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レベル0のイレギュラー  作者: 椋鳥 未憐
第二章 椿姫
63/132

Level.60『約束の在処』




 鮮血が舞う度、薄汚い哄笑が沸く。


 拳を振るう度、新たな生傷が増えていく。


 多対一での乱戦。否、集団公開処刑(リンチ)


 レベル差を覆すほどの物量。

 四方八方を囲まれ、逃げ場は皆無。元より逃げる気などさらさらないが、息をつく暇もない。


 卑怯だとは思わない。

 それが奴らのやり方だ。

 サシで勝てない相手には大勢で襲いかかる。

 サシを張れる勇気も実力も、初めから敵輩には備わっていないのだ。


「そっち囲めぇ! 逃がすんじゃねぇぞッ!!」


「へへへ、ぶっ殺してやらぁ!」


 敵は元チームメンバー。

 中には仲の良かった者も数人いる。

 救いようのない糞の集まりみたいな我沙羅だが、長年世話になった古巣。

 なんにせよチームを裏切ったのは自分だ。

 罪悪感がないと言えばそれは嘘になる。


「どうしたよ、漠。足が止まってんぜ?」


 この集団を一時的に率いる男。

 太橋 薫の挑発を、獏は鼻で笑う。


「何年経っても、てめぇはあん時のまんまだなぁ薫」


「何だとテメェ」


 獏が想起するのは祥平と出逢ったあの雨の日。

 そしてそれは薫と初めて出逢った因縁の日でもある。

 あの日、あの3人の中に薫はいたのだ。


「いいや、あん時以下だ。俺ぁ知ってんぜ。岡本と石塚が祥平さんに詰められたとき、てめぇだけがチームに残れた理由をよォ」


「――っ」


 あの時のメンバーは今や獏と薫、そして漆木の3人しか我沙羅に残っていない。

 だから獏を取り囲む他の連中は知らない。

 ふたりが一体何の話をしているのか、事情を知らぬ他の連中が互いに首を傾げる中、薫が鋭く息を呑む音が聞こえた気がした。


「威勢がいいくせして度胸がねぇ。態度がデケェ割りに根性もねぇ。だからいつも誰かと群れやがる。気づけや。そんなんだからてめぇはいつまで経っても〝雑草〟のまんまなんだろうがよぉッ!!」


「獏、テメェッッ!!」


 それは薫の地雷をぶち抜いた。

 レベルの話は薫の前ではタブーとされていた。

 何故なら薫のレベルは4。

 あの日から、ずっと、変わらない。

 停滞を続ける薫は、いつの間にか格下だった獏にもレベルを追い抜かれ、今やチームの中でも薫の立場は下落し続けている。

 それでも尚、薫が今の地位に立っていられるのは一重に古参という立場が所以している。新入りを嬲り、威圧することで、薫は自身の立場を確立させ、大物顔をしているだけだ。

 所詮はハリボテに過ぎない。

 事実、地位に興味を持たない漆木や明鷺は、薫の悪事を知ってはいても口を出さなかった。


「てめぇは弱い物イジメしかできねぇ小物でしかねぇんだよ。我沙羅をここまで落ちぶれさせたのは他の誰でもねぇ、てめぇだ薫。落とし前はつけさせてもらうぜ」


「黙れッ! 野良犬風情がッ! テメェらぶっ殺せ!」


「はッ、結局他人頼みかよチキン野郎ッ!!」


 薫の声に我沙羅のメンバーが獏目掛けて殺到する。

 数は凡そ20人。

 半数を気絶させてこれだ。

 指示をだした張本人は最後尾から動かない。


 左右から迫る二人を両の拳に装着した《喧嘩兼鍔(ナックルダスター)》で殴り飛ばす。秒で瞬殺、撃沈。

 八重歯をにぃと剥き出し、獏は笑った。


「まずはふたり」


 次いで、正面から体格のいいスキンヘッド男が拳を振り上げる。

 拳を硬化する類の心象武装『変異形態(ラグニス)』。

 漆木の持つ心象武装と似ているが劣化版に過ぎない。

 獏はその拳を左手で軽々と受け止めた。


「軽ぃ拳だなァ、おい」


「マジかよ……っ」


 男の拳を掴んだまま、右腕を引き絞る。


「本物の拳ってやつを教えてやる。腹ァ力込めろ」


 そして、男の腹目掛けて拳打。

 男の腹筋に獏の拳がメリメリと埋まり、獏との体格差凡そ2倍程もある男の身体が宙に浮く。


 獏の固有能力《申告拳殴》は直前に申告した場所を殴ると通常の3倍の威力の拳になり、拳が申告箇所以外に命中しても能力《2度殴り》が発動し、申告箇所以外に2度目の拳が炸裂する仕様になっている。


