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レベル0のイレギュラー  作者: 椋鳥 未憐
第一章 翡翠の目覚め
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Level.8『そして、覚醒する』




 ああ、最悪だ。本当に最悪だ。

 なんで、どうして、お前なんだ……!?

 よりにもよって、そりゃないだろう。



『―――キチキチキチキチキチキチキチッ』



 体育館の方から顔を出したのは、手負いの死神だった。


「追いかけてきたのか、あいつ……」


 俺にやられた足をズルズルと引きずりながら、やつは真っ直ぐこちらに向かってくる。

 狭そうに首を折り曲げ、板張りの通路に足を踏み入れた。

 歩くスピードは遅い。

 けれど一歩一歩確実に、距離が埋まっていく。

 絶望が音を立てて滲み寄ってくる。


「私のことはいいから。逃げて、萩くん」


 全てを見越したように、結唯先輩はそう言った。


「なに、言ってるんですか……?」


 俺は聞き間違いかと思い、聞き返した。

 けれど結唯先輩はその質問には答えず、続けてこの世で最も残酷なことを俺に告げる。


「一人なら、逃げられるでしょ……?」と。


 逃げる……?


 誰が?


 俺が?


 ひとりで?


 結唯先輩をおいて?


 逃げ―――


「……られるわけないだろッ!? 先輩を置いていくなんて嫌に決まってるじゃないですか……!」


 一人で逃げろなんて……そりゃないよ結唯先輩。

 好きな人を置いて逃げるなんて、できるわけないじゃないか。

 俺なんかの命よりも、俺はあなたに生きてて欲しいのに――。


「……先輩には、生きててもらわなきゃ困るんですよ。インハイが終わったら俺、先輩に伝えたいことがあるんだ」

「伝えたい、こと?」

「そう。だから先輩には生きててもらわなきゃならないんです」

「ねぇ萩くん。それ、今聞きたい」


 結唯先輩が食い付く。

 でも俺は首を横に振った。


「だめですって。聞きたかったら生きて……」

「――お願い。今、……聞きたい」


 結唯先輩はぴしゃりと言った。

 麦茶色の瞳が切なそうに俺を見つめてくる。訴えかけてくる。


「お願いだから、聞かせて」


 先輩は泣きそうな……今にも消え入りそうな声でそう言った。

 その言葉には確かな重みが込められていた。

 反論なんて許さない、そういう重さじゃない。

 結唯先輩は手でギュッと俺の胸元を掴んだ。

 ああ、やめてくれ。

 そんな目で俺を見ないでくれ。

 俺は一度唇を噛んだ。


 血が、止まらないんだ。

 さっきからずっと、流れ続けている。

 脇腹に押し付けている俺のチームジャージは先輩の血ですでに真っ赤に染まっている。


 もし俺がこれを言ったら。伝えてしまったら。

 終わってしまうような気がしたんだ。

 全てが。終わってしまう。

 そんな気が、したのに――。






「俺、……先輩のことが、好きです」






 この想いを言葉にしたら、終わってしまうと思った。

