Lv.59『野良井 獏』
鮮明に覚えている。
初めてあの人に出逢ったのは、梅雨前の五月雨降る夕暮れ時だった。
「おい。待てよ、てめぇ」
大通り、歩道をすれ違う際、大柄な男たちのひとりと肩がぶつかった。
男も俺も、お互い避けようとしないのだから肩がぶつかるのは必然で、俺は反射的に無視して素通りしようとする男の肩に手をかけた。
「あ? 何やテメェガキ」
「肩、ぶつかったろうが。謝れよ、おっさん」
「おいガキィ。俺を誰や思ってんねん自分。喧嘩吹っかける相手は見て選んだ方がええぞ」
「知らねぇよ。殺すぞてめぇ」
「ちょい顔貸せや、兄ちゃん」
当時の俺は気性が荒く、何かにつけては人に八つ当たりし、誰彼構わず喧嘩三昧の毎日だった。
短気で血の気が荒く、暴力沙汰でクランをクビになった回数は数え切れない。
理由はわからない。
毎日何かに苛ついていた。
むしゃくしゃしていた。
考えるより先に手が出てしまう。
きっとガキだったんだ。
暴力だけが唯一、俺のストレスの捌け口だった。
暗い路地裏に連れ込まれ、俺は男達に囲まれた。
数は3人。年齢は30くらい。身体はがっしりしていて、半袖から垣間見える上腕には墨が入っていた。どう見てもカタギの人間ではない。
「あのよぉ、お前よぉ兄ちゃん何歳? 18そこらの未成年やろう?」
「だったら何だよ」
男のひとりが、人差し指で地面を指した。
「土下座せぇや」
「あ?」
「あ? やなくて、地面に頭擦りつけて謝ったら許してやる言うてんねや」
「俺らも未成年に手ぇ出したとあっちゃ上から怒鳴られるんよ。怒鳴られるで済めばええが、最悪クビや。チームの沽券にも関わる」
「そりゃそっちの都合だろうが」
「あんま角立てんと。生きづらいで。お互いなんのメリットあらへんやろ、これ」
「せやから、ほれ。はよ土下座してくれへん。それで今回は手打ちにしようや兄ちゃん」
にやにやと、男達がほくそ笑んでいる。
自らの有利を過信し、頭数の多さで物を言わせんとするその気概のない態度。
気に喰わなかった。
許せなかった。
気づけば、俺は男達のひとりを殴り飛ばしていた。
「ざけんじゃねぇよッ。なんで俺が土下座しなきゃならねぇ。てめぇらが土下座しとけやチンカスが」
「テメェ、やりやがったなゴラガキテメェッ!」
「気ぃつけろコイツ能力者だ!!」
眉間に青筋を立て、男共が心象武装を発動する。
やはりカタギの人間ではなかったようだ。
心象武装に覚醒した能力者。
一般人より身体能力が高いぶん、ヤクザより尚タチが悪い。
自然と頬がニヤけるのがわかる。
俺は心象武装《喧嘩拳鍔》を発動し、両の拳を叩いて拳鍔を高らかに鳴らした。
「やってみろよ。てめぇらみてぇなチンカス、5分ありゃ十分だ」
そして、きっかり5分後――。
「ぐっ、ぅ、……ッ」
雨で濡れた地べたに転がってたのは俺だけだった。
「はっはっはっは! なんやコイツ! 一丁前に啖呵切った割にはクソ雑魚やんなぁ!」
「生意気なのは口だけかよ。ダッセェなぁ」
「殺してまうか。先に手ぇ出したんはお前やぞガキ」
コンクリートでできた地面の上で、頭から流れた血が雨水と混ざって薄く線を引く。
痛みを堪え、立ち上がろうと震える腕を地面に付くも、頭部を靴の踵で踏まれ、コンクリートに打ち付けられた額が割れた。
「がッ、ぅ、くっそがァ……ッ」
踏みつけられる度、割れた額がコンクリートで擦れて強烈な痛みが俺の頭蓋に染みていく。
雨音に紛れた男たちの哄笑が遠く鼓膜に響いている。
俺の頭を踏みつけながら、男が言った。
「これ以上舐められるんもシャクやで。なぁ、二度と歯向かえんようケジメ取っとこか? 足か腕、どっちがええと思う?」
「腕でいいんじゃねぇか?」
「心象武装は人ん心の根っこの部分言うし、俺やったら拳ぃ砕くけどなぁ」
楽しそうに、ケラケラと男たちがそんなことを口にする。
「……なに、勝った気でいやがるッ、俺はまだ負けてねぇ……っ」
牙を鳴らし、俺は男たちを睨めつけた。
「口だけは一丁前やなぁ」
「そっち、腕抑えときや」
「ほな、まずは右腕からいこか」
ひとりの男が俺の背に膝を乗せ、もうひとりの男に右腕を抑えられる。
抵抗しようと藻掻いたが、意味はなかった。
身動きの取れない俺を上から見下ろしながら、最後のひとりが鉄パイプによく似た心象武装を振り上げた。
「……やめ――」
ベキリッ、と。
骨の砕ける、乾いた音がした。
「ぐッ、ぁッ、ぎ、づぅぅぅッ……!!」
