Level.39『真紅の炬火』
「……ッ、はぁ、はぁ……ふぅ」
まるで水に溺れた蛙みたいに、肺が新鮮な酸素を求めて喘ぎ、荒い呼吸を何度も繰り返す。
何度も、何度も、そう何度も。
けれど、何度繰り返そうとも大脳は満たされることを知らず、心臓は当然とばかりに絶えず酸素の要求を催促し続けてくる。
「こんなもんかよ、祥平よォ」
ただ悠然と、【黒鬼】は祥平を見下ろしていた。
その容貌魁偉然とした屈強な肉体には傷一つとついておらず、そればかりか息のひとつも乱していない。正しく豪鬼。
遺憾の感情を帯びた漆黒の瞳を見上げながら、祥平は「へへ」と肩を揺らしてみせた。
「言ってくれんじゃねぇっすか……。こちとら身体中ガタガタだっつーのにまったく」
心象武装《グングニル》を地面に突き立て、杖代わりに立ち上がる祥平に漆木は頬を緩めた。
「ならどうする? 泣いて命乞いでもしてみるか?」
「へッ、漆木の兄貴もつまんねぇ冗談かますようになったじゃねぇっすか」
ふらつく身体。倒れそうになるのを堪え、祥平は地面を強く踏み締めた。
グングニルから発される紫電が、祥平の意思に共鳴するかのように迸る。
「そんなかっこ悪ィとこあいつらに見せるくらいなら、死んだほうがマシだぜッ!!」
そして、再度駆ける。
まるで電光石火の如く。稲妻に背中を押され、祥平の歩みが加速する。
目にも止まらぬ速さの5連突き――からの身体を回転させ、遠心力を上乗せした横薙ぎが躊躇なく漆木の頭部を狙う。
並のウェイカーならば、死んでもおかしくない威力の攻撃。それを漆木は軽々と素手で掴む。
「強がるんじゃねぇよ。その腕、折れてんだろ?」
漆木はそう言い、槍を硬く握り締め、赤く腫れ上がった祥平の左腕に視線を落とした。
「折れてても、動かせねぇわけじゃねぇ。今強がんねぇで、いったいどこで男張りゃいいっつうんだ!」
強引に槍を漆木の手から振り解くと、祥平は雷の速度で連撃を放つ。放ち続ける。
頸動脈の流れる喉元。脆い鎖骨。心臓のある左胸。人体の急所のひとつ鳩尾。それらを的確に狙い、穿つ。
されど、それらの攻撃全てが通じない。
槍は黒く変色した漆木の肌を貫けない。
漆木 哲也の心象武装《不動明王》。全身の硬度を高める変異形態の前に、祥平の槍撃は為す術無く全て弾かれてしまう。
「おらよ!」
漆木の蹴りが、祥平の脇腹を捉えた。
「うが――ッ!?」
蹴りの威力に耐えられず、祥平は無様に地面を転がった。
これで何度目だろうか。地面の冷たさを味わうたびに、自身の無力さを噛みしめる。
「何度やっても同じことだ。テメェの攻撃じゃあこの俺に傷一つつけることも叶わねぇ。いい加減諦めて、素直に殺されろ」
「……俺の諦めの悪さは、アンタが一番知ってるだろ。漆木の兄貴」
祥平は地面に爪を立てた。
朦朧とする視界。
紫電を使いすぎたのだ。
身体は遠に、限界を超えている。
少しでも気を緩めれば、そのまま身体の機能が全停止するのではないか。そう錯覚する。
「う、を……ぉッ」
ダメだ、やめてくれ。これ以上は無理だと。
頼むから……お願いだから。もう立ち上がらないでくれと。
これ以上戦ったら、本当に死んでしまう。だから――。
「だから、立つんだろうが……ッ」
何度も、何度も、そう何度だって。
雨瀬 祥平という男は何度だって立ち上がる。
「死にたくねぇから戦ってんだ。死なせたくねぇから、戦ってんだ」
全身の悲鳴をフル無視し、満身創痍の身体を更に酷使して。祥平は立ち上がる。
「大事なモンを守るのに、俺は戦う以外の選択肢を知らねぇから――」
紫電が、鳴いた。
今までの戦いとは比にならないほどの膨大な雷が、祥平の槍に収束を始める。
「だめだ、祥平さん……ッ!!」
「行かせねぇ!」
異変に気づいた楓が祥平の元に駆け寄ろうとするも、その愚行の前に獏が立ち塞がった。
「黙って見てろ。テメェの兄貴が、男張ってんだからよ」
「くっ……!!」
奥歯を噛み締める楓を横目に、獏は戦闘を中断し、祥平の姿を目に焼き付ける。
「祥平さん……」
それに習い、萩も骨剣を降ろし、固唾を飲んで祥平の姿を見守った。
外野に出来ることは何もない。
祥平の想いを、覚悟を邪魔する無粋は許されない。
雷鳴が鳴き、豪雷が轟く。
瞳を焼くほどの光量。
空気を焦がすほどの熱量。
そこにある全てが、感電する。
収束の過程で漏れた雷の破片が、周囲の残骸を次々に破壊して行く。
それは、天の怒りそのものだった。
漆木の表情から余裕が消える。
「テメェ……死ぬ気か?」
収束する雷の中心。
雷槍を掴む祥平の右手は、目を背けたくなるほど痛々しい。
熱に焼かれ、肌が焼け焦げ炭化している。
