アイリスの理由
あてもなく森を彷徨う中、アイリスは先程から頻りに犬に話し掛けていた。
「じゃあクレアなんてどうかしら? いい名前よ〜」
女王の手先から逃れる為に歩き出した俺達だったが、犬の上で暇を持て余していたアイリスが『犬』に対して名前をつけていないのは虐待よ、などと言い出し、結果的に犬に対して名前をつけてあげようという流れになっていた。
「どうでしょうか主人様」
どうでしょうかって……俺に聞かれてもなぁ。犬には自分の名前なのだから良し悪しは自分で判断して欲しいもんなんだが……
「いいんじゃないの」
「アイリス様、主人様は良いと言っているのでその名前で良いかと」
「もう! なんでこのお兄さんに一々良いかどうか聞くのよ! 貴女の名前なんだから貴女が気にいるやつがいいのに」
プリプリと怒るアイリス。そこに関しては全く同意見だ。仲良く女子同士でキャッキャ、ウフフと決めれば良いことだろうが。
「私は主人様に気に入られた名前がいいのです」
「ええ……理解出来ないわ……このお兄さん見るからにネーミングセンスなさそうなのに」
おい、それはどんな見た目だこのやろう。しかしそうか……犬は俺が気に入った名前がいいとはな。だったら俺が名前を直々につけてやれば早い話だな。
「よし、じゃあ俺が今度は名前を考えてやる」
「本当ですか!?」
犬が明らかに喜んでいた。たまには主人っぽいこともしなくちゃな。
「う〜ん……白いから、雪丸だ!」
「素晴らしい! 美しい名前をありがとうございます!」
「バッカじゃないの! 女の子なのに丸って何よ、丸って! もっと考えて捻った名前にしなさいよ……グレーテルとかエカテリーナとか」
日本のお話出身なのにそれはないだろ。アイリスに対してセンスの無さを感じるが、だいいち彼女は俺達を本物の桃太郎だとは思っていないのだろうか? いや、たしかに自己紹介はしたが、『桃太郎』の主人公であるとは言っていないし犬に限っては、それが出典の登場人物(人物ではないけれど》とも説明していない。
それは大変な事に気が付いた。すぐにでも説明しておいた方がいいだろう。
「なあ」
振り返り言うと、犬の上でアイリスはウンウン唸っていたところだった。
「なに、いい名前でも思いついた?」
「いや、そうじゃないんだけど……あのさーー……まだ言ってなかったけど……俺ってば桃太郎なんだよね」
「……はあ?」
アイリスは目を薄めながら、そう怪訝に言う。いや、確かに俺の切り出し方が悪すぎた。もっと頑張れ俺。
「いや、俺ってば自己紹介で桃太郎って名乗ったけどさ……桃太郎は桃太郎でも、あのきびだんごとか、三匹のお供とか、鬼退治とかの桃太郎なのよ」
「えー……と……そうなの」
「そうそう」
「……それで?」
そ、それで? それでだと!? 思わぬ返しに動揺した。
「え……」
「だからなに?」
「は?」
更なる追い打ちに俺は意表を突かれる。彼女の口ぶりはどうでもいいといった調子だ。
「ああ、だから桃印のハチマキなのね。少し大きいけれどお供の犬と言われたら納得」
「お前……」
「それにさっきからずーっと付いてきてる木の上のお猿さん、だいぶ恐ろしい様相だけど、きっとあれも貴方のお供でしょう? 何も仕掛けてこないから、無害だと判断していいなら正解だと思うわ。あとは……どんなお供がいるの?」
「いや……空から偵察してる雉が一羽」
「あらそうなの。鳥さんまでお仲間だなんて貴方も中々に、可愛らしい存在ね。早く言ってよ」
俺は先程から覚えていた違和感を口にした。
「あのさ……」
「なあに?」
「お前もしかして俺の事知らないの?」
アイリスは随分とキョトンとした顔を見せた。もう既にそれが答えになっていて、俺まで驚きが顔に出てしまった。
「知らないわ」
「マジか!」
「なに? ダメなのかしら、失礼しちゃうわ」
ふんっとこれ見よがしにそっぽを向いてみせるアイリスだが、皮はアイリスでも中身は日本に住む人間なはずだ。まさか桃太郎を知らない日本人がいるとは思わなんだ。そんな少女が不思議な国のアイリスは知っていて俺と出会うとは……え、ここ日本なのに知らねーのかよ!