「うご、っぎ……ッ!?」


 白目を剥いた男が吹き飛び、沈黙。

 そして間髪開けず、更に追撃が獏を強襲するが、その全てを正面から拳で打ち伏せていく。


「嘘だろ!? レベル4の新田さんがワンパンで……」


「安田と場野もやられた……バケモンかよ……!?」


「悪ぃが、手加減してやれる余裕はねぇぞ」


 ふらふらと足取りは遅く、肩で息をつく獏はもはや満身創痍。頭から垂れる自身の血を腕で拭いながら、しかし獏の歩みは止まらない。

 着実に薫との距離が縮まっていく。


「どけ! 俺らが燃やし尽くしてやんよ!!」


野良犬焼き(ホット・ドッグ)にしてやんぜ!!」


 獏の視線の先、男がふたり躍り出てきた。

 ふたりとも見覚えがない。恐らく新入りだろう。

 そう言えばついこの間、薫が新入りを連れてきたのを獏は思い出す。興味がないから気にしなかった。


「行くぜ拓夢! 合わせろ!」


「任せろ弘明! いっちょ強烈なの頼むぜ〜!」


 片方の男がジッポライターで火をつけ、もう片方の男が大きく息を吸い込み肺を膨らませていく。

 あのジッポ……あれも心象武装なのか。

 祥平の使っていた銀のジッポを獏は思い出した。

 ものの数秒で限界まで肺を膨らませ終えた男が、もう片方の男の持つジッポに口を近づけ、そして。


「「ブレス・オブ・ファイヤー!!」」


 肺を膨らませた男が一気に溜めた空気を吐き出す。

 吐き出された息はジッポの炎を巻き込み肥大化し、まるで火炎放射機の如く打ち出された大炎に、なす術無く獏の身体は一口に飲み込まれた。

 そして湧き上がる歓声。

 チーム我沙羅からわっと雄叫びが上がる。


「おおっ! すっげぇ炎!!」

「熱、熱! こっちまで熱が来て熱っちいぜ!?」

「よっ、放火兄弟! さすが薫さんが連れてきただけのこたぁある!!」

「いくらレベル5でも、こりゃ一溜りもねぇだろ!」


 我沙羅メンバーの熱気に浮かされたように、大火炎を披露した男ふたりも自慢気にギャハギャハと下品な笑い声を上げた。


「はっはぁッ! 見たかお前ら!?」


「どうだ俺らのブレス・オブ・ファイヤーの威力はよぉ!! ハゲ猿を火だるまにしてやったぜ!!」


 太橋 薫を含めた我沙羅メンバーのテンションが絶頂に差し掛かった頃、ふと大火炎に焼かれて烟る炎煙が晴れ始めた。

 薄れ行く煙の中、ひとつの人影が現れる。

 辺りを満たしていた熱気が急激に冷め、騒ぎ立てていた我沙羅メンバーがぴしゃりと口を閉じた。

 彼らの眼に映るのは、狂犬の姿。


「猿だと? 大道芸なら他所でやれや。我沙羅にピエロはいらねぇんだよ」


 夥しい血を流しながらも、その歩みは止まらない。

 肉体は恐らく限界を超えている。

 精神だけで正気を保っているようなものだ。

 蹴りでも拳打でも、一発食らえばそのまま死んでしまいそうな身体なのに、滾る闘志は衰えを知らない。

 殺伐とした殺気を放ち、死への恐れを噛み殺した瞳に宿る獣の凶気はまさに狂犬の如し。

 かつて祥平と暴れ回っていた当時の面影が蘇る。

 悪鬼然とした姿に、我沙羅のメンバーは知らず怖気づいていた。

 空気が飲まれる。完全に。


「ははっ、……ザマァねぇぜ! 見ろよ、もうやつは虫の息だ! 立ってんのもやっとだろうよ!」


 大声を出し、薫は獏の姿を嘲けた。

 だがその声は微かに震えていて。必死さが伝わる。


「数で押しゃあどうとでもなる! テメェら、殺れ、殺せぇッ!!」


 戦意を喪失しかける仲間に向かって薫は堪らず怒号を飛ばしたが、その指示に応える者は誰ひとりといなかった。


「「………」」