過ぎた力は己の身さえ滅ぼしてしまう。正にその言葉を体現しているかのように。
「死ぬつもりは更々ねぇ。やり残したこと、山ほどあるし。ろくに親孝行だってできちゃいねぇ。あと、帰ったらあいつらに焼肉も奢ってやらなきゃならねぇんだった」
「相変わらずだな。テメェも」
かつてと何も変わらない。
男を張り、己の信念に我を通す。自らを兄貴と慕う蒼髪の槍使いに、漆木は肩を揺らした。
「最後にもう一度だけ聞いてやる。チームに戻れ、祥平。そうすりゃ俺はテメェを殺さずに済む」
そう、嘘でも祥平が漆木の言葉に頷けば、この意味のない殺し合いは丸く収まる。
ただ一度、チームに戻ると言うだけで――。
「帰りたいと思える場所が、やっとできたんすよ」
祥平は、にへら、と力ない笑みを浮かべた。
「クソみてぇな俺の人生の中でようやく。だから。俺はあいつらを……あの人を裏切れない」
後悔など微塵も感じさせない、その黄色の瞳には、曇りひとつとない。
何を言っても揺らがぬ決意が、信念を宿してそこに在る。
「俺はもう決めてんだ。あの人の元で戦うって。誰に何を言われようが、俺は絶対に曲がらねぇ。たとえ死んだとしてもだ」
例え今限りの虚言だとしても、祥平は漆木の言葉に頷くことなどできはしない。
「曲がらねぇ、か。そうかよ。ああ、テメェはそういう頑固な男だったな」
そんな不器用な男だからこそ、漆木は祥平を気に入っていたのだ。
ならばと漆木は腰を据え、両腕を広げた。
「だったら仕方ねぇ。望みどおり殺してやるよ、雨瀬 祥平ッ!!」
漆木の肌が、黒く変異していく。
その硬度は、鋼をも遥かに上回る。漆木 哲也の心象武装《不動明王》。
「来い、祥平! テメェの全てをねじ伏せてやる!」
「ああ、行くぜ! 漆木の兄貴ッ!!」
そして、紫電が一際激しく弾け、祥平は音を置き去りにした。
螺旋のように激しく渦を巻く紫電が滑走する。
それを阻めるものなど何ひとつとして存在しない。限界まで収束された雷に示された、唯一の行路。雷が奔る。
「刺槍紫電〝丈御禍雷〟――ッ!!」
その瞬間、祥平はひとつの雷と成った。
「「―――」」
時として、ほんの数瞬。
瞬きの合間の交戦。
鮮やかな紫光が迷宮を包み、そこに居合わせた誰もが息を呑んだ。
「ぐぉ……ッ」
黒く変異した鋼の肌を突き破り、肉を穿ち、祥平の槍が漆木の肩を突き刺していた。
途方もない槍の威力。漆木の身体は迷宮の壁際まで押し寄せられていた。
「へへ、やってやったぜ。漆木の兄貴」
祥平が、してやったり顔で頬を緩めた。
血が滴り、ポタリポタリと地面に落ちる。
「ああ。テメェの一撃。確かに届いたぜ、祥平」
漆木がそう言った直後「ぐふ」祥平は血を吐いた。
漆木の右腕。人差し指と中指の中程までが、祥平の腹を抉っている。
糸の切れた人形のように、祥平の身体が地面に崩れた。
「うそ、だよね。祥平さん……」
楓は信じられないとばかりに首をゆるゆると左右に振り、膝をつく。
「―――ッ」
獏は決して目を離そうとせず、爪が肉に食い込むほど強く、強く拳を握っていた。
「―――」
祥平は動かない。地に倒れたまま。
地面に染み込んで行く祥平の赤い血が、萩と楓に残酷な現実を淡々と突きつける。
あまりにも不仕合せな、壮絶な戦いの結末。
正義がどちらにあるかと問われれば、それは間違いなく祥平の方だろう。
だが、今立っているのは【黒鬼】だ。その事実こそが全てである。
「これで終いだ、祥平。今楽にしてやるよ」
地面に倒れ伏す祥平を見下ろしながら、漆木は穿たれた腕とは違う方の腕を振り上げた。
途端、振り上げられた腕が黒く変色する。
「やめて……これ以上やったら、祥平さんが死んじゃうよ……っ!」
眼前で行われようとしている無慈悲な殺戮を前に、堪らず楓は肩を震わせて叫んだ。
だが生憎と、黒鬼は慈悲の心などといった純粋な心を持ち得ない。そんな重荷はとうの昔に捨てている。自らを【黒鬼】と名乗ったその日から。
悲痛な静止の声など漆木は気にも止めない。
「―――っ」
何を言おうと漆木が止まらないことを獏は知っている。
故に獏は兄貴と慕った男の最後を黙ってその目に焼き付ける。歯を食いしばり、血が滲むほど拳を硬く握りしめて。
誰にも漆木を止められない。
祥平はここで漆木に殺されるのだ。
ゆっくりと振り下ろされる死の鉄槌。
緩慢に時間だけが過ぎていく。
今にも動き出しそうな身体を戒める獏は見た。
視界のわきを駆け抜ける、紫根の炎を――。
「な――ッ!?」
瞬間、息を詰める。
吸い込んだ息に喉を炙られる。
誰もが動けない中、誰よりも早くその男は駆けていた。
――目の前で誰かを失うのはもうごめんだ!
