26.5
ヘンリエッテ視点の話です。
クラリッサの動機が出ますが、少し胸糞かもしれないのと、ざまぁ成分は薄めですので、気になる方は飛ばしてエピローグをお読みください。
遠くから僅かに聞こえる喝采にヘンリエッテは顔を上げた。
会場から随分と離れているというのにこんなところまで届くということは。
「レイラが正妃に選ばれたのね」
「ええ、喜ばしいことです」
ヤスミンは然程感情を表に出さないが本当に喜んでいるのが伝わってくる。
彼女は随分とレイラに肩入れしていた。ヘンリエッテも性根の真っ直ぐなレイラのことは好ましく思っている。バルシュミーデから王妃が出るのは望ましいが、それだけでなく随分とレイラ自身に肩入れしてしまった気がする。
しかし向かいに座る少女は喝采にも無関心を貫き、顔も上げずに静かに座っていた。
「クラリッサ、悔しがったりしないの?」
ヘンリエッテの煽りにもなんとも思わないのか、クラリッサは僅かに目線だけを上げる。
「別に、どうでも」
先程からこんな感じでずっと反応が薄い。
どうしたものかとヘンリエッテは思案した。
ヘンリエッテは自分の中の情報からいくつかの名前を出すことにした。クラリッサの感情を揺さぶり、情報を引き出させたかったからだ。
クラリッサの実家、アムルスターは北方貴族。歴史がある反面、近年力を付けてきた南方貴族と反りが合わず、小競り合いを繰り返している。力があり金銭的にゆとりのある南方貴族に比べ北方貴族は没落しかけている家も少なくない。だからこそ、王家に取り入ろうとする家もあれば、足を引っ張ろうとしてくる家もある。
「シュターミッツ公爵? それともハルツハイム派かしら。どちらにせよ他国の間でわたくしの評判を下げて王族の力を削げという命令だったのでしょうけど、先に話してくれたらよかったのに。わざわざ面倒なことをして、失敗するリスクまで負ってこんなことをしでかすなんて。いくら上級貴族の命令だからと言って、こんなことをしたらアムルスター伯爵家にどんな影響が出るか、分からなかった貴方ではないでしょう?」
クラリッサはその言葉を鼻で笑った。
ヘンリエッテの思った通り、食いついたのだ。
「なんでそんなことしたかなんて……実家もヘンリエッテ様のことも嫌いだからに決まってるじゃないですか」
クラリッサはヘンリエッテを真正面に見据えてはっきりと憎悪という感情を出していた。
「それに、それほど分が悪い賭けでもなかったんですよ。貴方がたが日和ってさっさと謝罪して終わらせる可能性もあったし、そうしたらわたしはヒルデガルドに亡命させてもらえるよう頼むつもりでしたから。女性の少ないここならわたしでも受け入れてもらえたかもしれないって。……さすがにもう無理でしょうけど。ドアだって、レイラ様の部屋からは開かないように細工していたのに。開かないって知ってて『扉があることを確認した』だなんて、嫌なやり口」
実際にヤスミンは鏡の後ろに扉があるのは確認したが開かなかったと言っていた。
それをあの場で情報開示する必要がなかっただけだ。それにクラリッサが自分が使い終わった後に開かないように細工をしたのだから、実際にやったことには変わりはない。そもそも王族からすれば部屋に脱出用の出口があるのだって何も珍しくない。衝動的にレイラがクラリッサに暴力を振るってしまわないよう、敢えて黙っていたのを感謝して欲しいくらいだ。
「あら貴方は亡命がしたかったの? 幸せな結婚がしたいのだと思っていたわ。ねえ今からでも遅くないわ。貴方が命じられた証拠は残っていない? 帰国したらいい相手を紹介してあげるから、こちらに着いて――」
