貴女が私で、私が貴女で
クラリス視点です。
人生初の出来事とはどうにも記憶に残ってしまうものですが、私は今日の出来事はすぐにでも忘れたいと強く思いました。
夜の4時半を過ぎて私は帰宅しました。母と共に。
「もう……ビックリしちゃったわよ。でも無事で良かったわ。体もなんともない様だし」
「うん……ごめんね」
「大丈夫よ。でもまさかクラリスちゃんに夢遊病が発症するだなんて、お母さん気が気じゃないわ」
そう言って母は私の頬を撫でた。
そうなのです。私、赤橋クラリスは高校二年生にして夢遊病にかかってしまったのです。今日は早めに寝ようとベッドに入ったのを最後に、次に目を覚ました時、私はなんと見知らぬ交番の前にいたのです。お巡りさんに起こされて、自分が寝間着姿、それも裸足の状態で屋外にいることを知り、とてつもなくパニックになりました。そりゃそうです。そんな経験今までしたことがなかったのですから。
それから親を呼ばれ、事情聴取をしてようやく私達は解放されました。お母さんも初めてのことに混乱気味でしたが、冷静に受け止めることに努めたのか、私よりは私のことを分析してくれているようでした。その頼もしい姿に私自身を嫌悪してしまいそうです……
その後、夜間病院で色々と診てもらい、何事も無く家に帰ってきた私は深夜帯ということもあり、再び寝床につくことにしました。明日も学校なのに、これじゃ寝不足になっちゃう……転校してきたばかりなのに、こんなんじゃ勉強にも友達作りにも支障をきたしちゃうよ。体に憂鬱が重くのしかかりました。
もう痛みはないけれど、首と足に出来た切り傷を私は触ってみた。夢遊病で徘徊して出来た傷だと思う。こんなことを言うのは変だけれど、横一本に入った傷は、綺麗な直線を描いていた。まるでそこに『生まれた』かのように。
慈しむように触ると出血はどちらともなかった。ガーゼを当てる必要もなさそうだ。
……って慈しむ? 我ながらただの傷に可笑しな感情を抱いてしまったと思った。夜に起きたから変な心理状態なのだろう。早々と寝ることにしよう。
「……それにしても、変な夢見た…」
ベッドに横になり掛け布団を抱き締めて、そう呟く。夢遊病の最中だったのか、ベッドにいた頃に見た夢なのかは定かではなかったが、自分が『不思議の国のアイリス』のアイリスになる夢だ。
途中までは従来の物語をなぞるだけの夢だったが、夢独特の自由度のせいか、登場人物として桃太郎の一行が登場したのだ。そして私は彼らと戦うことになり、私は敗北した。……体は言うことを聞かず私自身はただの傍観者としてその光景を観ることしか出来なかったのだが、全くもって現実味がない夢だった。
自分の知っている物語や童話のキャラクター達が、少年マンガよろしく戦っているだなんて、いくらなんでもぶっ飛んでいると思う。それに、漫画の設定にしたってありきたり過ぎて十週打ち切りが目に見えている。我ながらつまらない夢を見てしまったなぁと思った。
「暴力でも振るいたい欲求でもあるのかなぁ……」
自負している引っ込み思案な性格に、そんな正反対な欲求はないと思うが、そう思ってしまう。
「……やめやめ、所詮夢だ。早く寝よう……」
答えなど出るわけのない自問を振り払い、私はもう一度微睡みの中に落ちていった。
そういえば……夢でも私、足怪我してたな……
朝、案の定寝不足になった。ドライヤーの温風でさえ心地よく感じてしまい寝落ちしそうになった。ガクンと膝が折れ、体勢を崩すというやりとりを数回して、我ながらヤバイなと思った。
「最悪……」
開き切らない目蓋を無理矢理に上げてみる。洗面台の鏡に写る自分がいた。アハハ……サラサラの金髪なんて揺らしちゃってさ。
頭が働いてないのか、私の頭髪が不良生徒の様に黒髪に金色が混じっているように見えた。目を擦って再び見る。そこには見慣れたうねうねの黒髪があるだけだ。
「……学校休みたいな」
生まれついての癖っ毛を見ると嫌になる。金髪は嫌だけど、サラサラヘアーは現実であって欲しかった。そう残念に思った。
朝食を摂った後に食器を台所へ持って行くと、お母さんが両手にペットボトルを持って差し出してきた。
