。
(……多い)
その目は、戦場を冷静に見ていた。
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やがて。
島津の軍勢が現れる。
八百。
土煙とともに、峠へ押し寄せる。
整然とした隊列。
無駄のない進軍。
歴戦の気配。
その先頭に――
島津 恒一。
「……五百か」
静かに測る。
「押し潰せる」
迷いはない。
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開戦。
矢が飛び、鉄砲が鳴る。
やがて、刃がぶつかる。
「かかれぇ!!」
八百の圧が、峠を埋める。
「耐えろ!!」
五百が、踏みとどまる。
押される。
重い。
だが、崩れない。
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「入れ替われ!!」
小笠原の指示が飛ぶ。
前列が下がり、後列が前へ。
波のように。
途切れぬ圧。
「……崩れぬか」
恒一の目が、細くなる。
数で勝っている。
それなのに、押し切れない。
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戦場の端。
リリエルは、ただ立っていた。
「……すごいですね」
理解もせずに。
そのとき。
足元の小石を――
軽く蹴ってしまう。
ころり、と転がる。
足場の悪い峠。
浮き石に足を取られれば、命取りになる。
「……!」
近くの兵が、反射的に足を引いた。
「危ないな……」
ほんの一歩。
位置をずらす。
その瞬間。
一人の兵が、足を取られた。
「――っ!」
体勢を崩し、前へと倒れ込む。
勢いのまま。
敵の列へともつれ込んだ。
「なっ……!?」
予想外の衝突。
一瞬の混乱。
そのわずかな乱れに。
隙が生まれる。
---
だが。
その一歩が、列を歪ませた。
本来埋まるはずの隙間。
そこに、わずかな“ズレ”。
そして――
そのズレは、次の動きに伝わり。
さらに後ろへと連鎖していく。
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「押せぇ!!」
島津の圧が強まる。
だが――
その隙間へ。
細川の兵が、流れ込んだ。
「なに……!?」
前線が、揺らぐ。
指揮が遅れる。
後続が詰まる。
連鎖。
「崩れたぞ!」
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恒一の足が、止まる。
(……あり得ぬ)
吉次峠。
守りに適した地形。
数でも勝っている。
それなのに。
崩れる。
理解できない。
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その瞬間。
足元が、わずかに滑った。
ほんの一瞬。
だが、致命的。
間合いが狂う。
「……!」
小笠原の刃が、首元で止まる。
勝敗、決す。
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静寂。
八百が、止まり。
五百が、息を吐く。
---
「……勝った、のか?」
誰かが呟く。
だが。
誰も答えられない。
なぜ勝ったのか。
分からない。
---
ふと。
一人の兵が、視線を上げた。
「あれは……」
高台。
その上に。
一人の少女が、立っていた。
リリエル。
静かに。
ただ、そこにいる。
風が、髪を揺らす。
光が、差し込む。
その姿は――
どこか。
現実離れして見えた。
—
「どうしましょう」
「皆こっち睨んでますぅ」
「きっと石転がしたのを怒って、」
リリエルは右往左往する。
「……おい」
別の兵が、小さく言う。
「……見えたか?」
「……ああ」
誰も、断言はしない。
だが。
同じものを、見た気がしていた。
---
「……勝利の女神、か」
誰かが、ぽつりと呟く。
それが。
誰の言葉だったのかは、分からない。
だが。
その呼び名だけが――
静かに、広がっていった。
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恒一は、動かない。
ただ、前を見る。
その先に――
リリエル。
「……なぜだ」
低い声。
「貴様は……何者だ」
リリエルは、きょとんとする。
「えっと……」
少し考えて。
「迷子です」
沈黙。
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「……引け」
静かな命令。
「これ以上の戦は、無意味だ」
誇りを保ったまま。
島津の軍勢は、退いた。
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凛は、その背を見つめる。
(この方は……)
やはり、言葉にはならない。
だが。
確信だけが、深まっていく。
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その報は、広がった。
「五百で八百を退けた」
「吉次峠を突破した」
噂は、形を変えていく。
やがて――
「……ほう」
豊臣秀吉が、笑う。
「面白い」
「会わせよ」
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「……なるほど」
徳川家康が、静かに呟く。
「半蔵」
影が現れる。
「調べよ」
「はっ」
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そして。
リリエルは。
「疲れました……」
その場に座り込んでいた。
何も知らずに。
ただ。
そこにいるだけで。
――戦を、動かしてしまったことも知らずに。




