Level.65『覚醒 第九感〝真象武装〟』
心象武装は人の心の成長や変化に伴い、その形を変えていく。
なぜなら心象武装とは、人の心を具現化した人間の秘めたる第八感、心の写し鏡である。
希望に満ちた感情を糧に心象武装が成長すれば、本人の描いた理想により近い形で変化を遂げる。
しかし相反して殺意や悪意といった汚れた負の感情を糧に成長すれば、それは本人の心根に張った増悪をそのまま形にするだろう。
人の心とはえてして移り変わりが激しく、そして非常に繊細で未熟が故に、心象は容易に善にも悪にも成り代わる。
「――覚醒 第九感『真象武装』」
条件は既に整っていた。
経験と資質。覚悟と憧憬。
レベル7からレベル8の境界線。
成長を続けた心象が、初めて進化を遂げるその瞬間。
「一心刀〝雨ノ飾り〟」
血反吐を吐きながら地面から這い上がった葵の右手。
握られるのは双刀ではなく一振りの太刀。
「すまんな祥平、俺はまだそっちにはいけん」
空気が変わる。
門番を失い、世界の形を維持できなくなった異界が崩壊を始めるその最中。
どこからともなく出現した太刀を目にした瞬間、漆木の背筋を悪寒が駆ける。
「馬鹿な……!! テメェ、成ったのか!? 今!!」
漆木は絶叫を上げずにはいられない。
今にも息絶えそうな葵の手にしたそれは『覚醒』。
ついぞ辿り着けなかった、心象武装の極地。
「はは、そうみたいや」
今にも瀕死。
おぼつかない呼吸。
一撃殴ればそれで死んでしまいそうなほど満身創痍の双夜叉だが、纏う雰囲気が明らかに今までと違う。
きっかけが何だったのかは、漆木にはわからない。
なぜ超えられたのか、漆木には知る由もない。
ただひとつ、わかることがあるとするなら。
――まだ間に合うッ。
今ならまだ殺せる。
双夜叉の細首をひねり潰せば漆木の勝ちだ。
戦況は変化したかもしれないが、漆木の優位は依然として変わらない。
蓄積された双夜叉の傷は癒えはしない。
それを理解していて尚、足が動かなかった。
足裏に根を貼ったように動けない。
漆木の培ってきた戦場での経験が言っている。警告を、警鐘を鳴らしている。
まるで目の前にいる男そのものが、研ぎ澄まされた一本の刀であるかのように漆木の目には映った。
更には聞こえもしない鞘なりを幻聴する始末。
その感情は正しく――。
「ふざけろ、テメェ……ッ」
漆木は負の感情を噛み殺した。
死の幻聴を振り払い、現実だけを見据える。
『〝金剛一尊不動明王〟ッッ!!』
最強の鎧を展開する。
漆木の誇る、絶対防御。
動けないのなら、無理に動くことはない。
元々漆木の鎧は不動の心象。
ならば防御に徹するのみ。
ただの覚醒ひとつで、臆病になることはない。
一撃だ。葵が動けるのはただの一度きり。
それを防ぎきりさえすれば漆木の勝ちだ。
黒鬼最硬の防御を持って夜叉の刃を砕くのみ。
故に恐怖する必要などはない。
「――」
対する、葵の心情は落ち着いていた。
嫌なくらい静かに凪いでいる。
激情は薄れ、感情が抑制されて。
水面の上でひたすら刃を研ぐように。
その度水面に波紋が薄く伸びていくような。
心地よい全能感が葵を蝕む。
自らを犯す万能感に酔いしれる。
鮮明に成りだす視界には、目に入る全てのモノの輪郭がはっきりと映りだす。
極度の集中の中で視える、無我の境地。
心情の変化――心境の改帰に起因したレベル7からレベル8への昇格が、葵に次の次元の景色を見せた。
「癪やが、礼を言うで。黒鬼」
右手で刀柄を握り、折れた左手で鞘を抑えながら中腰になる。
変な話だが、やけに手に馴染むこの太刀の振り方を葵は本能的に理解できていた。
まるで己が身体の一部のように感じる。
理屈などという過程は今必要ない。この太刀をどのように扱えばいいのか、わかってしまうのだから。
「一心一殺一刀 居合――」
かつての平安に置いて、未だ侍が腰に刀を佩いて道中我が物顔で闊歩していた時代、双心流と並んで大阪旧名難波で最強の殺人剣と呼ばれていた流派。
