夏のヒルデガルド9
「では、ヨアニスをぎゃふんと言わせましょう! 逃げられないようにふたりきりで、そしてその状態で正直に気持ちを話すのです」
シプリアはガバッと赤い顔を上げて力説した。今まさにレイラがそれをシプリアにされている気がする、と困惑したが黙っていた。
シプリアはまだ酔っているらしく、子供のように足をパタパタとさせてヨアニスへの愚痴をこぼしている。時折早口のヒルデガルド語が混じり、ヒルデガルド語に堪能ではないレイラには理解できなくなる。ゆっくり分かりやすく喋ってもらってようやく少し聞き取れるくらいになってきた程度で、会話の実戦で使うにはまだまだのようだった。
「やはり、水着でしょう! ヨアニスは唐変木ですもの、きっとレイラ様の美しい水着姿に固まってしまうはず。そこを滅多打ちです!」
「べ、別にヨアニス様を物理的に叩きのめすつもりはないのですが……」
シプリアはやはりヨアニスへの当たりが厳しい。
「いいえ! ヨアニスは本当に鈍感なんですもの、何発か叩いたところで問題はありません! むしろ叩いた方が良いかもしれません! 壊れかけの魔道具のように!」
シプリアはおそらく剣などろくに握ったこともないであろう柔らかい手のひらで、テーブルをペチペチと叩いている。あの手では物理的に叩いたところでヨアニスには撫でられたようなものだろう。
「それとも……レイラ様はわたくしが用意したものなど迷惑ですか……?」
怒ったり泣きそうになったりと酔っ払いのシプリアは忙しい。
「め、迷惑ではありませんから……とりあえず、水を飲みましょう。ね?」
「いーやーでーすー。それとも水を飲めばわたくしの水着を着てくれますか?」
「ああもう……分かりましたから、水を飲んで……」
シプリアはレイラの言葉を遮り、グラスの水をまた一気にあおった。
「ふふ、言質とりまし……」
ぱたり、と全てを言い切る前にテーブルに突っ伏した。
「シプリア様!?」
シプリアは静かに寝息を立てている。寝ているだけのようだ。
しかし恐ろしい言葉が聞こえた気がする。
しかしレイラは酔っ払いの戯言の類であってほしいと、シプリアが起きた時には忘れている方へと賭けて、自分のグラスに酒を注いで飲み干した。
当然ながら、シプリアは忘れてはいなかった。
あれよあれよという間に、レイラの元へ水着が届いたのだった。
そもそも、シプリア自身は去年の水着だったのにレイラにだけ新しい水着を用意しているはずがない。
それにシプリアはあのツェノンの妻であるし、仕組まれていた可能性も非常に高い。レイラとしてはシプリアの酔いっぷりが演技だったらと考えるのが恐ろしく、それ以上の追求はしないことにした。
しかしながら着ると言ってしまった以上、反故にするとシプリアがまた酔っ払ってくだを巻くかもしれない。レイラは溜息を吐きながら、着ることを了承したのだった。ツェノンからもヨアニスに一日中休ませる日を設けると連絡が来ている。まだまだ暑い日も続くこともあり、ヨアニスと湖に涼みに行くことは吝かでもない。ヨアニスには新しい水着のことは内緒である。ホソウリと言われた緑の水着を着てくると思っているだろうし、どうせなら驚かせたい。
シプリアから贈られた水着は、オレンジがかった赤色で、レイラの髪色にも近い。
ほぼ下着のようなバーニア達が着ていた水着よりは露出具合も少しは控えめで、ホルターネックで胸元はしっかりと覆われており、レイラの貧相な胸元が隠されることに安堵をした。セパレートになっており腹は出てしまうが、下半身には水着の上に巻くスカート状のパレオという布が付き、ウエストから下、太ももまで隠されている。泳ぐ時には外した方が泳ぎやすそうではあるが。
どうやらこれなら着てもいいかとレイラが思えるギリギリのラインを狙っているらしい。
レイラはやると決めたらそれなりには貫き通すタイプである。そのために、水着を着てヨアニスに正直な気持ちを伝えようと、決心をし覚悟を決めた。
