第99話:舞い降りる剣01
どこか遠くの出来事のようにも思え。けれど普遍的に近しいことにも思え。
「ごめ……なさい……」
私を抱いている女性が泣いていた。それも痛切な感情を発露して。
私そのものに感想はない。ですけども彼女の悲哀が何に依存するかは興味があって。肉体を自由に動かせないのは、あるいは夢見るこのビジョンのシチュエーション故ですか。
「ごめんなさい……。貴女にとって……この世は苦界です……」
うーむ。否定は出来ない。生を受けると言うことは、在る意味で思考という苦難と並列ですから。
「本当は生まれて欲しくなかった。産んでいいわけがなかった。貴女が貴女であるというだけで……私は貴女を弑すべきだった」
それはまた物騒な。
「でも……でも……」
無力なこの身体を、女性は強く抱きしめる。
「それでも産まれてきて欲しかった。この世の歓喜を感じて欲しかった。ただあの方との愛を結晶として貴女に与えたかった」
多分。きっと。
この女性は母親なのだろう。この私……あるいは夢にとっての肉体に対して。
「貴女の前には魔王が立ち塞がる。そういう風に演算されている。運命という言葉がどうしても適確になるほどに……貴女の業が貴女自身を焼き尽くす……」
魔王。
「わかってる。いえ。実感は出来ないでしょう。その事が貴女にとってどれ程の重みになるのかを私は客観的には察し得ない。辛いでしょう。重いでしょう。哀しいでしょう。でも……分かっていて……それでも貴女に笑顔の一つが零れるなら……その事だけが私が貴女を産んだ数少ない希薄な願望と言えます」
この夢は何でしょう。
「貴女は何時か魔王を目覚めさせる。そのことだけでも痛恨事だというのに」
魔王は知っています。私の世界にもありました。現代魔術では魔王とは『文明に喧嘩を売った魔術師』と定義されています。その有り様から第一魔王から第五魔王まで分類され、しかしその悉くが失敗してのけます。元々が無理難題なんです。私の世界……基準世界には魔法検閲官仮説という物が存在します故。
――あらゆる魔法は文明の表舞台には現われることが出来ない。
そんな法則が働きます。結果として文明そのものにケンカを売る魔王の悲願は成就しないように収束してしまうので。
ではこっちの世界の魔王は?
わかりません。そもそも基準世界と同じ概念で魔王を語って良い物か。仮に良いとしても、文明に魔法が寄与しているこの世界……魔法の検閲という観念の働かない空間で、抑止力がどれほど有効といえるのか。
「可愛い貴女。愛しい貴女。けれど哀しい貴女」
魔王。
この夢の主がそう呼ばれるにあたり、どれほどのモノを失うのか。どれほどの自虐を背負わなければならないのか。そうとわかって、でも目の前の女性はこの肉体を産んだ。負の遺産を荷負わなくてはならないと知っていながら、それでもたった一度だけ……笑ってくれるなら世界の破滅とソレは等価なのだと。
「識を持ち、学を修め、友に並び、愛を知る」
多分ソレは祈りと呼ばれる観念。どれだけ痛む人生でも産まれてくることそのものに罪は無いという祈願にも似た妄執。大切な命なのだろう。愛を以て産まれてくる子どもに「生まれなければよかった」などと言える方がどうかしているのだから。例えこの身が不幸に塗れようとも、唯識の価値までは目減りしないのだから。




