26
いつの間にかダンスは終わっていた。
曲も既に鳴り止んでいたが、レイラもヨアニスもそんなことは頭にない。
向き合い密着したまま周囲も見えず、音も聞こえない。完全にふたりの世界だった。
「その、俺はこんなに踊っていて幸せだと思ったのは初めてだ」
「わ、私もです。それだけじゃなくて、とても楽しかった。身長が合わないから、と踊ってくれない人もバルシュミーデにはたくさんいましたから」
ヒールを履くと自分より大きくなる女性を避けようとする男性は、元婚約者以外にも少なくはなかった。レイラも兄を相手にダンスの練習をしたものだ。
「そうなのか? なんて勿体無い……いや、俺からすればよかったのかもしれない。その、レイラ殿のこの姿を見られたくないというか……」
ごにょごにょと言葉を濁すヨアニスにレイラは首を傾げた。
「何かおかしいでしょうか? やはり、似合いませんか?」
「そ、そんなことはない。ただ、少し見え過ぎていて……」
「え、は、はしたないですか……?」
レイラは頬を染めて大きく開いた胸元を押さえ、ヨアニスは首がもげるのではないかというほど振った。
「い、いや違うんだ。ほ、他の誰にも見せたく……ない、という意味で……」
ヨアニスの顔もカァッと赤くなる。耳まで赤い。
「……よく鍛えられ、健康的で美しい肉体だと思う。バルシュミーデの男は節穴しかいないのではないか」
「そ、そんなこと……。それに私はみっともない赤毛ですし、身長ばかり大きくて女性的な体ではないですし、全然可愛くないと……」
「身長など俺の方がずっと大きい!」
レイラはヨアニスのその剣幕に目を見開いてその顔をじっと見つめた。
頬を赤く染め、目を潤ませたレイラの姿に、ヨアニスの方は頭が沸騰しそうで、自分でも何を言っているのかわかっていない状態のようだった。
「仮に俺よりレイラ殿が高くたって何も問題ないくらい魅力的だ! それに赤毛の何が悪い。だってこんなに綺麗な色じゃないか。狩り大会の時にも思ったんだ。木々の緑に映えて目が離せなかった。馬に乗って、その髪が靡く様も、僅かな風や動きで揺れる様も……まるで夢のように美しいと」
ヨアニスは不器用な手付きでレイラの髪を一房すくい上げる。
「海で夜明けを見たことがあるか? 一面の星が広がる夜空、それが東の方からだんだん明るくなり赤に染まる。凪いだ海面にも映って、それはそれは美しいのだ。それを見て、俺は暁の女神とは自然の中におわすのだと思ったのだ。だが、今のレイラ殿こそ……その……」
そこまで言ったヨアニスは、自分が訳の分からない語りをしていたことに気が付いたのか、口を鯉のようにパクパクとさせ、言葉に詰まる。
「それは……どういう?」
「ええと、その……」
レイラが聞き返してもはっきりとしない。へどもどして額に汗を浮かべている。
「だ、だからな……」
「は、はい……」
「ああ、もう焦れったいわ。はっきりおっしゃいなさいな! 言葉にしなければ伝わらないこともありましてよ!」
そのよく響く大きな声はアナスタシアだった。ぎゅう、と力強く扇を握りしめている。そんな彼女の取り巻きの男性は4人に増えていて、先程のレイラに振られた男性は今はもうすっかりアナスタシアに熱い視線を向けていた。言いたいことを言い、したいことをする。まさにそれを体言したようなアナスタシアである。思ったことを口に出さずにはいられないのだ。
ふたりの世界に浸っていたレイラも、その声に周囲には人がいることをようやく思い出した。
ヨアニスもそのようで、真っ赤になった顔からだらだらと汗を流している。余計に何を言おうとしたのか分からなくなったのか、カチコチに固まってしまっていた。
いつの間にかレイラたちの周りには見守るように人が集まり、ヨアニスがはっきりと言葉にするのを今か今かと待ちわびている。
ツェノンとシプリアも早く決めろとばかりにハラハラとしていた。
しかし、レイラこそアナスタシアの言葉に背を押されたような気がした。
言葉にしなければ、伝わらないこともある。
このドレスには、自信と勇気が生まれる魔法がかかっているのだから。
レイラは力強く顔を上げる。
「ヨアニス様! わ、私は貴方のことを、狩り大会よりも前からお慕いしていました! ヨアニス様は私を暁の女神とおっしゃってくれました……その意味を今、どうかはっきりと聞かせてください!」
レイラは渾身の力を込めてヨアニスの手を握った。体中全ての力を手と言葉に込めた。
ヨアニスはその迫力にたじろいだように目を見開く。
「……まあ、言葉にしろと言ったのは殿方であるヨアニス様に、でしたのに」
「えっ!?」
アナスタシアのその言葉を聞いてレイラの顔はその髪よりも更に真っ赤に染まった。湯気が出るほど顔が熱い。
「あ、あ……よ、ヨアニス様……」
恐る恐る見上げたヨアニスの顔もレイラと大差ないほどに赤い。
それを真剣な顔に引き締めてヨアニスは言った。
