夏のヒルデガルド11
「レイラ! 危ない、下がれ!」
「へ?」
レイラはヨアニスに言われた意味が一瞬分からなかった。
抱き締められるのかと思ったが、背中に腕を回されることはない。
肩をぐっと強く掴まれ、遠心力で回転させるようにヨアニスの前から押しのけられ、勢いでつんのめるようにたたらを踏む。
「ツチグマイタチだ!」
グルル、と唸る声がして、ようやくヨアニスの言った意味が分かった。
木の枝を伝って、レイラが先程いた場所のすぐ背後にまで獣が忍び寄って来ていたのだ。
いつもであれば、獣の気配くらい感じ取れるのに、ここ最近の平和ボケや獣避けがあるという安心感で気が付かなかったのだ。レイラは悔しさに唇を噛んだ。
中型の犬くらいの大きさだろうか。穴熊と鼬の間の子のような姿をした獣である。バルシュミーデにいるグーラという獣に少し似ている。グーラより少し小さく、毛皮の色は違うが近縁種なのかもしれない。
体はそう大きくはないが爪は長く、凶暴そうに鼻に皺を寄せ牙を剥いている。その牙も鋭い。頭を低くした体勢で毛を逆立て、今にも飛びかかってきそうだった。
「くそ、なんだってこんなところに!」
ヨアニスは吐き捨てて、獣と距離を開けながらレイラを背中に庇いながらジリジリと後退した。レイラは思わず腰に手をやるが、水着姿で帯剣はしていないし、そもそも持ってきてすらいない。
何故こんなところに、そしてよりにもよってこんな時に、と思わずにはいられなかった。
「……レイラ、あの獣は腐肉を漁る。牙や爪に擦りでもしたら、小さな傷でも大変なことになるぞ」
それもまたバルシュミーデのグーラと同じであった。雑食だが腐肉も漁るために、牙や爪には腐敗菌などが付着しており、噛まれた箇所から菌が入って腐ったり、酷ければ破傷風や敗血症で死に至ることさえあるのだという。
そして今は水着であるふたりとも肌が露わになっている。飛びかかられては確実に傷を負うだろう。
レイラはゾッと青ざめた。
こんなことがないように獣避けがされているはずなのに。ヨアニスも言っていたはずだ。もしかすると、この嵐で獣避けになんらかの異常があったのかもしれない。
護衛のティティスもこの場から離れてしまっている。声を上げても届かないだろう。いや、むしろ大声を上げれば、獣を刺激することになり、即座に飛びかかられるかもしれない。
本来安全なはずのこの場が一変してしまった。
いつの間にやら獣は2匹になっている。グーラは単体で動くが、この獣は違うらしい。小さい分動きも俊敏で、背を向けて逃げ出そうとすればたちまちに無防備な背中や首を狙ってくるだろう。
「レイラ、このまま少しずつ後退する」
「は、はい」
ヨアニスは獣を刺激しないためか、獣から目を逸らさずにごく小さな声で言った。その背には相変わらずレイラを庇ったままである。
獣はレイラ達の動きを警戒してか、いつでも飛び掛かれそうな体勢を崩そうとしない。レイラ達が下がった分だけ、ジリジリと前進し、相変わらずの距離を保っていた。
「いいか、もう少し下がったら、俺の着替えのところに持ってきた剣がある。俺がそれを掴んだら、レイラはそのままティティスを呼びに走ってくれ」
「で、ですが……それではヨアニス様が……」
「なに、ティティスが来るまで応戦するだけだ。いや、ティティスが来るまでには終わってるだろうが」
ヨアニスはかつては武官で腕が立つとはいえ、2匹を同時に相手取り、肌が露わな水着姿で傷を負わないように戦うのは難しいだろう。何より、このヒルデガルドの王なのだ。小さな傷でも命とりになるかもしれないのなら、一切のかすり傷すら負わせるわけにはいかない。
「はっ……こんな雑魚に俺が負けるかよ。俺は大丈夫だから、いいな? レイラの足ならすぐだろう?」
ヨアニスは不敵に笑ってみせるが、レイラは笑えそうにない。
ひくりと唇が震える。しかしこのままレイラがいても何の役にも立てないのだ。
