Level.7『真っ白な頭と真っ赤な手』
この世に理不尽な偶然などはない。
在るのは行動と摂理に基づく必然だけ。
現象の隙間に偶然や奇跡などと言った無粋が割り込む余地はなく、ただひたすらに積み重ねられ有るべくして起こり得る必然だけがそこにはある。
だからそれは必然の出来事なのだ。
死神の冷たい鎌が俺の右肩から肉の内に入り込み、その直線状にある筋繊維から内蔵に至る尽くを犯し突き進み、右腰骨から体外に排出される――その直前のことだった。
「萩――ッ!!」
死を覚悟した俺の耳に、澄み渡る鈴の音が届いたのは。
「え――?」
声と同時に俺の身体は横から体当たりしてきた何者かによって突き飛ばされた。
ほぼ同時、今さっき俺が立っていた場所に寸分違わずカマキリの大鎌が激しく突き刺さる音が聞こえた。
「……ッ、ぅ」
ゴロゴロと何度か床を転がり、何が起こったのか確認しようと身体を起こしかけた俺の胸元。
「いたたっ……」と俺の胸に抱きつく枯茶色の頭がそこにあった。
「……結唯、先輩?」
名前を呼ぶ。
顔を上げた結唯先輩の麦茶色の瞳が俺を捉える。
俺の左頬に手を添え、
「生きてる……?」
ぽつり、結唯先輩はそう呟いた。
「……みたいです」
そう言って苦笑すると、結唯先輩の瞳が急に大きく潤んだ。
かと思えば先輩は再び俺の胸に顔を埋めた。
「……良かった、ちゃんと生きてる。良かった」
先輩の声は、微かに震えていた。
声だけじゃない。
よく見れば先輩の身体も震えている。
――そっか。助けられたのか、俺。
こういう時、なぜか人は一周回って冷静になる。
その事実を再確認すると同時、俺は震える先輩の華奢な肩をそっと抱擁し返していた。
決して邪な気持ちがあったわけじゃない。
大丈夫、ちゃんと生きてますよ、と。
その気持ちが伝わったかどうか分からないが、先輩は一際強く、強く俺の身体を抱き締めた。
バスケをプレイしているときはあんなに大きく見えたのに、結唯先輩はまるで女の子みたいだった。
いや、女の子なんだけどさ。正真正銘。
思ったより、先輩の身体って小さいんだな。
あと柔らかい。めっちゃ柔らかい。
それにいい匂いもする。
ふわっとした柔軟剤の香り。
なんかもう、ずっとこのままでいたい。
いっそのことこのまま永遠に包まれていたい。
そんな場違いな欲望が燃え滾る。
でも、現実は思い通りにはいかないようにできていて。時が止まるなんてことはありえない。
『キキィ、キシャッ!!』
しきり鳴くカマキリの声に俺はハッとなり顔を上げた。
見れば床に刺さった鎌を引き抜こうとカマキリが必死に暴れ狂っている。きっとさっきの一撃で鎌が深く床に刺さったのだ。
しかし鎌が抜けるのも恐らくは時間の問題。
鎌が抜けさえすればカマキリは再び俺に襲いかかってくる。そうしたら今度こそお終いだ。
「逃げよう、早く!」
先に起き上がった結唯先輩が、俺に手を差し伸べてくる。
「大丈夫、立てる?」
「はい、なんとか」
先輩の手を借り立ち上がると、結唯先輩は他の2体のモンスターがいる方とは逆、旧校舎へと続く南扉 の方へ視線を向けた。
「こっち。モンスターが追ってくる前に早く!」
俺の手を引き、走り出そうとする結唯先輩。
「待ってください結唯先輩。まだ青野先輩が……」
そう、何のために俺は無謀にもカマキリと戦い――と呼べるかどうか定かではないけれど――続けていたのか。
それは青野先輩を助けるためだ。
だからここで逃げては俺の行動の意味がなくなる。
しかしそんなことは知ってるよとばかりに結唯先輩は言った。
「青野くんなら大丈夫! 萩くんがモンスターの注意を引きつけてくれてる隙に鈴木くんが」
ほら、と結唯先輩が視線を向けた先。鈴木先輩に担がれる青野先輩の姿があった。
カマキリに集中していて全く気づかなかった。
鈴木先輩に背負われる青野先輩は頭を打ってぐったりと気を失っているものの、四肢が欠損したりと他に目簿らしい損傷は見当たらない。
生きている。青野先輩は無事救出された。
俺の行動は、無駄じゃなかった。
「……良かった」
そう実感した途端、俺の中で何かが"救われた"気がした。
「本当に、良かった……」
洋介のことは救うことができなかったけど、青野先輩の命は救うことができた。
