夏のヒルデガルド10
次の日の早朝にレイラとヨアニスは出発した。
例によってふたりきりではなく、ヨアニスの護衛の武官もいるが、ティティスという名の彼は寡黙で、レイラ達の邪魔にならないようにか、ヨアニス以上のゴツく大柄な体で息を潜めるように存在感を極力薄くして着いて来ている。レイラも王族の護衛をする騎士であったから、そのやり方は良く分かる。
レイラ達は馬に乗り、あちこちを見て回った。
一応査察という政務でもあるせいか、服装は簡素ではあるが、ヨアニスは腰に剣を2本差している。1本は武官時代から使っている手に馴染んだものと、もう1本はあの黒縞鋼の剣である。レイラは思わず眉の間に皺が生じそうになり、ヨアニスの腰に視線をやらないようにした。
数日前の嵐の爪痕はあちこちに残っている。木々が倒れたり、土砂が崩れている箇所もあった。
「だがまあ、これくらいならあの規模の嵐にしちゃ、大したことはない方だ」
ヨアニスは、畑仕事へ向かう民がこちらへ気がついて、手を振ってくるのに手を振り返しながらそう言う。
「表情もそれほど暗くない。畑への被害は大きくなかったらしいな」
「それは良かった……川はまだ濁りがありますね」
「山の方でだいぶ雨が降ったからだろう。水の量も多いが、橋が流れたような報告はなかったはずだ」
レイラは政務のついでではあるが、思い切り馬を走らせるのも久しぶりで、暑くとも少し気分が良くなった。
暑さが本格的になる昼前には湖に着くことが出来た。戻るのは夕方、多少涼しくなってから、また別のルートで遠回りして嵐の損害を確かめながらとなるそうだ。それまではヨアニスとゆっくり湖で涼みながら過ごせることにレイラは喜んだ。
「それでは私はここで待機しておりますので、ごゆっくりお過ごしください」
ティティスは湖がある森の入り口でそう言って、馬を繋ごうとしている。
木陰ではあるが馬も暑いのか、しきりに土を掻いている。どことなく嫌がる素ぶりであるが、ティティスは暑くないのだろうか。
だが以前にレイラが誘った際に固辞され、馬に水や餌をやって休ませたり見張りする意味もあると言われてしまえばそれ以上は誘えない。ティティスの方もレイラ達の邪魔になりたくはないのだろう。
湖は嵐の後の濁りはもう落ち着いたようだった。いつになく緑の葉が落ちて湖に浮いているがそれくらいである。
「良かった。湖も澄んでいますね」
「そうだな。もっと濁りが残っているかもしれないと思ったが」
「川は濁っていましたからね……しかし濁っていない水場を求めて獣が来たりはないのでしょうか」
「一応はこの湖を保持する結界や、獣避けはしてあるはずだ」
「ああ、そうだったのですね」
言われて見ればこの湖に来たのはもう3回目であるが、小動物の類すら一度も見かけたことはなかったのを思い出す。てっきり人の手が頻繁に入る森の端にあるせいなのかと思っていた。
王やその関係者が涼みに来るための場所である。シプリアも子供の頃からよく来ていると聞いたことがあるので、子供でも安全に遊べるようにしてあるのだろう。
レイラ達は大きな木の陰で軽く食事をして休憩した。
しかしその会話はまたしても剣についてで、男女の会話からは程遠い。
「少し試し切りをしたが、藁束が笑えるほどよく切れたんだ。ただ手入れは難しいらしい。専用の砥石が無いといかんそうで」
「砥石まで専用のものがあるのですか。そういえば私が使っている砥石も新しいものに替えたいのですが……あ、でもこの国で女性は帯剣しないのですよね」
「ああ、武官は男しかなれないからな。しかしバルシュミーデでも帯剣するのは女性の騎士だけではないか?」
「そうですね。だから、今後は私の剣も使わなくなるのであれば、手入れもそう頻繁ではなくなります。そうなるとすぐに新しい砥石にする必要もなくて」
レイラも今日は帯剣していない。そもそもヒルデガルドの女性の衣装には剣を下げるための部分がないのだ。適当に括り付けようとすればイーラーに大目玉を食らう。ヒルデガルドはバルシュミーデよりも豊かなのにずっと平和で、護衛のティティスもいるからレイラが武装する必要はないとイーラーからも言われてしまっている。レイラも服の下に隠せる小さな折りたたみのナイフくらいしか持ってきていない。日帰りだし、大丈夫だろうが。
ヒルデガルドが島国で海に結界もあるために外部からは他国の人間が入って来ない。そして国全体が裕福なので金銭目的の犯罪もそう多くはない。嵐で被害が出ても、ある程度は国で面倒を見てくれるということもある。だからか治安はよく、レイラはヒルデガルドに滞在して少しばかり平和ボケしそうであった。
ことにこんな綺麗な湖に、木漏れ日の美しい木陰と心地よい涼やかな風、そして隣には好きな人がいる今は、レイラの騎士としての部分はすっかりなりを潜めてしまっていた。