「……知らないといけないの?」
「え、いや……う〜ん……ダメっつーか、日本人なら常識の範疇っつーか……」
「ん〜? え、なに、そんなあやふやな感じなら知らなくてもいいんでなくて?」
俺は黙る。
「呆れた。……まあ、最初見た時は驚いたわよ。アイリスの異国のナイトがいるー……ってね。でも何だか理想とするナイトとは違ってショックだったけど」
「ってーと?」
「もっとスマートで優しくて、厳かなのかと思ってた。現実は非情ね」
悪かったなスマートでも優しくもなくて。
「でも……貴方もうだうだ言っているけれど、所詮は本物の桃太郎ってわけではないんでしょう? 私と同じように『選ばれた』ってこと?」
「……まあな」
結構な言い草だが、他人の知らないことをいつまでも突付くのも良いことではない。今は桃太郎を知らなかった事は置いておこう。
「俺の場合結構昔のことだけどな。今の君みたいに誰かが助けてくれるわけでもないから、一人で話をエンディングまで持ってった」
「持ってった……って、お供がいるってことは貴方の物語は誰かを倒す物語だったのではなくて?」
「そーよ、鬼と戦った」
「貴方、鬼を倒したの!?」
「……まあ、俺一人じゃなくて仲間達と、ってのが実際だけどな。それに一回負けて死に掛けた」
「……ぶっ飛んでるわね。でも少し納得。それとちょびっとソンケーする」
なんだそれ。
でも懐かしいな。はじめてのストーリードミネーション……わけも分からず、鬼退治をすることになって……仲間を増やして、挑んで負けて……今思えば俺の場合も本来のストーリーとは外れているんだな。まあ、鬼も倒せてないし、俺も死んでいなかったから結末とはならないのはそうなんだが。胡散臭ぇ男に弟子入りして鍛え直した末、勝利を収めたあの時……なつかしいなぁ……師匠は元気にしてるだろうか。あ、お話は完結したんだから、物語世界と一緒に消えてなくなったのか。思い返すと少し悲しいな……
「なにカンショー的になってんのよ、そんなに尊敬されたのが嬉しかった?」
「……馬鹿、そんなんじゃねーよ」
「そう……別にいいけど」
そう言ったアイリスの顔は何処と無く悔しそうだった。
暫く彷徨った末、俺達はひらけた場所に辿り着く。長いテーブルに幾つもの椅子が備えられていた。周りには花が群生しており、なんとも風情のあるお洒落な空間であった。
「あら、此処に戻ってきたのね」
なんだ、と言うようにアイリスは犬から降りると、その椅子の1つを引くと勝手に座りだした。
「ここってもしかして……」
「私が帽子屋と、三月ウサギと、ヤマネと出会った場所。いつのまにか戻ってきていたみたいね」
座るアイリスの姿は椅子のサイズにピッタリだった。俺はその光景に違和感を覚え、周りを見渡す。思った通りだった。
「……身長が大きくなってる」
そう、大きくなる方のキノコを食べていないにも拘らず、身長が30センチ程だったのが60センチぐらいの高さにまで戻っていたのだ。それも俺とアイリス、犬の三者が同様に。
歩いている最中には気が付かなかった事実に少し憂鬱になる。俺達は未だしも、アイリスはあの法廷内で戻り始めてくれれば良かったのになぁ。そうすれば条件を満たしてストーリードミネーションも終わっていたかもしれないのに。
しかしながらそのサイズから更には大きくならない俺達。ここから急いで大きくなる方のキノコを食べて、元のサイズに戻ったとして、ストーリードミネーションを終わらせられる根拠もないし、無駄になりそうな行動は控えておこう。
アイリスに至っては誰もいないテーブルの上に、置かれていた紅茶を勝手に飲んでいる始末だし。彼女の精神状態を察するに急ぐ事もなさそうだ。……しかしよく飲めるな。
