Level.3『結唯先輩』
ふと、冷えた朝の風が頰を舐めた。
「……さむいな」
ぶるりと肩を震わせ、俺はひとり呟く。
冬でもないのにマフラーを巻いてきて正解だった。
冬が開け季節はもう春の5月だというのに、ウィンドブレーカー越しに感じる早朝の風はまだまだ肌寒い。
万が一にも大会前に風邪をひいたとなれば、青野先輩はともかく鈴木先輩に色んな意味でシめられる。あの人の4の字固めを味わうのはもう二度とごめんだからな。
洋介と二人鈴木先輩の前で喧嘩するのはよそうと誓いあった日のことを思い出した。
「はは、その2ヶ月後にまたやらかしたんだけどさ」
それにしても今日は特に寒い。
こんな日は何か良くないことが起こりそうな予感がする……なんて妄想を膨らませるとちょっと気分が上がった。
実際これはあれだ近年頻繁に耳にするようになった温暖化の影響だろう。いや知らんけど。
考え事をしながら歩いていると、道角を曲がったところで黒色のパーカーを着た人影とぶつかりそうにった。
寸前で横にずれたが互いの肩がぶつかる。
「おっと、すみません」
すれ違う寸前、深く被ったフードの隙間から男の横顔がちらりと見えた。
陽炎の髪と黄色い瞳。昨日異界のニュースに出ていた男だ。凛夏と同じクランに所属しているウェイカー……名前はたしか――。
「緋羽 翔……?」
「………」
炎獅子のウェイカーは今、春ヶ千歳公園の異界攻略を行っている最中のはずなのに、どうして彼がこんな場所にいるのか。
声をかけようと思ったが、しかし緋羽は何事もなかったかのように黙ったまま立ち去っていった。
時刻は朝の5時半。
第二体育館の扉は不用心なことに鍵がかかっていなかった。
「閉め忘れたのか……?」
恐る恐る無駄に重い両開きの扉を開けて中に入ると、まだ日が開けたばかりの薄暗い館内が俺を迎え入れた。
「よし!」と俺は心の中でガッツポーズを決める。
もちろん館中に人影はなく、革球や床板もまだ寝静まっている。
物音一つしない、早朝のこの空間とこの時間が俺は好きだった。
電気をつけ、バッシュを履いて軽く準備運動をして、それから俺はバスケットボールを何度か床についた。
「おっ、いい感じ!」
キュッキュッ、キュキュッキュッと。バッシュとの摩擦で床が鳴く。
ダムッダムッとボールが硬い床に押し返され、慣れ親しんだ革の反動が手に返ってくる。
体育館全体に反響するボールとバッシュの音が心地良く、集中力が研ぎ澄まされていくのを感じた。
それになんだか今日はボールが手に吸い付く気がする。
――ああ、今日は調子が良い。
ドリブルをしながら徐々に後退していく。
そしてスリーポイントラインまで下がると、俺は勢いよく床を踏みしめ真上に飛んだ。
「――っ」
視線。肘の角度。そして体幹。一番のポイントは指先の感覚と手首の返しにある。
その一連の動作を息をする如く自然に。どれも身体に染みるまで繰り返し反復し覚えさせた動きだ。
「――ここ」
ジャンプの最高到達点。指先で回転をかけながらボールを優しく丁寧に送り出してやる。
それがジャンプシュート。
ボールの回転、軌道、高さ、力加減。
ボールは高く弧を描きながら、リングに向かって真っ直ぐ飛んでいく。限界まで上昇したボールが重力に逆らわず落下を始める。
そしてボールはこれ以上ないほど美しい軌道を描きネットの中心に吸い込まれた。
「ナイスシュート!」
背後から澄んだ声が鼓膜を叩いた。
「――」
驚きはない。この時間帯に朝練にやってくる人を俺はひとりしか知らないから。
声の聞こえた方に振り返ると、さっきまで誰もいなかったはずの入り口扉の前。枯茶色の前髪の隙間からのぞく、麦茶色の瞳と目が合った。
「おはよ。相変わらず早いね、君は」
「おはようございます、結唯先輩!」
眠たそうに欠伸をする結唯先輩が、少し悔しそうに微笑む。
