7
シプリアはしばらくしてから再びやってきた。
困ったように眉を寄せている。
陛下への挨拶は明日になりそうとのことだった。
やはり当日いきなりは厳しいのだろう。これから半年間ほど、この催しで執務が滞るだろうから、できるうちにやらねばならないことがたくさんあるのだろう。そうレイラは判断した。
クラリッサは、シプリアに文句は言わないまでも、あからさまにムッとした顔をして見せている。
だが、もう誰も構う者はいない。
レイラも一度窘めたことだし、あとはヘンリエッテも言っていた通り、よほど目に余るでもなければ放っておくことにしたのだ。レイラの仕事はあくまでヘンリエッテの護衛であり、クラリッサがその言動でヘンリエッテに嫌われたとしても、それは関係のない話だ。
シプリアは足りない物の有無を聞き、またすぐ戻っていった。随分と忙しいようだ。
このヒルデガルドは女性の割合が少ないそうなので、女官ひとりあたりの仕事が多く、大変なのだろう。
「むしろ明日でよかったわ」
そうのんびりと言ったのはヘンリエッテで、ヤスミンも頷いている。
クラリッサだけは不満げだったが。
「だって到着したばかりで髪も肌もくたびれているもの。お手入れをして今夜はゆっくり休まなきゃ。そうそう、ドレスも状態のいいようにしておきたいものね。ねえヤスミン、ドレス鞄からちゃんと出しておいてくれたわよね?」
「勿論でございます。大きな皺はありませんでしたが、一晩は吊るして置いた方が次に着る時に綺麗に着こなせますから」
ヤスミンの言葉を聞いて、クラリッサは慌てたように立ち上がった。
おそらくドレスを鞄に仕舞いっぱなしだったのだろう。
レイラも同じだったので、ヘンリエッテに断りを入れて席を立った。
「ねえ、レイラはどんなドレスを持ってきたのかしら? どこで仕立てたの? 見せてちょうだい! 構わないわよね?」
ヘンリエッテはレイラと共に部屋に付いて来る気のようだった。
ヤスミンは申し訳なさそうながらも、顔にはお願いしますと書かれているのがわかり、レイラは心の中で苦笑しながらも承諾した。
ヘンリエッテを招き入れると、キョロキョロと室内を見回した。
「わたくしの部屋とは少し違うわ。こちらの方が少し狭いし調度も異なるのね。わたくしの部屋はドアノッカーが星の形をしていて──あら、レイラはずいぶんと荷物が少ないのではなくて?」
「そうでしょうか? 今回は長期ですし、ドレスや化粧品を持ってきたのでいつもより大荷物ですよ」
「あら大きな鏡。わたくしの部屋は奥にドレッサーがあるのだけれど、その代わりかしら。でもこの鏡だけやけにシンプルな意匠ね。こっちは何? ああなんだ、お酒ね。ねえ、こないだのお菓子はまだある?」
ヘンリエッテは壁際の大きな全身鏡や、レイラの荷物を興味深そうに見ている。あちこちに興味が飛んで気になったものをちょこまかと触る仕草、それがまるでアニエスの2歳になったばかりの娘とダブって見えてレイラは可笑しくなる。
レイラはイグナーツで買ったお菓子の残りをヘンリエッテに握らせた。そうすれば嬉しそうに唇を綻ばせるところまでよく似ていた。
「ヘンリエッテ様、私が持ってきたドレスはこちらです。この2枚は旅立つ前に友人が用意してくれました」
レイラはアニエスがくれたドレスと、自分の持ってきたドレスを広げて見せた。ついでに皺にならないように伸ばした。
「まあ、いいじゃない。友人ってあのクレマンティ侯爵夫人でしょう? あの方はセンスがいいと常々思っていたの。このモスグリーンのドレス、レイラに似合いそうだわ。もう一枚はまるで黒のような深い赤ね、これもいいわ! 素敵ね! 他のドレスは全っ然ダメだけれど、この2枚はいいわ」
ヘンリエッテは実に率直にアニエスからのドレスを褒めた。
