Level.5『異界崩壊』
確率でいえばそれは1%にも満たない現象である。
現状、異界門の発生は予測できない。密林や島国。高速道路に市街地だったり、或いは遺跡の中だとか。現在の科学レベルではいつどこに門が発生するのか推測することは不可能だ。
故に校内に門が発生することも勿論あるわけで。
だから問題はそこじゃない――その後。
異界崩壊。発生した直後の門から怪物が出現する確率のことを指している。
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門から出現したのは蟷螂の姿をしたモンスターだった。一般的には昆虫種と呼ばれるものだ。
見た目はそこいらにいるカマキリと何ら変わりはない。緑色の胴体から為る4本の足と2本の大鎌。クイックイッと忙しなく揺れる2つの触覚は、周囲の状況を細かく分析しているのだろう。
世間一般に生息しているカマキリと違う部分は唯一その大きさだけだった。
そしてその唯一がこれ以上ないほど致命的な絶望を呼んでいた。
「「―――」」
館内を静謐な戦慄が支配する。
誰も何も言葉を発さない。発せない。
現状何が自分たちの身に起こっているのか。
否、迫っているのか。
自分たちが立たされている状況と心境。
わからない。
――わかっている。
思考が麻痺しているだけだ。
眼前の許容し難い現実を脳が必死に理解を拒んでいるだけだ。
だって数秒前まであんなに笑っていたのに。
これは何かの間違いだと思いたかった。
けれどその麻痺が解けるのに、さして時間はかからなかった。
『キ……? …………キキキ?』
全長2メートル近いカマキリの頭が傾くと同時、カマキリの黒い瞳が身近にいた獲物を捉える。
直後、ドスッと肉を穿つ鈍い音を聞いた。
「え――、?」
間の抜けた洋介の声。
自らの腹に深々と突き刺さる大鎌を認識した直後、体育館に絶叫が響いた。
「う、ああああッ、痛ええええッ!!?」
それを皮切りに、絶望が伝染する。
「い、いやあああああああああッ!!」
「逃げろ、モンスターが来るぞッ!!?」
「誰か早く佐々木さん呼んでこい!!」
洋介の絶叫に続き、現実逃避から感情と恐怖を取り戻した生徒達が一斉に逃げ出した。
しかし次から次へと門から蟷螂が姿を現し、獲物を逃すまいと逃げ惑う生徒達に向かってその狡猾な鎌を容赦なく振り下ろす。
その無慈悲な大鎌が俺には死神の鎌のように見えた。
「――ッくそくそくそ! ちっくしょぉ、ふざけんなッ!? 俺らのインハイ返せよクソがァッ!!」
「バカ野郎!? ひとりで突っ走るな青野おおおおッ!!」
西扉の出口を塞ぐように立ちはだかるカマキリに向かって突撃する青野先輩。後ろに鈴木先輩が続く。
バスケの試合でも見ているみたいだ。ただしバスケをしている訳でもなければ相手は人ですらない。
持ち前の運動神経でカマキリの必殺の大鎌を2度躱した青野先輩が、カマキリの脇腹をモップの金具で殴りつける。
だがカマキリの身体には傷一つ付かない。
「硬ぇッ!?」
『キシャァッ!!』
攻撃してバランスを崩した青野先輩に、今度はカマキリの鎌が迫る。
「づッ、がはぁ!?」
「青野おおおおッ!!」
鎌で例える峰の部分が青野先輩の脇腹を直撃し、青野先輩の身体が軽々と後方に吹き飛ばされた。
カランカランと軽音をたて青野先輩の持っていたモップが床に投げ出された。
「ぐああああッ!? 腕が……俺の腕がッ!!」
「いやぁ! 来ないでっ!!」
「助けて、お願いっ!!」
「ウェイカーは、佐々木さんはまだ来ねぇのか!?」
「なんでこんなことに……ッ」
まるでホラー映画やバトル映画に出てくるワンシーンみたいな大量虐殺。悪夢を見ているようだ。
しかし視界の中を次々と舞う鮮血が。
鼻を刺す生臭い鉄の香りが。
そして飛び交う悲鳴が。
これは実際に起こっている出来事なんだと俺に無慈悲な現実を突き付けてくる。
平凡で平常で平和な日常が一瞬で地獄へと姿を変えた。
「――先輩! 結唯先輩!!」
我先にと逃げ惑う生徒に押されぶつかりながら、俺はずっと結唯先輩のことを探していた。
彼女のことが心配だったからだ。
しかしどんなに声を荒げようと俺の声は生徒等の悲鳴に掻き消されて遠くまで届かない。
先に逃げたのだろうか?