彼女から二席程開けて俺も席に座る。ここは三月ウサギの家の側の、お話の中で帽子屋達とお茶会を楽しんでいるシーンの舞台となった場所だ。彼らはさっきまで法廷にいたからまだ帰ってきてないのだろう。
「─────おい、旦那」
行儀悪く勝手にお茶菓子やらにありつくアイリスを、何気なく見ていた俺の背後にいつのまにか立っていた猿が語りかけてきた。それも同じぐらいのサイズ感で。
「よお、お前も結局キノコを食べたのか」
「まあな、少し気になることがあって、気は進まなかったが食ったさ。 ……で〜……なんだい、休憩か何か? そんなに悠長で大丈夫なのか」
「さっき休んでから、なんやかんや一時間近く歩いたからな、休憩でも構わないだろ?」
「そうじゃない」
猿の否定の意図が分からなかった。
「この女をこの世界から救い出す手立ては見つかりそうなのかって聞いてんのさ」
そういうことか。しかし……猿のいう事も尤もなのだが、てんでその理由ってのが分からないんだからしょうがない。普通エンディングに向かえばストーリードミネーションは終結するはずなのだが……
「……ごめん、全然分かってない。予測も出来てない」
「やっぱりな。そんなもんじゃないかと思っていた」
「まさかお前にはあるのか?」
「……まあな。第一よ、桃太郎の物語を知らないって可笑しくねぇか? 俺も旦那と暮らす中で桃太郎が元の世界で広く普及されているのを知った。この国で生きている以上深く知らなくても名前くらいは聞いていても可笑しくないだろ。聞いた時から違和感が拭えねぇ」
「…………」
「察しの悪りぃ旦那に代わって考えた俺の考察と予想を聞いてくれ」
呆れた様子の猿。そう思われてもしょうがない分、反発もできやしない。だがそんな猿をよく思わない存在が一人……
「なんだ猿、主人様に対して見下したような態度は許さないぞ」
俺の座る椅子の側で腰を地面に下ろしていた犬だ。彼女は如何なる時でも俺の味方をしてくれる優しい子なのだが……『今』の様にしなくていい時でさえ、その傾向が出てしまうので少し考えものだった。だってそうしてしまえば、普段から正に犬猿の仲の猿が良くない反応をするのは明白だったからだ。
「おいおい……やめてくれよ犬。俺は今旦那と話しているんだぜ? 話の腰を折らないでくれ」
「折っているつもりはない。お前の態度を改めろって言っているだけだ。無礼者」
「だったらそんなこと旦那のいないところで言え。わざわざ目の前で庇うような姿勢を取るなんて、旦那に好印象を持たれたいが為に良い格好しているだけにしか見えねーぞ」
「……なんだと貴様!」
「お前はいつもそうだ。旦那に助言をするにも口調が悪いだの、言い方に気を付けろだの、旦那に間違いはないだの、テメェはこいつのお母んか。それもダメ親の方の」
あー……始まっちゃった。猿も触発されて本来の目的を忘れて犬に反発し出した。最悪だ。
居心地悪く俺はアイリスを見る。きっとこの光景にドン引きしているはずだ。そう思ったのだが……
ティーカップと焼き菓子を片手ずつに持ち、ニヤニヤとまるで『チェシャー猫』のように嫌らしくも、楽しげに微笑んでいた。凄いメンタルだ。
しかしアイリスが楽しんでいるからと言って彼らの口喧嘩を続けさせるわけにもいかない。
「うるせぇぞお前ら!! 猿、お前言いたいことがあるんならサッサと言え!! 犬、テメェは少し黙ってろ!!」
見かねて叱ると、両者は一瞬ピタリと動きを止めて俺を見た。その後猿はやれやれと頭を振り、犬はあからさまにショボくれた。だがフォローはしない。それじゃ意味がないからな。
「猿、話を続けろ」
「おうさ。まあなんだ、さっきも言ったように少し気になることがあるんだ。一つの予想なんだがな……そこのアイリスとかいう嬢ちゃん、主人公であるその子が何故エンディングから逸れてしまったのか……その予測だ」
