夏のヒルデガルド6
気がつけば、乗せられてしまっていた。
レイラは運動神経にだけは自信があるし、湖で泳いだ経験もある。しかし古い水着を引っ張り出す程度に、レイラにとって泳ぐことは日常ではない。前回ヨアニスと湖で泳ぎ、多少は感覚は思い出しているが、勝負となればどうだろうか。
しかし、やると言った以上は引っ込めることは出来ない。
「ねえ、ケイト! ちょっと頼まれてくれるかしら?」
「はぁい、なんですかぁ?」
バーニアが目の良いケイトに頼み、誰が一番に岩に手が付いたかを、見ていてもらうようだった。
ケイトへの話も付き、タチアナも水から上がり、こちらをキョトンとしたように見ている。聞こえないが、ロティが何事かを話しかけている。レイラ達が水泳の競争をするのだと説明しているのかもしれない。
レイラ達はまず水に入る前に軽く体を動かした。シプリアも体を伸ばしながら、簡単に説明を始めた。
「手前は浅いので、飛び込みはやめましょう。ぶつからないよう3箇所に分かれて、セレステ様が合図をしてくれるとのことですから、その合図が見え次第スタートし、あの岩に最初に手が付いた者の勝ちとします。勝利者の権利は先程申した通り。よろしいですか、レイラ様、バーニア様」
「ええ、私は構いません」
「私もよ。ああ、でも私が勝ったらレイラ様に新しい水着を着てもらうだけではなくて、シプリア様の髪の毛も弄りたいわね。ブラウリオ風にしてもいいかしら?」
「まあ、それではむしろ、負けてみたくなって困ってしまいます」
シプリアは口に手を当てて可笑しそうにしている。しかし負ける気は無いらしい。
それは彼女の真剣な瞳から読み取ることが出来るが、レイラには何故そこまでレイラに肌を露出する水着を着せたいのか、理解は出来なかった。
レイラが水に足を入れる。気温が高いから水の表面は温められているものの、あくまでそれは表層だけで、下の層はかなり冷たい。
遊ぶだけであれば心地よい冷たさだが、泳ぐにはどうだろうか。冷たい水は体の動きを鈍くする。
「それじゃ、そろそろ準備はいい? あたしが指笛を吹きますから、それがスタートの合図です」
「レイラ様、えっと、よくわかりませんが、頑張ってください!」
タチアナが水際で手を振っている。
それに手を振り返し、レイラは耳を澄ませた。
しばらくの沈黙の後、ピイッと澄んだ指笛の音が確かに聞こえる。レイラは反射的に両手を真っ直ぐ前に突き出し、壁を強く蹴った。
一気に水の中の景色が流れていく。水は冷たく、水着が水を吸ってレイラの体に重く絡む。けれど水中はひどく澄んでいて、静かでさえあった。
レイラは息継ぎもせずに、壁を蹴った勢いを殺さずにひたすら前進する。レイラの知る限り、スタート時はこのようにするのが早く、泳がずとも距離を稼ぐことが出来る。
真っ直ぐ、前に、前に。
スピードが緩やかになってきたところで顔を上げ、泳法を変える。
視界の端に、レイラよりも前に出ている影があるのに気がついて、レイラは無我夢中で水を掻いた。シプリアか、バーニアか、息の上がった酸素不足の脳では上手く考えられない。バシャバシャと、激しい水の音。先を行く影は魚のようにスルスルと泳ぎ、息継ぎも跳ねるかのように早い。レイラも負けじと、足を動かし、腕を回した。
水の音に紛れてタチアナが応援している声が聞こえる。後少しのはずだ。
水着はやはり重い。ずっしりと水を含み、前に進もうともがくレイラに抵抗を与えてくる。
けれどもレイラはその頃にはもう、勝負を忘れ、ただひたすらに水を掻き、進むことだけを考えて足を動かしていた。ただただ、前へと。
