夏のヒルデガルド5
「まあ、それはひどいわね!」
バーニアはレイラがホソウリと呼ばれた経緯を話すと、それまでレイラと口喧嘩をしていたはずが、今はすっかりヨアニスに対してプリプリと憤慨している。
レイラとバーニアとシプリアの3人は、木陰に座して、足を冷たい湖の水に浸していた。気温は高いが、足がひんやりと冷やされて心地が良い。木漏れ日がキラキラと3人の肌を光らせていた。
少し離れたところでは、タチアナがケイト達と楽しげに水遊びをしている。パシャリと水飛沫が舞うのが見える。時折目が合えば嬉しそうに手を振られ、レイラもその度に手を振り返した。
「先程のことはごめんなさい。わたしも少し言い過ぎたし、謝るわ。後でタチアナにも謝っておくし、甘いお菓子で機嫌を取るくらいはします。これでいいかしら?」
「いいもなにも……」
「それよりヨアニス様よ! あの方、本っ当に不器用な方ね。女心が全く分かってないんだから!」
「そうでしょう、そうでしょう! 昔からああなのです。泥だらけで転げ回るように遊んでいたあの頃から、ヨアニスは何も変わっていない、ガキ大将のままなのです」
シプリアは、やはり身内の気安さゆえか、ヨアニスに少しばかり辛辣だ。普段から穏やかであり物腰も柔らかで人を詰るようなことのないシプリアであるが、だからこそヨアニスへの厳しさは目立つ。
けれども、それもまたヨアニスを案じているからなのだろうとレイラには感じていた。
しかしそれと共にレイラもまた耳が痛いのは、多少なりともレイラも幼い頃から何も変わらずにこの年まで来てしまったこともあるのだろう。
レイラは、自分のしたいことを我慢出来ない。そのくせ人の視線が気になり、自分を貫くことも難しい。未だに心の中には臆病なくせに短気で我儘な少女のレイラがいて、ふとした拍子に出てきてしまう。
「なんというか……私はやはりヨアニス様に似ているようです。私も何も変わっていません。兄のお下がりを着て棒切れを振っていたあの頃のまま来てしまいました。だからでしょうか、バーニア様やシプリア様のような女性らしくなれず……」
特に耳が痛いのは、シプリアの言った照れ屋という名の臆病者、という言葉であった。
恥ずかしいから、と言いたいことも飲み込んで動こうとせず、相手が一歩踏み出すまで受け身でひたすら待っている。これを臆病者と言わずして何を言う。
「何よ、気がついたなら変わればいいだけではなくて?」
「そうです。レイラ様は素敵ですもの。自信を持つだけできっと見違えます」
「ええ。ねえ、以前のパーティを思い出して欲しいのだけれど。ほら、あの星空のようなドレスで、ヨアニス様に貴方が選ばれたあのパーティの」
バーニアはあの時を思い出すかのように顔を上げ、木漏れ日の向こう側を見るかのように視線をやった。
「私ね、あの時はまだ迷っていたの。ヒルデガルドに残ってあの人と結婚するか、それともブラウリオに帰るか……。私の一生を左右するのだもの、当然慎重になるじゃない。でも貴方は私のことを彼にとって世界で一番美しいはずって言ってくれたの。ねえ、覚えているかしら」
その言葉は確かに覚えている。
おずおずと頷くレイラに、バーニアは言った。
「私ね、彼にその話をしたの。そうしたら、その通り、自分には貴方が世界で一番美しいと思える。そう思える人に出会えた私は幸せです、と言われたの」
「まあ……そのようなことが……素敵ですね」
「ああもう、ただの惚気ではないですから!」
嬉しそうに頬に手を当てて惚気を聞いているシプリアにバーニアは手を振る。その健康的な肌色の頬が少し赤い。
「私がブラウリオから出なければ、あの人とは会えなかったのよ。このヒルデガルドに来て、そして狩り大会にも参加して……そうやって動かなかったら、お互いに知らないままだった。そう思ったら、あの人の手を離さない方がいい気がして。偶然出会えたのだもの、何か意味があるのかもしれない。私はそれを信じようと思ったの。まあ、決めたのは私だけれど、きっかけはレイラ様の言葉でもあるってわけ」
レイラはその言葉が少し嬉しいと思いつつも、複雑な気分であった。自分の言葉が人の人生を変えてしまう可能性があるだなんて、思ってもみなかった。
「ああ、安心してちょうだい。私のこれからの人生がどうであろうと、それはレイラ様に責任を取ってもらうつもりなんてさらさらないから。ただ、ついきっかけにしてしまうほどに、あの日の貴方は綺麗で魅力的だったの。悔しいことにね!」