まさかコイツが予測を立てるとはと意外に思ったが、実は猿は以前からそういった側面を持つ仲間であった為に納得はできた。普段はダラけており、戦いの時ぐらいしかやる気を出さないガサツな奴だが、ふとした時に有力な情報をよこしたり、一理ある事を口から零したりするのが彼の意外な一面なのを俺は知っていた。
俺はアイリスを一瞥する。彼女も猿の発言に驚いたのか、クッキーを咥えながら俺と視線を交わした後、猿を見つめ直した。
「いったいどんな予測だ?」
「簡単なもんよ。ズバリ『変身願望』ってやつだ」
変身願望─────その言葉を知らないわけじゃなかった。人が何かに憧れて、そうなりたい、近付きたいと思う感情のことだ。けれど「ああ、変身願望か!」と、この現状を打破出来ない理由として持ち上げるには些か俺の思考は追いつかなかった。
「……変身願望がなんでエンディングに辿り着けない理由になる」
「旦那────まだ気が付いてないのかもしれないが、今回のアイリスのケースはアンタが俺達に出会い『桃太郎』としての能力を手に入れた出来事と類似している」
俺は息を飲まずにはいられなかった。猿の言うことが本当ならば、あの日俺の体に起こった事が、この人にも起きようとしているという事だったからだ。
それはつまり────『不思議の国のアイリス』の力が物語を終わらせた後でも現実の元になった人間に宿るという事。
─────あの日、俺がこの桃太郎の力を手放したくはないと心の奥底で強く願い、手にしたあの出来事と同じ事が起きようとしているという事だ。
「……まじ?」
「状況は似ているって話だ。そうと決まったわけじゃあない」
猿はアイリスへと向いた。
「なあ、嬢ちゃん気分はどうだい」
脈絡無き唐突な語りかけに俺は驚きだが、アイリスは動揺する事なく受け応えた。
「悪くないよ。けど、お猿さん随分なご挨拶ね。私を今まで無視しておいて気分はどうだいなんて」
猿は俺を見て「気が強い」と楽しげに言う。知らないよ。
「悪かったな。しかし、それが俺の持ち味でね、人の礼儀も境も猿の俺には知らぬ話よ」
「あらそう。……で何かしら、聞けば変身願望がどうのこうのと言っていたわね。それって私に対して言っているのかしら」
「そうだ」
「ふーん……」
「君には変身願望がある。それ故にその姿を手離せないと深層意識が働き掛け、この世界を留めてしまっている。そんなところかな、この明けないストーリードミネーションの簡単な理由はよ」
猿の言葉にアイリスは紅茶を一口飲み、ほぅ……と少しため息のようなものを吐く。
「残念ね」
「────なに?」
呆れ気味に答えるアイリスに猿の表情は歪まずにはいられなかった。
「残念だけれど、この私に『それ』はないわ」
「何故そう言い切れる」
「自分の事は自分がよく分かるもの。好きなもの嫌いなもの、そして自分の憧れるもの……それは他人の……ま、あなたは人ではないけれど……他者から言われるまで気が付かないわけがないでしょう? 悪い癖なら未だしも、嗜好性や憧れぐらいは自分が一番良く分かる。そうではなくて?」
「……なるほど」
アイリスは猿の反応に、言い負かしたと受け止めたのか、少し嬉しそうに紅茶を口に含んだ。
「なるほどじゃないだろ猿。何納得してんの」
俺はこの状況があまり良くないものとは分かっていたから、猿へとそう抗議する。だが、腕を前で組みながら思案する彼の顔は、まだ納得したような表情にはなってはいなかった。
「─────ではもう一つ聞いてもいいかな」
「どうぞ〜」
「『お前はいつからそこにいた』」
……質問の意味を汲むと俺は怪訝な表情をせずにいられなかった。君はいつからそこにいた?いったい何の事だとそう思った。そしてアイリスを見たとき彼女は俺の気持ちを代弁するかのように「言っている意味が分からないわ」と口では言っていた。けれどその顔は明らかに何か動揺を含んでいた。