 けれど同時に、この想いを今言葉にしなかったら、俺は一生後悔するとも思った。


「あなたのことが、ずっと、好きでした……っ」


 俺は今、伝えなくちゃいけないと。

 でなければもう言えなくなってしまうんだと。

 直感してしまう自分がいた。

 そんな自分が死にたいくらい嫌だった。

 言い終えたら、自然と涙腺が緩んだ。

 それにつられたのか、結唯先輩の瞳も潤む。


「どのくらい、好き?」

「バスケと同じくらい、大好きですよ。そりゃ」

「ふふ、そこは嘘でも……さ? ほら。バスケより好きって言ってほしかったな」

「それは……これから、超えてく予定ですから」


 これから。

 そう、これからだ。

 先輩が部活を引退したらまずは海に行こう。

 青い海と白い砂浜。そして結唯先輩。先輩の水着姿なんか見たら俺は浜辺でシャトルラン200回は余裕でイけるだろう。

 受験勉強で先輩は忙しいだろうから、あんまり会えないかもしれないけど、夏休みには花火を見に行きたい。

 浴衣でりんご飴を舐める結唯先輩。夜空に打ち上がる花火を見ながら、ふたり手を繋いだりだとか。

 想像しただけでニヤけてしまうような沢山の思い出を、先輩とこれから作っていくんだ。

 これからもっと俺は結唯先輩を好きになる。


 これからなんだ。


 これからなんだよ……。


 これから……なのにさ。


 声が上擦っている。

 喉がしゃくりあげ、目の前がぼやける。

 なんだこれ。止まんない。

 俺はゴシゴシと両手の平で目元を強引に拭った。

 先輩の顔が見えないのは、少し困る。

 結唯先輩の瞳から、ひとつ、雫がこぼれ落ちた。


「ふふ、嬉しい。……ありがとう」


 結唯先輩はひとつひとつの言葉を噛み締めるように、花のような笑みを浮かべた。

 結唯先輩の声もどこか上擦っている。というか掠れている。

 ごほごほッ、と苦しそうに結唯先輩が咳き込んだ。

 咳と一緒に口から吐血する。

 結唯先輩は薄く笑って誤魔化そうとする。


「私、からの……最後のお願い。聞いてくれる?」

「……いやだ」

「なんで……。最後のお願い、なのに?」

「だからです。最後なんて、嫌だ……!」


 まるでこれが最後みたいな。

 そんな言い方やめてくれよ。

 なぁ、頼むから。

 お願いだから。

 今じゃなかったらいつでも聞くから。

 だから最後なんて……そんな悲しいこと言わないでくれよ結唯先輩。


 俺は首を横にふって結唯先輩のお願いを拒否しようとしたけれど、


「萩くん……お願い」


 結唯先輩は構わず、続けた。


「私のぶんまで生きて。幸せに……なってね」

「………ッ」


 胸の奥がギュッと鷲掴みにされるような錯覚。

 目元が熱い。熱い。熱い。

 泣いているからだ。

 目から熱湯でも湧き出してるんじゃないか?

 俺も、結唯先輩も。

 ふたりで一緒に泣いている。

 子どもみたいにだらしなく、泣いている。


「……ずるいですよ。俺が断れないってわかってるくせに。ずるい。……先輩は、ずるいッ」

「ごめ……ね、……萩、くん」


 結唯先輩の手が俺の頬に伸びる。

 頬に触る先輩の手は、恐ろしいほど冷たかった。

 それから結唯先輩は優しく笑って、

 

