夏のヒルデガルド8
私とその剣、どちらが大事なのですか?
レイラは思わず口から出そうだった言葉をぐっと飲み込んだ。
言わずに我慢出来たのは、この手の言葉はただ相手を困らせるだけであると、アニエスからも聞いていたからだ。既婚者の言葉は重みが違う。
それでも思わずその言葉が口から零れそうだった程度には胸のモヤモヤが止められなかった。
レイラだってお気に入りの武器があるし、バルシュミーデで騎士をになったばかりの頃に背伸びして購入した少しばかり値の張る小剣は今でも宝物で、使わなくなった今でも手入れは欠かさない。だというのに、欲しい言葉を自分ではない物へ向けられているだけでこうなのだ。レイラは短気で短慮であると自覚はしていたが、これほどまでに心が狭い方だっただろうか。
それらを外に出さないように、レイラは必死に笑顔を崩さず、ヨアニスの惚気にも似た剣への賛辞に頷くことしか出来なかった。
「武官だった頃ならいざ知らず、今となってはもう使い道はないかもしれないが……それでも手に出来て良かった。宝の持ち腐れかもしれないが、この美しい刃渡りを血脂で汚さないのはむしろいいのかもしれん。この柄もいい。手に握ると実にしっくり来るんだ」
「……そ、そうですか……」
「後で藁束で試し切りはするつもりだが、よければレイラも来ないか?」
「ええと……いえ、シプリア様に用事があるので……」
「そうだったのか。時間を取らせてすまなかった」
ヨアニスはひとしきり剣を褒め称えた後、レイラの心も知らずに仕事へと戻って行った。
思わずシプリアに用事があると嘘を吐いたのも、嫉妬やら何やらの複雑な感情ゆえだった。
だがヨアニスに無意味な嘘を吐いてしまった罪悪感でかえって自己嫌悪に陥る。溜息がひっきりなしに肺から絞り出された。
「はあ……久しぶりに落ち込む……」
ずん、と重い石が頭に乗っているかのような気分の落ち込みに、レイラは思わず酒瓶を取り出した。
バルシュミーデへと帰国したヘンリエッテが送ってくれた酒である。
材料が違うからか、製法が異なるのか、香りも味もヒルデガルドの酒とは全く違う。甘いハーブの香りを付けてはあるが辛口で度数の強いこの酒は、良くアニエスと酒盛りをしながら愚痴を言い合ったあの頃を思い出す。バルシュミーデらしい意匠のラベルを指でそっとなぞり、それから封を切った。
後々王妃になる予定のレイラにとって、いくら自由時間とはいえ昼間から酒を嗜むような自堕落な生活などあり得ないと、仕舞い込んでいたものだった。いずれはイケる口であるらしいバーニア達と飲む機会もあろうとは思っていたが、まさかこんな形で自棄酒に使うなど、送ってくれたヘンリエッテも想定していないだろう。
グラスに注いだ酒を傾ければ、水より粘度の高い琥珀色の液体がとぷりと揺れた。ハーブの懐かしい甘い香りに誘われるように一気に煽れば胃の腑がカッと熱くなる。
今のレイラは酒に逃げてしまっている完全な駄目人間である。それでも今ばかりはその手を止める事も出来ず、間髪入れずに手酌で注いだ2杯目を飲み干した。
はあ、と思わず息が漏れる。
「あの……レイラ様。ヨアニス様から何かご用事があると伺ったのですが……あっ」
「あっ……あの、シプリア様、これは」
何というタイミングであろうか、先程のレイラの嘘が巡り巡って当のシプリアに伝わってしまったらしい。
シプリアも、普段であればノックを欠かさないはずだというのにたまたまノックをし忘れたらしい。それともレイラが酒に逃げていたせいで聞き逃したのかもしれないが。ともあれ戸口で驚いたように口を押さえるシプリアの姿は酒による幻覚ではないのは確かである。
レイラは悪戯がバレた子供のように焦り、額にドッと汗をかきながら弛んだ生活態度について言い訳をしようとアルコール2杯分で少々鈍った頭を回転させ始めたのだった。
どうしてこうなった。
テーブルの向かい側に腰掛け、突っ伏すようにしながらもグラスを離さないシプリアの姿にレイラはそう思わずにはいられなかった。