己の全てを乗せ、一刀のままに斬り伏せる。
それ即ち一斬一殺の心得。
梁取 葵が初めて父から教わった剣術。
因果は原点に舞い戻る。
「一心流 初伝――」
音もなく鞘から奔る薄雨色の刀身。
それはまるで空から落ちる雫を斬るかの如く。
横薙ぎに振るう太刀が全てを凪いだ。
〝――斬空――〟
世界から音が消えた。
雨色の刀身が蒼白い軌跡を描く。
目にした者全てを魅了し感嘆を与える型の完成度。
恐怖さえ置き去りに感じる既死の風。
流れるように自然な動作から放たれた究極の一撃。
一心流初伝の居合斬り。
それは、刀の進行上にある尽くを『断絶』した。
放たれた一閃は無機物も有機物も関係なく、ひとえに等しく斬り伏せた。
無論、黒鬼とて例外ではない。
「ガ、ァァッ……っッ!?」
最硬を誇る漆喰の鎧でさえも、葵の一閃の前では紙も同然に、容易く鎧は破られる。
振動する空間。
震撼する大気。
瞬きの一瞬を死風が駆ける。
犇めき逃げる隙さえないまま断絶される。
遥か後方に視える迷宮の壁面さえ斬り破り、雨色の一閃は衰えることなく全てを斬り裂いた。
ずしゃ、と音を立て、漆木 哲也が地面に転がる。
白目を向き、そのまま微動だにしない。
深く裂けた胸から血が吹き出す。
完全な決着。
最後に残るは静寂。
死の余韻。
静けさの中を、唖然とした空気が流れる様。
その数秒後、呼吸を忘れた我沙羅の面々が一斉に息を吹き返した。
「す……すげぇ……なんだよ、マジか、今の」
思い浮かんだ言葉を順に口から出したように、語彙力の欠片もない感想を綴るのは野良井 獏。
しかし間近であんなものを見せられて、動揺しない方がどうかしている。
その隣で、織﨑 萩はこの場にいる誰よりも目を奪われていた。
梁取 葵が放った最後の一撃。
超常的な一閃が、目に焼き付いて離れない。
そんな萩の意識が現実に焦点を合わせたのは、力の全てを出し切り、今にも倒れそうになっている葵に気づいたからだ。
「……葵さん!!」
萩が咄嗟に葵に歩み寄ろうとしたとき、
「何してるっ!? 殺せえぇぇ……ッ!!」
響き渡る怒号。
言葉通り血反吐を吐きながら、ぼろぼろになった身体を起こした太橋 薫が叫んだ。
「っち! 野郎……まだ動けやがったのかッ」
舌打ちし、殺意を再発させる獏。
薫は声の限り怒声を上げた。
「今がチャンスだ! 見ろ! 双夜叉はもう動けねぇ……!! 虫の息だ! 殺せ! ヤツを殺せ! ヤツを殺せば俺らはまだシャバにいれる!! 我沙羅の意地をみせるときだろうがテメェらァァァッ!!」
「……う、おおおおおっ!! やってやる!!」
「ぶっ殺せ! 双夜叉の首を狩れぇぇぇ!!」
「数はこっちが有利だ! ビビるこたぁねぇ囲め!」
触発され、敵意が膨れ上がる。
一時は薫のプライドの低さに落胆を通り越し失望していた我沙羅の面々だが、黒鬼こと漆木が破れた現状、自分たちに指示を出す人間は薫以外にいない。
ある種の自暴自棄。
脳裏に過ぎった敗北の2文字を塗り替え、思考を放棄した我沙羅の面々が勢いにその身を投じる。
駆け出す我沙羅のメンバーを眺めながら、最後尾にいる薫は血だらけの顔面を愉悦に歪めて嗤った。
「逃さねぇ……逃さねぇぞッ、獏ぅ―――ぁ!?」
だが、その瞬間。
飛来した『白いナニか』が薫の右肩を貫通した。
予想外の痛みに「がああああッ!?」と悲鳴を上げ、地面に身体を投げ出した。
身体を丸めて痛みに喘ぐ薫の眼前、自身の右肩を貫通し地面を穿った『白いナニか』が視界に入る。
それは『弾丸』だった。
白い弾丸――。
蒸発するように、瞬く間に弾丸は靄のように消えた。
「――そこまでや」
そして響く、凛として覇気のある告声。
ぴたりと足を止め、我沙羅の面々は振り返った。
獏は目を見開き、萩は口を呆けた。
顔を上げた葵の瞳に映るは宵闇の制服。
黒の中で咲く、紅い椿姫の花。
「はは……ったぁく、敵わんなぁほんま」
悔しそうな言葉とは裏腹に、葵の呟きは安堵と嬉しさに満ちていた。
見知った顔ぶれ。
反応は様々で。