「今日こそは絶っ対1番乗りだと思ったんだけどな〜」
「ふふふ鍵開けのポジションは譲りませんよ?」
ボールを拾いながら、俺はそう応えた。
体育館に上がった結唯先輩は、壁に背をもたれてバッシュの紐を結ぶ。
「寒いねー。もう5月なのに」
「ですよね、俺押入れからマフラー引っ張って来ましたよ今日」
「あはは、私も私も! ほら、お揃いのやつ」
靴紐を結び終わり、軽く準備体操を終えた結唯先輩が、俺と並んでシュート練習を始める。
俺は思わず息を呑んだ。
見惚れてしまうほど綺麗なシュートフォーム。放たれたボールは一糸乱れずリングに吸い込まれていく。
「ん? どうかした?」
結唯先輩がきょとんとした瞳で首を傾ける。
「いえ、やっぱ綺麗だなって思って」
「へ?」
「先輩のシュートフォーム、今まで見てきたシューターの中で一番綺麗です」
「あ、シュートフォームね。ありがと」
結唯先輩は苦笑混じりに微笑んだ。
「そう言えば結唯先輩っていつも朝早いですよね」
「萩くんのほうが早いよ?」
「俺は早起きが習慣になっちゃってて」
「私も似たような感じ。家にいても……特にやることないから。萩くんは家で何してるの?」
「自主練がほとんどですかね」
「うわぁ……」
「うわぁって酷くないですか!? うわぁって!!」
「ごめんごめん。つい、想像しちゃって」
「先輩は俺のこと何だと思ってるんですか!?」
「バスケばか?」
「……それって褒めてるんですか?」
「褒めてるよ。すっごく」
「なら、いいんですけど……」
「自主練以外には他に何かしてる?」
「んー、暇なときはちゃんとテレビ見たりスマホで動画見たりしますよ俺だって」
「どうせバスケでしょ?」
「まぁ……そうですけど」
「ほら。バスケばか」
「ほらって……あ、でも昨日は異界門のライブニュース見てました!」
「ああ、千歳公園の。それなら私も見てたよ」
雑談を交わしながら俺と結唯先輩は交互にボールを打ち合う。
結唯先輩がシュートを打ち次は俺の番、というところで俺はシュート練する手を止めた。
「結唯先輩はウェイカー……能力者になりたいって思ったこと、ありますか?」
「んー、なれるなれないっていうのは置いといて。能力者になりたいって思ったことは、あるかな」
結唯先輩は俺に合わせて手を休めてくれる。
「でも今は能力者にならなくて良かったって、そう思ってる」
「それは……バスケができなくなるからですか?」
「それもあるけど……もし私が能力者になったら、きっと私はもう今の私には戻れない気がするから」
「それはどういう……?」
両手でボールを抱くようにして、結唯先輩は苦笑混じりに続けた。
「能力者になった私が能力者じゃない人たちのことをどう思うのか。それがすごく怖い」
「………」
珍しいなと俺は思った。
結唯先輩は不安や弱音なんて言葉は絶対口に出さない人だ。どれだけ心配でも決して弱音を見せず胸のうちに隠すようなタイプの人だ。
だから正直驚いた。
そんな先輩がつい漏らしてしまった本音に。
他にもっと大事なことがあるだろうに、変わってしまう自分が怖いと先輩は言った。
でも、その考え方がとても先輩らしいとも思った。
「はは、大丈夫ですよ。そんなふうに誰かを思える結唯先輩なら大丈夫です。能力者になっても結唯先輩は結唯先輩だと思います!」
「………!」
俺の言葉に結唯先輩は目を丸くする。
それからどこか嬉しそうに、そして気恥ずかしげに微笑んだ。
「それにあれだよ。能力者になってたら萩くんともこうやって一緒にバスケすることもなかったわけだし……」
「俺もですよ。俺も先輩とバスケができて良かったです!」
俺はニカッと満面の笑顔で先輩の気持ちに応えた――つもりだったのだが。
「全然良くないよ、もう」
「え?」
「なんでもなーい」
