Level.102『攻略を失敗したクランの末路』
その光景は、俺の想像を遥かに凌駕していた。
その地獄は、俺の想定を大きく傑出していた。
ガキのままでいた方が良かったんじゃないかと後悔するほどの地獄が、眼下に広がっていた。
エントランスホール中央の階段を駆け上がると、廃れた回廊が続いた。
外観以上に長い回廊を抜けるとまた階段。そして更に回廊が現れる。
どのくらい走ったのか。
どれくらい時間が経ったのか。
しばらくすると、俺の嗅覚が突然として異臭を嗅ぎ取った。血の匂いだった。
回廊を進むごとに血の匂いはますます濃くなっていく。つられるようにGrowの足取りも速さを増した。
緊張と緊迫感。
知らず息は上がるも、体温は徐々に冷めていく。
服の背は冷たい汗で染みていた。
俺は地獄に足を踏み入れた。
「――」
視界。壁や床に飛び跳ねる鮮やかな紅。
音。かすかに聞こえる人の呻き声。
匂い。鼻をつんざく鉄錆の臭さに、ナマモノが腐ったような汚臭がブレンドされている。
「うっ、……おぇ……っ」
咄嗟に手で鼻と口とを覆うが手遅れで、鼻の奥にこびり付いた匂いを遮断できず、湧き上がる嘔吐感に涙が出そうになった。
死体の山があった。
回廊を埋め尽くさんばかりの死体が転がっていた。
その多くは悪魔種の死骸。
それに紛れて転がる、人間の形をした死体も少なくない。
身体の中心に大きな穴が空いているモノ。
首から上がなくなっているモノ。
手足は千切れ、臓物が飛び出ているモノ。
派手な戦闘が起きたのだろう。
ここに来るまで戦闘の形跡はなかった。
待ち伏せされたのか、はたまた奇襲を受けたのか。正直理由なんてどうでも良かったが、どうでもいいことを考えていないと心がどうにかなってしまいそうだった。
どうにか死体から目を離そうと視線を泳がせても、一面に転がる死体の山が俺を現実から逃さない。
「足を止めるな織﨑弟!!」
「……っ」
走るペースの落ちた俺に、チコ先輩からの叱咤がすぐに飛んできた。
遅れているのは俺ひとり。
数々の地獄を経験したGrowは凄惨な現状というものに慣れきっている。
埋まらない人生経験の差が如実に現れる。
先輩達の背中だけを視界に収め、なるべく死体から目を反らすようにして俺は地獄を駆けた。
凄絶を尽くし難い惨状を直視せず、心を押し殺して回廊を突き進むこと数分。
今度は俺の聴覚が異音を聞き分けた。
遠くからでもわかる。
何かと何かが衝突を繰り返す戦闘音。
「近いね」
「ああ、戦ってるな」
「急ぐぞ」
それだけ交わすと、Growは走る速度を上げた。
しばらくして回廊の奥から強い光が見え始める。
地獄の終わり――否、真なる地獄への入り口だ。
回廊を駆け抜けた俺達の前に広がる広大な空間。
西洋風の城内で例えるなら、該当するのはボールルームだろうか。とにかく広い。
全体的に黒を基調とした装飾のせいか、室内は薄暗く、床に敷いてあるカーペットはところどころが破れており、高い天上には割れたシャンデリアが苦しそうに吊るされていた。
他のフロアとはまるで雰囲気が違う。
ヒリついていて冷たい空気感。
ウェイカーをやっている者なら感覚的に理解できる。
ここが異界門番の座す大部屋だ。
「――う、をぉぉぉらァァァァッ!!」
部屋の中心で、ひとりの男が戦っていた。
足元は草鞋。頭にはクランのエンブレムが入っていると思しき白いバンダナを巻き、藍色と白の袴のような戦闘着を着用している。
まるで幕末の侍のような印象を俺に与えた。
刀身が淡い緑に染まる刀を手に、男は果敢にモンスターへと斬りかかる。
『ボフォフォ――』
男と相対するのは山羊の頭をした悪魔種だ。
体長は鬼牙種の迷宮の門番で俺が戦った青瞳の鬼牙種と同等か、それ以上にデカい。
他の個体とは存在感からして段違いのプレッシャーを放つソレは、奴がこの迷宮の門番だということはひと目でわかった。
「バフォメットか、厄介だな」
チコ先輩が隣でそう呟くのが聞こえる。
侍の男と、山羊の悪魔種の戦闘。
『■■■、■■■■』
山羊の悪魔種が何事かつぶやくと、両手から黒い玉――恐らく魔法か何か――を出現させ、男へ向かって黒玉を放つ。
「ふッ! はぁッ!」
力強い掛け声と共に男は黒玉を切り裂き、或いは避けながら山羊の悪魔種との距離を詰める。
