Level.34『異界災害』
次元が歪み、空間が軋んで、時間が収縮された。五感すべてが闇に呑まれたその果てで――。
「――っ」
軽い頭痛に顔をしかめつつ、俺は重たい目蓋を開けた。
眼前に広がるのは、漠々とした薄暗闇の大広間。
足元から伝わる、アスファルトとは違う、ゴツゴツとした岩石の感触。
あとはそう、生魚のような、ツンとした生臭い匂いがした。
――どこだ、ここ……?
意識の覚醒と同時、周囲を軽く見渡す。
さっきまでいた大阪市内でないのは明々白々だ。
まさかさっきの害意を飛ばした相手に、何らかの方法で拉致されたのだろうか。
いや、でも……。本当に、一瞬だった。瞬きの合間に事は起こったのだ。
突然発生した闇に、俺は呑まれた。
わかっているのはそれだけ。判断材料も少ない。けれど、気絶していた自覚はなく、目をあけたらこの場にいた。飛ばされた、という表現の方がしっくりくる。
仮にそうだとして、この薄暗闇は何だ? まるで夜じゃないか……。
そこで。思考を加速させる俺の意識を現実に引き戻したのは「お母さん、ここどこ?」という子どものか細い声だった。
――まさか、俺以外にも巻き込まれたのか!?
「おい、大丈夫か! ふたりとも!?」
祥平さんの声が、空間に反響して聞こえる。
「ええ、なんとか」
俺のすぐ隣、楓が返事をした。
良かった。ふたりとも無事みたいだ。だけど。
未だ暗闇に慣れない目を凝らし、俺は辺りを観察しながら、
「そんなことより、ここって……」
俺の問いを肯定するように、祥平さんが頷いた。
「ああ、――迷宮だ」
薄暗闇の中、かろうじて見える、石灰岩の壁。天井には巨大な鍾乳洞が俺達を見下ろしている。
ここが観光地であったなら、その神秘的な光景に胸が高鳴っていただろうがしかし、この何とも形容し難い異質さ。
見慣れた、既視感のような感覚が拭えない。
認めたくはないが、祥平さんの言うとおり、やはりここは迷宮で間違いない。
ならば必然的に、俺達の身に起こったあり得ない現象にも説明がつく。
「やっぱり。異界門に呑まれたんですね……ぼく達」
異界災害。外国では、そう呼ばれているらしい。
何の前触れもなく、時と場所を関係なしに突如として発生する大門。
それ自体もかなり危険な代物であることに間違いないが、門の最も厄介なところは、門が発生する際、その周囲の時空を巻き込んで発生するという一点に尽きる。
俺自身、体験するのはこれが初めてだが、一般人が運悪く異界門の発生に巻き込まれ、迷宮内でモンスターに殺される、という事件なんかはよく聞く話だ。
万が一、異界発生に巻き込まれてしまった場合の生存率は約10パーセント。これは極めて高い数値で、外国では3パーセントを切るという。
故に異界災害。意味は『地獄行き』だそうだ。
「しかも――……」
祥平さんが、暗闇の奥に視線を向ける。
シュルシュルと、何かの息づかい。幾つもの紅い瞳がこちらを視ている。
ようやく薄暗闇に目が慣れてきた。ぼんやりと捉えられる特徴は、人型の体躯にトカゲのような頭部と尻尾を持つ異形。
知識にあるのは、レベル4『蜥蜴種』。
骨を削って作った無骨な剣を持ち、主に単体戦を得意とするモンスターだ。
1体でも厄介な相手なのに、それが視界で捉えられる範囲に12体。しかも。
祥平さんが見つめる奴らの一番奥。一際巨大な蜥蜴種が、こちらを値踏みするようにトカゲの口からチロチロと長い舌を出している。
「迷宮の最奥。異界門主の部屋とは、とことんツイてねぇ」