「そのままの意味だ。アイリス、いつまで現実世界の人間のフリをしているつもりだ? 君は最初からこの『世界』の登場人物のはずじゃないか? ……皮だけでなく中身でさえ」
そう言われて俺は何となく猿の言う意味が分かった。
皮だけでなく中身も────
その言葉を意味を捉えるに、本来ストーリードミネーションとは物語の登場人物の姿の中に、選ばれた人間の意識が入り、同一存在になり進行するのだが、基本的に意識はその選ばれた人間のモノとなるはずなのだ。しかし猿の予想がもし合っているとしたらここにいる主人公アイリスは『どこかの誰かがアイリスをやらさせれているのではなく、正真正銘のアイリス本人』であるということだった。だがそれは、つまりアイリスの一つの体にアイリスとしての意識と主点として選ばれた人間の意識が同時に存在している事になるはずだ。 ……そんな事があるのだろうか?
今までいくつもの『物語』を完結まで導いてきたが、そんな事例には出会った事はなかった。主役としてのキャラクターの意識は等しく選ばれた人間のものだった。
「───意味の分からない事を言わないで欲しいわ。私は私、それ以外でもそれ以上でもないわ」
当然のように彼女はそれを否定する。猿の推測は唐突過ぎたし、理論的でもなかった。でも……
「そう、それ。その喋り方なんだよなぁ〜」
確信を得たように猿は言う。俺はどういう事だと猿に聞いた。
「旦那、普通の人間がお前がアイリスだろって言われたら、こんな反応はしたとしても、こんな事を言ったりはしないんじゃないか? 訝しみ恐れたとしても『私は私、それ以外でもそれ以上でもないわ』なんて芝居掛かった言い方するか?」
「…………」
確かにそうだ。そんな事はふざけている状態の人間ぐらいでなければあまり言わないかもしれない。でもそれぐらいじゃ理由には弱すぎる。
「────私はこの世界を楽しんでいるの。だからこの世界に相応しい反応や演技をしているに過ぎないと言ったら? こう告白すれば納得してくれるかしら」
「なるほど、興が失せない為……とそう言うか」
「ええ。 ……それにもしも私が本物のアイリスだったとして何か問題があるのかしら、お猿さん?」
たしかにアイリスの言う通りだ。本物だったとして何か問題があるのだろうか。出会った事のなき事象だが、ストーリードミネーションの解除に関わってくるとは思えなかった。
「当然」
「…………」
「お前が『主点』の意識……魂を繋ぎとめているとしたら─────この物語は終わらない。魂は解放されずストーリードミネーションは絶対的なものになる」
俺は息を呑んだ。そして意図すること余裕もなく、その言葉を瞬間的に吐いていた。
「本気で言ってんのか猿!」
「大マジだとも」
ストーリードミネーションの絶対化。それはつまり現実世界には二度と戻らなくなってしまうと言うことだ。
「そんなパターンは今までなかったぞ。猿、どういうことだ」
「今までのストーリードミネーションでそんな事にはならなかったからな、しょうがないさ。それにこの推理だって今し方俺が考えついたものだし。でも信憑性はあると思うぜ」
猿はアイリスを指差した。
「この物語には明確な悪役はいない。それ故に完結させるのも容易であるはずだ。話も終盤まで差し掛かっていた筈なのにも拘らず終わりが見えない。だとしたら……それは主役自体に何か問題がある。そうと考えるのが必然ではねぇか?」
「的外れな妄想ね」