 我沙羅のメンバーはちらちらと互いに顔を見合わせるばかりで、誰も薫の指示には従おうとしない。

 急に薫は不安を覚えた。

 心臓が高鳴り、呼吸が荒さを増す。

 その不安を塗り消すように薫は再度叫んだ。


「何してやがるテメェら!? ビビるんじゃねぇ! あんなガキひとりに情けねぇぞ!? 行け、殺せッ!!」


 だが、結果は変わらない。

 周囲を睨みつける薫と誰も眼を合わせようとしない。

 

「惨めだなぁ、おい」


「――っ、」


 狂犬と目が合う。

 薫は息を呑んだ。そして気づく。

 知らぬうちに一歩、己の足が引いていたことに。


「来いよ」


 獏の挑発。

 一対一(タイマン)の誘い。

 全員の瞳が薫に向けられる。

 逃げられなかった。


「くそがッ」


 そう言い、薫が動いた。

 我沙羅のメンバーを蹴散らすようにして最前列へ出ると、薫は獏と向き合った。


「もう逃げられねぇぜ薫よォ。ちゃんとションベンは済ませてきたか? 待っててやってもいいんだぜ?」


「ッ、バカにすんじゃねぇ!!」


 血管がはち切れるほど額に青筋を立て、心象武装《重木刀》をその手に薫は駆け出した。

 獏との距離を詰め、重木刀を振り上げる。


「死ねや、死に損ないの野良犬がよォッ!!」


 そして獏の頭部を全力で殴打。

 余力がないのか、獏は薫の攻撃を避けず、諸に一撃を食らう。

 太橋 薫の心象武装《重木刀》の能力は、その名の通り得物に加重を乗せ殴るといったシンプルな能力だ。

 しかしシンプルが故にその効果は絶大。

 能力で増加する加重量は3tトラックに匹敵する。

 その直撃をまともに受けた獏の頭部からゴッと鈍い音が鳴る。


「へへ、バカが、調子に乗ってんじゃねぇよ……!」


 確かな手応え。

 一撃で勝機は決したと薫は確信した。しかし。

 その直後、獏の左手が伸び、薫の重木刀を掴む。


「軽く……なったもんだなぁおい。あんときの一撃はよぉ、もっと重かった。こんなもんじゃあなかった」


「なっ、てめぇ!? 離しやがれッ!!」


「離……さねぇよ。次は俺の番だ。腹ぁ殴るからよ、歯ぁ食いしばりやがれ」


 放たれる獏の拳。

 咄嗟に薫は左腕で自身の腹部を守った。

 まるで鉄球のように重い拳が腹を守った薫の左腕に直撃、衝撃が腹部まで伝わる。


「ぐ、ぅ……ッ」


 予想以上の威力。骨が軋む。

 しかしダメージは最小限に抑えられた。

 レベル差があると言えども所詮は手負いの獣。

 この程度かと薫が口元を緩めた、まさにその瞬間。獏の能力《2度殴り》が発動した。

 油断の隙間を突くように、薫の逆脇腹に衝撃が炸裂する。


「あ、ごぁッ!?」


 対処のしようもない無垢の打撃。

 殴られた薫の腹部が痛みに悲鳴を上げる。


 たかが一発だ。

 瀕死の獏が放ったその一発で、膝が震え、胃の中から込み上げる吐瀉物を薫は盛大に嘔吐した。

 薫は痛みに耐性がない。

 常に取り巻きに手を汚させ、高みの見物を決め込んだツケが回ってくる。


 ふざけるな、と薫が心の中で絶叫を上げた。

 こんなはずじゃない。

 こんなわけがない。

 きっと何かの間違いだ。だって――。

 あの日地べたに転がり、泥に塗れた無様な野良犬に、俺が負けるわけがない、と。


「今のは、てめぇが我沙羅を落ちぶれさせた分だ」


 はっと顔を上げると、そこには凶暴な野生の獣。

 その冷たい瞳に背筋が凍る。

 狂犬が静かに薫を見据え、言った。


「んでこっからは、てめぇが祥平の兄貴を侮辱した分。喜べ、利子付きで返してやるから」


 そこから先は、一方的な処刑(リンチ)だった。

 

