Level.56『性転換―トランス・ジェンダ―』
月光も届かぬ廃れた廃工場の地下1階。
薄暗く埃汚い部屋の中でふたつの刃が踊る。
両者のエモノは短いナイフと鉄剤の切れ端。
故に戦いは常に近接戦を強いられる。至近距離で互いの腕が試される。
だが、それはあまりにも一方的だった。
「くっ……!!」
片方の男のナイフの連撃、その隙間から繰り出される右足の蹴りが、もう片方の男の脇腹を捉える。
くの字に曲がる茶髪の男の身体は、慣性に逆らわず蹴られた方向へと飛んでいく。
これで何度目になるか、男が埃だらけの廃品の山に背中から突っ込んだ。
「女の子を蹴る趣味とかないんだけどね俺。ま、見た目が男なら別に関係ないか」
ナイフを片手で弄びながら、伏見は告げる。
その整った顔には絶えず余裕の微笑を浮かべたまま。
対する楓は全身傷だらけだ。
特に不意打ちを受けた左肩の刺傷がひどい。
「うっ、く……」
それでも楓は立ち上がる。
何度打ちのめされようと楓は諦めようとしない。
いい加減にしてくれと伏見がため息をつく。
「ねぇ、まだ動くの? やめときなって。そろそろ諦めなよ。君じゃ俺には勝てない。わかるでしょ」
「勝てないか、どうかは……関係ない」
「そうだね。根性は大事だよね。でも自分の身体の状況、君が一番良くわかってるくせに」
「……っ」
伏見の言葉に、楓は唇を噛みしめる。
技も駆け引きも楓は伏見に劣ってなどいない。
萩と一緒に葵から学んだ楓の対人戦闘技術は、本来であれば伏見を上回っていたはずだ。だが、そんな楓の努力を無下にする、レベル差と言う名の絶対的な身体能力。
それに加え、
「俺の心象武装は切りつけた相手に麻痺の状態異常を付与する」
伏見の持つ心象武装の固有能力。
麻痺の状態異常とは所有者に似て性格が悪い。
「醜豚種なら1回、白狼種なら3回。闘牛種でも4回も切り付ければ動かなくなるんだけど、まだ動けるってことは麻痺に耐性でもあるのかい?」
楓の麻痺に対する耐久力を不思議に思い、伏見はそんな疑問を口にする。
しかし楓の心象武装に対異常の特殊効果は存在しない。いや楓が存じないだけで《生体成長》にはそんな特殊効果が付与されて要るのだろうか。
そんなのどっちでもいいと楓は無駄な思考を切り捨てる。
いずれにせよ、まだ身体は動く。
ならば楓はまだ戦える。
今はそれだけで十分だ。
「ぼくは、ここで倒れるわけにはいかない……!!」
今も敵と戦っている萩たちのためにも、いち早く自分たちの危機を椿姫の仲間に知らせらなければならない。
それが楓に当てられた役割。
これ以上仲間に迷惑をかけるわけにはいかない。
何としてでも応援を呼びつける。
そのためにも、
「ぼくは君を倒す!!」
右手に握る工場用鉄材の切れ端を手に楓は再度駆けた。
その健気な姿勢が、伏見の性癖に突き刺さる。
自らの手で自然とニヤけてしまう口元を隠す伏見。
「諦めの悪い子だ。でもまぁ、あと3回くらい切りつければどうせ動けなくなる」
伏見に猛接近する楓。
彼我の距離が消える。
それでも伏見は動かない。
互いのエモノのリーチの差。それもあるが、伏見の基本戦闘スタイルは防御からのカウンターだ。
技も駆け引きも関係ない。身体能力の差に物を言わせた努力への冒涜。
「は、ぁぁぁぁッ!!」
「はは、頑張るねぇ」
再度始まる接近戦。
鋼が踊る。
楓の攻撃に合わせ、伏見がナイフで応戦する。
錆びた鉄材が悲鳴を上げ、火花の涙を散らせる。
いつ折れるかも知れない鉄材にありったけの力を乗せ、楓は伏見と切り結ぶ。
下段から上段に切り上げ、返す手首で頭部を狙う。
攻撃の隙間にフェイクも織り交ぜ虚を狙うが所詮は子ども騙し。レベル5の視界を謀ることは難しい。
――考えろ! 考えるんだ!