「そうか? 変身願望の線がないとしたら、アイリスとしての魂による一方的な抑圧だと思ったんだがな。それに……お前がさっき言った事を分析するに、旦那がお前同じように『選ばれた人間』であると分かっているはずなのに、現実世界の旦那の生活ぶりやら人間関係、個人情報に至るまで、少しも聞き出してはいなかった。 ……何故だ? 普通の人間なら同じ境遇に至った者にそれらの質問を投げかけても可笑しくはない。現に今までのストーリードミネーションの主点に選ばれた人々は旦那に現実世界で何をしている人物なのかとか聞いたり、逆に普段自分がどういった暮らしをしているかなどを話したりしてきたもんだが……お前に限っては欠片ほども、その露呈がない。 まるで墓穴を掘るのを恐れているかのようだ。 自分の……それも現実世界での生活なんて経験がない事がバレるのに恐れている……そんな感じだ。 ────それにお前はこの世界の登場人物にしては自由過ぎる。その言動も行動も。まるで『不思議の国のアイリス』を客観視しているかのようだ。 先ほど言った身も心もこの世界の人間と言ったのは撤回しよう。お前は現実世界の人間でもなければ、この世界のキャラクターでもない。 ……アイリスを模倣し演じている『何者か』だ」
その時だった。アイリスが苛立ちを表明するかの如くカップを少し強めにソーサーの上へ置いた。響く音が立つ。
「いい加減にしてよね。私を悪者に仕立て上げたいって気持ちは分かったわ。挙句、私を私ではないなどと……勝手な事を決めつけて……けれどそれをいつまでも聞いていられるほど私も堪忍袋が大きい女じゃなくってよ。なんなの貴方、そんなにこの現象を早く終わらせたいからって私を原因にして処理したいと言うの!?」
「別に俺はそれでも構わないんだが」
予想外の肯定だったのかアイリスは息を飲む。
「そんな強硬手段はとれない。うちの旦那が許さないだろうからな」と猿は嫌だ嫌だと頭を振り俺を見た。確かにそれは許容できない。
「だが、確信を持つ事は大事だろ? いつまでもこの世界のままってわけにはいかねーからな」
「じゃあまだこんな不毛な質問劇を続けるつもりかしら貴方は」
「いや、それもあと二つで終わらせよう。俺の中でお前が原因だってのは確定されてるからな」
アイリスは何か言いたげな表情をするがそれを飲み込む。そうして促すように「早く言いなさいよ」と嫌気を催しながらも言う。
「では聞かせてもらおう。アイリスよぉ……」
「何かしら」
「お前の年齢を聞きたい」
「はぁ?」
「お前の年齢……それが大事だ。二つ目の質問にはな」
異常な空気が漂う。助けるべき人間に嫌疑がかけられている。その如何ともし難い空気に猿とアイリス以外の発言は憚られた。交差するアイリスと猿の視線。アイリスの心中は察しがついた。迂闊な返答はできない、そう考えているのだろう。俺は猿を擁護するわけじゃないが、今の彼の考えにどちらかと言えば俺は引っ張られている状態にある。確かに猿の言う事は的を得ている気がするし、納得できる内容だ。それに先程からアイリスの様子は余裕のない雰囲気が溢れてきているし、もう彼女に疑念を懐かずにはいられない状態だった。
まさか本当に彼女が原因なのだろうか……それも能動的に……
「……それは答えなければならない?」
「だから聞いてるんだろうが。バカな事を聞き返すな」
「私の個人情報よ、容易く答えるのも憚られるでしょ」
「年齢だけじゃ大した情報じゃないだろ。早く言えよ。その往生際の悪さ……俺達に対してマイナスにしかならないぜ」
それは猿の言う通りだ。何故年齢如きがすんなり言えないと、怪しさしか増えない。
「……じゅ……十七よ……」
猿の言葉に諦めたように答えるアイリス。意外にも俺と同い年だった。彼女の見た目からすれば10〜13歳程だが、物語のキャラクターとその役に選ばれる人間の年齢は比例するものではない。それはストーリードミネーションの中では特段可笑しな事ではないので異を唱える必要はない。猿の顔を見ると彼が少しだけ微笑しているのに俺は気が付いた。