我沙羅の面々は絶望に顔を青くし、獏は驚愕に目を開いたまま。萩は嬉しそうに顔を明らめ、葵は傷だらけの身体を恥ずかしそうに嘆息で誤魔化した。
「ったく。深夜に線路を爆走するバカがどこにいやがる。んなバカは俺ら世代にもいなかったぜ」
「漆木のボケナスをぶん殴れる思て来たんやが、既に伸びとるで樛? 言うか、あないにボロカスの雑巾みたいなった葵を見るんは何年ぶりやろなぁ」
仲間の窮地に駆けつけたのは、レベル.7【白鬼】樛 誠人や、レベル.6【赤鬼】赤松 秀彦を初めとした40名を越えるクラン〝椿姫〟の構成員達。
先代『椿姫』――否『椿鬼』を率いたふたりの〝鬼〟を目にし、我沙羅の面々は顔を引きつらせた。
「元ウェイカーレベル.7【黒鬼】漆木 哲也! 並びに半グレ能力者集団〝我沙羅〟!暴力・強盗・殺人。能力者でありながら数々の犯罪に手を染めたお前らの非道もここまで! 現行犯や、公務を執行する!!」
そんな鬼達を左右に従えて、後ろで纏めた団子髪に鮮やかな朱色の簪を刺すのは現代の大和撫子。
関西大型クラン〝椿姫〟のクランマスター。
「茜さん……」
葵は彼女の名前を口にした。
途端、その極小の呟きに気づいた茜の鋭い眼差しが葵に向けられる。
「葵ッ!!」
「は、はいっ!?」
反射的にびくっと背筋の伸びる葵。
茜はかなり怒っているようで。脳内で茜の怒る理由を思考する葵だが、自らの犯した過ちが多すぎる。
びくびくと怯える葵に茜が言った。
「呼んだだけや! 生きとるんなら今はええ! 後でこってり説教や! 覚悟しとき!!」
ひえぇっ、と顔を青くする葵。
言い訳の余地はなさそうだ。
「構うんじゃねぇ……ッ!」
我沙羅の面々が怯み、戦況が色濃い敗北の色を示そうとも、太橋 薫だけは諦めが悪かった。
目を血走らせ、何が何でも野良井 獏をこの場で仕留めようと声を荒らげ散らかした。
「獏、テメェだけは――ッ」
だが、そんな薫の脳天を。
「――うっっさいなぁ」
頭上から降った黒茶のローファーが踏み砕く。
「ん、が――……」
ゴヅン、と鈍い音を鳴らし、薫が白目を剥く。
そのまま前のめりに倒れ強制沈黙。
気絶して意識のない薫の頭蓋を、黒茶のローファーで踏みつけ続けるのは若い金髪の女だ。
肩までで切られた赤味がかった派手髪金髪ボブ。
華奢な身体に高校生の着るような制服を纏い、短いスカートの中からは純白の下着が覗く。
目元まである前髪の隙間から、黄茶色の瞳がまるでゴミを見るような目つきで薫を見下していた。
「終わってんの。理解れよカス。うちらが来た、その時点でお前ら全員詰みなんだよ。ひつけぇからマジさ」
薄桃色の瑞々しい唇から吐かれる、聞く者によってはトラウマレベルの刺々しい言葉の罵詈雑言。
引きつった顔の我沙羅達が動けずにいる中。
ふふふ、と艶のある笑い声がどこからともなく聞こえてきた。
「椿姫さんだけやないでぇ?」
声の聞こえてきた方を見上げた先、黒い制服を着た椿姫の面々の中に、学生制服やらスーツやら、私服姿の一団の姿があった。
その中心には派手色の着物を着た女性が映る。
口元を扇子で隠し、柔らかな目元が特徴的な女性。
魅惑的な麗艶のあるオーラを放つのは『花魁』。
「間接的にやけどな。ウチの子ぉらもぎょうさん悲しい思いしてんて。ウチはツケだけは何が何でも許さへんよ。せやから好き放題やらかしたツケは払ってもらう」
知る者ぞ知る京都の顔。
女性陣のみで構成された京都の大型クラン。
その名は〝月姫〟。
「嘘だろ……!? 月姫の【花魁】!?」
「翼の戦乙女に、薔薇の戦乙女までいやがる!?」
「なんで……椿姫に月姫まで!? 関西のナンバー1とナンバー2クランがここに……っ!!」
どよめき沸く立つ我沙羅の残党。
大阪の椿姫だけでも絶望的な状況に、追い打ちをかけるように京都の月姫までもが揃い、完全に戦意を喪失していく。
ひとり、またひとりと心象武装が解除されていく。
漆木と薫がやられた今、勝敗は決した。
戦いが終わった。
「……カレン?」
