【距離】
部屋の中は、静かだった。
畳に座り込みながら、リリエルはぼんやりと天井を見上げる。
「……暇ですね」
ぽつりと呟く。
見知らぬ場所。
見知らぬ人たち。
それなのに、不思議と不安はなかった。
(あの人がいるからかな)
自然と、ガラシャの顔が浮かぶ。
優しくて、静かで。
そこにいるだけで、安心できる人。
「いい人ですよねぇ」
誰に言うでもなく、呟く。
そして。
もう一人。
「凛さん……」
無表情で、気配がなくて。
気づいたら、すぐ後ろにいる人。
「ちょっと怖いですけど」
くすっと笑う。
「でも、悪い人じゃないですよね」
理由はない。
ただ、そんな気がするだけだった。
「……変なの」
自分でも分からない感覚。
考えても仕方がない。
「まあ、いっか」
そう言って、ころんと横になる。
その瞬間。
襖の向こうに、気配を感じた。
「凛さーん」
呼びかける。
わずかな間。
――すっ。
襖が、ほんの少しだけ開いた。
音は、ほとんどしない。
隙間から、静かな気配だけが流れ込む。
続いて。
――す、と。
もう半分、襖が開かれる。
そこには。
正座したままの凛がいた。
「はい、お呼びでしょうか」
落ち着いた声。
その姿勢は、微動だにしない。
リリエルは、少しだけ目を丸くした。
「……すぐ来ますね」
リリエルは、少しだけ笑う。
「すぐ来ますね」
「控えておりますので」
簡潔な返答。
リリエルは、身体を起こした。
「ちょっと、こっち来てもらってもいいですか?」
凛は、無言で近づく。
相変わらず、無駄のない動き。
リリエルは、じっと見つめる。
「……やっぱり」
ぽつりと呟く。
「髪、きれいですね」
凛の動きが、わずかに止まった。
「……」
「触ってもいいですか?」
「お、おやめください」
即座の拒絶。
だが。
「少しだけです」
そう言って、すでに手は伸びていた。
さらり、と指が通る。
「……やっぱりきれい」
凛の思考が、一瞬止まる。
(……なぜ)
任務対象に触れられている。
本来ならば、距離を取るべきだ。
それなのに。
振り払えない。
「……温かい」
思わず、言葉が漏れる。
リリエルは、にこっと笑った。
「ですよね」
その笑顔に。
凛は、ほんのわずかに目を伏せる。
(この方は……)
言葉が、続かなかった。
---
それからも。
リリエルは遠慮なく距離を詰めてくる。
「これ、どうやって結ぶんですか?」
「凛さん器用ですね」
気づけば、すぐ隣にいる。
触れられる距離。
だが。
不思議と、拒む気にはなれなかった。
(……おかしい)
任務対象である以上、距離を保つべき。
それが当然。
それなのに。
(……落ち着く)
その感覚に、凛は戸惑っていた。
---
廊下の影。
小笠原は、その様子を静かに見ていた。
(……変わったな)
凛の動き。
ほんのわずかだが、柔らかくなっている。
あの凛が。
それだけで、この少女の異質さが分かる。
(この娘……)
やはり、ただ者ではない。
---
やがて。
ガラシャが、静かに部屋へ入ってくる。
その空気だけで、場が柔らぐ。
リリエルは、ぱっと顔を上げた。
「ガラシャ様」
嬉しそうな声。
ガラシャは、穏やかに微笑む。
「お変わりありませんか?」
「はい、とっても」
迷いのない返答だった。
その様子に、ガラシャは目を細める。
そして――
「リリエル様」
静かに、呼びかける。
「はい?」
「差し支えなければ……おいくつでいらっしゃいますか?」
少しだけ、言葉を選ぶ問い。
リリエルは、きょとんとする。
「えっと……十五です」
あっさりと答えた。
その瞬間。
凛の視線が、わずかに動く。
(……若い)
想像よりも、ずっと。
ガラシャもまた、静かに目を細めた。
「そうでしたか」
納得の響き。
「まだお若いのですね」
柔らかく言う。
リリエルは、首を傾げる。
「そうですか?」
自覚はない。
その様子に。
ガラシャは、ふっと微笑んだ。
「ええ。ですが――」
一瞬、言葉を止める。
「とても、強い方です」
静かな言葉。
だが。
凛は、その意味を理解できなかった。
(この方が……強い?)
戦うわけでもない。
それなのに。
なぜか否定できない。
(この方は……)
やはり、言葉は続かなかった。
---
夜。
部屋の中。
リリエルは、満足そうに伸びをした。
「凛さん」
「……はい」
「やっぱり、優しいですね」
凛は、一瞬だけ言葉に詰まる。
「……変わりません」
そう答える。
だが。
ほんのわずかに、声が柔らかかった。
リリエルは、にこっと笑う。
「そういうところですよ」
そのまま、ころんと横になる。
「おやすみなさい」
静かな声。
凛は、しばらくその様子を見ていた。
(この方は……)
やはり、言葉は続かない。
だが。
視線は、もう逸らされなかった。
---
同じ頃。
遠く離れた場所で。
「……妙な話よの」
低い声が、落ちる。
「細川の元に、南蛮の女だと?」
影が、頭を下げる。
「はっ」
「それも、ガラシャの側に置かれていると申すか」
空気が、わずかに変わる。
「……面白い」
だが、その笑みは。
決して穏やかなものではなかった。
「細川は、何を考えておる」
「南蛮と手を組み――」
一瞬、言葉を切る。
「天下でも狙う気か」
誰も、答えない。
だが。
疑念だけが、確かに生まれていた。




