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ヤスミンの言葉にレイラは内心で首を傾げた。
自分の部屋のことだというのに、どういうことか、さっぱりわからなかったからだ。ヘンリエッテからも何も聞いてはいない。
クラリッサはヤスミンが声を上げた時点でスッと表情を消していて、どんな感情であるのかレイラには読めなかった。
彼女はレイラが思っていたよりもずっと冷静であり、レイラを煽ったり、観衆を味方に付けたりと、随分と策を練っているようである。ここまで来ると目的は最早ヨアニスの正妃の座を狙っているのではないと、鈍いレイラでもさすがにわかる。
バルシュミーデ王国をか、それともヘンリエッテを貶めたい、騒ぎを起こして評判を下げたい。そんな風に見えるのだ。それがクラリッサの意思か、バルシュミーデの貴族の誰かに命令されたのかは分からないが。レイラへの攻撃は、その手段に過ぎないだろう。レイラにはバルシュミーデでこれ以上、下がるほどの評判もない。
それ以上に分からないのが、今まさに声を上げたヤスミンである。
ヘンリエッテをチラリと見ると、ヘンリエッテはレイラに向かって目配せをしていた。どうやらヤスミンのこれはヘンリエッテも知っていることらしい。
というか、これはそもそも最初からそういう作戦だったのではないだろうか、という結論に達した。何故かレイラだけは知らされていないことに、僅かに不満はあるが。
「もちろん、その方法を用いてクラリッサが侵入し、レイラ様のドレスを切り裂いたとは限りません、と先に申し上げておきます」
クラリッサは反論もせずに黙ってヤスミンの話を聞き、ヨアニスはその続きを話すよう促した。
「レイラ様の部屋には大きな姿見がございましたよね?」
ヤスミンに問われ、レイラは頷く。
扉ほどはあるだろう、かなり大きな姿見である。レイラは背が高いので、大きな姿見は全身が映せるので助かっていたのだ。
「その姿見ははっきりと申しまして、部屋の他の調度とあっておりません。飾り気のないただの大きな鏡です。部屋の内装からすればもっと華美な装飾がついたものでもおかしくはないのに、と違和感がございました。しかしこれは、後から姿見だけを置いたからだと推測いたします。女性の部屋として使うために鏡が必須というのもありましょう。しかし、もうひとつの役割もあったのです」
そこまで言われてレイラはようやく気がついた。毎日見ていたというのに、それを動かしてみようだなんて思ったこともなかったからだ。
「ええ、その姿見は、元々あった扉を隠すために置かれていたのです。つまり最初からレイラ様の部屋とクラリッサの部屋はコネクティングルームになっていた、というだけの話です。何故、完全封鎖せずにただ隠したのか。見栄えのためか安全上の理由かは存じあげませんが、この建物自体、元々他の目的のために建てられたようですので、その名残なのではないかと」
ヨアニスはシプリアの方を見る。
「そのことは知っていたか?」
「い、いえ……建物のことは業者に任せておりましたから……。の、後ほど見取り図を取り寄せて確認いたします」
レイラもよくよく思い返せば姿見にほんの僅かではあるが違和感があった気がしたはずだ。扉ほどもある大きな姿見ならばそれなりに重さもあるだろう。小柄で華奢な見た目通りの非力なクラリッサでは、きちんと元の位置に戻したつもりでも、ほんの少しずれていた可能性がある。
令嬢たちの冷たい視線が、今度はクラリッサに向かっていく。
「ちょっと待って! わたしだってそんなの気がつかなかった! わたしがレイラ様の部屋に侵入したとは限らないじゃないですか! それに本当にその扉が開くかどうかだって……!」
「ええ、ですから最初に申しました通り、真実はわかりません。しかし、わたくしは実際にその姿見をずらし、そこに扉があるのを確認したというだけの話です」
そういえばヤスミンはレイラが着替えている最中に、レイラの持ってきた装飾品を確認したいからと部屋に入っていた。その時に姿見の裏に扉があるのを確認したのだろう。
クラリッサは既に自室から出ていなかった、と自ら証明してしまった。そうするとその扉を使えたのはクラリッサ以外にいない。
「何故……私には内緒だったんですか」
小声で呟いたレイラに、ヤスミンはやはりいつも通りの穏やかな顔で言った。
「レイラ様は存外顔に出やすいですもの。ここぞという時まで出さないつもりでしたもの。それに、言わない方が楽しいでしょう」
