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ヒルデガルドの港でレイラ達を待ち受けていた女性がいた。
服装から判断すると、ヒルデガルドの侍女か女官だろう。
「お待ち申し上げておりました。わたくしはシプリアと申します。バルシュミーデ王国からいらした皆様付きの女官でございます。皆様の身の回りのお世話、この国に関することをご説明する役を仰せつかっております。本日から帰国されるまで、どうぞよろしくお願い申し上げます」
女性は実に流麗な仕草で頭を下げた。
言葉遣いも非常に流暢な大陸共通語だった。
ヒルデガルドには固有の言語があるという話ではあったが、最低限このシプリアは大陸共通語が通じるのでレイラは安堵した。
シプリアは艶やかな黒髪をお下げにしている可憐な美女である。目鼻立ちはくっきりとしていて、身長もレイラほどではないがバルシュミーデの平均よりは高いだろう。肌はやや浅黒いが、レイラが話に聞いて思っていたほどは黒くはない。バルシュミーデの基準からすれば日焼けした肌といった程度で、イグナーツとは人種的に近いのか、ほぼ変わらない肌の色をしていた。
なるほど、女性ではあるが、出発前にヤスミンから聞いていた通りだ。
遠目に見える港をゆく平民らしき人々も、同様に身長が高めで整った顔立ちの人間が多い。
ヘンリエッテもクラリッサも頬を紅潮させてキョロキョロとしていた。色々と想像を膨らませて期待しているのだろう。
レイラは異国の地でヘンリエッテの身が危険に晒されないように神経を研ぎ澄ませており、それどころではない。
一方ヤスミンは落ち着いて、シプリアという女官と言葉を交わしていた。
今回滞在する離宮は、ヒルデガルドの港から馬車で2時間ほどの場所にあるそうだ。
馬車と聞いてクラリッサは鼻の頭に皺を寄せる。
一方でヘンリエッテは林檎を取り出して、シプリアに酔い止めの効果について話していた。よほど林檎が気に入ったようだ。
バルシュミーデの王族用の馬車にも負けないほど立派な馬車に乗り込み、レイラ達は離宮に着くまでシプリアからの注意事項を聞いていた。
「今回、バルシュミーデ王国からの皆様につきましては、まず全員を様付けで呼ばせていただきます。国によって敬称が異なるためでございます。また国の大小や国力で順位をつけるようなことはいたしません。どこからいらしたとは関係なく、皆様等しく大切なお客様です。皆様に気持ちよく過ごしていただくため、大変失礼かと存じますがご容赦ください。また今回の催しは最長で半年間ほどございますが、ご希望でしたら早期の帰国も構いません。船の用意がありますからすぐにとは参りませんが、お申し付けくだされば手配いたします。皆様に来ていただいた時点で交易権は保証いたしますので、その点はご安心ください」
早期に帰国しても構わない、その言葉にはヘンリエッテもホッとしたようだ。
その他にも毒などの危険物は預かるとか、他国との間にトラブルが起こらないよう、できるだけシプリアを挟んで欲しいなどの説明があった。
「ねえ、ヒルデガルドに到着したのはわたくし達で何番目なのかしら?」
「ブラウリオ国に続き二番目でございます。お早いご到着で誠に嬉しゅうございます」
ブラウリオはイグナーツのすぐ隣の国なので到着も早かったのだろう。
「あら、なかなかよい順序に付けたと思わない? まだ他の国の方が多くない内にわたくしのことをたくさん知っていただけるかも」
ヘンリエッテはころころと機嫌よく笑っている。
「ねえ、シプリア、ヒルデガルド国王陛下はどんな方かしら? お若いと聞いたけれど、本当? お顔立ちは噂の通り素敵なの? 離宮についたらすぐにお会いできて?」
クラリッサも興味津々のようだ。前のめりになり、王女であるヘンリエッテを押しのけるかのように質問を被せている。
シプリアは困った顔もせず、にこやかに答えている。
しかしヘンリエッテはクラリッサの淑女らしくない食らいつきように、若干不快そうに眉を顰め、見ていただけのレイラもヒヤヒヤとした。