「ええ……本当に美しかったですもの。そして、凛々しくもありました。いつまでもヨアニスがもじもじモタモタとして決めようとしなかったというのに、レイラ様がはっきりとおっしゃってくださって……やはりレイラ様がガツンと行くのがよろしいと思うのです」
「そうなのよね。結局はそれに尽きると思うわ。あの時みたいに、うんと綺麗な格好をして胸を張って、ヨアニス様にもガンガン攻めていきましょうよ。そうね、せっかくこう暑いのだし、レイラ様も新しい水着にしましょう! 貴方、せっかくスタイルがいいのだから、今みたいな水着で隠してしまうなんて、宝の持ち腐れよ!」
「な、なんと……結局はそれなのですか! でも……そんな」
バーニアのような水着を着た自分を想像し、恥ずかしさに顔が熱くなる。女性らしい丸みのない貧相な体が目立ってしまうのが耐えられない。
思わず足元の水を蹴れば、パシャりと小さく白波が立った。
「それはいいですね、レイラ様は綺麗な格好だと自信が出るようですもの。水着にも流行り廃りがありますし、新しいものを買うのも持つものとして経済を回すのに貢献ができますし。最先端の間違いなく素敵な水着で兄を籠絡してくださいませ!」
「シプリアまで! 無理、無理ですってば!」
ぶるぶると首を激しく降るレイラに、シプリアはきゅうっと眉根を寄せた。
「何故、無理だとおっしゃるのですか? たかが服を替えるだけのことです。決して似合わないものを選んだりは致しませんのに」
シプリアのいつも柔らかで優しい声は珍しく固く、そしてどことなく冷たくすら感じる。
「レイラ様、貴方は王妃になるのです。したくない、出来ない、ばかりでは困ります。アレクシオス3世・ヨアニス・バルベイトスと結婚をするということは、そういうことなのです。王妃の仕事の中には、王との関係が上手くいっていることを民に示すことも入っています。プライバシーもかなり公表されます。今のように恥ずかしいから、と距離を開けて歩いたりなどしては不仲だと思われ、そこを付け込まれたりもするのですから。レイラ様のような保守的な部分をお持ちの方には厳しいかもしれませんが、これは今のうちになんとかしなければなりません」
「そうですね。私達には綺麗な服を着ることだって仕事の一部のようなもの。それが個人の趣味には合わなくてもね。レイラ様が、どうしても出来ない、恥ずかしい、強要されるのが辛いと言い張るのならバルシュミーデに帰る算段をした方が、貴方にとって幸せなのかもしれません」
「元はと言えば、兄ヨアニスの無作法さのせいであるとは重々承知の上で、レイラ様にお願いするしかないのです!」
2人からの畳み掛けられるような言葉に、レイラは打ちのめされた。
確かにそうなのだ。それはわかる。レイラは脳筋であり、このように説明されては否定は難しい。
「でも、私……ドレスでしたら露出があってもそう言うものだと納得して着ますが……水着は関係ないでしょう?」
「まあ、レイラ様ってばやはり頑固なのだから!」
「そうですか……分かりました」
シプリアは静かな声でそう言い、水辺から立ち上がる。
そして広い湖面のずっと向こう側、湖面から頭を突き出したような岩を真っ直ぐに指差した。
「レイラ様、勝負をしましょう。この3人であの岩まで泳ぐのです。わたくしかバーニア様が勝てば、レイラ様はわたくし達が選んだ水着を着てもらいます。レイラ様が勝てば拒否を受け入れますし、なんならこれ以上の口出しもこれから一切控えます。それだけで足りないのならば、わたくしがどんな破廉恥な服でもなんでも着て差し上げます」
「え、え、待ってくださ……」
「あら、私も泳ぐの? いいわよ、ブラウリオの国民は泳ぎが達者なのを教えてあげますとも」
バーニアも立ち上がり、自信ありげに唇に笑みを浮かべて膝を屈伸させた。
「ヒルデガルドも島国ですもの。わたくしも多少の心得はございます。レイラ様は、まさか自信がありませんか?」
「そうよね、バルシュミーデには海がないものね。本当はろくに泳げないのを水着のせいにしたいから、ああだこうだ言っているのかしら。まさか、やらないなんて言わないでしょうね」
レイラは思わずムッとした。煽られているのは分かりきっている。しかしここで泳がないと言い張れば、泳げないとずっと言われ続けるのは間違いない。
負けず嫌いのレイラである。殊にそれが運動神経に関わることであれば尚更。
シプリアやバーニアは自信があるようだが、ここは湖。海ならともかく、レイラは湖で泳ぎを覚えたのだ。引けを取るとは思えない。
そして、正々堂々と勝てば、あの水着を回避できる。レイラの頭はもうそれだけでいっぱいになっていた。
「……分かりました。やりましょう」