「……どうしますか、祥平さん?」
指示を仰ぐ楓の声は僅かに震えている。
「どうするもこうするも、一般人の安全確保が最優先だ。つってもこの状況、まずはアレをどうにかしねぇといけねぇわけだが」
どうする――と、祥平さんが後ろを見やる。
祥平さんが言い淀む気持ちも分からなくはない。
背後には保護しなければならない一般人がいて、前方には迷宮の主『異界門主』がこちらを睥睨している。加えて私服の俺達に装備はない。
逃げるか戦うかの2択。
戦う選択とは即ち、他のウェイカーの応援が来るまでどうにかこの場を耐え凌ぐこと。
来るかわからない助けをひたすら待つこと。
かと言って、一般人を守りながら撤退し、かつ出口を探すとなると、確実に誰かひとりはここに残って殿を務めなければならない
その場合、必然的に残るのは祥平さんだ。
だが仮に祥平さんを残して撤退したところで、俺と楓のふたりだけではこのだだっ広い迷宮から一般人を守り切れるだけの実力もなし。
それをふたりも分かっているようで、祥平さんと楓の表情は深刻さを帯びている。
撤退か、戦闘か。
この選択を謝れば、全滅は避けられない。
「萩、楓。一般人を連れて逃げ――」
そう、覚悟を決めた祥平さんが撤退の選択を俺達に告げようとする、その直前。
「――俺はマトンが食いたいです、祥平さん」
場違いな俺の発言に対し「はあ?」と祥平さんが面食らってコケそうになる。
「さっき言ってたじゃないですか、何が食いたいかって」
「いや、言ったけどよ。お前こんなときに何を……」
祥平さんは困惑したように眉を寄せた。
いち早く俺の発言の意図に気づいた楓が「ふふ」と強張った頰の筋肉を緩めた。
「マトンかぁ、美味しいよね。ならぼくは高級ステーキ頼もうかな。1枚2万円くらいのやつ」
「おっ、いいな。祥平さんの奢りだし、黒毛和牛とかいっちゃうか」
「この際祥平さんの財布が空っぽになるまで食べたいね」
「だったら葵さんとかも呼ぼうぜ」
「赤松さんが来たら、破産間違いなしだね」
和気あいあいと談笑しだす俺達を見て、ようやく俺の意図を察した祥平さんが「ったくお前らってやつは」と、頭をボリボリ掻きむしった。
状況はこれ以上ないほど最低で、最悪だ。
だからこそ、緊張を弛緩させ、心に余裕をつくるこは大切だ。
我が家に伝わるハンターの『シキサキ』。まさかこんな極限の場面で役に立つとは思わなかったが。いや、こんな極限の場面だからこそと言えよう。
ともあれ、俺達の緊張は解れた。
余分な力を肩から抜き、祥平さんはやれやれといった風に破顔した。
「ひとり2万円までだからな!」
「「はい!」」
そして、絶望に抗う俺達の戦いは始まった。
❦
「どこだよ、ここ……何なんだよいったいッ!?」
「お母さあああああんッ」
「大丈夫、大丈夫だから。ママがいるから……っ」
「ったく、うっせぇよガキッ。おい早く泣きやませろそいつッ」
「――っ、すみません! すぐ泣きやませますからっ」
「なに苛ついてんのよ! まだ子どもでしょ!?」
白髪の老人やOL、女子高生に、泣き喚く幼子を抱き締める母親まで。異界災害に巻き込まれた被害者はざっと30人。
戸惑いと困惑、そして死を覚悟できずに取り乱す彼らを、いったい誰が責められようか。
「――皆さん、落ち着いて聞いてください!」
その場に響く青年の声に、被害者達が一斉に顔を上げた。
彼らが見上げる先、黄葉髪の青年男性が立っている。心象武装を使い成人化した楓だ。楓は被害者達の視線を一身に浴びながら力強く名乗り出た。
