5
陸路は予定よりも時間がかかったことを除けば順調に進んだ。
イグナーツから出港するまでは、ヘンリエッテのために多くの護衛や侍女が付いてくる手筈になっており、レイラは出しゃばることもなく、普段の公務の時には目に入ってこない旅の風景をゆっくりと楽しむことができた。
イグナーツはバルシュミーデ王国から南方に位置する海沿いの国である。レイラにとっても始めて訪れる土地で、何を見てもその珍しさに驚く。
イグナーツは南方でバルシュミーデよりは暖かいそうだが、夏から秋には海から大風が吹くそうで、建物は地面にへばりつくように低く、塀で囲まれていることが多い。また海沿いに林があると思ったら、これは風除けの為にわざわざ植えた木なのだという。
バルシュミーデと気候が違うだけで、街並みだけでもこうも異なるのかとレイラは驚いた。
バルシュミーデはイグナーツに比べれば寒冷だが小麦も穫れるし、内陸で海がない代わりに湖と山がある。木の形すらも違うので、飽きもせずに外を眺めていた。
ヒルデガルドも比較的イグナーツに近い気候らしいので、行く前の予習にもなるかもしれない。
レイラは元々体力もあり、公務での出張を何度も経験している。王女のヘンリエッテが我慢できる程度のゆっくりした旅路は何の苦にもならない。
レイラはヘンリエッテとは別々の馬車に乗っていた。
ヘンリエッテはヤスミンや他の馴染みの侍女達と、王族用の大型で乗り心地のいい馬車に乗っている。
だがクラリッサはレイラと同乗だ。
普通の──とはいえレイラが普段使う馬車とは段違いに乗り心地のいい豪奢な馬車である。しかしそのクラリッサは青い顔をして華奢な体を長椅子に投げ出している。
どうも馬車に酔いやすい体質なようだ。
王族の馬車は乗せてもらえなかったからなのか、時折忌々しげにヘンリエッテの馬車の方を睨むように見ている。
「……どうしてレイラ様は平気なのですか」
クラリッサは気怠げながらも、僅かに上体を起こしてレイラに問う。その掠れた声からずいぶんと弱っていることが伺われた。
「騎士をしていると馬や馬車には乗り慣れるものですから。入団当初は、自分で乗りこなす馬はともかく、馬車に酔う者は少なくありません。何度も乗るうちにだんだんと強くなるようです。きっと帰る時にはクラリッサも今よりはマシになっているかと思いますよ」
しかしその答えが気に入らなかったのか、ジロリ、とクラリッサに睨まれた。
何度も乗らなければならないという事実にか、それともヒルデガルドの国王に見初められ、帰国するために馬車に乗る必要などなくなることを望んでいるからかもしれない。しかしレイラからすれば、この旅の同僚にあたるクラリッサをわざわざあやしてやる必要も感じられなかった。
「はあぁ……長旅なんてうんざり……」
もう独り言のようだったので、レイラはそれ以上の返答をせずに、再び窓の外の景色に視線を移した。
挨拶をした時にはヘンリエッテもクラリッサを気に入っているように見えたものだが、酔いやすいクラリッサを自分と一緒に快適な馬車に乗せないということは、どうやら人間関係も一筋縄ではいかないようで、ヒルデガルドでの滞在はかなり前途多難であるとレイラは思った。大体レイラは脳筋なので女性同士の機微は苦手なのだ。
イグナーツの広い湾のある港町に着いた一行は、この町で一泊した後、ヒルデガルドからの迎えの船に4名だけ乗り込むことになる。ヘンリエッテが体力を使わず最短で辿り着けるようにと先触れを出してあったようだ。
ようやく馬車から解放されたクラリッサは清々とした顔をしている。しかし船もまた揺れるものであり、乗り慣れない者は酔うということを知らないのかとレイラは思ったのだが、口には出さないでおいた。
一泊する余裕があったので、レイラはひとりで町の市場まで出かけた。これまでの旅で減った消耗品の補充だ。
大抵の物はヘンリエッテの御付きの者が用意してくれているから、ほぼ嗜好品を買う程度だ。
イグナーツは大陸の共通語がわかる人間が多く、買い物にも思ったほどは苦労せずにすんだ。わからない相手でも買い物する程度であれば、お互いのカタコトとジェスチャーだけでなんとでもなる。
レイラは寝酒用の酒を数本、日持ちしそうな海産物を干したツマミ、それと甘い菓子や茶葉を買った。