「馬鹿じゃないの!? あいつらが証拠なんて残すわけない! わたしはここに来た時点で完全に切り捨てられてるのよ! 命令を聞いても聞かなくても変わらなかった! 本当に何もわかってない! 没落した貴族に未来なんかないのよ……!」
クラリッサは激しく激昂し、テーブルに手のひらを叩きつけた。中身の入ったティーカップがガチャンと耳障りな音を立てる。
「……没落した家はまず娘を売るのよ。わたしの姉は……騎士だったの。レイラ様と同じね。馬に乗って駆け回って、剣を振り回して……。それで親が決めた相手が嫌で、男と手を取って逃げようとしたわ。でもすぐに捕まって、金を積んだ気持ち悪い蟇蛙みたいな男の再婚相手にさせられて……2年後に帰って来たわ。死体でね」
ヘンリエッテは手で口を覆った。クラリッサの経歴は知っていたが、姉は嫁ぎ先で病死としか書かれていなかったからだ。ヤスミンを横目でチラリと見ると、悲しげな瞳をしていて、おそらく知っていたのだろう。
「……ひどかったわ。もう人間の体じゃなかった。あんな風になんか、絶対になりたくない……! でもわたしも妹ももう予約されているの。逃げられないの……! わたしは幸せな結婚がしたいんじゃない。ただ大事にされていたお綺麗なヘンリエッテ様を傷つけたかっただけ。別に成功しても失敗してもなんでもよかった。あんな実家なんて早く潰れればいい。もう死にかけなのに必死でしがみついて……」
馬鹿みたい、クラリッサはそう呟いた。
「ヘンリエッテ様について自分の境遇だけでもなんとかしようかと思ったこともある。だけど、ヘンリエッテ様は80の醜男だって構わないって言ったのが許せなかった。本当にそれと結婚させられる娘もいるのに」
ヘンリエッテは言葉が出なかった。
王女として心構えはしているつもりだった。意に沿わない結婚もいつかはさせられるかも、とは思っていた。しかし実際にバルシュミーデ内において、貴族が娘を物のように売買するとは思ってもみなかった。
「まだありますよ。行儀見習いで王城に入った娘が、何をさせられているか、知っていますか? ただニコニコしていればいいと思っていたでしょう?」
クラリッサは目だけをギラギラとさせて笑っていた。
「……そうですよ。ただ、ニコニコしてました。気持ち悪い老人から体中を触られて、膝に乗ることを強要されて。手を払ったり、泣いたり嫌がったりしてはいけないんです。女は何もできなくて頭が空っぽなんだから、ただニコニコ笑って大人しくしていなさいって言われて、甘えた声を出して飲み物を作って差し出すのが仕事。何が行儀見習いよ。そんな商売女みたいなこと、させられているんです。没落しかけとはいえ、貴族のわたしが」
「ヤ、ヤスミン……本当なの?」
ヘンリエッテは静かに控えているヤスミンに問うた。彼女も若い頃には行儀見習いを経て侍女になっているはずだ。
「はい……。特に出身家の家格の低いもの、クラリッサのように実家の状況がよくないものはそうでした。ひどいと手をつけられ、部下や息子に下げ渡すか、ただ追い出される場合もあると……」
「そうです。わたしはここまで運良く無事で来れたけど、今後は分からない。あいつらは自分が目を付けてベタベタ触って手垢がついた娘を自分の子供や孫の妻にするの。……本当に気持ちが悪い。そうそう、わたしを膝に乗せたがった中にはヘンリエッテ様のお祖父様や叔父様もいらっしゃいましたよ」
ヘンリエッテの祖父といえば先王だし、叔父は大公のことだろう。身近な存在であり、国を率いる立場であった彼らが孫や姪であるヘンリエッテと同い年の娘にそんなことをしようとしていたことの嫌悪感に鳥肌が立つ。
それが真実とは限らないが、少なくともクラリッサの言葉はまさにヘンリエッテを傷つける刃であった。