「す、すまん。先に言わせてしまった。しかし、本当に良いのか? 俺が言葉にするということは、レイラ殿はもうバルシュミーデで騎士として身を立てることが叶わなくなる。……その夢を諦めるということだ。それでも頷いてくれるだろうか」
ヨアニスがレイラへの思いを告げれば、レイラは王妃となり、このままヒルデガルドに残ることになる。バルシュミーデでの未来は失われてしまう。道はどちらか一方しか選べない。
しかしレイラはもう覚悟を決めていた。顔をしっかりと上げ、迷うことなく言い切る。
「……構いません。以前、ヘンリエッテ様が言っていました。このヒルデガルドで王妃になるのは大変だと。私もそう思います。騎士であれ王妃であれ、一生をかけるにふさわしい役目です。ヨアニス様が王である限り、時にヨアニス様の剣として、また盾として御身を守ることをお許しください。名称こそ違えど、それは私の望む騎士の仕事となんら変わりません」
レイラのきっぱりとした言葉に、ヨアニスは真一文字に結んでいた口を緩めた。
「……また、逆に言われてしまったな。俺の方がレイラ殿を一生守ると言うつもりだったが。だが、俺の赤い騎士よ、暁の女神よ。どうか俺の半身として、王妃として俺を一生支えて欲しい」
ヨアニスは跪き、レイラの手の甲に口付けをした。
そしてごく小さな声で囁いた。
「どうだ、今度は間違えてなかっただろう?」
「はい……ヨアニス様」
レイラは花が綻ぶように微笑んだ。
アナスタシアは満足そうに頷いた。
シプリアは喜色満面で、ツェノンは拳を握りしめてその美麗な顔に静かに笑みを浮かべている。
しかし、そこに水を差す無粋な声が上がった。
先ほどまで雛壇でヨアニスを囲んでいた内のひとりだった。
「あのう……その方って騎士なのですよね? バルシュミーデの子爵令嬢とも聞きましたが、身分的に釣り合ってないのでは……」
「なに?」
ヨアニスは水を差されたことで、眉を寄せて苛立ちを見せ、レイラは身分という言葉に、ヨアニスのその手をぎゅっと握った。
それを言い出した令嬢は顔しか知らない。確かどこぞの国の王女のはずだ。それは豪奢な衣装からも伺える。
「い、いえ違うんです。レイラ様を否定するのではなく……身分的に側妃にすべきではないかと」
令嬢は慌てて否定するが、ヨアニスはますます眉の間に皺を深めた。
「我がヒルデガルドには現在、側室、側妃といった複数の妻を娶る文化はない。女性の数が少ないので王であっても一夫一妻という決まりだ」
そう言ったのはツェノンである。
彼もまたその発言に嫌な顔をしていた。
おそらく彼もそのような打診を受けたことがあるのかもしれない。そもそも表情に出ないがかなりの愛妻家らしい彼は、一夫多妻自体が好きではないのかもしれない。
「で、ですがうちの国では一夫多妻は普通のことですし、選ばれたのが身分の高くない令嬢ひとりだなんて、帰ってからなんて言われるか。いえ、わたくしを選んでほしいということではないのです。例えばテレイグのアナスタシア様ほど立派な国の方であれば……と」
確かに、と肯定する令嬢もちらほらといる。彼女たちは国の格や身分が重要だと思って来ている令嬢たちなのだろう。それは決して少ない数ではない。おそらく、正妃が駄目だったとしても何とかして側室にねじ込めれば……という考えでもあるのだろう。妻の数が多ければ多いほど自分が選ばれる可能性も高まるのだから。
そんな令嬢たちのひそやかな声がざわりと会場中の空気を嫌な方向へ変えていく。
パン、と手にした扇を強く打ち付ける音がした。
皆の目が、音の方に引き寄せられる。音を発したのはアナスタシアだった。
彼女は発言をした令嬢に冷たい視線を向けている。
「他国での身分なんて、このヒルデガルドからすればどうでも良いことでしょう? それにわたくしは、わたくしを選ばない殿方には全く興味がありませんの。わたくしの可愛い子もこんなに増えてしまいましたもの」
アナスタシアはその令嬢の言葉を一蹴した。彼女は4人に増えた美男子を侍らせ、彼らからの賛美の言葉を一身に浴びている。そのうちのひとりの顎を、まるで猫にでもするようにやわやわと撫でた。
「勝手に人のことをダシに使うのはやめていただきたいものね!」
アナスタシアのきっぱりとした言葉に勢い付いたのか、声を上げる女性がいた。
「そうよ、それに招待状にも独身の女性であることしか条件になかったわ。どの国も同じような身分制ではないのだから、出身国での身分や血筋に拘るのはおかしいのではなくて?」
それを言ったのはバーニアで、彼女の国ブラウリオからは身分関係なく美しさだけで選んだと言っていた。同じくブラウリオの女性たちもうんうんと頷いている。
確かに身分など、国によってそもそも基準も異なる。今回は王政ではない国だって参加しているのだ。
それに血筋や国力だけで選ぶなら最初からこんな催しをする必要もない。
「で、でも……っ」
