夏のヒルデガルド13
レイラは目を見開き、己の姿を見下ろす。
メリハリのない貧相な水着姿な上にパレオは失くし、体に傷こそないものの、あちこちには土が付き、獣の返り血が点々と飛んでいる。髪だって、飛んだり跳ねたりで乱れているはずだ。
綺麗、美しいという言葉からは遠いレイラであるというのに、ヨアニスの瞳は真剣で、嘘でもお世辞でもないその真っ直ぐな視線がレイラの心を貫いた。
「わ、私が、ですか……」
「ああ……その、俺は上手く褒められないから、変なことを言っているかもしれないが、聞いてほしい。レイラは研ぎすました刃のように輝いているし、引き絞った弓のようにしなやかだ。ヒルデガルド風の慣用句で言えば……多分、戦乙女の如き美しさ、というやつなのだろう。木々の緑や湖面の青に、レイラという炎が鮮やかに映えて……俺は、本当にレイラが美しいと思うんだ」
「あ、ヨアニス……様……あの、私……」
レイラは頬をその赤毛のように真っ赤に染めた。
「着飾ったレイラもとても綺麗だ。前にも言ったが、暁の女神のような美しさだと思う。けれど、俺の目の前にいるレイラが、いつだって一番綺麗で……そんなレイラとこれからもずっと共に生きたいと願っているし、レイラの伴侶として横に並び立てる俺は……本当に幸せ者だよ」
「そんな、私こそ……ヨアニス様が……大好き……で」
レイラの言葉は途切れた。
ヨアニスにそっと抱き寄せられ、ヨアニスのその唇がレイラの唇に押し当てられたからであった。
「……レイラ、愛している」
「わ、私も、です……」
ヨアニスのその言葉がレイラの耳朶を擽り、そのまま心に染み入っていく。
至近距離でヨアニスの黒い瞳と視線がぶつかる。心臓はうるさいほどに音を立て、身体中が熱くなっていく。
「ヨアニス様……」
もう一度、と誘うようにレイラは目を軽く閉じた。
空気が揺れてヨアニスの顔が近付き、吐息がレイラの頬を掠めるのが分かった。
「ヨアニス様……! 何事で……アッ!?」
「ティ、ティティス!?」
しかしそれは無粋な邪魔が入り、ヨアニスは後方に飛び跳ねるように退いた。顔が真っ赤であるが、レイラの顔も負けず劣らず赤く染まっていることだろう。
「た、大変申し訳ありません。なにやら馬が騒いだもので……様子を見に参りましたが、失礼を致しました」
ティティスは汗をダラダラと流しながら慌てて跪き、そのまま顔を伏せた。
ヨアニスはその隙に水着姿のレイラに己の服を被せた。レイラも露出の激しい水着姿であることを思い出し、恥ずかしさに顔を背けた。
「い、いや、大事ない。ツチグマイタチが出たんだ。獣避けが作動していないようだ」
「ツチグマイタチですか!? お、お怪我は……!?」
「俺もレイラも無事だ。だが血の匂いでまた別の獣も来るかもしれん。残念だがこれで引き返すことになりそうだ」
「なんと……大事な時にお側に居れず、申し訳ありません。その辺りで見張って参りますので、その間にお着替えください」
「ああ、頼む」
まだ湖に入ってもいないが、レイラの新しい水着はパレオも無くしてしまい、これでお蔵入りになりそうであった。贈ってくれたシプリアに申し訳ないし、残念ではあるが、2人の身の安全と比べれば仕方のない話だ。
レイラ達は土や返り血を拭い、着替えて出発をした。
この湖付近の獣避けが作動していなかったのは嵐のせいである可能性が高いそうだ。改めて町や村、畑周辺の獣避けがきちんと作動しているか、改めて確認するよう通達を出すようだ。
「お二方がご無事でよかった。特にレイラ様に傷ひとつなく……とはいえ戻りましたら医師を呼びましょう」
「ああ、そうだな」
「いえ、本当にどこも傷付いておりませんが……」
「とんでもない! 念には念を入れませんと、何かあれば私が妻に叱られてしまいます。私の妻は……覚えていらっしゃらないかと思いますが、あの離宮で女官として働いておりまして……レイラ様の大ファンなのですよ」
「……ファン……ですか!?」
「ええ、そうなのです。妻はすっかりレイラ様に夢中でして……だから是非ともご自愛ください。ご無事でしたら妻も喜びます。ああ、妻の最近の趣味はレイラ様のドレスの色当てでして……」
照れ臭そうに微笑むティティスも、普段の寡黙さが信じられないほど饒舌に妻のことを語り出すほどに愛妻家なのであった。