「ヘンリエッテ様はご存知ないですよね。だってあの人たち、それを良くない行為だって分かっててやってました。さすがに大事になりそうな相手には隠してたんですもの。優しいおじさまのふりをしてね。本当に嫌な国。気持ち悪い。だから潰してやりたかった。どうせわたしに未来なんかない。もしわたしがヒルデガルドの王妃になれたら、バルシュミーデなんて潰してやろうって。……でももしヒルデガルドの王がバルシュミーデの老人みたいな男だったら? 一生あれを我慢し続けるの? わたしはそんなの絶対に嫌!」
「だから……クラリッサは陛下の外見にこだわったというのね」
「そうよ……好きでもない男に体を触られるのは嫌! もううんざりなの」
クラリッサは己の体を抱きしめた。
泣いているかと思ったが、その大きな瞳は乾ききっている。
「レイラ様も嫌い。あの人は最初からわたしが欲しかったものを全部持ってた。なのに自分の持っているものの素晴らしさを何ひとつわかってない……! 鈍感で無知で……本当に大嫌い!」
ヘンリエッテには、クラリッサの言う『嫌い』がその時ばかりは違う意味に聞こえた。
羨ましかった、そんな風に。
騎士であるレイラを死んだ姉と重ねていたのかもしれないし、結婚に頼らず未来を自力で切り開ける力を持っていたのが羨ましかったのかもしれない。ヒルデガルドの王妃として素晴らしい未来が保証されているレイラへのただの嫉妬かもしれない。
全てはヘンリエッテのただの想像だ。けれど人の心はひとつではない。自分でも理解しきれないほどに複雑なのをヘンリエッテは知っている。
ヘンリエッテは静かに目線を落とした。カップの中でゆらゆらとお茶が波紋を立てている。
「……クラリッサ、貴方に罰を与えます。そうね……貴方はバルシュミーデには連れて帰らないわ。国外追放にします」
「え?」
クラリッサは怪訝そうに顔を上げた。
「それから、アムルスター伯爵家は取り潰しね。どうせ没落しかけなのだから、ちょっとトドメをさすだけだけれど……貴方の妹だけはなんとか取りなして、養育してくれる家を見つけてあげる」
「……馬鹿みたいに甘いんですね」
「そうよ。わたくし、別にお利口さんではないの。……だから、女王を狙ってしまおうかなって思うのよ」
クラリッサは無言で目を見開いている。
ヘンリエッテはそんなクラリッサに微笑んでみせた。
ヘンリエッテの心もまた複雑なのだ。
ヘンリエッテには皇太子の兄もいれば弟もおり、バルシュミーデは余程のことがない限りは女王の即位を認めないだろう。元々バルシュミーデにおいて女性は大きな権力を持たず、女王はどうしても直系男子のいない時の繋ぎにしかならなかったのだ。……今までは。
「ヤスミン、わたくしが女王になるの、どう思う?」
「わたくしは、これまでもこれからもヘンリエッテ様に付き従うだけですわ」
「そう、じゃあよかったわ」
ヘンリエッテは冷めつつあるお茶を一口飲んだ。冷めていてもこのお茶の味が好きなのだ。
腹は括った。決めてしまえばあとは実行するだけだ。
「クラリッサ、誤解しないで欲しいのだけれど、貴方はこれから安穏とは生きられないわよ。バルシュミーデの貴族令嬢ではなくなるのだから……後ろ盾も何もない、文化も異なる遠い国で暮らすのは決して楽ではないわ。それに、いつか、バルシュミーデがとてもいい国になっても貴方は帰ることができない。それを忘れないで。それこそが貴方の罰なのだから」
「はい……」
クラリッサの声は震えていて、気丈な彼女の嘘泣きではない、本当に泣きそうな声を聞いたのは初めてだとヘンリエッテは思った。
「わたし……20年後に生まれたかったなぁ……」
「そうね……20年後には、きっと貴方が羨ましくて歯噛みする国になってるでしょうからね」
遠くから聞こえる喝采は未だ止むことなく、いつまでもいつまでも響いていた。




