第10夜.春の訪れ
「休憩だ。」
レッスンに一区切りついた時、師匠がそう言ってさっさと奥さんの待つダイニングルームに消えていった。
この師匠、よっぽど俺のために休憩を取ってやるよ的な言い様なのだが、結局は奥さんお手製のミルクティーを飲みに行きたかっただけなんだよ。
まぁ、いいけど。
それより。
この前の演奏は気持ちよかった。
なんだか俺の音じゃないような音色を奏でるも、不思議と以前のような焦りもなく、むしろやっと俺の音に出会えたっていう気分だった。
華音がいるだけであんなに違うなんて。
バーのことを思い出して、ふと鍵盤に指をすべらせる。
弾く曲はもちろん『子猫のワルツ』だ。
あれから三日。
楽しかったなぁ。
華音といろいろ話した時も、ピアノを弾いている時も。
演奏後に立ち上がって礼をしたときの、あの拍手も。
嬉しかった。
俺の音を、俺自身を受け入れてもらえたようで。
それに。
三日前はあれからバーを出てお互いすぐに帰路についたが、一週間に一度、飲みに行こうと約束した。
もうすでにその日が待ち遠しくて仕方がない。
知らず知らずのうちに笑みが漏れる。
「・・・か・・のん・・・」
華音のことを考えれば考えるほど音が変わっていくのがわかる。
なんていうか、それがすごく心地良いんだ。
全身を音が包み込むっていうか。
指が軽やかに踊る。
心を込めて一音一音を弾く。
音が俺と共鳴する。
ピアノが俺の意思を表現する。
そう、
俺とピアノがひとつになったんだ。
「ふう・・・。」
最後の音を弾きあげて一息つくと、後方からパチパチと拍手が聞こえてきた。
「よぉよぉ、少年。お前にしちゃ変わった音出してんじゃねぇか。」
見ると、ニヤニヤと怪しい笑みを浮かべた師匠がドアに寄りかかって立っていた。
「来たんだな。」
「は?」
唐突にそういわれ、意味がわからずに首を傾げた。
「春」
・・・・・・春、が何?
「だーかーら!恋してんだなって言ってんだよ!くそボケ!」
一瞬で言われたことを理解した俺は懸命にポーカーフェイスを保つ。
「なに言ってんだよ、師匠。早くレッスン始めてくれよ。」
そう言うと師匠はこちらに歩み寄ってきたものの、その顔には未だに不気味な笑みが張り付いていた。