モスグリーンのドレスはマーメイドラインで、レイラ的は自分の高身長が目立つので少し気になっていたが、ヘンリエッテは絶賛してくる。深い赤のドレスはシンプルなAラインながらも、やはりその深い色合いが印象的だ。
「いいこと、パーティにはこの2枚のどちらかを着て出席なさい。他のは雑巾にでもしたらいいわ」
ひどい言われようである。
それは確かにアニエスにも言われたことだったので、ヘンリエッテの言うことを聞こうと、その2着だけを吊るした。
レイラがヘンリエッテの言うことを聞いたので、気を良くしたのだろう。ふふんと唇を吊り上げている。
「ねえレイラ、わたくしが普段使っている化粧水を分けてあげるわ。何本も持ってきているから1本くらい平気だもの。とてもお肌にいいのよ。貴方も綺麗にしなきゃ」
まるで鼻歌でも歌うかのように、王女殿下の気まぐれで王族御用達の高級な化粧水を下賜されるのであった。
レイラは後ほど使ってみたのだが、事実、ヘンリエッテが絶賛するだけあり、その化粧水はレイラの砂漠のような肌をモチモチのプルプルに保ってくれるのだった。
その後は再び居間に戻り、ヤスミンの淹れたお茶を楽しんだ。
クラリッサもドレスを吊るし終わって合流し、ヘンリエッテと楽しげにドレスの話で盛り上がっていた。
もうすっかり機嫌もよくなったようだ。
「ヘンリエッテ様は何色のを着ます? 色が被らない方がよろしいですよね!」
「そうねえ……わたくしは水色か黄色にしようかしら。形が気に入っているのは水色の方なのだけれど、黄色の方が華やかだし、まだ迷っているの」
「じゃあわたしはピンクに! 赤もいいですけど少し派手でしょうか」
「レイラはモスグリーンになさいね。あの黒に近い赤のドレスは夜会の方が映えるもの」
「はあ……」
レイラはドレスには詳しくないので、おとなしくヘンリエッテの言うことを聞いておいた方が良さそうだった。
「へえ、レイラ様もドレスを新調したんですのね」
クラリッサが意外なものを見るようにレイラを見るのだった。
女性が数人集まると、スイーツとファッションの会話は途切れることがない。
ヤスミンも加わり、賑やかで姦しくも穏やかな時が流れていった。
コンコン、とノックがされる。
シプリアよりもほんのわずかに力強いノック音をレイラの耳は聞き逃さなかった。
「あら? シプリアかしら。ヤスミン――」
「お待ちください。私が出ます」
ヤスミンが受け答えしようも立ち上がったが、レイラはそれを制した。
勘でしかないが、シプリアではなさそうだったからだ。
ヒルデガルドに来てから、まだシプリアしかレイラ達は知らない。短い間にシプリアは信用できそうだと思ったが、他はまだわからないのだ。
油断はしない方がいい。ここは自国の王宮ではないのだから。
そっと扉を開けるとレイラの目前には大量の木の棒があった。
一瞬だがぎょっと目を見開いた。
「これは……薪?」
首をひねるレイラに目の前の山のような薪が喋りかけてくる。もとい、それは大量の薪を抱えた人物であった。
「ああ、薪をもってきたんだ。すいませんが、前を開けてくれますかね? こいつのせいで上手く前が見えないからぶつかっちまう」
男性の声だった。よくよく見ると黒い髪が大量の薪の上に見える。
かなり長身の人物だった。
「……いや、別に寒くはないのですが」
レイラは首をひねった。事実、ヒルデガルドはちょうどいい気候なのか暑くも寒くもない。
「そりゃ昼間だからだ。夜になると底冷えするんだ。この建物は石造りだから。それで、こいつを運ぶようシプリアに頼まれたんだ。アイツじゃ重たい薪は運べないからな。部屋の奥に暖炉があるだろう? その横まで運んじまうから」
「なるほど。ああ、持たせたままですみません。ここで受け取ります」
「いや、重いぜ?」
「なんてことはありません。鍛えてますから」
レイラはひょいと薪を担いで運ぶと暖炉脇に置いた。嵩張りはするものの持てない程の重さではない。