それがせめてもの救いだった。
それがせめてもの償いだった。
「萩くんのおかげだよ。だから私達も逃げよう」
これ以上カマキリと戦う意味がなくなった俺は、先輩の言葉に「はい……!」と強く頷き返した。
そして最後に友の亡骸を目に焼き付け、記憶に刻み込んだ。
もう二度と、後悔を残さないようにと。
❦
「――――」
先輩に手を引かれながら、俺は走る。
血塗れの床をなるべく踏まないようにひた走る。
館内は今も尚、絶望の最中にいる。
嫌でも聞こえてくる。
悲鳴、嗚咽、そして断末魔。
「――――」
知り合いの死体が床に転がっている。
さっきまで一緒にバスケをしていた奴だ。
一緒に昼飯を食べたこともある。真面目で照れやで人当たりのいい奴だった。
そいつに庇われるように女バスの後輩が下敷きになって死んでいる。
ふたりは付き合っていたのだろうか。
思い返せばそんな噂も流れていた気がする。
洋介がふたりをからかっていたのを思い出す。
ああ、ここは地獄だ。
生まれて目にする、初めての地獄だ。
俺は胃の中から込み上げて来る吐き気をどうにか堪えることに必死だった。
とても冷静ではいられない。
それでも俺が平静を繕えていたのは、ひとりじゃなかったからだ。
隣に結唯先輩がいるから俺は足を止めずに走っていられた。
結唯先輩と手を繋いでいなければ、俺はとっくにおかしくなっていたに違いない。
それはさっきからずっと繋ぐ手に力を込め続けている結唯先輩も、俺と同じ気持ちだったと思う。
走り続けてようやく体育館を抜ける。
体育館を抜けた先にあるのは旧校舎と体育館を繋ぐ30メートル程度の板張り通路。
ここを抜ければ旧校舎はすぐそこだ。
しかし。そこで目に飛び込んできた光景に、俺と結唯先輩は揃って息を呑んだ。
通路の先にある南扉が閉まっている。
恐らく一足先にここを通って旧校舎へと避難した生徒達が扉を閉めたのだろう。
でもまだ鍵が施錠されていると決まったわけじゃない。
進むか、否か。迷う。
鍵が空いていればいいが、閉まっていた場合通路を引き返さなければならない。
その場合、引き返す途中でカマキリと鉢合わせになる可能性ももちろんでてくるわけで。
コンクリートで四方を固められた通路は狭く、体育館で戦っていたときのようにカマキリの攻撃を躱すのは難しいだろう。
壁には日当たり窓が設置してあるが、あの大きさを人が通り抜けることは不可能だ。
手元に武器はない。
結唯先輩を守りながらとなるとさらに厳しい。でも結唯先輩だけはこの身に変えても絶対に守り切るという信念だけはあった。
どうする、引き返すか?
かと言って他の出口もカマキリ達が塞いでいる。
さて、どうしたものか……。
その直後、後方でカマキリが奇声を上げた。
いよいよ迷っている時間はなさそうだ。
俺は覚悟を決めなければならなかった。
「先輩、行きましょう……!!」
はっきり言ってこれは賭けである。
鍵がかかっていないことを願う他ない。
結唯先輩は小さく頷いた。
ガタガタと年季に軋む板張り通路を超え、俺は旧校舎へ出る南扉に手をかけた。
祈る思いで扉の取手に力を込める。すると、幸いなことに扉はガラガラと音をたて開いてくれた。
どうやら神はまだ俺達を見捨てたわけじゃないようだ。
「良かった! 鍵はかかってない! 行きましょう、結唯先ぱ――」
と、その時だった。
結唯先輩が俺の身体にもたれかかってきたのは。
「ちょ、結唯先輩!?」
「―――」
崩れるように体重を預けてくる先輩の脇腹を、咄嗟に俺は右手で支えた。
その瞬間。ドキッ、と心臓が高鳴った。
でもそれは、好きな女性の身体に触れてしまったという嬉々的な緊張ではなく、むしろその逆だ。
全身に鳥肌を感じた。
この場合、寒気といったほうが適切だろうか。
何か触れてはいけないものに触れてしまった。気づいてはいけないものに気づいてしまった。
とにかくそういう悪寒に身が震えた。
「……っ」
結唯先輩が、小さく呻く。
先輩の練習着を通して、温かく、それでいてぬるっとした、べっとりとした感触が右手に伝わってくる。
「え……?」
俺は恐る恐る妙な感触がした右手を見た。
真っ赤に染まっている。
つぅ、と背筋を冷たい汗が伝う。
「は――? なに、これ……血……?」
