夏のヒルデガルド1
「あ……暑い」
ヒルデガルドの夏は暑い。
レイラも確かにそれを聞いてはいたが、しかしバルシュミーデの穏やかな気候しか知らないレイラは完全に舐めていたのだ。夏の暑さで人が死ぬということがあり得るなど、思ったこともなかった。
レイラは誰もいない室内で冷たい石造りの床に体を投げ出し、体温で温くなれば転がって冷たい箇所まで移動をしていたが、日が高くなるにつれて石の床も冷たくなくなっていく。特に昼前後は風もなく、蒸し暑さには逃げ場がない。レイラの予想以上の暑さに判断力も鈍り、磨き抜かれ塵ひとつない床に身を横たえるしか出来なかった。
バルシュミーデの夏とは、じわじわと暑くなりつつも、山から吹く風が涼やかで朝晩は長袖か羽織がなければ寒いほどである。花下がり、と呼ばれる咲いた花も萎れるほどに暑くなる日が夏の間に数日ばかりあるだろうか、しかしそれを凌げばすぐにまた涼しい日になり、気がつけば小麦が金色になり穂を重そうに垂れる秋になっている。それがバルシュミーデの短い夏である。
そんな夏しか知らないレイラが、ヒルデガルドの極暑の夏を耐えられるはずもない。
ヨアニスの王の仕事のこともあり、レイラたちはヒルデガルドの中心部、その王城に居を移していたのだが、その建物もこれまで過ごした離宮のようにひんやりとした石造りで、天井が見上げるほどに高い。さすがに窓に硝子が入ってはいるものの、寝る時でもなければほぼ開け放たれている。つまり虫も出入りしやすく、窓際には虫除けの香草のようなものが吊るされ、ゆっくりと炙られて独特の香りのある煙を出していた。
「まあまあ、レイラ様、なんですかその格好は」
虫除けの香草から薄く立ち昇る煙をボンヤリと眺めるレイラに、ぴしゃりと厳しい声が飛んでくる。
レイラ付きの女官のイーラーだった。女官とはいえレイラの母より年上の、年季の入った女傑である。レイラにヒルデガルドでの礼儀作法を仕込んでくれる師匠でもあり、全く頭が上がらない。イーラーが離宮にいたなら、あのアナスタシアだって叱り飛ばせそうな勢いである。
レイラは慌てて身を起こした。イーラーにバレないようにほんの少しだけ横になって涼むつもりが、思いがけず長く転がっていたらしい。
「レイラ様、貴方様はこの国の王妃になられる方。誰も見ていないからといってだらしないことは許されません。いつどこに目があるか、そしてその見られたことがヨアニス様にとってご迷惑がかかる結果となるやもしれないのですよ。しゃんとなさいませ」
「は、はい……申し訳ありません」
「イーラーもそれくらいにしてくださいな。レイラ様はこの国の暑さは初めてですもの。レイラ様、顔が赤いですね。ちゃんと水分は取られていますか? 井戸水で冷やした果実を召し上がると、少し涼しくなりますよ」
優しく柔らかな声で助け船を出してくれたのはシプリアである。シプリアもまたこの国のふたりの王の内のひとりツェノンの正妃であり、ヨアニスと結婚する予定のレイラにヒルデガルド特有の言語や王妃としての役割や仕事を教えてくれている。離宮では女官として働いていたが、当然ながら王城に戻れば王妃の仕事がある。だが服装は女官の頃と変わらず比較的簡素なものを着用している。式典でもなければ着飾るよりも動きやすい方が好ましいらしいが、レイラも動きやすい服装が好みなので、シプリアが実を取るタイプであったことは有り難い。
また、レイラがバルシュミーデ人であり文化の違いや気候の差に耐えられない時にはこうして助け船を出してくれる。親切で優しい女性である。とはいえ、言語の教師としては、言葉は柔らかいもののとても厳しくもあるのだが。
シプリアが手ずから剥いてくれたよく冷えた小さな瓜のような果物を食べ、柑橘の香りのする水を飲み干せば先ほどの息苦しいほどの暑さも少しはマシになる。
「まったく、シプリア様はレイラ様を甘やかして! ですが、少し顔色も戻りましたね。昨晩も夕食の量が少なめでしたからね、今日は食べやすいものを用意させましょう。レイラ様、テルペの草は如何ですか? 香りが強いから好みが分かれますが、テルペの草を乾燥させて麺に練り込んだものは夏バテに効きます」
「テルペ……ええと、あの少し清々しい香りのする草でしたよね、大丈夫です」
「それはようございました。厨房に用意させましょう。あとは肉類をもう少し口にできた方がいいのですが……魚の方がよろしいかしら。口当たりのいいものがあるか聞いておきましょう」
イーラーはキビキビと、冷たい水に浸した布をレイラの首に巻き、新しい水差しを用意して下がっていく。
「ふふ、イーラーこそ、口ではともかくレイラ様に甘いわよね。イーラーはレイラ様のことを気に入っているのよ」