そう、力で叶わない相手なら知恵を絞るしかない。
周囲に散らばる廃棄品の山。
暗がりが広がる埃っぽい室内。
天井を這うように備え付けられた野太い配線の束。
どこかから漏れ出た油液が部屋の隅に水溜りを作っている。
逆境に活路を見出すべく楓の思考は加速する。
唯一の出入り口は伏見の後ろにある壊れたエレーベーターただひとつ。
だが無策に駆けても伏見に追いつかれる。
ああ、なんて歯痒いんだろう。
出口はすぐそこなのに。
でも、やつに背中を見せることだけはだめだ。
「ほらほら、どうしたの? 押されてるよ? 大丈夫?」
「く……っ!!」
未だ余裕を崩さぬ伏見に、楓の焦りが募る。
結果、防御から攻撃に転じた伏見のナイフを楓は避けれず、白い頬から血が伝う。
普段なら回避できる単調な攻撃だったのに。
「あと2回」
冷静な伏見の声が楓の鼓膜を震わせる。
麻痺毒のせいか身体が萎縮したように動きが鈍る。
気づけば背後に壁があって。
いつの間にか楓は壁際まで押し寄せられていた。
「く……っ!?」
再度距離を取ろうと楓は転がるようにして伏見の間合いから脱走を図る。
しかしそれをみすみす見逃す伏見ではない。
「逃さないよ」
逆手のナイフが楓に追い迫る。
伏見は勝利を確信する。
ナイフが楓の背中に刺さるその直前。
振り向いた楓の手には、一抱えほどの大きさのある錆びた赤い管。それを楓が伏見に向かって投げる。
レベル5の視覚を持って伏見は条件反射でそれに反応する。否、反応してしまった。
「なっ……消火器!?」
伏見は目を見張り、突如として急制動。
しかし手遅れだ。突き出したナイフは止まらない。
ナイフが錆びた消火器に突き刺さる。
次の瞬間――爆発。
消火器の中に詰められた炭酸ガスが破裂し、大量のリン酸アンモニウムの粉が爆風となり伏見の視覚を完全に奪う。
「けほ、けほ……あーあ。この服もうダメだね。お気に入りだったのに。消火器の粉で真っ黄色だ」
シャットアウトした視界。
伏見の視覚はもはや当てにならない。
散漫したガスの影響で嗅覚も使えないときた。
ならば必然的に酷使すべくは聴覚。
余裕を浮かべた軽口とは裏腹に、虫の足音すら聞き逃さんと伏見は全神経を聴覚に総動員して楓の動向を追った。
ようやく掴んだ絶好の機会。率直に考えれば獲物は外へと続く唯一の出入口であるエレーベーターへと向かうはずだ。
ガスが散漫してきっかり5秒フラット。
カツン、とエレーベーターの方から物音。
「そこか!」
反射的に身体が物音の方へと動く。
せっかくの獲物を逃してなるものかと一目散に伏見はガスの中から飛び出した。
視界が晴れ、視覚が復活し――眼前。
金属のパイプが伏見の顔面に迫る。
「う、ぉぉぉぉぉぉ!」
「っ――!?」
男とも女とも取れぬアルト声音の気合い。
伏見は咄嗟に両腕を交差し顔面を覆う。
瞬間、顔面を守った両腕に鈍痛。
続いて、ペキン、と限界をきたした鉄材が根本から折れる音。
伏見の身体が弾かれる。
バランスを崩すことなく両足で着地、しかし伏見が体勢を整えるよりも早く木枯らしが舞う。
「せぁぁぁぁぁぁっ!!」
自重の篭った掌底、からの肘打ち、からの後ろ回し蹴りと、伏見に息をつく暇すら与えぬ体術の連撃。
一糸乱れず完成された型のなんと優美なことか。
楓の体術を防ぎ、あるいは受け流しながら、伏見はそんな場違いな感慨を抱く。
「でも、温いな」
「……っ!」
的確に鳩尾を狙った楓の拳を左手で掴むと同時、伏見は右手で逆手持ちしたナイフを楓の脇腹目掛けて躊躇いなく突き出す。
ナイフが腹に到達するより一手早く、楓は負傷した左手でナイフを受け止めた。
鮮血が舞う。
楓の手をナイフが貫通する。
「く、ぅ……ッ!!」
ボタボタと床に血が滴る。
左肩と左手。両の痛みに端正な楓の顔が鋭痛に歪む。
構わず伏見はナイフを持つ手に力を込める。
「何ていうの? 足りないんだよ。そう、欠落してる。確実に殺してやるって言う、殺意が足りない」
如実に現れる身体能力の差。
ナイフが更に深く楓の手に突き刺さる。
溢れた血と入れ替わるように、ナイフの毒が傷口から楓の体内に侵入し、全身を犯し始める。
「どうして逃げなかったの?」
楓の耳元に唇を近づけ、伏見が囁く。
「友達を置いて逃げた、あのときみたいにさ」
「――っ」