弾かれた黒玉が床や壁に衝突すると、風穴のような破壊をその場に残す。
男は凄まじく強かった。
身体中傷だらけで満身創痍になりながらも、それでも男は闘志を絶やさない。
俺なんかとは比べ物にならないくらいの実力者。多分、レベルは夕日さん達と同じで8。
山羊の悪魔種の目前まで迫ると、男の刃がものすごい速さで閃きを始める。
息をつかせぬ男の猛攻に、山羊の悪魔種も負けじと両腕の爪で抗うも、近接戦においては男の方に分があった。
「ふんぬッ! うぉぉぉぉおッッ!!」
磨き抜かれた剣技を以て、男が刀を振り上げる。
刃は山羊の悪魔種の左腕を断ち切った。
『ボガァァッ!?』
汚らしい悲鳴が山羊の悪魔種から吐き出される。
構わず男は更に一歩を踏み込み、もう一方の腕を斬り落とす。
悲鳴を上げる山羊の悪魔種は男の接近を嫌い、大きく翼を羽ためかせた。空へ逃げるつもりだ。
「逃さんぞ――ッ!!」
更に更に男は踏み込み、今にも空へ退避しようと羽ばたかせた山羊の悪魔種の右翼をばっさり斬り落とした。
再び山羊の悪魔種の悲鳴が木霊する。
空への退避を阻止された山羊の悪魔種の逃げ道は絶たれた。
トドメを刺すべく男が刀を振りかぶる。
その直前、男の身体がグラついた。
「……くっ、」
山羊の悪魔種との戦闘によるダメージの蓄積。
残酷にもこの場で、迷宮を踏破してきた疲労が男を襲う。
男の身体は既に限界を超えていたのだ。
『ボフォォォォォォォッ!!』
その隙を見逃すべくもなく、山羊の悪魔種が動く。
両腕を落とされ、爪を使えない山羊の悪魔種に残されているのは鋭い牙だけだ。
山羊の悪魔種は大口を開け、男に牙が迫る。
「――っ!!」
喉元を噛み切らんべく迫った山羊の悪魔種の牙を、男は刀を掲げてかろうじて防いだ。
重なった牙と刀とがギリギリ音を立てる。
拮抗はなかった。男が膝をつく。
力を込めている男の腕がぷるぷると震え、山羊の悪魔種の牙が目の前へと迫った。
「チコ先輩!!」
いても立ってもいられず、俺はチコ先輩に助力の許可を仰いだが、
「まだだ」
チコ先輩は首を横に振った。
まだだ――その言葉は一対一の戦いに水を指すなということではなく、別の意味を孕んでいるようにも俺には聞こえた。
その直感を裏付けるように男が口を開く。
「灯せよ白虎、燃えよ緑刀――」
静かに紡がれた言葉は雄叫びでも、ましてや悲鳴なんかでもなくて。
「ここで立たねば会津剣児の名折れなり。覚醒第九感『真象武装』」
真象武装――それは才能と努力が結晶し、己の心象を克服した者に与えられる更なる高み。
レベル8以上のウェイカーにのみ発現する、心象武装を超えた、人間の秘めたる第九感。
己を鼓舞する侍の心象が今『覚醒』する。
「〝緑刀〟正宗・真式」
男の意思に応えるように刀の模様が変化を遂げる。
美しい日本刀の直刃模様に新緑の濤乱が奔ったかと思うと、深緑の炎が刀を包む。
ただ刀の模様が変わっただけではない。
男の『覚醒』は戦況に大きな変化をもたらした。
押されていたはずの男の刃が、山羊の悪魔種の牙を押し返し始めたのだ。
『ボフォッ!?』
驚愕に目を見開き、山羊の悪魔種が呻る。
刃を砕こうと必死に力を込める牙が罅割れる。
戦意という名の覇気を纏い直し、傷だらけの身体を押して、男は最後の気力と共に緑炎を纏う刀に全精力を注ぎ込む。
「う、をォォォォォォォォッ!!」
快気一閃。
山羊の悪魔種の牙が砕け散る。
音はなかった。
ただ迸る。
深緑の軌跡が闇を祓うかの如く弧を描く。
緑炎の刃が山羊の悪魔種を断頭した。
静寂が空間を支配する。
肩で息をつく男。
山羊の悪魔種の頭が宙を舞った。
「倒した……!?」
眼前で行われていた一進一退の攻防。
怪物の頭を斬り飛ばした侍の勝利に、俺は歓喜に震える声でそう呟いた。
誰もが侍の勝利を確信していた。
夕日さんもヒロさんも、黒染さんだって――。
けれどただひとり。
熱気に浮かれず冷静に戦況を分析していたチコ先輩だけは違った。
「ダメだ! 首を落としても奴は死なない! 早く核を――」
チコ先輩が焦燥としながら侍に危険を叫ぶ。
その瞬間、俺は見た。
地に転がる山羊の悪魔種の瞳が笑みの形に歪んだのを――。