一瞬、俺の左腕の血が先輩の練習着に付着してしまったのかと思考を巡らせたが、明らかに出血量がおかしい。異常だ。
「……はぁ、はぁ」
そこでようやく、俺は結唯先輩の息が荒れていることに初めて気づいた。
額には玉のような大粒の汗が浮かび、顔からは血の気が引いている。
極めつけは俺達が来た道、つまりは通路の床板に点々と続く血の跡。
まさか、という考えが俺の脳裏をよぎる。
衝動的に「先輩すみません」と謝りながら、俺は先輩の言葉を待たずに練習着の裾をまくりあげた。
瞬間、息が詰まる。
練習着の下は、血だらけだった。
「え……? なんだよ、これ。なんで……いや、」
言葉が、出てこない。
先輩の白い肌は真っ赤に染まり、脇腹には鋭利な刃物か何かで引き裂かれたような裂傷がある。
思い当たる節が、ひとつあった。
「もしかして、俺を庇ったときに……?」
そう、あのときだ。
死を覚悟した直後、横から先輩が体当たりで俺を助けてくれたとき。
あのときカマキリの鎌は結唯先輩の脇腹を裂いていた。けれど先輩はそれを俺に悟られぬよう平気な顔を繕った。
思い返せば、結唯先輩が俺を抱き締めたのは、裂かれた傷を俺に気づかせないようにするためか。
手を繋いでいるとき、結唯先輩がずっと力を込めていたのは凄惨な光景に心を痛めていたのではなく、傷の痛みを堪えるためか。
うそだ。
――うそじゃない。
違う。これは何かの間違いだ。
――違わない。間違いなもんか。よく見ろ血だらけだぞ。
全部、俺のせいじゃないか。
――そう。全部、俺のせいだ。
「――違うよ。萩くんのせいじゃ、ないよ」
その言葉で、俺の意識は現実に引き戻された。
聡い先輩は俺の目を見て微笑んだ。
「これね……萩くんを助ける前からあったから。大丈夫。かすり傷だし、これくらい」
「何言って……だって先輩、こんなに血が……」
「だから。萩くんのせいじゃ、ないからね……?」
「――ぁ」
「だいじょうぶ……だから」
大丈夫だよ、と気丈に笑う結唯先輩。
見ているだけでも痛々しい脇腹の裂傷からは、今も血が――命が溢れ出ている。
すぐにでも対処しなければ命が危うい状況。
そんな状態の彼女が何を言わんとしているのか。
彼女が誰の為にそんな優しい言葉を尽くすのか。
それを察せられぬほど鈍い俺であれたなら――。
「――ッ、大丈夫……なわけ、ないじゃないですかっ!? どうすれば……」
どうすればいい?
どうしたらいい?
わからない。
とにかく傷が深い。
真っ赤だ。
どうしよう。
血が止まらない。
「止血。……そうだ、止血しなきゃ……!」
だが先輩が傷を負っているのは脇腹だ。
圧迫するにも場所が悪い。
俺は着ているチームジャージを雑に脱ぐ。
こういうときに限って肘が邪魔してうまく脱げない。ああもどかしい。何してんだ早くしろ。
ジャージを脱いですぐ、俺は結唯先輩の脇腹にジャージをそっと押し付けた。
すぐジャージに血が滲み始める。
手は真っ赤なのに頭が真っ白だ。
ジャージに結唯先輩の血が滲んでいくのと同じ速度で、俺の焦燥も加速していく。
血が止まらない。
ふざけるな。止まれよちくしょう。
あのとき、俺が油断しなければ結唯先輩は俺を助けるために身体を張る必要はなかった。
そもそも俺がカマキリと戦っていなければ、そうしたらこんなことにはならなかった。
あのとき、ああすれば良かった。こうすれば良かったなんて。今さら後悔したってどうしようもないことだと頭ではわかってる。
わかってる。
あのとき俺がカマキリと戦わず逃げていたら、代わりに青野先輩が死んでいた。
わかってる。全部わかってる。
だけど。だけどさ……?
これはいくらなんでもあんまりじゃないか。
なんで結唯先輩なんだよ。
どうして俺、庇われてんだよ。
なにしてんだよ……俺。
一番傷つけちゃいけない人だろ?
一番傷ついて欲しくなかった人だろ!?
「誰かッ! 誰か来てくれ!! 頼むよ……結唯先輩が、結唯先輩が………っ!」
俺は声の限り叫んだ。
誰でもいい、誰か来てくれ。
願わくば医療関係者。欲を言えば回復型のスキルをもった能力者。
頼むから、来てくれよ。
何でもするからさ、俺。
だから結唯先輩を助けてくれよ。
頼むよ。神様――。
そして。俺の声を聞きつけ、やつはやってきた。