前方に巨大な岩があるのが見える。これがゴールの岩なのだろう。湖面から出ているのはごく一部、頭の部分のみだが、その大半は水中にこうして沈んでいる。かなり大きな岩だった。
後少し、とレイラは手を伸ばした。
手のひらにゴツゴツとした感触が当たり、そこでようやく顔を上げる。
「っは……あ、ぁ、はッ……」
息が苦しい。喉がひりつくように痛む。後半は息継ぎをする時間すら惜しんでいたせいだ。岩にタッチをしただけでなく、ほぼ縋るように体重をかけた。あの距離を全力を使って泳ぎきり、立ち泳ぎをする体力もないほどで、こうして体を岩に預けている方が楽だった。
レイラは喘ぐように肺に呼吸を送り込んだ。声もろくに出ないほどに息が上がっている。ここ最近は騎士職に就いていた頃とは違い、多少体を動かしてはいても以前ほどの運動量ではない。そして水泳は陸での運動よりもかなりきつい。
顔を手で拭って、視界を確保する。
見ればシプリアも、バーニアも既に岩に触れ、水から顔を上げている。
上がった息も大差がない。
「ふ、はぁッ、くるし……」
バーニアも息も絶え絶えで、シプリアも岩にしがみつくようにしながら苦しげに肩で息をしていた。
「はあッ……は、はぁ……ッ、随分、運動不足の……ようです……、これだけで……息が……」
「ほんと……私、も、はぁっ……ね、僅差……でした、よね」
「はあ、え、ええ……」
「皆様ぁ、大丈夫ですかぁ?」
岸辺からのんびりとしたケイトの声が掛けられる。
「け、ケイト……ど、どう、だった?」
まだ息の荒いバーニアに問われてケイトはまず拍手をした。
「3人もととっても早かったですよぉ! 本当に、大会とかだったらいい線行きますよぉ!」
「ケイト、順位は、ってば!」
「ええ、はい。本当に僅差でしたが……私にはレイラ様が一番早く、岩に手を付けたように見えました」
きゃあっと可愛らしい歓声を上げたのはタチアナだった。
「わ、私……が……?」
「はい。最初の蹴伸びがすごかったのはシプリア様でした。そのまま蹴伸びだけで岩まで行ってしまうかと思うほどでぇ。でも、レイラ様の追い上げが凄くて。レイラ様、後半はほとんど息継ぎされてなかったですよねぇ。ううん、やっぱりコツは肺活量でしょうか」
「ケイト、私はどうだった?」
「バーニアはドベですねぇ! でもまあ、フォームは綺麗でしたよ、うん」
「あら、言うわね!」
ケイトとバーニアは笑い合う。彼女達は同じブラウリオから来ただけでなく、とても仲が良い。
「ああ……負けてしまいました……」
シプリアは静かにそう言った。
「残念です。レイラ様にとびきりの水着を着ていただこうと、色々考えていたのですが……仕方ありませんね」
「シプリア……」
残念です、と彼女はもう一度小さく呟いた。
「でも、シプリア様も早かったわね!」
バーニアが、パシャリと小さな飛沫を立てて、岩を伝ってくる。
「ええ、実はこの湖は子供の頃から遊び場にしておりまして。子供時分には黒スナメリの如きシプリアと呼ばれたものです。自信はあったのですが……やはり日頃から泳いでいないと駄目ですね」
「私も、もう少し体力付けようかしら」
「バーニア様も早くて驚きました。普段は海で?」
「そう。だから結構水が冷たくて……って言い訳ね、これ」
「そんなことはありませんよ。海と湖では勝手も違いますから。レイラ様も……岸に上がりましょう」
レイラの方に顔を向けたシプリアは、もう柔らかな声と微笑みをたたえるいつもの態度に戻っていた。
「は、はい」
先程とは違い、のんびりと泳いで先を行くバーニアとシプリアを追いかけ、レイラも岸を目指した。