「そうですね……有り難いことです。しかし、ここまでヒルデガルドが暑いとは……思ってもみませんでした」
「バルシュミーデとは随分と違うらしいわね。ヒルデガルドはね、夏は暑いし冬は寒くて雪も降るほどなの。大風や嵐も多いし……だからわたくしたちの祖先が移り住むまで無人島だったのでしょう。ですが、暑さも寒さも嵐も、それぞれが大地の恵みに繋がります。魔光石が多く産出されるのも偶然ではなく、この厳しい大地のおかげなのです」
「ええ。私も早くヒルデガルドの気候に慣れたいものですが……」
「ふふ、それこそ一両日中に、とはいきませんね。ですが、そう思ってくれることが、わたくしには嬉しいのです。そうだ、ヨアニス様とまた水辺に行かれるのはどうでしょう? とはいえ仕事が滞っていますから、それほど長い時間は無理ですが……」
「それなんですが……」
レイラは数日前、ヨアニスと馬を駆って出かけた、森の中にある湖に向かった時のことを思い返していた。
ヒルデガルドの夏は朝から既に暑い。太陽が出るや否やジリジリとあっという間に気温を上げていくのだ。太陽の出ない内に早番の女官達が外に水を撒き、それで朝食を食べる頃までは多少はマシになる。
ヒルデガルドはこんな風に夏はとにかく暑いものだから、日中はあまり仕事をせず、朝や夕方だけ働く人も少なくない。それはヨアニス達、王の仕事でもそうで、早起きをして仕事をし、昼の前後に4時間ほどたっぷりと休憩を取るのだそうだ。本来であればそのようにしていたのだが、今年は婚活パーティーのために離宮へ滞在している期間に滞った仕事をこなす必要があり、暑い日中にもヨアニスたちはろくに休憩もなく仕事をしているのだった。
レイラはこの気候に慣れないこともあり、暑い時間の勉強は免除され、とはいえこの暑さでは何をする気もなく自室にこもっていた。
レイラが慣れない暑さにくったりとしていると、仕事中のはずのヨアニスがひょっこりと顔を出した。
「レイラ、暑そうだな」
「ええ……ヒルデガルドが暑いとは聞いていましたが……バルシュミーデとは大違いで……」
「そうしていると赤子のようだな」
ヨアニスが如何にも可笑しそうにレイラが涼しい場所を求めて床に伏しているのを見て言う。
だらしなかった、と僅かに赤面し、慌てて体を起こすレイラに、ヨアニスは続けた。
「ヒルデガルドじゃ、赤子は這い子とも呼ばれていてな、夏に一番涼しい部屋を赤子の部屋にするんだ。床をピカピカに磨いてな。そうすると赤子は暑さで自分から涼しい床を求めてどんどん這って動くようになる。今のレイラのようにだ」
「すみません、恥ずかしいところを見せました」
「いや、それだけ暑いんだこの国は。だが赤子も春生まれの子も夏を経れば活発に動くから良い、とも言われている。悪いことだけではないんだがな」
「ええ、夏が暑ければ果実もうんと甘くなるとシプリア様から教わりました。甘い果実酒もあるそうで、楽しみですね」
酒を中々に好むレイラは、この暑い夏の後に待っているであろう甘い果実やそれで作った果実酒を思い、相好を崩した。
「ああ、甘いのは寒くなってから湯で割るのも美味いぞ、あとは……」
それからしばらく、男女の話には少々相応しくない酒の話で盛り上がったが、ヨアニスが本題を思い出したようで、要件を切り出す。
「ああ、それでな、ツェノンが少し時間をくれて、レイラを連れて涼みに行けと言ってくれたんだ。もし良ければ、森にある湖に行かないか?」
「湖があるのですか。ええ、行きたいです!」
レイラの生まれ育ったバルシュミーデは海に面してはいないが、山と湖はある。今は遠く離れたヒルデガルドにいても湖と聞けば気分が浮き足立つ。
ヒルデガルドは島国なために海に囲まれてはいても、王城があるのは内陸の方であるため、海へ泳ぎに行くことも容易ではない。
「水着を持っていってもいいでしょうか!」
「み、水着……あるのか?」
「ええ、バルシュミーデには大きな湖があるのですが、湖のほとりに王族の方が避暑に使われる屋敷がありまして。騎士は貴人の方がもしも溺れた際に救助出来るようにと、水泳も一通り習っていますから」
そんな理由もあり、一応水辺での護衛の仕事用にと仕立てた水着を所持していたのだった。バルシュミーデの実家に置いてあった私物は、既にそのほとんどを送ってもらい、ヒルデガルドの広すぎるこの自室に置かれている。レイラの実家の屋敷の居間ほどありそうな衣装部屋は、服を仕立てても仕立てても埋まることがなさそうなほど広く、バルシュミーデからの私物を探すのも簡単に出来るほどにゆとりがある。
「お待ちください、すぐに用意します!」
「水着……レイラの……」
レイラは久しぶりの水辺に心が踊り、ヨアニスの複雑そうな独り言に気が付かないままだった。