「十七か。いいね、ジャストだな」
「ど、どういうことよ」
「深い意味は無ぇ。だがその年齢は丁度良い」
「は?」
「俺はこう見えても極めて現代的でね、ウチの旦那が日常生活を送る中でも度々外界の在り方を観察させてもらってんのよ。何の偶然か旦那もお前と同じ十七、学校ではこの人の周りにいる殆どの人間が十七歳だ。だからこそ十七歳にふさわしき質問をしよう。現代において誰でも答えられる簡単な質問だ」
これを口に出せば、ここにいるアイリスの中身が現代人であるか否か、すぐにでも分かる。その確信を得ている顔を猿は晒した。
「な、なによ……何が聞きたいの……」
「お前の持つ『スマホ』の機種だよ」
「……は?」
「スマホ……スマートフォン、持ってるだろ? お前の年齢ならば持っている確率の方が高い。女だったら尚更な。 その機種を教えてくれ、機種が分からないなら契約してる会社の名前でもいい」
なるほどな、考えたな猿。確かにスマホの機種なら極めて現代的個人的、普段の生活をする上で最低限知り得る情報である。それにもし機種が分からなかったとしても契約している会社の名前ぐらいは誰でも答えられるはずだ。
アイリスを見ると、彼女は何を思っているのか、沈黙を守っていた。
「どうした? 答えられないか?」
「……そ、それは……」
「持ってないって話は無しだぜ? 十七歳だろ? 学校行ってようが引きこもってようが、持ってるもんは持ってる。 中学生ならばまだしも、十七歳の女子ならば確実に持ってる。さぁ答えろよ。 ……それが無理なら親や親戚の持っている機種で良いぞ? ほら、答えられる範囲を広めてやったんだ、答えてくれよ。なんだったら機種名は略してくれても良い。製品名を一語一句間違えるな、なんて鬼畜な事は言わないからよ。社会生活の中で呼ばれている一番ポピュラーな機種名で言ってくれていいからさ。ほら! もっと答えやすくなったろ! ほらほら、教えてくれよ。……でも気を付けな。万が一にも何も言えない、もしくはありもしない名前を言ったなら……お前はあの世界の人間じゃないって事で確定だからよ」
彼女の目が伏せる。その顔色は依然として変わりはないが、焦燥や不安が垣間見える。落ち着きなく肩を摩り、何かを探すように目で辺りを見渡したりと、その行動から考えるに、彼女の心中は不安定だ。
俺を含めた三者の視線が彼女を突く。
すぐに答えられない時点でもうほぼ確定的であった。現代人の17歳であれば持っていて可笑しくはないアイテムについての最低限の情報を開示できず、もし持っていなくても、親や身内の所持している物を言えばいいだけなのに、それさえ言えないのだ。その代わりに彼女が示したのは沈黙である。その作ってしまった沈黙という答えが、自ずと彼女への疑惑の確信への裏付けとなっていた。
沈黙を破ったのはティーカップだった。突然の出来事に、視界はスローモーションになる。宙へと舞い上がる紅茶の入ったティーカップ、それが俺の目の前で一回転した。それに続くようにティーカップが置いてあった長いテーブルが跳ね上がる。俺が言うよりも早く、二者の従者達は跳び退きテーブルの上に置いてあった燭台やら食器等からの被害を逃れた。そして俺も例に漏れず。
テーブルは跳び上がった後、体勢を崩し草の地面に転がる。行き場を失った食器達も落ちていく。
距離を取った位置から見た、テーブルを蹴り上げた犯人のアイリスは随分と太々しく見えた。蹴り上げた足を組み、腕も胸の下で組む彼女は、見た目の年齢以上の高圧感を俺に与えていた。
「────だったら何かしら?」
開き直った言葉を吐く彼女。掛ける言葉がすぐには出てこなかった俺はただ睨みつけるしかなかった。