それならそれでいい。だがもしもの可能性も無きにしろあらずなのだ。
あの人を置いて先に逃げることなどできない。
「先輩、いったいどこに……」
パニック状態に陥った体育館の中。視線を右に左に彷徨わせていると、俺は見てはいけない物を見つけてしまった気がした。
「……痛ぇ。痛ぇ痛ぇよ、くそ。あぁ……血が、止まんねぇ……誰か、だれか……」
自身の血でできた海の中を必死で這いつくばる洋介の姿。
腹を穿たれ床を這いずる洋介は誰がどう見ても瀕死の状態だった。
「洋介……」
「……しゅ、う」
名前を呼ばれて、目が合った。
喉が声を忘れたように掠れて消える。
さっきまで一緒にバスケをしていたのに。
他愛もない軽口を交してあっていたはずなのに。
いったいどうしてこうなってしまったのだろう。
まるで心臓を鷲掴みにされたような痛みが胸を締め付けてくる。
「何してん……だ、お前。見てないで、早く……」
洋介の――親友のドロドロと真っ赤に染まった手が俺に向かって伸ばされた。
しかしその背後。
『――キ、キキ』
死神が鎌をもたげている。
「洋介ッ!!」
伸ばされる洋介の手。
振り上げられた死神の鎌。
そして、次の瞬間――。
「早く……逃げ―――」
死神の鎌が洋介の命を刈り取った。
「―――ぁ」
ぶしゅぅッと勢い良く噴水のように吹き出る赤。
吐き気を催すほど鮮烈で鮮明な鮮血。
「洋、介……」
耳鳴りに聴覚が攫われる。
俺はただ目を見開いてそれを見ている。
その光景を見ていることしかできなかった。
「……何が、大切な人を護れる力が欲しいだ」
洋介の背後に迫る死神の鎌を俺は呆然と傍観することしかできなかった。
「……何が身の周りにいる大切な人達を護れる力が欲しいだ」
洋介は死ぬ運命にあった。
床を染める出血量を見ればわかった。
どう足掻いても助からない命だった。
だからあそこで俺が動こうと動くまいとその事実は変わらなかった。覆らなかった。
だから、だから――。
だから何だ――?
「全部言い訳じゃねぇか……ッ」
目の前で人が死んだ。
知らない誰かなんかじゃない。
友達だ、親友が死んだんだ。
間違いなく洋介は身の回りにいる大切な人のひとりだった。
助けられなかったんじゃない。
助けようとすることができなかった。
恐怖に足が竦んで動けなかった。
苛立ちはない。
あるのはひたすらに虚無。
己への失望だけ。
『キ、キキ……?』
だけど、そんな俺の心境など知りもしないカマキリは、次の獲物を見つけて歩き出す。
それを見た俺は、今度こそ戦慄した。
「おい、待ってくれ。そっちには――……」
その先にいたのは……昏倒する青野先輩だった。
「……やめろよ」
掠れた声が俺の喉を溢れ出た。
『――でもあの人達は今助けを求めてる。"誰かが助けに行けばいい"じゃない。だってあの人達が求めてる誰かは私達ウェイカーなんだから』
「やめろおおおおおおおおおおッ!!!」
そして俺は、駆け出した。