「ぼくはクラン椿姫のウェイカー、板谷です!」
椿姫は大阪で最大のクラン。その名を知らぬ者はいない。
それを聞いた被害者達が「おお!」「椿姫のウェイカー」「助かった」などと口々に希望を取り戻す。
だが、固唾を飲む被害者達に向け、楓は冷静な声音で告げる。
「ぼく達は、異界門の発生に巻き込まれました。ここは異界門の中、迷宮です」
途端、絶望的な事実を告げられた被害者達の表情に、悲痛な感情が走ったのを楓は見た。
過酷な現状だ。絶望しないほうが無理という話。
優しい嘘をつくこともできただろう。
被害者を騙す、嘘偽りの虚実を口に出すこともできただろう。
けれど楓はそれをしなかった。
すぐバレる嘘をついたところで、彼らからの信用は得られない。
「大丈夫、落ち着いてください。大丈夫です。椿姫の名にかけて、ぼく達が責任を持って皆さんを外に返します。ですから皆さん、慌てずぼくの支持に従ってください!」
楓の役割は、彼らに安心を与えることだ。安全とは言い難いこの場所で、彼らに安堵を与えること。
死の淵に貧した人間は、時にどんな行動を起こすかわからない。それこそ、我先にとこの場から逃げ出す者も出るだろう。
バラバラに散った一般人を全て守り切るのは不可能だ。それだけはなんとしてでも避けなければいけない。
理想としては、彼らを一箇所に集めて背水の陣を敷く。
こんなとき、あの人なら――。
『――グィェェェェッ!!』
楓の背後で、蜥蜴の鳴声。
「お兄さん、後ろっ!!」
それに気づいた女子高生が悲鳴を上げる。
「――っ!」
振り向いた楓のすぐ背後、蜥蜴種の無骨な骨剣が振り上げられていた。
反応が遅れる。
背中には一般人の命。
回避は―――できないッ!!
最悪腕一本捨てる覚悟で、楓が蜥蜴種の骨剣を止めようとしたその矢先、
「―――《紫麗の燐火》」
横合いから飛び出て来た紫の影が、蜥蜴種の横っ腹を蹴り飛ばした。
『グェェッ!?』
横合いからの衝撃に蜥蜴種の身体がくの字に曲がり、吹っ飛んでいく。ろくに受け身も取れず、10数メートル先の岩壁に激突した。
その光景を横目に、楓は息を飲む。
枯葉色の髪の青年――火種を纏った萩が、楓の目の前に立っている。
「大丈夫か、楓!」
「萩くん!」
歓喜に湧き上がる被害者達には目もくれず、萩は右手に持つ、恐らく蜥蜴種から拝借したであろう無骨な骨剣を楓に放った。
「蜥蜴種相手にあんま役に立たないとは思うけど、ないよりはマシだろ」
「ありがとう、萩くん!」
コクンと頷くと、萩は休む間もなく付近にいる次の蜥蜴種へと殴りかかっていった。
その背中に、勇気をもらう。
楓は振り返り、心配そうな目で、縋るように自分を見つめてくる彼らを見据えた。
「彼も椿姫のウェイカー。レベルは〝5〟です」
「げ」と盛大に顔をしかめる萩の顔が目に浮かぶ。心の中でごめんと謝っておく。
効果は絶大だった。
「レベル5がいるのか! 良かった、なら安心だ!」
「私達、ここから生きて帰れるかも……!」
「見たかよあのモンスター! 吹っ飛んでったぜ!」
人々の心に、希望が芽生え始める。
その好機を見逃さず、楓はさらに続けた。
「萩くんだけじゃありません。この場にはレベル6【紫電】の雨瀬ウェイカーも居合わせています! 門の外では事件を聞きつけた椿姫の精鋭ウェイカー達もすぐに助けに来てくれます!」
曇っていた人々の表情に、微かな光が灯った。
「大丈夫です。皆さんは必ず外に返します。椿姫の名にかけて!」




