Level.6『助けを求める誰か』
「おああああああああああああッ!!!」
気づけば俺は駆け出していた。
床に転がる青野先輩のモップを手に、怪物に向かって突進する。
『ギギィ? キキキィッ!!』
雄叫びに反応し俺の存在を認識したカマキリが、べっとりと血のこびり付いた大鎌を振り上げ俺を威嚇してきた。
「―――ッぅ!!」
それだけ。たったそれだけのことで恐怖に足が止まりかけた。
頭に登った血がサァーっと引いていくのが分かる。
テレビ画面の中で見るモンスターなんかとは、迫力も、威圧感も、何もかもが桁違いだ。
沸き上がる恐怖。込み上げてくる怯懦。
背中と額を伝う汗は冷たく、身体の感覚が遠くなるような錯覚に陥る。
それでも俺は駆けた。
「う、おああああああああああッッ!!」
精一杯の雄叫びでもって自らを鼓舞し、恐怖を無理やりに薙ぎ払う。でなければ今にも足が止まってしまいそうだったから。
自分が馬鹿げた真似をしているという自覚はちゃんとある。自信を持って確信できている。
ああ、怖い……怖いよ。
すっげぇ怖い――でもッ!!
これ以上『誰か』を見捨てることは俺にはできない。
例えこれが偽善だったとしても。
感情に突き動かされただけの愚行だとしても。
これ以上戦うことも逃げることもできずに立ち竦む、そんな臆病な選択をした俺自身を、俺はこの先きっと許せない。
少なくとも織﨑 萩という人間は、自分の心を殺せるほど勇敢な人間じゃない。
それに――。
『でもあの人達は今助けを求めてる。"誰かが助けに行けばいい"じゃない。だってあの人達が求めてる誰かは私達ウェイカーなんだから』
誰かが助けてくれるかもという投げやりな思考を捨てろ!!
他の誰かじゃない! 今青野先輩を助けられる『誰か』は俺しかいないんだッ!!
光のない怪物の黒い目が俺を見ている、見られている。
青野先輩のことは後回しに、カマキリは完全に俺に狙いを定めている。
「――ッ、そうだこっちだ化物ォッ!!」
『キシャァアアアアアッッ!!』
カマキリの間合いに踏み込んだ途端、右鎌が俺の命を刈り取るべく閃いた。
昆虫の体躯から発射される必殺の一撃。
瞬きする時間は許されない。
躊躇する瞬間すら与えられない。
人体すら容易に切断してみせるあの大鎌は、言葉通りの必殺だ。
対して俺の武器はプラスチック製のモップのみ。
耐久性はたかが知れている。
だから大鎌をモップで受けることはできない。
俺に許された選択は最初からひとつだけだ。
「ッ!!」
恐ろしい速さで風を斬る大鎌を、俺は寸でのところで身体を宙に投げて回避した。
ガツーンッ! とコンクリをツルハシで叩くみたいな音を立て大鎌が床に突き刺さる。
床に突き刺さった鎌を死角に、俺はカマキリの右側に身体を滑り込ませた。
昆虫の関節と身体の構造上、これで左の鎌は使えない。そして右の鎌が床に突き刺さっている今、カマキリは攻撃することができない!!
「う、おおおッ!!」
さっき青野先輩がカマキリの胴体に攻撃を当ててモップが弾かれたのを俺は見ている。
だから狙うのは装甲の脆そうな脚部。
俺はあらん限りの力でカマキリの足目掛けてモップを叩き付けた。
菜花の茎が折れるみたいな、確かな感触。
メキッと耳障りな音とともにカマキリの足が折れた。
カマキリの甲高い絶叫が響く。
『キィィィィイイイイイッ!!?』
足を狙ったところでカマキリは死なない。
けれど足止めはできる。
今の俺の目的はカマキリを倒すことじゃない。
ウェイカーがこの場に駆けつけるまでの時間を稼ぐことだ。
近くに大型クラン〝炎獅子〟が来ているが、千歳公園のレイドに参加しているため、すぐに駆けつけることは困難だ。
都道府県に1つずつ設置されているギルド、栃木県春ヶ丘支部も残念なことにこの場所からでは少し距離がある。
だけどもしものために、学校にはレベル3以上のウェイカー教務が最低1人配属されているのだ。
だから教務の佐々木さんが駆けつけるまで時間を稼ぐことが俺の目的だった。
これは決して不可能なことじゃない。カマキリの攻撃は恐ろしいほど速いが関節の構造上、鎌の軌道は至って直線的。
だからよく見て避ければ決して避けれないわけじゃ――。
少しの希望と些細な油断を抱いた直後のことだった。
『キキキ、シャァアアアアアアアッ!!』
「――!?」
足を折られて憤慨したカマキリが暴れだした。
カマキリの羽がバサバサと激しく揺れ、"飛ぶのかもしれない"と警戒し気を取られた俺をカマキリの尻尾が強襲した。
「くぁっ!!」
全身を巨大なうちわで殴られるような衝撃。
吹き飛ばされた俺は床を転がった。すぐさま体制を立て直し顔を上げた――その先には。
感情の乏しいカマキリの黒い瞳が上から俺を見下ろしていた。
「――ぁ」
目の前に振り上げられる絶望に俺は戦慄を禁じえない。
やばい、死ぬ――。
『キシャァッ!!』
「……ッ!!」
斜め上から容赦なく俺の胴体を狙う一撃に、俺はなんとか手中のモップを合わせた。
「ッぅ!!」
バキィッとプラスチックの残骸を散らしてモップが砕け散る。
だがそのおかげで鎌の軌道が少し反れ、鎌は俺の左肩を斬り裂く程度に留まった。
肌に淡く滲んだ赤線は見る間に伝染すると、肩口から血が吹き出した。
そして発熱する。
「いッ……てぇッ!」
腕が焼けるように熱い。
痛いのではなく熱い、だ。
アドレナリンの許容を超えた痛覚が俺の神経を手加減なしに焼き焦がす。
いっそのこと切断されたほうがマシなんじゃないかとさえ思うほどの激痛に苦悶する俺。
しかし残念なことに死神は鎌を2本携えている。
一撃目は奇跡的に躱せたものの、体勢が完全に崩れきった今の俺に二撃目を避ける術はない。
本当ならさっきの一撃で死んでいたのだ。
よく反応できたなと我ながら思う。
これはあれか。俺の秘められた運動神経と反射神経が同時に覚醒した、みたいな。
ハハ、なんだそれ。
どうせなら能力が覚醒しろよ。
覚醒するなら今だろ? なぁ今しかないだろ?
なにしてんだよ俺の力。
どうせなら最後まで夢見させてくれよ……。
「ああ……くそ。やっぱり俺には最初から才能なんかなかったのかよ……」
振り下ろされる2本目の鎌を眺めながら、俺は死を覚悟した。