「おひとりになさらなくても、もう少し考慮の時間を、と……」
「そ、そうです。ねえ?」
その令嬢たちも引っ込みが付かなくなっただけなのだろうが、国の代表として来ている分、簡単に諦めることも難しいのだろう。
そして、ヒルデガルド側も、一夫多妻の制度や、同じような身分同士での結婚が彼女たちに染み付いた文化である以上、あまり厳しい言葉で否定することは出来ない。彼女たちの国の文化を否定されたと、祖国に戻ってから言われては外交問題になりかねない。
ヒルデガルドはようやく他国との国交を結ぼうと、行動を始めたばかりなのだ。今回呼んだ令嬢たちに、気持ちよく帰ってもらう必要があった。
「あ、あの!」
嫌な雰囲気が立ち込めそうな時に、少女らしい高い声をあげたのはタチアナだった。
緊張しているのだろう。頬が林檎のように真っ赤になっている。そのほっそりした足も僅かに震えていた。
「わ、わた、わたくしは、ダーランの王女タチアナです! れ、レイラ様は、ダーランの王族の血を引いているんです!」
タチアナは一生懸命に声を上げ、己の赤い髪を指差した。
「こ、この赤い髪の毛は、ダーランでは『太陽』と呼ばれています。王族の女性にしか出ない、とっても珍しい色なんです! レイラ様の髪の毛も、わたくしと同じ『太陽』なんです。そ、それというのも、レイラ様のお祖母様であるエステル様は、我が国ダーランからバルシュミーデに亡命された、わたくしの祖母の姉に当たる方なのですっ!」
タチアナは一息に言い切ると、はぁはぁと肩で息をしている。
「えっ?」
「そうなのか?」
レイラはポカンと口を開いた。ヨアニスに聞かれても、はてとばかりに首を傾げることしかできない。
昨日は祖母エステルの名を聞いてもわからない、と言われたばかりなのだが……。
しかしタチアナに付いていたヘラルダがレイラに目配せをしているのに気がついて、遅れてようやく悟った。
レイラの祖母の血筋の真実は不明だが、ダーランの王族が身内である、と言った時点でその言葉が真実とされてしまう。つまり言ったもの勝ちだということだ。グレーだって言い切ってしまえば白になる。
今この時点で、レイラの祖母はダーランの王族だったことになったのだ。
そして実際に見た目もレイラとタチアナはよく似ており、血の繋がりがあるといえばそう見えるのは間違いない。おそらく、昨日ヤスミンに温泉に連れ出された間、タチアナはこれをヘンリエッテから仕込まれていたのだろう。そしてここぞという時があれば、そう主張するようにと。それすらも知らされていなかったのは、ヤスミン曰く「楽しい」からなのかもしれない……。
「確かによく似ていらっしゃること。ダーランの王族の血を引いてらっしゃるのね。これでヒルデガルドの王妃として、そちらの貴方が仰る血筋とやらにもなんら問題はございませんわね?」
アナスタシアもそう仕切り、水を差した令嬢も素直に頭を下げた。
「え、ええ。水を差して申し訳ありませんでした」
先ほど立ち込めていた嫌な雰囲気も払拭されていた。
会場に明るい雰囲気が再び戻り始める。
レイラにとっては身分や血筋などどうでもいい。ヨアニスからしてもそうだろう。
確固たる地位を既に築いているヒルデガルドには他国の後ろ盾を特別必要としていない。本来であれば自国の女性の中から決まっていたことだ。そして、ヒルデガルドの王も完全な世襲制ではない。娶った女性の血筋の高貴さは重要視されない。
しかし外野からはそうとは限らない。大国の王と他国の騎士で成り上がりの子爵令嬢では釣り合わないと思う人も国もいる。彼らを丸め込まなければ、今後どんな無理難題を捩じ込まれるか、そしてレイラにも心ない言葉を投げかける人間が出るかもしれない。
ヘンリエッテはこれを心配し、いざという時にそれを黙らせるために、わざわざタチアナに頼んでくれていたのだろう。
こうして、レイラがダーランの王族の血を引くと言われただけであっさりと前言撤回し、身を引くことがその証明である。
そしてダーランにとっても、ヒルデガルドの王妃になる人はダーランの王族の血筋であると表立って言えることは国力的にもメリットとなる。
「そうであれば、もう何も問題がないな。俺は……アレクシオス3世・ヨアニス・バルベイトスは、このバルシュミーデから来たレイラ・ショーメットを我が半身としてヒルデガルドに迎え入れる!」
レイラはヨアニスに軽々と横抱きに抱き上げられた。まるでレイラを見せびらかすようにくるり、と回転した。振り落とされないよう、レイラは慌ててヨアニスの首にしがみつく。
広い会場中に喝采が沸き起こった。
止まっていた音楽も再開し、一層高らかに鳴り響く。シプリアやツェノンも笑顔で拍手をしている。
アナスタシアにブラウリオの女性たちやイグナーツの令嬢も。そしてタチアナも頬を染めて、大きい拍手を一生懸命に送ってくれていた。
その喝采はいつまでもいつまでも続いていた。