途端、右手が焼けた。
骨が砕けて割れて肉も飛び散って、手首から先が吹っ飛んだみたいな激痛が灼熱を伴い、脊髄を伝って頭の中の血管を何本も一緒に引き千切る。
意識とは無関係に身体がビクビクと痙攣する。
眼球の奥が発火し、次いで込み上げる嘔吐感。
目尻から熱涙が込み上げ、止まらない。
俺は悲鳴を押し殺しながら痛みに歯を食いしばった。
「あちゃあ、力入れすぎてもうたわ」
「うぁ、痛っそう。骨見えとるやん」
「あーあー、可哀想に。泣いてんぞ?」
雨と涙で歪む視界の外で、ケラケラと男たちが笑っていた。
対して俺は酷く無様で、みっともない。
敗北感などなかった。
ただ悔しかった。
ひたすらに惨めだ。
「今回はこれで勘弁しとくか?」
「風呂入りたいわ俺。寒くてかなわん」
「アホ吐かすなや。まだ謝罪の言葉聞いとらんやろ」
最初に肩の当たった男が俺を見下ろす。
「もう二度としません。調子乗ってもうてごめんなさいは?」
「……ふ、ざけ――」
右頬を思いっきり蹴られた。
顎が外れかける。
「聞こえん。謝罪や、はよしい」
「てめぇ……覚えてろよ。いつかぶっ殺して――」
今度は左頬を蹴られる。
意識が飛びかけた。
「やから聞こえんて。謝罪しいや」
「……くっ、そ……が」
掠れた言葉しか出てこない。
冷たいコンクリートに寝そべり動けない。
俺にはもう男を見上げる力も残っていなかった。
意識が泥沼の中に落ちかける。
だが、そうはならなかった。
そうはさせてもらえなかった。
「まだ終わっとらんて」
膝を折って屈んだ男が、俺の耳を指で摘んで持ち上げる。強引に視線の高さを合わせられる。
「まさか特別や思っとらん自分? 能力に覚醒したから言うて、調子乗っとらん? 俺は強い、特別やって、勘違いしとらん?」
男が嘲笑うように言う。
「底辺やで自分? ええ加減気づけやガキ」
自嘲するかのように男は笑った。
「雑草に花が咲いても、所詮雑草は雑草なんよ。なんぼ背伸びしようと色付きの花にはなれん。お前程度の雑草はどこにでもおって、ごまんといる。特別なやつは最初から特別なんよ。そろそろ現実見ようや」
男の瞳は冷たく暗い。
超えられない壁を知って、絶望して、そして諦めた。
そんな瞳だ。
負け犬の目だ。
口内に溜まった血を、俺は男の頬に吐きつけた。
「ざけんな、タコが。一緒にすんじゃねぇ」
「はは、死にたいようやな」
そこから先はよく覚えていない。
意識が定かではなく曖昧で、ところどころ記憶が飛んでいる。
両の拳が潰されていて、腹の骨も折れていて。
気づければ俺の身体は冷めきっていて、身体を丸めて小さく蹲っていた。
「おらぁ! 威勢はどうしたん!? 謝罪するまで許さへんぞコラァ!!」
「おい、石塚。そこらへんにしとこうや。ほんまに死んでまうでこのガキ。さっきから動いてへんて」
「ホンマに。上にでも見つかったらシャレんならん」
「ちッ、クソがッ。次合うた時までに言葉の使い方覚えとくんやなこんクソガキが」
「あと、誰かにチクったらわかっとるやろな自分。琵琶湖にでも沈めんで」
脅しの言葉と共に、頭に汚ぇ唾が吐きかけられる。
侮蔑の込められた嘲笑。
返す言葉は出てこなかった。
呻くだけで、答える気力も余力も見つからない。
視界に映るのは血溜まりだ。
俺の血でできた、赤い血だまりだけを、必死に俺は睨みつけていた。
ふと、雨足が弱まる。
雨音が遠ざかる。
男たちがこの場を後にしようとした、その時だった。
暗い路地裏に、知らない男の声が響いたのは。
「――誰にバレたらやべぇって?」
その声を耳にした瞬間、今まで俺をコケにしていた男たちが一斉に息を呑む気配が伝わってきた。
地面に寝転がったまま、なんとか視線だけを動かし、俺は辺りの様子を探ろうとした。
まず俺の瞳に映ったものは、嘲笑が消え失せ、青白い顔で硬直した男たち。
そしてその背後。
暗がりの路地の奥に、傘を差したひとりの男が立っていた。
「楽しそうな笑い声と、それから血の匂いがしたから来てみりゃなんだ、石塚たちじゃねぇか」
蒼い長髪に、稲妻の瞳。
平静な顔で、刺すような殺気を放つ長身の男。
俺は目が離せなかった。
瞬きも忘れて、ただ魅入る。
曇天の空にひとつ雷が迸る。
「で、――お前ら。何してんの?」
忘れもしない。
今でも鮮明に覚えている。
それが現在の【狂犬】と、かつて大阪で【雷鬼】と恐れられていた男との出逢いだった。