静かに黙しているヘンリエッテも、ほんの一瞬だけレイラに唇の端を上品に吊り上げて見せたのだった。ああ、本当にこの似た者主従は……とレイラは頭が痛くなった。
令嬢たちの非難の声はクラリッサに向かっていた。完全に逆転したのだ。
それでもまだクラリッサは自分ではないと言い張っている。上手い引き際が見当たらないのだろう。
アナスタシアもそれを宥めようとするが、癇癪を起こしたように喚くクラリッサに手を焼いているようだ。
「だから、違うって言ってるじゃない! 陰謀だわ! わたしを嵌める気なの!」
「もう、いい加減になさい。違うと言うのならきちんと言葉で、考えた上で反論をすることよ。そうでないのなら口を閉じなさい。見苦しくてよ」
アナスタシアがドン、と張り手を食らわせて、クラリッサは声もなく吹き飛び、床を転がった。
きっと暴力を振るつもりはなかったのだろう。アナスタシアが一番驚いた顔をして、自らの手を見ている。おそらくはクラリッサを窘めようと、軽く肩でも叩いた……いやもしかしたらごく軽く肩に手を置いたつもりだったのかもしれない。だがアナスタシアとの体格差のせいでクラリッサにはその場に踏みとどまることさえことさえ出来なかったのだろう。
惨めに床に転がり這い蹲るクラリッサ。美しく整えたバルシュミーデ風の金髪も乱れ、自慢の流行最先端である綺麗なドレスも台無しだが、彼女を助け起こそうとする者は誰もいない。むしろクラリッサが転がったすぐ近くにいる令嬢は、嫌な顔をしてクラリッサから距離を開けようとする。
「あ……」
クラリッサは何処かを痛めたのか、それとも精神的なショックにか、自分では起き上がれずに、宝石のように煌めいていた青い目も今は曇り、汚れた手のひらを呆然と映していた。
さすがにここまでだと見ていて気分はよくない。いくらクラリッサにしてやられて腹が立っていようともクラリッサは同郷であり、自分よりも遥かに年下のか弱い少女なのだ。騎士のレイラであれば、助けるべき存在だ。
せめて助け起こすくらいは、そう思ったところにさっと駆け寄る影があった。
「クラリッサ!」
ヘンリエッテだった。
地に伏せたクラリッサに手を貸し、助け起こそうとする。しかしその手を拒み、クラリッサは最後の力を振り絞って自力で立とうとした。きっと彼女の最後の矜持なのだろう。
そんなクラリッサをヘンリエッテは強く抱きしめた。
「ごめんなさいクラリッサ……! ここまで追い詰めさせてしまったのはわたくしが至らなかったからだわ……。わたくしはただ貴方によかれと思って厳しくしていただけ……貴方に意地悪するつもりでもなかったの! 誤解させてしまって……本当にごめんなさい!」
「はあ? ──ぅぐっ!」
一見感動的であるが、よく見るとクラリッサはヘンリエッテの腕で首を絞められて声を出せないようにされている。
これはおそらく王女の嗜みとして教えられている護身術の絞め技であろう、とレイラは思った。
……でもヘンリエッテ様、それ、やり過ぎると死にます。
しかし、首を絞めているのが見えない令嬢たちからすれば、すれ違いと誤解から罪を犯してしまった仲間との和解という感動話にでも見えているのか、パチパチと拍手をしだす始末であった。
苦しさでプルプルと震えるクラリッサが、きっと令嬢たちからは咽び泣いてすら見えるのだろう。
特におっとりとしたイグナーツの令嬢たちは本気で感動しているらしく、目にうっすらと涙を浮かべている有様である。
ようやくヘンリエッテの絞めから解放させられたクラリッサは再度崩れ落ちた。咳き込み、苦しさのあまり本当に涙が溢れているほどだ。
「まあ、感動的! ……ただのすれ違いだったのね! 和解できてよかったわ! ほら、あんなに悔いて、声も出ないほどしゃくりあげて泣いてらっしゃるもの!」
そう一際大きな声を上げたのはバーニアで、少々わざとらしいくらいに持ち上げている。どう考えても気付いていて言っている。ヘンリエッテが優勢になったからだろうが……やはりブラウリオの女性は逞しい。
ヘンリエッテに解放され、再び崩れ落ちたクラリッサは今度はヤスミンが助け起こそうとしている。
そこに手を差し伸べたのはアナスタシアであった。
「先ほどは申し訳ありません。わたくしもこのクラリッサ様の言い分だけを聞いて貴方がたを責めるようなことを言ってしまいました。謝罪を致しましょう。さあ手を貸しますから、クラリッサ様を静かなところへ運んで差し上げましょう」
