25
そうしてヨアニスもようやく雛壇に上がった。
先程までのおかしな雰囲気はヨアニスのおかげで随分と払拭された。徐々にではあるが元のパーティーらしい空気に戻りつつある。
それに伴い雛壇を囲む猛禽のような令嬢たちの勢いも戻ってきた。それはそうだろう。先程のヨアニスは本当にカッコよかった。女性相手には少しばかり頼りないところも見せるが、それでもここぞという時には王として、皆を率いる強さを示すことの出来る人なのだ。レイラはまだ少し胸がドキドキしていた。
レイラは後ろに下がることもなく、その令嬢たちの少し後ろあたりでヨアニスを見上げていた。この位置はヨアニスたちの会話が音声の増幅装置がなくともよく聞こえる。ヒルデガルド語を使わないのは、周囲の令嬢への配慮だろうか。
ヘンリエッテは膝をついて汚れたからとドレスを着替えに行ってしまっている。そのまま戻ってこないのは、クラリッサのことがあるからだろう。少しだけ心配だが、ヘンリエッテなら大丈夫だろう。多分。
「それでは、そろそろメインイベントに移ってもよい頃合いだと思うのだが。ヨアニスもいい加減年貢の納め時だろう?」
そういうツェノンの言葉にヨアニスは顔を顰め、彼らを取り囲む令嬢はきゃあきゃあと一喜一憂している。
「いや、でもその……な、やっぱり次の機会を設けるべきではないかと思うのだが……。最初にああいうことがあっただろう? とてもそんな気分では……」
クラリッサの妨害で、随分と気分を削がれてしまったのだろう。一昨日の時点では決めると言っていたのに自らの言葉を撤回しようとしていた。
「いいや、ダメだ」
しかしツェノンの言葉は冷たい。
「もうそろそろ帰国をしたがっている方もいる。国の事情で早く帰りたいと言う令嬢を、お前の気分で長く引き止めるのはよくない。それに今日決めると言ったのは他でもないヨアニスであろう。さあ、決めるといい。決まらないなら決まらないで終わらせても構わない。私も意に添わぬ結婚をさせたいわけではない。ただはっきりとお前の意思を示して欲しいのだ」
「そ、そうだが……」
「あ、あのツェノン様。少しは心構えの時間を差し上げましょう。その間、建国神話を語ってはいかがでしょうか?」
兄のことに助け舟を出したのはシプリアだった。
「以前ヨアニス様がご令嬢からの質問で、好みの女性として女神と言っておられました。建国神話の暁の女神のことと思います。ヨアニス様は子供の頃から建国神話が好きでしたもの。それに他国の方は存じないでしょうし、ヨアニス様にも初心を振り返る切欠になるかと思いますので、簡単にでも説明をと思うのですが……」
「ふむ……わかった。我が愛妻の頼みであるしな。ではヨアニス、少しだけ猶予ができたぞ。その間に口説き文句のひとつでも思い出すといい。……それでは私が語ることにしよう」
ヨアニスは苦虫を噛み潰したような顔をしている。一方のシプリアは嬉しそうに頬を染めている。
「ツェノン様のお声で建国神話が聞けるのは嬉しいです。ヨアニス様もですが、わたくしも子供の頃から建国神話のお話を聞くのが好きだったのです」
ツェノンはそんなシプリアを優しい瞳で見つめていた。多分、表に出にくいだけでかなりの愛妻家なのだろう。
ツェノンは音声の増幅装置を用いて、会場に向けて語り出した。
「異例の件が発生したことで、少々空気がおかしくなってしまった。ここで少し趣向をかえ、我がヒルデガルドの建国神話を語ろうと思う。……暁の女神の話を」
* * *
まず最初に、このヒルデガルドを作ったのは昼の神と言われている。
昼の神は非常に力を持った男神であった。
彼は地上を持たない海の民のために、陸地から遠く離れたここに安住の地を作ったのだ。
このヒルデガルドの土地はその神力によりとても豊かだった。民も昼の神に応えるように勤勉に働いた。ヒルデガルドはそれによりますます発展していくと思われた。しかし昼の神は、神であるがゆえに失念していたことがあったのだ。