離宮に関しての説明や、ヒルデガルドに関する話を一通りする内に離宮に到着したのだった。
そのおかげかクラリッサも馬車に酔わずに済んだようだ。
離宮の建物は非常に立派だった。
この離宮は何代か前に後宮として使われていた建物を改築したものらしい。
白い石造りの建物で、近づくとその巨大さに驚く。
柱の一本一本が太くて長い。非常に天井が高いのだ。
レイラはぽかんと口を開けて天井を仰ぎ見た。
石をくり抜いた窓は小さく、硝子は入っていない。木窓になっているので夜間は閉めるのだろう。
硝子はなくともバルシュミーデより南方に位置するためか、特に寒いとも感じない。
また、窓は小さいものの室内には魔法石のランプが数多く備え付けてあり、外と変わらないほどに明るく快適だった。
「今はそうでもありませんが、これからどんどん暑い時期になるのです。ヒルデガルドの建物は基本的に暑い時期を快適に過ごすように作られているのですよ」
シプリアはそう教えてくれた。
この離宮は、大きな建物の中にたくさんの小さな建物が入れ子のように入っている、変わった作りをしていた。
まるで建物の中に街があるかのようだ。
一国に対し、その小さい建物が一棟ずつ振り分けられるようになっている。
「この建物をわたくし達が使っていいのね」
「ええ、建物の部屋数から、定員が4人までとなっております。ですからひとつの国で4人までと決めさせていただいているのです。それ以上の人数ですと快適なおもてなしができませんから」
レイラ達が案内された建物は小さいと言っても4人であれば十分すぎるほどだった。
流石にヘンリエッテは王女なので物足りないかもしれないが。
入ってすぐが広々とした居間である。
絹張の豪華で座り心地の良さそうなソファだけでなく、ラタン製のカウチやチェアなど多数の家具が置かれているが狭さを全く感じさせない。
「まあ素敵!」
クラリッサが感動したように声を上げた。それほどに豪奢でありつつ過ごしやすそうに手の入った居間だったからだ。
その奥が食堂となっている。こちらも広く、また居間の暖かな雰囲気と異なり涼しげであった。食堂の横にはキッチンもある。食事は用意するが、ここで自炊しても構わないそうだ。未開封の高級そうな茶葉類も用意されている。
また風呂のような水場も建物毎に用意されている他、離宮内には大浴場や露天風呂なるものもあるそうだ。そちらは希望があれば案内してくれるという。
こんな建物をポンと用意できてしまう財力があるヒルデガルドにはレイラも舌を巻いた。
飢えた狼の群れに最高級肉を投げ入れる、というアニエスの例えが脳裏をかすめる。確かにこれを見たら正妃狙いの狼達は更にやる気が出ることだろう。
客室は4つあり、全員が個室で寝ることができる。
そしてそのひとつひとつの部屋も広々としていて過ごしやすそうだった。
一番大きい右奥の部屋がヘンリエッテ。その手前がヤスミンになった。
そして左側の入口に一番近い部屋がレイラ。万が一に侵入者があった際のことを考えてである。
残る一部屋がクラリッサとなる。レイラとも隣同士だ。
面白いことに、各部屋のドアノッカーが海産物を象っている。海洋国らしい意匠が細かなところにまで現れているようだった。レイラとクラリッサの部屋のノッカーは二枚貝の形で、金色に塗られている。まさか本物の金ではないだろうが、見まごうほどに豪華な部屋だ。
「本日はご到着したばかりでお疲れでございましょう? どうかゆっくりと御休息を……」
「ねえ、ヒルデガルド国王陛下にはいつになったら会わせていただけるの? わたしは陛下に会いにきたんです! せっかく早く来たのだから、他の国の方がいらっしゃる前に会わせていただかないと!」
声をあげたのはクラリッサだ。
その遠慮のない物言いに、ヘンリエッテは例によって不快げであったし、落ち着いたヤスミンまで眉を寄せている。
「クラリッサ、私達も到着したばかりです。陛下も普段の公務の予定がありましょう。急に謁見を望んでも難しいかと」