「ずっと……見守ってるから、ね――」と。

 その言葉を言い終えると同時。ズルりと先輩の手が力なく落ちた。

 咄嗟に俺はその手を宙で握りしめていた。

 体温のない、冷たい手だった。


「結唯、先輩……?」


 結唯先輩は何も応えない。


「結唯せんぱ――……」


 もう、応えてくれはしない。


「――――ッ、ぅ……ぁ、ぁ"ぁ"ッ」


 低く掠れるような音が喉の奥から溢れ出た。

 奥歯を噛み締め、嗚咽を漏らさぬよう必死で俺は耐えた。

 心を鋭利な刃物で深く刺されたような、並み外れぬ喪失感が痛みを伴い俺を襲う。


 心に、穴が空いた。


 苦しくて。苦しくて。たまらない。


 震えが。涙が。動悸が。止まらない。


 先輩との思い出が、走馬灯のように巡り、そして泡沫と化して消えていく。


 傷一つない結唯先輩の綺麗な顔。満足気に笑みを浮かべたまま瞼を閉じる結唯先輩は、まるで眠っているみたいに見えた。

 もしかしたら白雪姫みたいにキスでもすれば目覚めるんじゃないか? 俺は勇者でも王子様でもないけれど、キスをすれば結唯先輩は目覚めてくれるんじゃないだろうか。

 わかってる。そんな奇跡が起こるのはおとぎ話の中だけの話だと。

 死んだ人間は生き返らない。

 結唯先輩とはもう二度と、一緒にバスケットをすることもできない。

 泣いているのは、もう、俺ひとりだけだった。


『キチキチキチキチキチキチキチキチッッ』


 カマキリがすぐそこまで迫っている。


「うる……せぇよ。頼むから。静かにしてくれよ」


 通路の半分よりこっち側。やつとの距離は12メートルくらいまで縮まっている。

 俺の心情など知る由もないカマキリは尚も進み続ける。当たり前だ。モンスターが人の言葉や感情を理解できるはずもない。

 俺は結唯先輩の身体をそっと床に寝かせた。

 先輩の目元に浮かぶ涙を親指の腹で拭い、ゆっくりと立ち上がる。振り返る。

 ヨダレを垂らしながら迫るカマキリの黒い瞳と目があった。


「――」

 今ならまだ逃げることもできるだろうけど、正直そんな気持ちにはなれなかった。

 カマキリと正面から向かい合う。

 戦えば、今度こそ死ぬかもしれない。

 いや確実に死ぬだろう。

 でも恐怖はなかった。

 そんなこと、今はどうでも良かった。

 むしろ死んだほうが楽かもしれないとすら思える。

 俺に『生きて』と願った結唯先輩には申し訳ないけれど、心の奥を蝕むこの痛みは消えてくれそうにないだろうから。


「結唯先輩の身体(こと)は絶対に渡さない。命に変えても。これ以上、指一本触れさせねぇよ」


 結唯先輩の命を刈りとった大鎌を見据える。

 鎌にはべっとりと赤い血が付着している。

 結唯先輩と洋介の血だ。

 結唯先輩の命は守れなかったけれど、せめて結唯先輩の身体はこれ以上傷つけさせはしない。

 もう、終わりにするんだ。

 覚悟をもって、俺は1歩を踏み出した。

 その瞬間――、


「―――――な」


 俺は言葉を失った。

 身体の芯。腹の奥底から途方もない『熱量』が突如込み上げたのだ。

 熱量はあっという間に全身を伝播し溢れだす。容赦なく腹の内側から俺という存在を焼き焦がす。


「熱ッ――」くはなかった。

 錯覚か。幻覚か。はたまた勘違いか。

――違う。

 断言できる。これ(・・)は違う、と。

 まるで身体が燃えているかのような感覚。

 炎であり炎でないものに抱かれているような。包まれているかのような……。


 俺は視線を落とし、自らの右手を見た。

 燃えている。でも色が違う。緑だ。翡翠の炎のようなものがメラメラと俺の身体を覆っている。

 これが何なのか、俺にはわかった。

 たぶん……いや、きっとこれは。この力(・・・)は――。


「……はは、ハハハハハ」


 乾いた笑いが、俺の喉から溢れ出る。

 笑うしかないだろ、これは。

 だって。こんな傑作なことがあるか?


「……ふざけんな」


 笑みを浮かべながら、俺は炎に燃える右拳を力いっぱい握りしめた。

 止まっていた涙がまたひとつ、こぼれる。


「ふざけんなよ、お前(・・)……ッ」


 ずっと憧れていた。

 ずっと夢だった。

 いつかは俺も父さんと同じ――になるんだと。

 きっと俺は姉さんと同じ――になれるんだと。

 果たして俺は妹と同じ――になれるのかと。


 でも残念ながら俺には資質がなかったようで。

 いつまでも馬鹿みたいに自分の可能性を信じて夢を追いかけるほど子どもでは在れなくて。

 現実はいつも残酷で。神とやらは気まぐれだ。

 だから。こんなことが起こるなんて思いもしなかった。

 でも、どうして……どうしてなんだ。

 教えてくれよ。

 なぁ、なんで―――、


「なんで、今なんだよ――ッ!!?」


 どうやら俺は、覚醒したみたいだ。

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