「胸。腹。腕。顔面。顔面。横っ腹――」


「ぐッ、ぎぁ、あが、ぼぇ、待っ、っえぼぇッ」


 型も構えもない、路上で培われてきた野生の喧嘩流。

 息をつかせぬ連撃と連打。有無を言わせぬ狂犬の拳で、薫はなすすべ無く殴られ続ける。


「……ひでぇ」

「おい、誰か、止めてこいよ……」

「バカ言うな。お前が止めろよ」

「無理だって。俺、死にたくねぇよ」

「誰が止められるってんだ……あんなの」

「でも、薫さん。死んじまうぜ、このままじゃ」


 反撃すらできず、両腕を交差し、ただのサンドバッグに成り下がった薫を、動くことすらできずに見守る我沙羅メンバー(ギャラリー)達。

 

「なかなか、タフじゃねぇか。見直したぜ」


 右の拳に力を入れ、獏が薄く笑う。


「歯ぁ食いしばっとけよ、舌噛むぜ」


「ちょ、待っ――で」


 薫の静止の声を無視し、獏が渾身の拳を振り上げる。

 両腕の防御の下を掻い潜るように、獏の拳は薫の顎下にクリーンヒット。薫の身体が真上に跳ね上げられる。

 宙に跳ね上がった身体が、背中から地面に打ち付けられ、薫は血を吐いた。


「うっ、げはっげほっげほ、かはっ……」


 顎を打たれたことによる脳震盪。酷い目眩。

 自分の歯で噛みきった唇から血が溢れ、砕けた顎から血が滴る。

 

「何してんだ。終わりじゃねぇぞ。立てよ」


 容赦のない冷たい声と、慈悲を捨てた眼差し。

 薫の心魂が震え上がる。

 飛びかけた意識が恐怖によって覚醒した。

 ケジメはまだ終わらない。

 薫は獏に向かって手のひらを見せ、敵意のないことを表すと、直ぐさま地面に額を擦りつけた。


「ま、待っで! 頼む、謝る! 謝罪する! 俺が悪かった! だから、もうやめ――」


 砕けた顎も構わず大声で謝罪する薫。

 今まで奢り昂ぶった、脆弱な自信が剥がれ落ちる。

 プライドも厭わず、惨めな姿勢と醜態を晒した。

 それなのに――。


「やめるわけねぇだろうがッ」


 土下座する薫の脇腹を、獏が蹴り飛ばす。

「あぎゃ」という悲鳴と共に薫の身体が転がった。

 転がった薫の上に獏が跨り、マウント。

 時を待たず剛拳が振り下ろされる。


「やめねぇ、やめねぇよ、薫。こんなもんかよ、この程度のもんかよ。やめて欲しいのはこっちだ。なんだこの無様は、なんだこの醜態は。あんときの威勢はどうした、あの頃のテメェはどこにいったッ!?」