唐突に蘇る、過去の記憶。
追憶に封じたはずの4年前の後悔。
悔恨に打ちのめされ、幾度懺悔したかもわからぬ楓の心傷原点。
その心を折るべく伏見が最悪の言葉を口にする。
「そういえば君、俺達に攫われる前、病院に寄ったよね? もしかしてまだ生きてるのあの子? 生きてたなら、今度病室に遊びに行こうかな。きっと喜んでくれると思うんだよね」
抵抗など無駄だと楓に思い知らせるために。いや、むしろ抵抗した方が毒だと思い至らせるために。
言葉巧みに脅し、罪悪感で戦意を奪う。
己が過去に犯した罪の重さに耐え兼ね、自らの口から命乞いを求めさせるために。
ただ一言。『やめてください』という服従の呪文を唱えさせるだけで、従順な奴隷は完成する。躾けるのはその後でいい。
芯の強い人間ほど心を折れば支配は容易い。
そうやって伏見は数々の少女を絶望に淫してきた。
だから今回も今までと同じ手口で伏見は少女の心を折ろうとした、しかし――。
「……ずっと、嫌だったんだ」
ナイフを押し込む伏見の勢いが突如、止まる。
「人形で遊ぶより木登りして遊ぶほうが楽しくて。化粧なんかするより髪をセットするほうが好きだった」
決して伏見が力を緩めたわけではない。
むしろさっきより力を込めている。
それなのにナイフはそれ以上前へと進まない。
「毎日スカートを履くのが嫌で。リボンをつけるのが辛かった。胸があることが恥ずかしくて。身長が止まったことが悲しくて」
唐突に始まった楓の独白に、わけもわからぬ伏見の眉間に皺が寄る。
ナイフはその場で停止している。
まるで楓の言葉の続きを待つかのように。
楓の瞳には伏見の姿は映っていなかった。
その瞳に映るのは暗く荒んだ過去の自分。
「どうして、ぼくは男の子じゃないんだろうって。女の子の自分がずっと嫌で嫌で仕方なかった」
その問を何度繰り返し自問したかも楓は分からない。
何度も。何度も。何度も――。
とっくに答えは出ているのに。
けれど楓はその答えをどうしても認めたくなくて。
だからずっと納得できる答えを探し求めていた。
そんなわがままな過去の自分を愛おしむように、楓は問の答えを口にする。
「『わたし』はずっと、『ぼく』に憧れていたんだ」
そう、その問の答えとは『憧憬』。
もし、ぼくが男の子だったなら、どんな状況でも諦めなかったはずだ。
もし、ぼくが男の子だったなら、敵が何人相手だろうと勇敢に立ち向かえたはずだ。
もし、ぼくが男の子だったなら、友達を置いて逃げることもなかったはずだ。
もし、ぼくが男の子だったなら、なんて……そんなのは全部言い訳だ。
「もしぼくが男の子だったならなんて……初めから性別に囚われていたのは、わたし自身だったんだよ」
男も女も関係ない。
そうあろうとする意思こそが重要で。
他人の視線を過剰に気にしすぎる必要はなく。
大事なのはありのままの自分を曝け出す勇気だと。
それが数々の過ちを重ねた末に、楓の辿り着いた答え。
自らの弱さと愚かさを、楓は認める。
初めて自分を認めることで、甘さを捨てた。
結局のところ、自分を認めてあげられる存在は自分ひとりしかいないのだから。
だから楓は、もう迷わない。
自らの成すべきことを二度と違えない。
「あの子はきっと、今も悪夢に魘されている」
能力に目覚め、早足であの場に駆け戻った楓が見たものは、驚ろきを露わにする男たちと蛍の顔。
『 』蛍が小声を口にする。
口の中だけで呟かれた蛍の言葉は楓に届かない。
そして、油断した男の手首に蛍は噛み付いた。
反射的に男は手を振り払う。振り払われた蛍はコンクリートの壁に激しく頭を打ち付けた。
そして彼女は覚めることのない悪夢の中に今も取り残されている。
「……誓ったんだ」
誰でもない、自分自身に。
現実を受け止め、受け入れてみせる。
覚悟を宿した瞳で楓は伏見を見る。
「もう逃げない、ぼくは君を倒す!!」
揺るがぬ覚悟。
自らに定めた新たな誓い。
トラウマを乗り越えるための勇気ある一歩を、決意と共に楓は踏み締めた。
故にそれは必然に起こり得た。
「――!!」
身体の芯を熱く焦がす魂の叫び。
不条理に逆らう希望の開花。
伴うは万歌の祝福。
産声を上げ、新たな力が楓に芽吹く。
レベル4からレベル5への昇格。
土壇場で楓は壁を乗り越えた。
『身体成長』が楓の心象に応える。