「へえ、アンタ力持ちだな。腰もしっかり入ってるし……いや失敬。俺はヨアニスだ。シプリアの兄で、ここじゃシプリアにもよくこき使われているんだ」
顔を隠していた大量の薪がなくなると男――ヨアニスの姿が目に入る。
レイラは目を見開いた。
高い身長に、鍛えられた肉体美が服の上からでもはっきりとわかる。
このヒルデガルドの人間は皆、顔立ちがクッキリとしていて整った容貌をしているが、中でもこのヨアニスは男性的でありながらも見目麗しい、大変な美丈夫であった。
黒髪はわずかにウェーブかかかり、肩に落ちている。瞳も同じく黒い。黒曜石のようだ。
肌はシプリアと同じようにわずかに浅黒く、健康的な艶肌をしている。それが男性的な顔立ちに似合い、よりいっそう魅力を高めているかのようだった。
服装は薪を運ぶためか、かなり粗末な下男が着るような服ではあったが、立ち振る舞いにはどことなく気品を感じさせる。
シプリアの立ち振る舞いや言葉遣いは上品で、きちんと教育を受けた上流の貴族なのは間違いないと思っていたが、このヨアニスが兄ということは、彼もまた貴族なのだろうか。
ヘンリエッテやクラリッサ、ヤスミンまでもが口元を押さえ、驚いたようにヨアニスを見つめていた。
「ん? 俺の顔に何かついてるか? 薪で汚れちまったかな」
女性たちに見られていることに気がついたヨアニスは、首をひねり腕で頬を擦る。
レイラは慌てて否定をした。
「い、いえ、ヒルデガルドに来てからまだ男性を間近で見ていなかったので。近くで見ると身長が高いので驚いたのです。我が国は男性も然程大きくないものですから」
顔がいいからです、とはレイラもさすがに言えなかった。
しかしヨアニスはそれで納得したように笑った。
「ああ、そりゃ俺が怖いだろう。ヒルデガルドでも大きい方だからな。その分力だけはあるから、何かあったら呼んでくれ。あ、アンタ……は失礼だったな。名前を伺ってもいいか?」
「レイラ・ショーメットです。ヨアニス殿とお呼びしても?」
「ああ、勿論。レイラ様、薪を運んでいただいて助かりました」
ヨアニスは不意に屈んでレイラの手を取り、手の甲に口付けた。
「なっ……!」
レイラは顔が真っ赤になるのを感じた。髪と変わらない色をしていることだろう。
きゃあ、と楽しげな声を上げたのはヘンリエッテだろうか。
「ん? あれ? 間違えたか? す、すみません、その、変な意味じゃなくて、あ、挨拶でこうする国があると……!」
レイラの反応に驚いたヨアニスは、慌てたようにしどもろどろに言い訳をする。
その慌て具合に本気で間違えたのだとレイラにはわかったが、熱くなっている頬は中々冷めやらない。
「い、いえ気にしないでください。急だったので驚いただけです」
レイラの心臓はバクバクと音をたてている。レイラは必死に息をして心臓をおとなしくさせようと試みたが上手くいかない。
「あーシプリアに怒られるな……いや参った。本当にすいません。それじゃあ俺は戻るんで、薪が必要ならシプリアに言ってくれれば、また俺が運ぶんで」
「ええ、ありがとう」
レイラがテーブルに戻ると、口元を押さえて如何にも可笑しそうなヘンリエッテが言う。
「ねえ、レイラ、素敵な人だったわね。シプリアのお兄様ならもしかすると貴族かしら」
「ええー? 確かに美男子でしたけれど、従僕でしょう? 薪を運ぶだなんて……。服もなんだか汚ならしかったし、家柄はそれほど期待できませんわね。でも、もしかしたら陛下もあんな風な美男子かも……」
まだ見ぬヒルデガルド国王陛下に思いを馳せ、頬を押さえるクラリッサ。
「驚きました。ヒルデガルドの殿方は身長が高いと言うのは本当なのですね。ああ、お茶を淹れ直しましょうか」
反応は三者三様のようだった。
レイラの顔の熱はいつまでも冷めてくれない。熱い頬に手を当て、ため息を吐いた。