「ジュース買っといたから、好きなの持って行って」
ストレートティーとレモンティーだった。
「どっちもはダメ?」
「ジュースは一日一本まで」
ピシリと言う母。健康には厳しい母である。私も高校生になったのにまだそんな固いことを言うのかと思う。皆んなジュースなんて一日何本も飲んでいるっていうのに……まあ、それに従う私も私だけど……
今日はストレートでいいや。そう思って母の左手からストレートティーを受け取ると、いってきますの言葉と共に私は家を出た。
陽はズンと高い。今日も暑くなるそうだった。水分が重宝しそう。そう思って受け取ったばかりの紅茶のキャップを回し開け口に含む。嗅覚を刺激する妙な柑橘系の香りと、酸味に顰めた。違和感に手に持つペットボトルを見ると、黄色い色彩にレモンの果実が描かれたラベルが巻かれていた。
レモンティー……
まさかの受け取りミス。朝イチでこんなミスをするとは、今日は良い日にはなりそうにないなと項垂れた。
学校に行くには電車を一本なのだが、昨日から知ったことだが、この電車が混むのなんの……すでに自転車登校にしようかなんて思っている程だ。
昨日の登校と同じようにガチガチに混む車内。胃の中の朝食が出てしまうのではないかと思うほどだった。後三駅……それまでの辛抱だ。自分を元気付けながら耐えることに専念する。
そんな時だった。自身の臀部に虫が這えずる様な感覚が走る。驚きと気色の悪さに「あっ!!」と声を上げそうになるが、それをグッと抑えた。混雑した車内、都会のルールは何となく知っている。騒々しく他人の迷惑になる音は立てないこと! これは札幌から上京してきた私が覚えた暗黙のルールの一つである。
しかし、再びお尻を撫で回す感覚。こ……これ……
まさか痴漢ってやつですか!? 東京に来てまだ1ヶ月と経たない内に、私人生初の痴漢されてるの!?
スカートの上から触っているといって、気持ち悪くないわけがなかった。布の上からだからとかそう言う話ではないのだ。まだ虫が服に付いていたって事件の方がマシだ。気色が悪い。嘔吐しそうだ。
誰かに助けを求める? でも他の人に迷惑をかけちゃうかも……それで電車が止まったりしたらどうしよう……急いでる人もいるだろうし……それにただの不可抗力だったらどうしよう。冤罪でこの人の人生おじゃんになっちゃうし……
げぇぇぇ!! なんかフンフンしてる鼻息が聞こえるんですけど!!
不可抗力なわけがなかった。興奮したような様子にに寒気が深まる。周りをゆっくり見渡してみても他の乗客はイヤホンをしている人が多く、その荒い鼻息にも気が付いていないようだった。
いやだ……どうしよう……今すぐにも声をあげたい……
そう嫌悪する意思とは反し、口は開かない。行動に移す勇気は嫌悪だけでは発起しないのだ。涙が出そうになるのを我慢し、堪えるしかないのかと悔しかった。臀部を触っていた手の感覚が自然と下に移行していく。終わったのかな……? と安堵した刹那、露出していた太腿に今度は生暖かい感触。唖然とした。明らかに素肌を握る慣れない手の感触、まさか今度は直で痴漢するつもりだとは……
気が付けば私の目からは涙が静かに落ちていた。目を瞑ってもそれは止まらなかった。自分の不甲斐なさが憎くて憎くて、情けなくて、何より怖くて……涙は止まらなかった。
「テメェ……このやろう!!」
走行音のみが連続して聞こえていた車内に、その声は響いた。と同時に太腿に感じていた悍ましさが消える。
まさかの救世主到来か! 私の祈りが誰かに届いたのだ。そう思って振り返る私の見た先にあったのは、意味の分からない光景だった。
後ろにいた小太りのおじさんが動揺を隠せずに狼狽している。そしてその悪行を働いていた手を握り上げていたのは……私の手だった。
……え、なんで
静まる私。車内の視線が一斉に私達に集められていた。
なに……何をやっているの私は!? 恐らくこの握っている手こそが私を侮辱した手なのだろうけど……
なんでその手を晒し上げるなんて勇気のいることを私が!? それにあの声は!? いったい誰の声!