「ひっ、あがっ、うぎッ、待っ、死んじ、ぁが」


 拳が振り下ろされるたび、薫の悲痛な喘ぎと一緒に血が飛び散る。

 構うものかと獏は拳を振り下ろした。

 何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も、何度も何度も何度も何度も何度も――。


「もういい、死ねよ、殺してやるよ、クズが。てめぇは俺の手で殺らなきゃ気が済まねぇ、だから死ね、死んで償いやがれ、祥平の兄貴を侮辱しやがって、許さねぇ、絶対に」


 作業のように、獏は無心で殴り続ける。

 憧れた兄貴――雨瀬 祥平をバカにされたツケは、こんなものでは済まない。到底許せるものではない。

 だから殴った。

 ひたすら殴り続けた。

 出血のせいで頭が朦朧とする。

 思考もおぼつかない。

 酷い頭痛に苛まれながら、それでも手は止めない。

 意識も飛び、白目を剥く薫に獏は気づかない。

 静寂の中で拳が肉を撃つ音だけが響く。



「もう十分だ。やめろ、獏」



 ふと、振り上げた腕が誰かに抑えられた。

 感情の失せた瞳で獏はその誰かを睨みつける。


「離せよ」


 その誰かとは枯葉色の髪の男。

 獏と同じくらい血だらけの織﨑 萩だった。

 腕を押さえたまま、萩は言った。


「殺しちゃだめだ。祥平さんに言われたんだろ。誰も殺すなって。祥平さんとの約束、破っちゃだめだ」


「ちッ」と獏は露骨に舌打ちする。


「るせぇ、邪魔すんじゃねぇ。祥平の兄貴はもう、どこにもいねぇ。約束なんざもう何の意味もねぇ」


 約束とは両者合意の上で結ばれる契約だ。

 両者が生きていてこそ意味がある。

 しかし約束を交わした相手はもうこの世にいない。

 ならば律儀にそれを守る道理がなければ、誰に咎められる謂れもない。


「だからこそだろ」


 だが、萩は折れなかった。

 獏の殺意に臆せず、萩は正面から獏と向かい合う。


「祥平さんはもういない。けど交した約束はなかったことにはならない。祥平さんとの約束は、お前の中で生き続けてるんだ、獏」


 何を言うかと思えばそれは獏の大嫌いな精神論。

 それは雨瀬 祥平と、野良井 獏との約束だ。

 他人にどうこう言われる筋合いはない。

 空いている片方の手で獏は萩の胸ぐらを掴むと、強引に顔を近づけさせ、怒気を孕んだ声音で威嚇する。


「黙れよ、てめぇ。知ったような口を聞くんじゃねぇ! 祥平の兄貴は死んだ! 今さら約束なんざ守ったところで一体何になるってんだ!? あぁ!? そんなことより俺はこいつを殺さなきゃ気が済まねぇ。兄貴を侮辱したこいつだけは俺が――」


 殺さなきゃならねぇ、そう言おうとして――。


「お前にとってその約束は、祥平さんがいなくなった程度でなかったことにできる、そんな軽いものなのかよ!?」


「――っ!?」


 萩が獏の胸ぐらを掴み返し、怒鳴ったのだ。

 まさか言い返されるとは思わず、唖然と獏は気圧される。

 それに構わず、萩は更に声を張り上げた。


「祥平さんと約束したのは俺じゃない、お前なんだ! これはお前と祥平さんの約束だ! お前が約束を覚えている限り、約束は生き続ける。だからお前だけはその約束を守らなきゃだめなんだ! お前が約束を破ったら、いったい他の誰が約束を守るって言うんだ!?」