昼の神はその名の通り、昼を表している。このヒルデガルドの地もまた神の力により昼しか存在しなかったのだ。しかし民には睡眠、休息が必要だった。昼の眩しさだけでは得られないものもあったのだ。それ故に民はどんどん弱っていった。
それを目の当たりにした昼の神は民を救いたいと願った。
昼の神は夜を望んだ。己の力の半分を使って祈った。
そして望みの通り、新たな神が海から現れたのだ。
それが暁の女神である。
暁の、とは言うが彼女は本来、夜を表す女神であるのだ。
昼の神の力は半分しかなくなったので、力の衰える夕方になると女神が現れ、袖を振ると空は夜になった。こうして民に休息と眠りをもたらした。
そして暗くなった分危険が増し、また寒くなる夜を温めるように炎をもたらした。
民は1日の半分の休息が必要となったが、昼の神だけの時よりも健やかに勤勉に働くようになった。
女神は、ヒルデガルドにとっての暁をもたらす存在、だから暁の女神と呼ばれている。もしくは海から現れた様子が、朝日が昇るのに似ていたからという説もある。
そして昼の神と暁の女神のふたりがヒルデガルドを率いる、ふたりの王の原型と言われている。
元々は、王と女王で対になっていたのだ。
しかしこのヒルデガルドでは男女比が崩れ、女性は子を産むために働かず家に入ることを良しとされた。そのために王がふたりという部分だけが引き継がれ、今日まで残っているのだろう。
完璧な一より、半分ずつを受け持つ優秀な二であれ、というのが我々ふたりの王に求められたあり方なのである。現に私の得意なこととヨアニスの得意なことは異なる。それを補い合えるのがこの制度なのだ。
しかし我らは王とはいえ、神ではなく凡夫でしかない。
神でさえふたりで支え合う必要があったのだ。ただの人ならば王を支える者は多い方がいいと私は思っている。
私にとってのシプリアという半身のように、ヨアニスにも暁の女神が現れ、彼を支えてほしいというのが、私の願いである。
* * *
そうツェノンは締めて、音声の増幅装置を置いた。
聞いていた令嬢からの拍手を浴びている。レイラも拍手をした。
シプリアも幸せそうに頬を染め、ツェノンに寄り添った。
ツェノンが合図をしたのか、音楽が流れ始め、幾人かの男女の組み合わせがダンスの輪に入って行く。
レイラは僅かな期待を込めてヨアニスを見上げた。しかしヨアニスは動こうとしない。ツェノンに促されても、眉を寄せ床に視線を落としたままだった。
ツェノンは溜め息を吐き、シプリアの手を取ってダンスの輪に入っていった。シプリアは己が兄を心配そうに何度も振り返っていたがヨアニスは動かない。
……きっとレイラでは駄目だったのだろう。彼の暁の女神にはなれなかった。
どうやらヨアニスの答えは、王妃を決めない、ということだったようだ。
一昨日話したように、誰も選ばずに終えるつもりなのだろう。
……しかしそれもまたヨアニスの選択だ。
賑やかなダンスの曲とは裏腹に、レイラの心は冷たく、重い。腹の奥底に冷たい金属の塊があるかのようだった。
しかし、これがヨアニスの決めたことであれば、レイラも吹っ切るしかないだろう。
レイラはそう思い、ヨアニスへの恋心を諦めて去ろうとした。
「……あの、お待ちください」
その時、レイラの前にさっと跪く男性がいた。
パーティーが開始する直前にレイラに声をかけた、あのどことなくアドルフ・ボーリュに似た彼だった。
先程の軽薄さはもうどこにもない。思いつめたように真剣な顔をして、レイラに向かって手を差し出していた。その手は僅かに震えていた。
「あ、あの……先程は申し訳ありません。ど、どうか……僕と踊っていただけませんか? その、一曲だけでいいのです。……今日という日を僕の思い出としたいのです。どうか……お願いします」