「な、なんだね君は!!」
開かれた状況に混乱する私に、犯人は開き直ったように抗議の声をあげた。白々しいっ……!! 私自身が一番何をされたか分かっているのに! 私を気弱な女だと思って、言い逃れようとしている!
でも……私には言い返せないよ……今だって反撃されただけで怖いんだもん……
「なんだじゃないでしょうがぁ!! 私のお尻を触りやがったでしょ!!」
震えた。恐ろしい程にはっきりした声で言い返す声に。そしてそれを……『私』が発しているということに。
「い、言い掛かりはやめてくれ! お、俺は何もしていない! そんな証拠どこにある!」
「証拠なんて必要ないわよ、現行犯ってやつだもの。私の太腿を握ってたこの手を掴まれて、やってないなんて言い逃れは厳しいんでなくて?」
「……お、お前、俺に冤罪をかけようって魂胆か! 示談にでも持ち込んで金を儲けようって寸法だろ! このクソガキが!」
「黙りなさい」
短い切捨ての言葉に場がヒヤリと静まり返る。
「もはや語るのも無駄でしょうに。警察でも呼んでハッキリしようじゃない。貴方のこの手に私の皮脂やら、スカートの繊維クズが検出されれば……そして私のスカートや皮膚に貴方の指紋が見つかれば、事は明白でしょ? もし発見されなかったのなら貴方に詫びてあげるし名誉毀損で訴えてもいいわ」
「な、なに……」
「私がここまで言えるのは、ハッキリと私が痴漢されたと主張できるからよ。そして私はカケラも悪くはないと分かっているから……貴方にはしっかりと罪を償ってもらおうじゃないの」
男はそれ以上は何も言わなかった。しかしその刹那の出来事だ。やりとりに夢中になっていたから分からなかったが、電車は駅に着き、その自動扉が開かれたのだ。扉側にいた私達は突然の開放感に見舞われ、その瞬間、男が飛び出し逃走を図ったのだ。
周りにいたあらゆる乗客が驚愕する。
「────無駄なのに」
再び勝手に言葉を紡ぐ私の口。落胆したかの様な調子のその言葉が宙に吐かれた途端のことだ。
世界のあらゆる物が動きを止めたのだ。駅の喧騒は鳴りを潜め、せわしない往来はピタリと凍る様に止まる。音のない静寂の世界が来訪した。
…………これって!!
蘇るように私の頭の中で記憶がグルグルと巡る。引き出しを乱暴にこじ開ける感覚が私を支配する。
思い出した……思い出した……思い出した……思い出した……!!
────不思議の国のアイリス……不思議の国のアイリスだ!
あれは夢ではなかったんだ!! あのアイリスは私だった! あの出会いも、お茶の味も、女王様のキンキン声も、戦いだって……夢じゃなかったんだ!!
「……まったく……舐められたものね、たしかに『この子』ってば地味臭いし、薄幸顔に、意思も弱そうだから否定は出来ない」
私の意思なんて御構い無しに『私』を乗っ取っているアイリスは喋り続ける。
「けれど、勤勉だし慈愛的みたいね。私そういう子は好きよ」
電車から降りた私は窓を鏡代わりにして、自分を見た。薄く反射する中で私の瞳は見慣れた茶色ではなく、海の様に鮮やかな青に染まっていた。
「────ね、仲良くしましょ? クラリス・アカハシ」
そう言って私は振り返ると静止した痴漢魔の足を蹴り払う。すると『アイリス』は、まるで水中を揺蕩うようにゆっくりと宙を舞う彼の頭を掴み、躊躇なく地面へと叩きつけたのだ! 一切の迷いの無い行動だった!
「────まぁこいつにはひとまず痛い目を見てもらうけど」