「腹ごなしに少し泳ぎましょうか」
レイラの提案に、ヨアニスは破顔する。
「ああ、そうだな。そういえばレイラはシプリアよりも早く泳いだそうじゃないか」
「ええ、とはいえほんの少しの差ですが。シプリアは泳ぎが巧みなのですね。私は運動神経だけが取り柄なので……」
「シプリアは子供の頃から泳ぎが上手くて、12.3歳までは俺より早かったか……さすがに体格差が出てからは負けはしないが。あのツェノンは大体なんでも上手にこなすし、泳げないわけじゃあないんだが、泳ぐより木陰で本を読む方がいいと言っていた。本当はシプリアに負けてしまうのが恥ずかしかったんだろうなぁ」
「ああ、確か黒スナメリと……」
「あれは俺が言い始めたんだ。女への褒め言葉は大体駄目だと言われる俺だが、シプリアもあれだけは気に入っていたな」
そんな昔話を聞いて、レイラは微笑ましい気持ちになるのだった。
レイラは木の枝に布をかけて、簡易天幕のようにしてその中で水着に着替えた。以前のホソウリのような水着ではなく、シプリアが選んでくれた最新の水着である。
露わな腹部が頼りなく、心臓がバクバクと音を立てているのを感じる。しかし、今日こそヨアニスに綺麗だと言わせてみせる、そんな決意で緊張を振り払う。
大きく息を吸って、ない胸を張れば、かつての夜会のように勇気が湧いてくる気がした。
少なくともレイラは一度ヨアニスに選ばれ、綺麗だと言われたこともあるのだ。大きく拒否はされないだろう。
こうしてレイラが一歩踏み出せば、坂を転がるように停滞していた関係が動き出すかもしれない。
レイラはもう一度大きく息を吸って吐いてから、そっと天幕を出た。
ヨアニスも岩陰で男性用の水着に着替えたらしい。レイラが精神統一をしている間にさっさと着替え終わり、しかしレイラの着替える天幕を直視するのも恥ずかしいらしく、天幕に背を向けて待っている。
「よ、ヨアニス様……」
声が裏返りそうになるレイラの呼びかけにヨアニスは振り返った。
そして、ボンッと音を立ててレイラの髪よりも赤いのではというくらい、顔を朱に染めた。
目も皿のように見開いている。
震える指先でレイラの水着を指差した。
「ま、前と違う……」
「え、ええ。シプリア様に選んでもらったのです。最近はこのような形の水着が主流らしく……あの、どうですか」
シプリアの読み通りなのか、ヨアニスはカチコチに固まってしまい、視線を逸らさずレイラを凝視している。
「あ、ええと、あ……あか……赤い、あか」
ぶつぶつと赤いと口の中で繰り返すのは、ヒルデガルド風の褒め言葉を出したいせいで、頭の中で赤い物を連想して探しているのかもしれない。
「に、似合っている、とか、き、き、綺麗、とか……そういうのが聞きたいのです……!」
レイラは一歩ヨアニスに近付いた。すると怖気付いたかのように一歩下がるので、レイラはヨアニスが逃げ出す前に早足で詰め寄った。
案の定、ヒルデガルド風に褒めなければというように混乱の最中にあるらしいヨアニスは逃げ遅れ、レイラの水着姿を真正面の至近距離で見ることになる。
レイラは少し首を傾げ、肩を僅かに竦めてヨアニスを見上げた。
「ヨアニス様、逃げないでください……! 私だって恥ずかしいです……でも、どうしてもヨアニス様に見せたくて!」
レイラの必死な声が届いたのか、ヨアニスは動きを止めた。腕をぎこちなく動かして頭を掻く。これはヨアニスが自分を落ち着かせる時の癖なのをレイラは知っていた。
「そ、そうだな……すまなかった。その……緊張して……」
「わ、私もです……」
ようやくレイラは少しだけ笑えた。いい年をした男女で、このまま結婚もするであろうふたりだというのに、こんなにもぎこちない。せめて一歩でも進まなくては。
「恥ずかしい、逃げてしまいたい、それは、私も分かります。私は自分に自信がありません。こうして立っているだけで、心臓がうるさいほどで、顔も暑いし、言葉も上手く出ないです。でも……私はヨアニス様が好きだから……貴方に、綺麗だって言ってほしくて」
「レイラ……」
「私は、ヒルデガルド風の褒め言葉はよく分かりません。以前、ホソウリのようと言ってくださった時、ヨアニス様が私を悪く言うはずないと分かっていても、なんだかモヤモヤしてしまって。多分、バルシュミーデでロウソク女と陰で呼ばれていたのを思い出してしまったんです。それに、ヨアニス様もヒルデガルド風の褒め言葉が得意でないようだから……ふたりの間では、そういうのも無しにしませんか? 私……もっと直接的な言葉が欲しいんです。我儘だと思われるかもしれないけど……」
「すまない……俺が駄目なせいで……。レイラは我儘なんかじゃない。俺が不甲斐ないからだ……レイラ」
ヨアニスがレイラの両肩を強く掴む。レイラの心臓がドクンと激しく跳ねた。