仕方なくレイラがクラリッサをたしなめるが、またも睨まれる。美少女の睨みなど怖くもなんともなく、しかも慣れてきたので睨まれることにはなんとも思わない。それよりもヘンリエッテがいるのにクラリッサが勝手をするのは、帰国後を考えれば本人のためにもよくない。
「邪魔をなさらないで。わたしはレイラ様のように諦めてなんか――」
「およしなさい! それ以上は口を開かないで」
クラリッサに厳しい一言を与えたのはヘンリエッテだった。
さすがにクラリッサも息を呑んで黙った。
何事かを言われかけていた当のレイラはポカンとして成り行きを見守るしかない。
「クラリッサ、部屋に戻って頭を冷やしなさい。……ごめんなさいね、シプリア。きっと憧れのヒルデガルドに着いたばかりで興奮が冷めやらないのよ。ええ、本当に素敵な国だわ」
論外に出て行けという言葉に、クラリッサは唇を噛んでいる。
しかしながら、王女のヘンリエッテにまで言われてしまってはクラリッサもそれ以上のことは言えずに、無言で自分の客室に戻っていった。
しかしシプリアは申し訳なさそうに眉を下げている。
「申し訳ございません。レイラ様のおっしゃる通り、陛下はこの時間は公務中です。皆様方のご到着はちゃんと報告致しまして、陛下の時間が空き次第、挨拶の場をご用意いたします。ヘンリエッテ様、御気遣い誠にありがとうございます」
「いいえ、わたくしも長旅で疲れたし、少し休みたかっただけよ」
ヘンリエッテはにっこりと微笑む。
「ではわたくしは一旦退出しまして、陛下にご到着をお知らせして参ります。また後ほど参ります」
そう言ってシプリアは退出していった。
「ふう……お茶が飲みたいわ。ヤスミン、淹れてくれる? ねえ、レイラも一緒に飲みましょう」
ヘンリエッテの誘いでレイラ達はそのままお茶を飲むことにした。
レイラも到着したばかりで多少は疲れていた。
「わたくし達は皆同様に参加者となっているし、王城のように堅苦しいのは無しにして、食事やお茶は用事がない時はご一緒しましょう? ヤスミンもお茶を淹れたら座って貴方も飲んでちょうだい」
そう言って自分の横の空いた場所をポンポンと軽く叩いた。
「そりゃあわたくしの身の回りの世話や護衛はしてもらうわ。でも4人しかいないのですもの。ギスギスはしたくないし、バルシュミーデでの関係に縛られ過ぎる必要もないわ。クラリッサのこともあるし」
はあ、とヘンリエッテは気怠げに息を吐く。
お茶を淹れ終わったヤスミンも少し躊躇いつつヘンリエッテの横に座った。
「ええ、クラリッサは少し……気になりますね」
レイラも言葉を濁しながら肯定した。
「クラリッサは……色々と事情がございます。積極的に動くようにと言い含められているのでしょうが」
「そうね、クラリッサが推薦されたのは容姿や家柄だけではなく、あのやる気というか負けん気かしら? でもそれだけではないでしょう、ヤスミン?」
「はい……。クラリッサの実家であるアムルスター伯爵家は近年傾いているという噂がありますから、良い縁談を掴むために必死なのでしょう」
「まあねぇ……レイラにもわかるでしょうけれど、貴族の娘は家にしばられるし良縁を得たくても上限があるわ。家が傾いていれば尚更。だから陛下の心を射止められれば、とクラリッサが奮起するのもわかるのだけれど。もしも射止められたらバルシュミーデの歴史も変わるでしょうね……。この離宮だけでもすごいことだわ」
室内を仰ぎ見るヘンリエッテ。
それにはレイラも頷いた。
たった4人にこれほどの待遇、それを各国分だ。同じような建物が20はあるのだろう。
それを簡単に用意できる国王の正妃だ。その権力がどれほどのものかレイラには見当もつかない。血眼になる令嬢も少なくないだろう。
それだけにレイラには余計に自分が場違いである気がしてならないのだが。
「だからクラリッサが積極的に動くのは構わないし、妨害したりもナシにしましょう。ただし、バルシュミーデの品位が下がるようなことをしなければね。さて、そろそろクラリッサも頭が冷えたでしょう。ヤスミン、呼んできてちょうだい。皆でお茶にしましょう」