最後に新鮮な林檎を一袋。結局買った物で腕いっぱいの荷物になってしまったが、レイラの鍛えた腕ではさほどの重さでもない。
買いたいものを買えた上機嫌で宿に戻るのだった。
次の日になり、ヒルデガルドからの迎えの船にレイラ達は乗船した。
船はレイラの思っていた船よりも随分と大きい。
魔光石を燃料として動くのだそうだ。こんな大きな船を動かせるだなんて、魔光石とはレイラが思っているよりもずっとすごいようだ。
宿屋が一棟丸ごと乗っても余りあるほどの広さで、船内の客室も個人で別れておりプライバシーが保たれるようになっている。さらには船内にレストランまであるのだという。食料や水もいざという時の為に多めに積んでいるというから心強い。
レイラも何度か小さい船に乗ったことはあったが、これだけ大きいならば、それとは違ってさほどは揺れないかもしれない。
船は出発直後は僅かに揺れたが、しばらくすると落ち着いたようでほとんど揺れず、するすると水面を滑るかのようだった。
船が動き始めて小一時間頃、ヘンリエッテも落ち着いたらしく、お茶会をしないかとヤスミンが誘いに来た。
レイラはそれを快く受け、イグナーツの市場で買った茶と菓子、それから林檎を持ってヘンリエッテの客室に向かった。
ヘンリエッテの客室は、さすがにレイラの部屋よりも上等で広い部屋だった。
さすがに窓はないが、魔法石のランプのおかげで昼間のように明るく、船の中にまさか天蓋付きのベッドがあるだなんて、レイラには驚くようなことばかりだった。
「お招きありがとうございます。こちらはイグナーツの市場で買ったのですが、よろしければお味見はいかがですか?」
ヤスミンにお茶とお菓子渡すと、ヘンリエッテは興味深そうに大きな目を更に見開いた。
「まあ……レイラは市場に行ったの? ひとりで? すごいわ……ねえヤスミン、興味があるからそれも出してくれる?」
「かしこまりました」
「それから林檎です」
「林檎? 美味しそうだけれど何故?」
今度は首を傾げてぱちぱちと瞬きをするヘンリエッテ。
最初はその王族らしい無邪気さに扱いにくく感じていたレイラだが、ヘンリエッテは色々な物に興味を持つし、仕草もいちいち愛らしいので、だんだんと見ていて楽しくなってきたのである。
「新鮮な林檎はいい香りがしますよね。乗り物に酔いそうな時には林檎を持って香りを嗅ぐと酔いにくく、スッキリとした気分になるそうですよ。私はヒルデガルドへ向かう船がこんなにも大きく揺れないものだと思わなかったので、ついでに買っておいたのです。もし揺れた時のお守りにどうぞ」
「ええ! そうするわ」
ヘンリエッテは嬉しそうに華奢な両手で林檎をひとつ受け取り、早速香りを楽しんでいる。
「いい香りね。胸が空くようだわ。馬車の時はどうしても気分が悪くなった時は止めてもらえたのだけれど、船はそうもいかないでしょう? 不安に思っていたのよ」
「ヤスミンとクラリッサもどうぞ」
お茶を淹れてくれているヤスミン達にも勧めると、ヤスミンは相好を崩した。
「まあ、わたくし達までよろしいのですか? ありがとうございます」
「あ、わたしは結構ですわ。船は揺れませんもの」
クラリッサは林檎に興味がないようで、あっさりと断られた。
もし悪天候になれば多少は揺れるだろうとレイラは思ったが、何度も勧める方が失礼になるだろうと、それ以上は言わなかった。
事実、夜になってから短時間だが急に天候が変わったようで、レイラも思わず飛び起きるほど揺れたのだが、馬車と違い客室は完全に個室なので、レイラは誰のことも気にせず市場で買っておいた寝酒を口にして再び眠りについたのだった。
そして朝、眠れなかったのか、眼の下には隈が浮き、浮腫んで疲れ果てた顔のクラリッサにはまたも睨まれてしまったが、レイラにはただの逆恨みにしか思えずに受け流した。
一方で、ヘンリエッテとヤスミンは林檎を抱きかかえて眠ったらしい。
思い込みもあるのだろうが、気分が悪くならずにすんだと機嫌よく微笑んでいた。
ヒルデガルドへの船旅は5日ほどだった。
何度かは揺れたものの、この程度ならよくある程度だと顔馴染みになった船員から聞いた。もっと酷いこともざらにあるらしい。季節によっては船が出せないとか、陸地に引き返すこともあるのだそうだ。
5日後、船は無事にヒルデガルドに入港した。