さほど大きくもない獣である。走ってティティスを呼びに行く間に、ヨアニスが負けたりはしないだろうが、手傷を全く負わないとは思えない。1匹が飛びかかり、そちらを凌ぐ一瞬でもう1匹に襲われたら、その隙に体のどこかに傷を負うくらいはあるかもしれない。
では、囮にならばなれるだろうか。レイラが大声を上げて、獣の注意を引きつける。そしてその隙にヨアニスが剣を取って攻撃すれば……。しかし獣は2匹。囮のレイラの方に1匹しか来なければ、今度はヨアニスが挟み撃ちにあってしまう。
バルシュミーデのグーラは頭骨が硬く、毛皮も剣を弾くし、その下の脂肪も分厚い。一太刀で落とすには頑丈過ぎるのだ。近縁種であれば同様かもしれない。しかも小柄な分、俊敏であればより厳しくなる。
囮にすらなれないレイラは唇を噛んだ。
また、何も出来ない。ただヨアニスに守られている。かつてヨアニスの剣や盾になると誓ったはずなのに。
それどころか、ヨアニスとの仲も全然進展しておらず、勇気を出して一歩踏み出そうとしたのに、それすらこのように邪魔が入って上手くいかない。
無力感に胸を掻きむしりたくなる衝動にかられる。
「怖がらなくて大丈夫だ。レイラ」
「ちが……」
レイラ達はじわじわと後退し、気が付けばヨアニスの着替えが置かれた岩に近付いていた。
そこにはヨアニスの剣も置かれている。
「あ……わ、私も……」
「いいか、レイラ。走ってくれ!」
「い、や……」
「行け!!」
ヨアニスは己の剣……手に馴染んだ剣を引っ掴んで叫んだ。
腹の底が震えるほどの大声、その気迫に押されてか、獣が一瞬たじろぐ。しかしそれはあくまで一瞬。後退していたヨアニスが突如剣を持って突進するのに合わせ、手前の1匹が飛びかかる。ヨアニスはそれを辛うじて避け、剣を振るうが浅い。毛皮の表面に傷を付けた程度であった。引き絞るような鳴き声を上げ、ヨアニスに向かい毛を逆立てている。
後方のもう1匹も襲いかかるが、こちらは難なく避け、ヨアニスは再度叫んだ。
「レイラ、早く行け!」
レイラは後ろ髪を引かれる思いで駆け出そうとした、その瞬間。
ヨアニスがいる場所の近くの木の枝に、もう1匹潜んでいるのが見えてしまった。
ヨアニスに向かう2匹は陽動であり、2匹を相手取り頭上が疎かになった時に奇襲をかけるのだろう。バルシュミーデのグーラより体躯の小さいその獣は集団で狩りを行う習性なのだ。
「ヨアニス様!! 上に!」
「ッ、くそ!」
枝の上の獣がヨアニスの首に狙いを定めている。
下の2匹の内の1匹は今にも飛びかかろうとし、もう1匹は威嚇をしながら距離を詰めようとしている。
3匹の内、1匹だけならば避けられるだろう。または飛びかかられても、斬り伏せられるだろう。しかし2匹を相手取るには、獣は俊敏で牙も爪も鋭く、なんとかヨアニスがかすりもせずにいられるのは、それだけヨアニスの技量があり反射神経が良いからだ。そして3匹であれば、普通の人間であればひとたまりもない。ヨアニスであっても、手傷を負わないのは難しい。ことに、頭上の1匹からの奇襲を避けるのは。
レイラはザッと音を立てて踵を返し、その勢いで足元の石を拾い、頭上の枝からヨアニスの首をめがけて奇襲をかける獣に向かって投げた。
「当たれ……!」
「レイラ! いいから逃げろ!」
ギャン、と獣は鳴き声を上げ、地面に転がる。なんとか顔に当たったようだ。
しかしやはり硬い頭骨に防がれたのか、致命傷には程遠い。いや、ほとんどダメージにすらなっていないようだ。
転がった獣はすぐに体勢を直し、邪魔に入ったレイラへと向かってくる。
その素早さは、とてつもない。
人間の足であれば追いつけるはずはなかった。
ヨアニスは2匹を相手取り、剣を振るっている。1匹は何度か切られたらしく、地面に血が落ち、ギィギィと耳障りな声で鳴いている。ヨアニスはまだ無傷のようだった。
レイラはヨアニスへの攻撃を少しでも減らすため、獣に向かって叫んだ。
「こっちだ!」