どうやら先輩の求めていた答えとは違ったようで、ぷいっとそっぽを向く結唯先輩は中々機嫌を直してはくれなかった。
「それで? 萩くんはなんで能力者になりたいと思ったの?」
「俺、ですか……?」
「だって私に聞いてくるくらいだもん。なりたいって思ったこと、あるんでしょ?」
「それは……」
「私も教えたんだから教えてくれないと怒るよ?」
言葉を濁す俺に先輩が詰め寄ってくる。可愛い。
少しの逡巡。確かに先輩が応えてくれたのに俺が応えないというのはズルいかもしれない。
それに先輩になら話してもいいかなと思い俺は思い切って口を開いた。
「俺は……大切な人を護れる力が欲しかったんです」
「―――」
「みんなじゃなくていい。たくさんじゃなくていい。世界中なんて大きいことは言わない。ただ俺は俺の身の周りにいる大切な人達を護れる力が欲しい」
今まで誰にも言ったことのなかった俺の自分勝手で身勝手な心の内だった。
「笑っちゃいますよね。結局のところ自分のエゴのための力が欲しいんですよ、俺は」
「そんなことないよ」
自らを貶す俺の発言に対し、結唯先輩はそれを否定する。
「どうでもいい人のために強くなりたいなんて想う人なんていない。その誰かを心から大切に想っているからこそ、その人の為になりたいと思うんじゃないかな」
「―――」
「だから全然おかしくなんかない。誰かを護るための力が欲しいって言葉、私はすごく素敵だと思う」
「……先輩」
今度は俺が衝撃を受ける番だった。
誰でもいいわけじゃない。
承認欲求なんて求めちゃいない。
でも――。
でも他の誰でもない、結唯先輩に肯定されることの嬉しさはこの上ない充足感だった。
「みんな萩くんみたいな人が能力者になればいいのにね。そうしたらきっと世界に争いはなくなると思う」
「なに言ってんですか。俺みたいな自己中が能力者になったら世界は終わりですよ」
「ふふ、そうかもしれないね」
「そこは否定して欲しかったな俺!?」
「ふふっ」
「はははっ」
そして2人、吹き出した。
「1on1。やりましょうか、結唯先輩」
「うん、いいよ。やろう」
「今日こそは勝ちます」
「なら負けたほうはジュース奢りね」
「え、それはちょっと」
「罰ゲームがあったほうが気合入るでしょ?」
「いやでも」
「そっかそっか。萩くんじゃまだ私に勝てないもんね」
「む」
「この2年間今まで1度も私に1on1勝てたことないし仕方ないよね」
「むむ」
「私のほうがバスケ上手いし。弱気になるのもわかるようん」
「むむむ」
「どうする、やめる?」
「ははっ! やるに決まってるじゃないですか? ここまで煽られて引き下がれるほど俺は大人じゃないですから」
「……知ってた」
「今なんて?」
「んーん。それじゃ、始めようか!」
「お願いします!」
こんな日がいつまでも続けば……なんて淡い期待を抱いてしまう俺がいる。
残り1ヶ月で結唯先輩は引退する。インハイを勝ち進んで全国へ行けば部に残る時間は増えるが、それでも3ヶ月。3ヶ月後にはこうして結唯先輩と2人で朝練をすることもなくなってしまう。
だから俺は決めていた。
インハイが終わり結唯先輩がバスケを引退したら、この胸に満ちる想いを彼女に伝えようと。
部活の邪魔はしたくない、なんて言い訳を並べ、本当は振られることが怖かった。この幸せな時間が無くなってしまうことが恐ろしかった。
あと3ヶ月……長いようで短い時間。
そのときが来たら――。
この日の……いや、この時までの俺はそう思っていた。
普通の日常が永遠に続くと思っていたわけではないけれど。まさかあんなにも呆気なく終わりを告げてしまうなんて、この時の俺は夢にも思っていなかった――。
追記。そして当然のことながら勝負に惨敗した俺は先輩にジュースを奢るのだった。




