【義の男】
「おい嬢ちゃん」
低い声が落ちると同時に、男が一歩前に出た。
「ここは遊び場ちゃうぞ」
「ご飯食べに来ました!」
その返答に、場がぴたりと止まる。
「……なんやコイツ」
周囲の男たちが顔を見合わせ、くすりと笑いが漏れた。だが、その奥にある視線は冷たい。
「頭おかしいんちゃうか」
「この状況で笑うか普通」
伸びてきた手が、リリエルへと迫る。
「ほな、ちょっと教えたろか」
その瞬間だった。
「やめておけ」
静かな声が、場を割った。
ざわ、と空気が揺れる。
振り向くと、一人の男が立っていた。
目立たない。だが、そこにいるだけで分かる。
――強い。
(……っ)
凛の呼吸が止まる。
この気配、それにこのお方は、、
(直江兼続……!)
上杉家を支える軍師。義を貫く男。
(なぜ、このような場所に……)
喉が動かない。
(……申し上げねば)
そう思うのに、身体が拒む。
(……無理でございます)
視線だけで、縫い止められていた。
男は動かない。ただ立っているだけ。
それだけで、場が支配されていた。
「……ちっ」
ならず者の一人が舌打ちする。
「なんやねん……」
だが、誰も踏み出さない。
(……抑え込まれております)
凛は理解していた。
“格”が違う。
「……やめとこか」
一人が肩をすくめる。
「今日はつまらん日やな」
男たちは、静かに引いた。
誰も逆らわない。
道が開き、空気が戻る。
「お知り合いですか?」
リリエルが首をかしげる。
男は、わずかに目を細めた。
「……いや。ただ、見過ごせなかっただけだ」
「お優しいのですね!」
にこっと笑い、ぺこりと頭を下げる。
その仕草に、ほんのわずかに男の視線が揺れた。
(……何も、感じぬのか)
恐れも、警戒もない。
(大物か……)
(……ただの、馬鹿か)
だが――
「……面白い」
小さく呟く。
「名は?」
「リリエルです!」
即答だった。
「……そうか」
それだけ言って、男は背を向ける。
静かに、人の流れの中へと消えていった。
誰も呼び止めない。
「……すごい人でしたね」
リリエルが、いつもの調子で言う。
「なんか、助けてくれました。優しい人です」
凛は、すぐには答えなかった。
(……あり得ませぬ)
あの場、あの面子であれば、普通は誰も助けには入らない。関わるだけで面倒を背負う。それが戦を知る者の判断である。
(それを……)
あの男は、何の躊躇もなく踏み込んだ。
(直江兼続)
名を出すことすら憚られる存在。
(なぜ……)
凛は、横を見る。
リリエルは、ただ楽しそうに笑っている。
「ご飯楽しみですね。」
(……この方はまた)
理解が、追いつかない。
だが、一つだけ分かることがある。
(引き寄せているのではなく、引き当てておられる)
小さく、ため息が漏れた。
「……恐ろしいお方でございます」
「……すごい人でしたね」
リリエルがぽつりと言う。
「なんか……空気が変わりました」
「……はい」
凛の声は、わずかに震えていた。
(あれが……)
言葉にならない。
ただ一つ、確かなことだけが残る。
(あの御方に敵う者は……)
凛は考えるのをやめた。
――直江兼続。
米沢上杉家の家老。
主君・上杉景勝を支え、義を重んじ信を貫く軍師。
後に、その名は天下に轟く。
だがリリエルは、最後までその名を知らなかった。