思わずレイラはヨアニスと顔を見合わせ、そしてクスッと笑いあった。
それからしばらくし、ヒルデガルドの長い夏もようやく終わる頃、事の顛末をバルシュミーデのヘンリエッテに手紙をしたためて送っていたのだが、ようやくその返信が届いたのだった。
バルシュミーデでも最新の形の水着はとうの昔に入って流行しているというお叱りの言葉の手紙と共に、布のベルトが入っていた。
絹織物に金糸の刺繍と宝石で飾られた華やかなベルトは、ヒルデガルド風のドレスにも合わせやすい。ヘンリエッテとアニエスの2人からの贈り物であった。
そのベルトには剣を差すホルダーが付いていた。
ホルダー自体が細かな金細工で出来ており、手首にでも飾ればそのままジュエリーとして使えそうな美しさだが、ベルトに通せば剣を差す事が出来るようになっている。
イーラーは剣を差すことにいい顔はしないが、ヨアニスから贈られた黒縞鋼の剣であるし、レイラは帯剣が許されない場所以外では肌身離さず身に付けていたい。
それにレイラにとってもこの剣は、ヨアニスとの仲が縮まった証のように感じて、そっと剣の柄を指でなぞった。
「レイラ様、それがバルシュミーデから贈られたベルトなのですね。細やかで美しい細工ですね!」
シプリアは両手を合わせて可愛らしく微笑みレイラのベルトを褒める。
水着を駄目にしてしまったことに全く気分を害さず、それどころかレイラのことを案じて、怪我ひとつなかったことと、ヨアニスとの仲が進展したことを我が事のように喜んでくれたのだった。
「ええ。友人達からの贈り物なのです。これはまだ試作のような一点物なのだそうですが、上手く量産出来れば輸出もしたいそうで、近々何本か送ってくれるらしいので、シプリア様も1本如何ですか?」
「まあ、わたくしもいいのですか? わたくしは剣は持ちませんから……扇子かペンでも差しましょうかしら……」
うーん、と小首を傾げて、丸みの残る頬に愛らしく指を当てている。
「へえ、いいわね。外に出るのなら小さな日傘を差すのにもいいかもしれないわ」
そこにバーニアも食いつく。
「それ、ちょっとした流行になりそうよ。レイラ様のベルトが素敵って、よく耳にしてるわ。レイラ様、流行を作る側になったのね。王妃になるのだもの、いいことだわ。……このベルト、ブラウリオにも知らせようかしら。あっちでも流行ると思うのよね」
「刺繍をブラウリオ風のデザインにして、宝石でなく真珠や珊瑚というのも素敵ですね」
「螺鈿細工もいいかなと思うのよ」
後の話になるが、この華やかな布のベルトはヒルデガルドだけでなく、大陸中で大流行し、若い女性は細い棒状の物をこぞって腰に差して持ち歩くようになる。
刺繍の模様や糸、ベルトに合わせる宝石の話でその場は盛り上がった。レイラはそういった細やかな部分には付いていけないから、ふむふむと聞いているだけだけではあったが。
シプリア達の華やかなファッションの話は留まるところを知らない。そこにヨアニスが通りかかり、レイラを連れ出してくれて、少しだけホッとして息を吐いた。
「レイラ、今少し時間はあるか?」
「ええ、大丈夫ですが」
「涼しくなったし、馬で遠駆けでもしないか? 少し離れた川沿いにレイラの髪のような鮮やかな花がたくさん咲いているところがあるとティティスに聞いたんだ」
「それは楽しみです!」
レイラは微笑み、そしてヨアニスにバルシュミーデから贈られたベルトを見せた。
「あ、あの……ヨアニス様、これバルシュミーデからなのですが、どうですか?」
「ん、ええと……レイラは今日もとても美しいと思う」
「そ、そっちじゃなくてベルトです!」
そっちも嬉しいけれど、とモゴモゴとレイラは小声で呟く。
「あ、す、すまん! レイラが綺麗だということしか目に入らなかった!」
少しは慣れたものの、それでも互いに真っ赤になる。しかしそこで終わらず、レイラはその手をヨアニスにしっかりと握られた。
「遅いかもしれんが……よく似合っている。それから……剣を肌身離さず持っていてくれて、ありがとう。……さ、さあ、行くか!」
「は、はい!」
ゆっくりかもしれないが、それでも少しずつ確実に、2人の仲は進展している。
レイラも微笑んでヨアニスの暖かな手をしっかりと握り直した。
ヒルデガルドの長く厳しい夏はようやく終わり、涼やかな秋の風が吹き抜けて、レイラの炎のような赤い髪を揺らしていった。