と、萩は戸惑いながらも、薫の頭蓋に足を置く、薔薇の戦乙女に声をかけた。
くるりと振り向き、金髪のウェイカー――薔薇の戦乙女ことカレンが振り返る。
驚いたようにカレンは目を丸くした。
「きゃー! 心配したよぉ萩くーん!!」
「ちょ、カレ――んがっ!?」
嬉しそうにカレンは力強く萩の身体を抱き締めた。
「生きてる? 生きてる!? 良かったー! お姉さん萩くんのこと心配で姉さんにわがまま言って来ちゃった!」
目の回るような変わり身の速さ。
きっとカレンはあまり気にしていないのだろう。
レベル6の腕力に萩は抵抗できず、カレンの胸で窒息しそうになりながら手足をばたばたと動かした。
「カレン……苦じい……」
「本当に良かったねぇ、萩くん! 生きててくれて、お姉さん嬉しいよぉ〜〜」
感極まったカレンは藻掻く萩に気づかない。
「おい、薔薇の戦乙女。それ以上やると死ぬぞそいつ」
見兼ねた獏が注意してくれたことにより「え?」とカレンは力を緩め、萩は息を吹き替すことができた。
「まったく騒がしいやっちゃらやなぁ」
離れたところでひとり、気の抜けた声を出して葵が薄く笑う。
応援の規模もメンツも大きすぎて、緊張感も一気に吹き飛んでしまった。
「おっ、とと、……」
そのせいで、身体中の痛みが再発する。
限界の一歩手前。
折れた腕と助骨が熱を主張し、血を流しすぎた肉体が頭痛と吐き気を伴い危険信号を上げている。
「まぁ、ようやった方やな」
周囲を見渡す葵がそう呟いた。
当初の目的である楓を救出し、怨敵である漆木を打倒し、そして全員が無事生き残れた。
これ以上満足の行く結果はないだろう。
「今回は、誰も死なせへんかったで……お父」
門番を失った迷宮が悲鳴を上げている。
あと数時間もすれば異界門は閉じるだろう。
全て終わったと、葵が判断しようとした直後のことだった。
葵の斬撃で亀裂の入った壁面の一部が剥がれた。
「……なんだアレ……?」
誰かがそんなことを呟いたのだ。
その呟きを聞いた葵が、壁面を振り返る。
その瞬間、全身を戦慄にも似た怖気が走った。
剥がれた壁面の内からこちらを覗く無数の赤い瞳。
「――ッ」
何十もの、何百もの、何千もの赤い眼球。
それらが周囲を観察するかのように、ぎょろぎょろと絶え間なく視線を巡り巡らせている。
アレが何なのか、葵にはわからない。
初めて目にする迷宮の〝異常〟。
アレもモンスターの一種なのだろうか。いやしかし。
ただただ本能が警鐘を鳴らしている。
レベル.8に成った葵にさえ、アレの底が見えない。
「……暗闇から覗く、大きな赤い瞳」
ぽつりと、椿姫のメンバーが口を開く。
世界を騒がす〝七不思議〟。
そう、それはまるで、暗闇からこちらを覗く赤い瞳そのもので――。
「なんやの、あの赤い目……ッ!?」
異常に気づいた月姫の花魁が目を見開いた。
「樛っ! 赤松っ!」
「わかっとるッ!!」
「ああ……アレはかなり、ヤバイ……っ」
柄にもなく焦燥と叫ぶ茜に、名前を呼ばれたふたりが茜の指示に応える。
「烈弾装填〝白銀の弾丸〟」
マグナム系の心象武装の照準を赤い眼球の群れに合わせ、躊躇なく樛が引き金を引く。
爆音を響かせ奔る弾丸。
赤い眼球のひとつを撃ち抜いた。
瞬間――。
『ギィィィィィィィィィィィッッッ』
耳をつんざくような大音量の悲鳴。
「なっ……ッ、耳が……!!」
「うっ、るさ……っ」
まるで迷宮全体が悲鳴を上げているような。
逆だ。悲鳴に呼応し迷宮全体が怯えているような。
精神を啄むような高音の慟哭。
痛い痛い痛い痛いと泣いている。
気のせいか、それは人間の言葉によく似ていた。
ノイズが遠ざかり、チューニングされ、段々とそれは人の言葉に近づいていく。
痛い痛い痛い痛いと哭いている。
痛い痛い痛い痛い痛い痛いいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいよ――たすけて、萩くん。
有りもしない幻聴が萩の耳に聞こえた。