レイラは躊躇った。
レイラが踊りたいのはヨアニスだけだった。しかしヨアニスには選ばれなかった。
それにレイラも誰にも選ばれない苦しさを知っている。その手の震えを見れば、こうして声をかけることにどれほどの勇気を振り絞ったのか、分かってしまう。
一曲くらいなら……。
レイラはおずおずと男性に差し出された手を取ろうとし、横合いから出てきた大きな手に手首を掴まれた。
「ま、待った!」
「えっ、ヨアニス様!?」
男性も急に横槍を入れてきたヨアニスにたじろいでいる。
「す、すまない。だが、その……ここは、ここだけは譲る気がないんだ」
ヨアニスは男性に謝るとレイラに向き直った。
「どうか、俺と踊ってほしい。……俺の暁の女神」
ひゅっと息を飲んだ。
本当にレイラに言っているのか、しかしヨアニスの前にはレイラだけだ。しっかりと手首も握られている。
全身が沸騰したように熱い。先程までの冷えた金属のような心が熱く煮えたぎり、ドクドクと身体中に血液を巡らせるかのようだ。
「わ、私で良ければ……」
レイラはもうヨアニスに釘付けであった。
先に誘ってくれた男性には悪いが、謝罪の言葉だけ述べて、改めてヨアニスの手を取った。
「あら、可哀想な子だこと。仕方ないわ、わたくしが踊って差し上げましょう。……特別よ」
「え、えッ……!」
レイラに振られてしまった彼はアナスタシアに引っ張り上げられ、その豊満な腕の中にスッポリと収まっていた。
しかしそれらのことはもうレイラの視界にも入っていなかった。
レイラにはもうヨアニスしか見えない。
そしてヨアニスもレイラしか見ていなかった。
ヨアニスの鍛えられた手のひらは分厚く、硬い。レイラだって剣だこくらいはあるが、そもそも手の大きさも厚みも全然違う。
胸が苦しいほどに高鳴る。
「レイラ殿に、言いたいことがたくさんあって、ずっと考えていたんだ。昨日もずっと考えてて、ほとんど寝ていない。なのに、俺はあの令嬢に抱きつかれて頭が真っ白になってしまって……。こんな横入りするような誘い方をして悪かった……こんな時でも頭より体の方が先に動いちまう」
「……いいえ、うれしいです」
レイラはやっとのことでそれだけを言った。
レイラだって胸が苦しくて上手く言葉にならない。
嬉しすぎても言葉が出てこないのをレイラは初めて知った。
レイラがうんと高いヒールの靴を履いてもそれでもまだヨアニスの方が大きい。少しだけ目線が上だ。
腰に回された手はぎこちないが、がっしりと硬く、鍛えられているのが分かる。
エスコートはあまり上手ではなかったが、そんなことは些細なことだった。
むしろヨアニスにならどれだけ足を踏まれても構わない。何時間もぶっ続けでダンスをしてもいいくらいだ、とレイラは思った。
ダンスは非常に緩やかで、激しい動きの少ないものであった。
音楽もそう大きくない。距離が近いから、踊りながらもふたりで話せるくらいだった。
身体中にこみ上げる、くすぐったい気持ちに自然と笑みが浮かぶ。充足感にも似た心地がじわじわと心を蕩かすようであった。
「あ、あのな、今日はすごく驚いた。こんなに美しい人を見たのは初めてだと……そのドレスも、海から上がった暁の女神のようだと思った。……とてもレイラ殿によく似合っている」
「え、あ、あの……ありがとうございます。これは友人が誂えてくれたのです。……魔法のドレスと言ったら信じてくれますか?」
レイラはドレスを手に入れた経緯を話した。
「すごいな……本当に魔法のようだ。だがレイラ殿はいい友人を持ったのだな。それが縁、というものなのだろう」
「はい……。今もなんだか魔法にかけられているみたいで……うれしくて……こんなに幸せなのは初めてで……」
まるで永遠のようにも、ほんの一瞬のようにも感じる時間が流れていった。