しかし、物事にはタイミングというものがあるようで、それまでの晴れ続きが嘘のように空は分厚い雲に遮られ、湿った風が強く吹き抜けた。
「嵐になりそうですね。2.3日は風と雨がひどいでしょう。気温は晴れている時よりは多少はましですが、湿気がひどいので涼しくは感じないでしょうね」
イーラーの言う通り、雨が降り出すとすぐに嵐の様相になった。窓も木戸もキッチリと閉められ閂も降ろされる。そうすれば雨の音と、風が木戸を揺らす音ばかりであった。
窓を閉めて風が入って来ないこともあり、暑さが部屋に篭る。室内は魔法石の照明器具で明るいが、湿度のせいか体が重苦しい。
そんな時、レイラを心配してかヨアニスが様子を見にやって来た。
「レイラ、ひどい嵐だが大丈夫か?」
「ヨアニス様……このような嵐が数日も続くのですね」
「ああ。また湖に行こうと言っていたが、数日は無理だろう。湿度と気圧で慣れないと体調を崩すこともあるから、様子がおかしいと感じたらすぐにイーラーに言ってくれ。もし頭痛があるのなら、耳朶を軽く揉むといいらしい」
こんな感じで、とヨアニスが手を伸ばしてレイラの耳朶に触れる。ヨアニスの真剣な顔がレイラの顔に近付いていた。
あと少しで唇が触れそうなほどの至近距離でヨアニスの男らしい整った顔を見て、さらに耳朶にヨアニスの手の温度を感じたレイラは顔を真っ赤に染めた。
「っと! す、すまない!」
「い、いえ……! あの、ありがとうございます……」
ヨアニスは思わずといった様子で、両手を万歳のように上げている。そこで口付けなど以ての外であるのがヨアニスであり、レイラなのである。
外の嵐が聞こえなくなりそうなほどに、心臓がバクバクと激しい音を立てていた。レイラは平常心を保つために、慌てて話を変えた。
「よ、ヨアニス様はこのような天候でも政務なのですか?」
「まあな……書類仕事であればどんな天候でも変わらないし、やることはいくらでもある。ましてやこの嵐で畑や河川も荒れるかもしれん。被害の出る前に打てる手は打っておかないといけないんだ。それに今のうちにじゃんじゃん仕事を片付けておけば、レイラと湖に行った時にゆっくり出来るだろう? ……俺も楽しみにしているんだ」
「ええ、私も楽しみです!」
レイラは湖へ行くことをヨアニスも楽しみにしていることが分かり、嬉しさに顔を綻ばせた。
激しい嵐は3日ほど続き、ようやく過ぎ去るとまたあのひどい暑さが戻ってくるのだった。しかし晴れ晴れとした青空や日差しは湖で遊べば気持ち良さそうなほどである。
「イーラー、晴れたし、もう湖に……」
「残念ですが雨水で濁っているでしょうからまだ数日は無理ですね。嵐で田畑や河川に影響もあったでしょうし、どちらにせよヨアニス様はお忙しいでしょう。レイラ様、もう少し辛抱なさいませ」
「……はい」
レイラは自分がかなり短気であるのを自覚している。それだけに、ヨアニスに新しい水着を見せ、心の内を正直に明かそうと覚悟を決めたのにそれが実行出来ないことは大きなストレスでもあった。
ストレスの解消法でもある運動は、ここのところの嵐や暑さで思うように出来ず、酒もまた、こないだのようなことになるのを恐れて控えているために、レイラはひたすら悶々として我慢をし続けた。ヨアニスはそんなレイラの元へどれほど忙しくとも日参して顔を見せてくれるのだが、その腰にはあの黒縞鋼の剣が差してあるのを見て、こっそり眉根を寄せた。
そしてレイラを焦らしに焦らし、パンク寸前となった時、ヨアニスがやってきた。
「レイラ、待たせたな。湖に行く目処が立ちそうだ!」
「いいのですか!? ですが政務がまだお忙しいのでは」
「ようやく片付いてきて、ツェノンも行ってこいと言ってくれたんだ。それに、こないだの嵐で出た損害を自分の目でも確認しておきたい。報告だけではどうしても実際に民がいて生活を送っているということが段々と麻痺しちまう。そんなわけで、少し遠回りになるがいいか?」
「ええ、勿論です!」
「よかった。暑いが馬で駆け回るぞ!」
「はい!」