有りえてはいけない幻聴が、萩の耳に届いた。
間違えるはずがない。
それはよく知る声で。
記憶の底で眠るあの人と同じ声で。
助けてと、そう萩に言った。
「……結維、先輩……?」
そう、それは紛れもなく、萩の知っている声で――。
「……うそ」
弾かれたように、萩は隣にいるカレンを見る。
カレンは口を抑え、信じられないものを見たかのようにふるふると力なく首を横に振っている。
「兄貴……っ、兄貴なのか!?」
その隣で獏が声を大にして叫んだ。
今の声が、ふたりには違う人物の声に聞こえたのか。
否、ふたりだけではない。
「お父さん……?」
「なんで、どうして海斗の声が……っ」
「遼平……そっちにおるんか!?」
「うそや……うそや……ッ」
この場にいる他の皆にも、声は聞こえていた。
それはその人の最も忘れられない声で語りかける。
決して無視できない、心奥に住み着いた傷跡に触れるように。
「――アカン! 撤退やっ!!」
茜が全体に指示を飛ばした。
動揺し固まる味方全体が背筋を伸ばす。
誰もが有りもしない幻聴に戸惑いを浮かべている。
その躊躇を、茜の力強い声が現実に引き戻した。
「総員、即時撤退!! 動けるもんは動けんもんをできる限り回収し直ちに撤退せぇ! これは命令やッ!!
「でも茜さん、今の声……紡木だ。紡木が俺を呼んだんや……助けてって」
「……っ、幻聴や! 惑わされるな!」
もたつく仲間の背中を蹴飛ばすように、茜はキツく言葉を放つ。
「樛さんは煙幕を! 松っさんは葵と黒鬼を回収して撤退や! アレと殺ろうやなんて考えたらアカンで? アレはウチらが手ぇ出してええもんちゃう」
「……お前でもダメか、茜。了解した。行け、松。時間稼ぎになるかどうかは知らんが、煙幕でアレの視界を塞ぐ」
「クソッ、何がどうなっとんのや!?」
常に冷静を心がけている茜が怒鳴ったのは、そのまま言葉の裏返しで、今の茜は冷静ではない。それほどの激情が茜の中にも渦巻いている何よりの証拠。
「……ッ、最悪やぞ、これは。悪趣味にも程があるッ」
整った顔に憤怒を浮かべて茜が舌打ちをした。
遠く壁面に蔓延る赤い瞳を睨めつけた。
「逃げるよ、ふたりとも」
茜の指示に我を取り戻し、言うよりも早くカレンは獏を肩に担ぎ、萩を脇に抱えて撤退を開始する。
『行かないで、お願い……助けて、萩くん』
見知った声が。
かつての残響が。
今にも泣きそうな声で。
悲痛な声で、萩に助けを求めている。
それが彼女を失ったあの日を彷彿とさせた。
「カレン、離して!!」
「耳を貸しちゃだめだよ萩くん」
「でも、維維先輩がっ!!」
女の子であるカレンの身体は細い。
しかし抜け出せない。
どんなに力を込めても、カレンの細腕を振り払うことができない。
「離せッ! 俺は行かなきゃならねぇ! 兄貴が俺を呼んでる! だから離しやがれ!!」
「違う。アレはきっと、君達の知ってる人とは別物だ」
暴れる獏を抑えつけながら、一目散に逃走するカレンの声はひどく震えていた。
「昔、植物系の幻覚能力を持った眠夢種と戦ったことがあるけど、こんな大規模の幻覚を持つモンスターの情報は、未だギルドにも登録されてない。アレは格が違う」
「幻聴なわけあるか!? あれは祥平の兄貴の声だッ!
俺が兄貴の声を間違えるわけがねぇ!!」
聞く耳を持たない獏に、カレンは続けた。
「幻聴だよ。だって……あの子はもう、死んでる」
「死ん――……」
言葉尻が消え行ていく。
獏の顔が悲痛に歪み、抵抗が弱まる。
それから悪夢を振り払うように頭を振る。
「くそ……ッ、じゃあこの声はなんだってんだ……!? ちくしょうがッ」
耳から離れない亡者の声に、獏はどうしたらいいのかわからない。
「わかんないよ、あたしにも……ッ」
どうしていいかわからないのは、カレンも同じだ。
揺れるカレンの腕の中で、萩は刻々と遠ざかる赤い瞳を見た。
赤い瞳もまた、萩を見ていた。
『ばいばい、萩くん。次はわたしを、――助けてね』
その声は、紛れもなくあの人の声だった。