萩の胸を焦がす、この燃えるような感情は果たして憤怒なのか。いいや、違う。
それは萩にとっての誓い。
大切なあの人と交した大事な約束。
それだけを原動力に、萩は剣を握りしめる。
――お願いだ、今だけでいい……。
萩は己の内側へと意識を向けた。
身体の芯で、熱を放ち続ける炎に訴えかける。
――頼む、弱い俺に勇気を貸してくれ……っ!
あれほど嫌い、憎んだ火種に願う。
どうしても力が欲しいんだ。
最強の一撃が、必要なんだ。
あの漆黒の鎧に傷をつけるだけの強靭な一撃が。
悪に対抗し得る勇気を俺にくれ。
ふと、先輩の後ろ姿が脳裏に浮かぶ。
次の瞬間。
「―――!!」
突如胸の奥、身体の芯より熱が込み上げる。
火種が萩の想いに応えるように、淡く燃ゆる紫麗の燐火が猛々しい唸りを上げて、雄々しく滾る紅蓮の焔へ姿を変えた。
――真紅の炬火。
地を蹴り、萩は加速する。
「祥平さんから離れろ漆木ッ!!」
真紅の炎を纏いし萩が、一直線に漆木の元まで距離を詰めた。
「テメェ!?」
そこで漆木が自身に迫る真紅の炎に気づく。
――遅い。萩の手にする蜥蜴種の骨剣には既に真紅が侵食し、紅蓮が渦を巻いている。
握る剣に持てる全ての余力を注ぎ、この一撃に賭ける。萩は骨剣を振り抜いた。
斬軌一閃――。
「紅蓮〝赤紫咲〟ッ!!」
瞬間、世界から音が消えた。
剣の通った軌道上が淡い紅光を放ち――転瞬、遅れて真紅の紅蓮が世界に息吹を噴き返す。
「っぅ……!?」
「んだ、この威力は。野郎、加減してたのか!?」
その幻想の炎に温度は存在しない。
燃えている、と。そう見せかけだけの幻炎。
しかしその途方もない紅蓮は楓の肌を炙り、真紅の剣が獏の視界を焼くような錯覚を与える。
それほど萩の放った一撃は凄まじかった。
「……はぁ、はぁ、ッ、……どうだ」
力絶え絶えに肩で息をする萩。
萩の持てる以上の全てを注ぎ込んだ渾身の一閃。
これで倒れてもらわなければ困る、そう思いながら萩は目の前で濛々と烟る火煙を睨む。
しかし――。
「ちッ、痛ぇなおい」
萩の眼前。
晴れた火煙の中に、今だ健在の漆木の姿がそこにはあった。
くそ、と萩は呻く。
当たり前か。祥平の決死の一撃でやっと貫けた漆木の漆黒の肌は、そう安安と傷をつけれるものではない。
漆木は萩の一閃を防いだ右腕に視線を落とした。腕からは血が滴っているが致命傷には程遠い、が。
ギっ、と漆木は萩を睨みつけた。
「テメェ……レベル4か5そこらのガキが、この俺に傷をつけただと?」
漆木の漆黒の肌は鋼の硬度を上回る。
最強の鎧と自負するその肌を、あろうことか自身よりも数段格下の小僧に破られたのだ。漆木のプライドに傷がつく。
「ガキが。テメェも祥平と一緒に殺してやるよ」
「――っ」
力を使い果たした萩は動くこともできず、ろくに火種を発動することすらままならない。
明確な殺意を宿した黒鬼が萩に殴りかかろうとした、まさにその直前――。
「――双心流 奥伝〝夜咫烏〟」
黒鬼の殺意は、閃く二つの刃によって遮られた。




