第52話:乙女に神風の舞い降りて15
毒の苦しみから解放されて舟をこぎ始めたミシェルの安息を邪魔しない様に僕は治療室を出た。
どうやら毒の影響はもう無いとのこと。
安堵、アンパサンド、ホッとする。
それから日の昇りはじめた時間故に失礼かとも思ったけど、どっちにしろ行動するなら早い方が良いということでパワーの執務室の戸を叩く。
帰ってきたのはビンの叩き割れる音だった。
おそらくパワーがノックされた扉目掛けて遠慮も手加減もなく割れ物を投げつけたのだろうことは容易に想像がついた。
幸い施錠はされていなかったので臆面もなく執務室に入る。
「あらあら」
そう呟いたのは僕に付き添っている形のアリアである。
艶と光沢のある白い髪を憂い気に揺らして、それが白い瞳に伝播すると心配という表情に変化せしめた。
結論……執務室は荒れていた。室内の人間ごと。
どれだけ呑んだのだろうか。
ワインやウイスキーやブランデーの酒瓶が二十近く床に転がっている。
それでも呑み足りないとばかりにワインの酒瓶に直接口をつけて一気呑みをしているパワーであった。
「気持ちはわからんじゃないけどさ……」
どうしたものかと頬を掻く。アリアと視線で会話すると結論として酒の肴を提供するより他ないということになった。
「荒れてますね」
「荒れずにいられるか!」
パワーの燈色の瞳には憤怒と憎悪とが泥濘となって渦を巻いていた。
「深酒は体に毒ですよ」
「知った口を聞くな!」
ワインを一気に飲み干して空瓶と成すとそれを八つ当たり気味に僕に投げつけてくる。
思考強化。
空瓶を掴む。
思考強化解除。
握った空瓶をそっと床に置く。
「蒼の国から何か要求は来ましたか?」
「ああ」
「聞いても?」
「私の身柄とフォースの身柄を交換したいそうだ」
「当然と言えば当然の成り行きですね」
まぁだからこそ荒れているのだろうけど。僕は返答をわかっていながらあえて問う。
「それで、どうするつもりです?」
「殺すぞ……」
「やれるもんなら」
「…………」
挑発に挑発で返されてパワーは冷や水を浴びせられたように狼狽えると、それから憤怒の代わりに悲哀が、憎悪の代わりに哀惜が、それぞれ入れ替わる。そこにいたのはもはやパワー砦の頂点である少将ではなく、妹を可愛がる姉でもなく、絶望に身を浸した哀れな女性だった。
「呑むわけにはいかない」
酒じゃなくて交渉の方だろう。
パワーは気を落としたまままた新たな酒を開ける。
蒸留酒だ。
それをグラスにも注がず直接口につける。
死ぬぞ。
「私はパワー砦の主であり、燈の国の国境線そのものだ。少将という責任ある立場もさることながら燈の国でも五指に入るストーカーでさえある。未熟で責任の無い一介の学院生と交換されるわけにはいかない」
泣いて馬謖を斬る……か。
「最悪だろう?」
酒をガバガバ呑みながら自嘲するパワー。
「何が?」
主語が無いため他に言い様が無かった。
「フォースが大切だと言っておきながら結局責任だの立場だのと言い訳をして切り捨てるんだ。私は人間失格だ」
太宰治じゃないんだから。
ちなみに人間失格は読んだことあるけどどうにも僕には理解不能な文章だった。
憂世に悩んでいるわけじゃないためかもしれないけど、なんとなく人間失格に共感できないことを寂しいとは感じ入った。
憂世に悩んでいる人じゃないと理解不能なのだろうと納得しているところだけど。
閑話休題。