「う、おおおおおおおおおっ!!」
「っ――ッ!!」
膂力の増した力で、楓は手に刺さったナイフごと伏見を弾き飛ばした。
かかとから地面に着地し、伏見は確信を持って楓を睨めつける。
「まさか……ここでレベルアップか。運のいい女だ」
運――その一言で済ませられるほどレベルアップの壁は低くない。
伏見はナイフを中段に構えた。
この戦い初めて見せる、伏見の型。
絶対的なレベル差は無くなった。
もはや楓を侮れるほど伏見に余裕はない。
「けれど身体に残った麻痺性はそのままだ。レベルアップしたところで俺の有利は揺るがない!」
伏見は駆ける。
繰り出されたナイフを楓が避ける。
事実、伏見の言う通りだった。
伏見のナイフから受けた麻痺毒は今も楓の身体を蝕み続けている。
細かく震える指先の感覚は既になく、いつ楓が戦えなくなっても不思議はない、だが――。
その不利を挽回するのが心象武装だ。
「《身体成長・性転付与》」
楓が何事かつぶやいた直後、伏見の身体に違和感が生じる。
目眩を覚えたかと思うと、続いて全身に鳥肌。
「ぅ、っ、なんだ……!?」
まるで全身の細胞が泡立っているような……。
「な――」
ふと、伏見の目がナイフを振るう自身の右手に向けられる。
何かが変だ。
右手がいつもより小さく感じられる。
それだけではない。
腕も細く、筋肉が落ちて華奢さを増している。
違和感は異質さに変貌し、伏見を襲った。
「……んだ、これは……?」
左手で自らの顔面に触れ、伏見はその事実に愕然と驚きを隠せない。
顔が一回り小さくなっているのだ。
髭も薄く、産毛のように細かい。
極めつけは膨らみを持った自身の胸。
まさか、と伏見が吠えた。
楓は小さく微笑んだ。
「どう? 女の子になった気分は?」
「女の子……だって?」
震える自分の声音が、自分の声じゃないみたいに高く伏見の鼓膜に反響して聞こえた。
レベルアップに伴った、心象武装の能力進化。
進化した楓の心象武装は、自身だけでなく他者の性別をも変換させる。
「はは……。マニアックすぎだろ、これはッ!」
力のない華奢な細腕で、感情任せに伏見はナイフを真横に凪いだ。
それを待っていたかのような動きで楓がかがみ、凪いだナイフが楓の頭上を通り過ぎる。
間合いが詰まり、振りかぶった楓の右手が拳を握る。
咄嗟に伏見は距離を取るべく後退しようとしたが、女体化によりサイズの合わなくなった革靴のかかとが足元の廃棄品に突っかかる。
「せぁぁぁぁぁぁぁあああああああ――ッ!!!」
全身全霊を乗せた楓の拳が、伏見の鳩尾を完璧に撃ち抜いた。
「がっ、ふ……ッ」
肺に溜まった空気が強引に押し出され、軽々と宙を舞った伏見の身体が廃棄品の山に投げ出される。
伏見の手からナイフが床に転がり落ちた。
最後、乾いた皮肉が伏見の唇からこぼれ出た。
「これの……どこが良いかなんて……俺には一生理解できないだろうね……」
そして伏見の意識は途切れる。
「それは、残念だよ……」
ふらつきながら楓は、完全に沈黙した伏見を見下ろしそう呟いた。
性転換。
これまでジェンダーレスの人々が積み上げてきた心底からの強い声明は、差別化を嫌うこの現代社会において世界的に認知されつつある事柄だ。
しかし認知と共感はまた別の話であって、未だジェンダーレスへの理解は大多数から得られない。
これから先、再び伏見のような差別主義者が奇異や偏見の瞳を楓に向けてくることだろう。
その事実を受け入れ、受け止め、異性への主張をこの胸に楓は歩んで行こうと思う。
それが楓の定めた自由への道だ。
だが、その前に楓には今やるべきことがある。
「はやく……みんなに、伝えないと……っ」
我沙羅のアジト。
仲間の窮地。
椿姫のクランメンバーへ、早く伝えなければ。
伏見の心象武装の能力は、伏見が昏倒した現在も健在で、痺れた身体が楓のいうことを聞かない。
「……ぅ、っ」
ふらつく楓の身体が、痺れと闘いの負荷とで限界を迎える。
身体の力がふっと抜け、倒れかけたところを「おっと、危ない危ない」と、ふいに横合いから伸びた腕に支えられた。
「――!?」
完全に油断していた。
こうして声をかけられるまで気づかなかった。
反射的に身体を硬直させ、この場に現れた第三者へと楓は視線を向けた。
「ぁ」と、間の抜けた声が楓の口から漏れ出た。