ザッとアナスタシアのお付きの女性たちが現れ、ヤスミンに誘導され、クラリッサは運び出されていく。彼女の言う手とはアナスタシア本人のではなく侍女たちの手であるようだ。
アナスタシアは一歩も動かずその場に留まり扇で自らをあおいでいる。すっかり逆ハーレム状態のヒルデガルドの美男子たちを侍らせ、その彼らからお優しい! 素晴らしい! と持ち上げられまくっていた。
ヘンリエッテは、といえば、今度はヨアニスに向かい膝をつき、深々と頭を下げた。
綺麗なドレスが床に擦れて汚れても気にした様子もない。
「この度は我が国のことでご迷惑をおかけして大変申し訳ありません。全ての罪はわたくしが償いますので、どうか騒ぎを起こしたクラリッサのことはお許しください」
パフォーマンスにしろ、ヘンリエッテはクラリッサの分まで罪をかぶると言っているのだ。
そもそもクラリッサのしたことというのは然程大きいことでもない。レイラからすればドレスが切られたのは大問題だが、あくまで同国人の身内のトラブルである。バルシュミーデに帰国してからドレスの弁償と謝罪で済むかどうかと言った話である。また、ヘンリエッテへの態度もひどいものではあったが、ここはバルシュミーデ王族の威光が届かない外国であり、そんなクラリッサを御せなかったヘンリエッテのせいでもあるのだ。
残るはヒルデガルド主催のパーティーを台無しにしてしまった、という件だがそれはクラリッサ個人のせいというよりもそれを未然に防げなかったバルシュミーデの責任、ということになる。クラリッサが騒ぎを起こすという目的であれば既に達していたわけだ。あとはどう対処をするか、だけである。
それがこのヘンリエッテによる土下座謝罪になるのだろう。ヨアニスのようなタイプにはきっと効果的だ。どうも女性には無下にできないようだし、ここまで直接的に謝罪をしている他国の王女に対して、自国の民のように罰を与えるわけにもいかない。
案の定、ヨアニスは酷くうろたえていた。シプリアやツェノンに視線をやるが、彼らではなくヨアニスが裁定をしなければ収まらないところまできている。
「い、いや、立ってくれ」
「本当に、申し訳ありません!」
引く様子のないヘンリエッテにはヨアニスも困り果てている。レイラも同じように膝をついて謝罪すべきか、と動こうとしたところで腕を引かれた。
ダーランのタチアナとヘラルダがいつのまにかレイラたちの側に来ていたのだ。
「あ、あの、レイラ様はまだやることがあるってヘンリエッテ様が……」
「ヘンリエッテ様……」
なんだかヘンリエッテに手のひらで転がされているような感じがして空恐ろしい。レイラにはどこからどこまでが仕込みだったのか分からなくなってくる。
「ですので、レイラ様はここで待機をしているように、と。ヘンリエッテ様はここまで見越していらっしゃるようでしたので」
「……わかりました」
レイラはがっくりと肩を落とした。
困り果てていたヨアニスはシプリアから耳打ちされてようやく、自分が許すと言わない限りヘンリエッテが謝罪を辞めないと理解したらしい。
「わかった。許す、だから立ってくれ」
「ヒルデガルドの温情、誠に感謝致します」
その言葉にもう一度深々と頭を下げ、ヘンリエッテは立ち上がった。
ワアッと拍手が渦巻く。
ヨアニスはほっとしたように頭をかき、周りを見渡してから声を張り上げた。
「皆もよく聞いてくれ。この地にいる間はヒルデガルドが貴方がたの祖国に代わり大切なその身を守ろう。今後も見回りを一層強化させるし、何か違和感があれば、気のせいと思わずなんでも言ってほしい。自国内のトラブルだろうとも、請われれば仲裁もしよう」
なんか完全にパフォーマンスじみてきた。
歓声が沸き起こり、ヨアニスを王として讃えている。
そしてレイラもこれがパフォーマンスだと理解していても、ヨアニスのその姿には惚れ直してしまいそうなほどに凛々しかった。
ずっと黙っていたツェノンはといえば、彼は退屈なお芝居でも見るかのように静かに見下ろしていて、この人も全部わかっていてわざとヨアニスに仕切らせたんだな、とレイラは理解した。おそらく、ヘンリエッテの同類だ。
直情的で武骨だが、優しく情に厚いヨアニスの真逆のようで、きっとそうである方がむしろ王がふたり必要なヒルデガルドにはよいのだろう。
少なくともヨアニスを見る目に悪意も敵意もなく、どことなく穏やかで微笑ましいものを見る目ですらあった。
あの優しく仕事熱心なシプリアの夫でもあるので、きっと悪い人ではないのだろう。