シプリアは少し丸みの残る可憐な頬を赤く染め、目を潤ませている。
「本当に……ヨアニスが……申し訳ありません。いえ……わたくしが至らないばかりに」
「そんなことはありませんから、シプリア様」
「いいえ……いいえ……わたくしには分からないのです」
シプリアはどうやら泣き上戸であったらしい。大きな瞳からは今にも涙が零れてしまいそうで、レイラはドギマギとした。泣かせてしまっては、後でツェノンが恐ろしいことになりそうだ。
シプリアに昼間からこっそりと酒を飲んでいるのを見つかった時はどうなることかと思ったが、まさかシプリアが「ご相伴にあずかりますね」とこの度数の高い酒を飲み干すとは思ってもみなかった。普段の会食時に出される酒には礼儀として杯に口は付けても飲んでいる風ではなかったからだ。
しかしやはりあまり飲み慣れてはいないのか、一杯で頬が紅潮しくったりと力が抜けてしまっている。しかも、今にも泣き出しそうでレイラはむしろ酒が覚めてしまいそうなほどだった。
「今までずっと、良かれと思いレイラ様にもわたくしの価値観をただ押し付けていただけで……着飾りたがらないのも、ただ恥ずかしいだけだと思っておりました。きっかけさえあれば、きっと喜ぶと思って……わたくしは……」
レイラは宥めすかしてなんとかシプリアに水を飲ませようとしているが、酔っ払った人間には合理的な行動は難しい。
いやいや、と首を振るばかりで更に酒を飲もうとする。レイラは慌ててシプリアが抱きかかえる瓶を取り上げた。幸いシプリアは空のグラスを握りしめて愚痴モードに入り、酒のないことは頭から抜けてしまったようだ。シプリアの空のグラスには水を注いだはいいが、今度は愚痴モードのまま手にグラスを握っていることすら忘れてしまっていそうで、口を付けもしない。
なんとか水を飲ませて自室に送り返して休ませたいところである。レイラも酒を飲んではアニエスに愚痴を言い、散々絡むこともしばしばであったが、はたから見ればこれほど扱いにくいのか、と自分の時のことを思い、苦笑してしまうほどである。
シプリアの愚痴はどれも小さなものではあるが、やはり王妃というのはシプリアほど優秀であってもままならず、ストレスの溜まることも多いようだった。そこにレイラやヨアニスの問題もあるのだから、レイラもおとなしく愚痴のひとつやふたつは聞くべきなのかもしれない。
「実は……わたくし……レイラ様の水着を用意していたのです……けれどあれほど嫌がられてしまうだなんて……」
「そ、そんなことはないですから……」
「いいえ……わたくし……なんてひどいことを今まで……ひっく……」
「ああ、泣かないでください。ほら水を飲みましょう?」
「でもわたくしが……」
堂々巡りである。
先日にシプリア達の勧める、新しい形の水着を断ったことを怒っているわけではないようだが、レイラが強く拒否したせいで今までシプリアがドレスを選ぶサポートをしてくれていたのも、余計なお世話だったのかもしれないと思い込んでしまっているようだ。
シプリアはとても美しく、優秀でそして女性らしい人だ。だから、レイラの気持ちは分からないのだろう。
レイラだって本当は着飾ることが嫌いなわけではない。ただ、自信がないだけなのだ。ヨアニスから選ばれ、このヒルデガルドで何度も褒められ、それでもまだ自分への自信はない。バルシュミーデで周囲の異性同性問わず、それどころか実の両親からも容姿を褒められたことのない、そんな扱いを長く受けてきたせいだろう。こればかりはすぐにどうなるものでもない。
そしてヨアニスもまた武骨であまりレイラの容姿を褒めたりもしない。ホソウリのようと言われたのも、あれはヨアニスなりの精一杯の褒め言葉であるのは分かっている。それでもレイラが本当に欲しいのは、ヨアニスからの綺麗という単純な言葉だけなのだ。
「私も……本当はヨアニス様に……」
思わずそんな本音が零れてしまったのは、酔っ払い相手のせいかもしれないし、レイラもまた覚めたつもりでアルコールが回っているからなのかもしれない。