 感情のままに、萩は言い切った。

 互いに目を反らさず、睨み合ったまま数秒。

 肩で息をつく萩がそっと目を伏せた。


「最後まで守り抜け……もっと大切にしろ。約束したんだろ。その約束は、破ったら最後、もう二度と結び直せないんだ……」


 語りかけるように、願うように萩はそう呟いた。

 その表情は悔しそうで、辛そうで、過去に抱いた悔恨を滲ませているかのように見えた。


「――」

 獏は未だに動けずいる。

 それくらい今の言葉は、獏の胸に深く刺さった。

 足りない頭で獏は考える。

 祥平の兄貴はこの世にいない。だから、約束を守るも破るも自分次第。まるで萩が口にする約束とは、己を縛る鎖のようだと獏は思った。

 自身が覚えている限り、約束は果たされ続けるなんて……感情論だ、それは。

 けれど――。


「……離せよ」


「離さない。お前が祥平さんの約束を守り通すって言うまで、絶対に離さない」


「――だから」


 けれど、もし獏が祥平と交わしたあの日の約束が生き続けられるのなら。

 祥平が生きた証をこの胸に刻み続けられるのなら。


 それはどんなに素晴らしいことだろう。


 それはどんなに誇らしいことだろう。


 生涯を賭けて約束を果たし続けた先で、獏はきっと胸を張って祥平に顔向けできるとそう思ってしまった。

 その時点で、獏の負けだ。

 言い返す言葉が見つからない。


「……わかったから離せっつってんだよ」


 萩の腕を強引に振り払うと、獏は立ち上がった。

 ふらっと、よろめいた獏の肩を、萩が支える。

 どこまでも格好がつかない。

 気恥ずかしさを紛らわせるように「ったく、だから言ったろうが」と、気絶した薫を見下ろし獏は溜息をついた。


「ションベンよぉ、タイマンの前にしてこねぇと、漏らしちまったとき格好がつかねぇだろうが」


 濡れた薫のズボンを一瞥した後、獏は微笑する。


「あーあ。一気に冷めちまったぜ。こんなクソダせぇションベン垂れ野郎なんかのために、祥平の兄貴との約束、破っちまうとこだったぜ」


「獏……」


「ハッ、勘違いするんじゃねぇぞ、萩。仕方ねぇから、てめぇの口車に乗ってやっただけだ。これは決してお前の言葉に心が震えたとかじゃねぇ」


「……ああ、わかってるよ。大切にしてくれ。祥平さんとの約束」


「ケッ、余計なお世話だってんだ。言われなくとも祥平の兄貴との約束は死ぬまで破らねぇ。じゃねぇと兄貴に合わす顔がねぇからな」


 それから獏は、萩に向き直る。


「だが、礼だけは言っとくぜ。ありがとな」


 そう言って獏は頭を下げた。

 きっかり腰をおって45度。

 あまりの礼儀正しさに、きょとんと萩は驚きに固まってしまう。


「……そういうとこ、ちゃんとしてるのな」


「茶化すんじゃねぇよ、ったりめぇだろうが。礼を口にすんのは別段ダセェことじゃねぇ。人に何かしてもらったとき、素直に感謝を口にできねぇヤツの方が万倍ダセェ」


 それが獏の在り方で、生き方だ。


「そして何かしてもらった時にゃぁ必ず倍にして返す。喧嘩でも何でもそうだ。恩も仇も倍にして返してやるのが俺のモットー」


「恩も仇も倍返し、か。いい言葉だなそれ」


「ったりめぇよ。それを俺に教えてくれたのは他の誰でもねぇ、祥平の兄貴だからよ」


 サムズアップしてみせる獏を見て、萩が口の端を緩める。


「そうか、祥平さんが」


 お互い、それ以上は語らなかった。

 語らずとも理解し合えたからだ。

 これでいい。

 無粋はいらない。


「ところで、楓っつったか? あの男女、気がかりだぜ。無事でいりゃあいいが」


「それは楓が女の子だからか?」


「違ぇし違くねぇッ」


「どっちだよ……」


「さっきから伏見の野郎が見当たらねぇ。アイツの性格上、俺が弱ってる今を狙って来ねぇとすりゃあ、恐らくあの男女をつけてったに決まってる」


「大丈夫、心配いらない。ああ見えて楓は俺より強いからな。集中してるときの楓は特に」


「その自信はどっからきやがんだ……まぁいい。お前が心配いらねぇって言うんなら、そうなんだろうな」


「そういや、萩」と前置きし、今更ながら自分と同じくらい服を血で汚した萩を見て獏は思い出した。


「お前、明鷺と殺りあってたよな。逃げてきたのかよ?」


 すると萩は何気ないふうに答える。


「ん? ああ、自首してくれたよ、あの人」


「そうか、自首したのか」


 へぇ、と軽く聞き流しかけたところで「は?」と獏は目を丸くした。


「自首した? あの明鷺が!?」


 大声で聞き返すと、萩は「うん」と頷く。

 獏は頭痛のする頭を片手で抑えた。


「マジかよおい。人斬んのが趣味のイカレ野郎だぜ? あのおっさんが自首とかあり得ねぇだろ。いったいどんな手を使ったんだてめぇ」


「どんなも何も――」


 萩が口を開きかけた、そのときだった。


「「――!?」」


 全身が総毛立つような寒気――否、鬼気。

 空気がピリピリと震え、空間全体が軋んだのかと錯覚するほどの途方もない圧力を肌で感じ、萩と獏は互いに目を見合わせた。


「な――ッんだ、今のとんでもねぇ殺気は……!?」


「違う、殺気なんかじゃない、今のは――」


 まさか、といった想像のままに萩は振り返った。

 萩の向けた視線の先にいたのは、見たこともない長刀を構えた血だらけの葵だった。

 

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