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「ど……どういうことだ。いや、その前にまず離してくれないか!」
さすがのヨアニスも突然に抱きつかれたことに対処できず、汗をかいて慌てている。ほっそりとした肩に手を置くのを躊躇うのか、無理やりに引き剥がすこともできないようだった。
その横のツェノンは穏やかでない言葉にか、美しく弧を描く眉を顰めた。
「わたし……バルシュミーデのクラリッサと申します。わたしは国を出て以来、我が国の王女ヘンリエッテ様にずっといじめられているのです!」
そしてとうとうワッと泣き伏してしまった。ヨアニスの胸にである。
ヨアニスはどうにもできずに固まってしまっていた。
レイラもそれを見て、ひどく胸がもやもやとするのを止められない。
「詳しくはわたくしからご説明いたします。わたくしはテレイグのアナスタシア……あなたの妻になる女ですわ」
むっちりとした非常にふくよかな女傑、アナスタシアが満を持してとでもいうかのように現れ、ヨアニスにバッチンとウインクをした。
アナスタシアはテレイグから連れてきた侍女たち、そしてアナスタシアをうっとりと見つめるヒルデガルドの貴族男性3人を侍らせ、まるでここが彼女の国であると錯覚してしまうような風格でさえあった。
ヨアニスはそんな彼女に眉を寄せて拒否を示す。それにほんの少しだけレイラもほっとする。
「よしてくれ、まだ正妃の決定をしたわけじゃない。それに――」
「ええ、それよりも彼女の言い分が先ですわ。このクラリッサはわたくしの部屋まで泣きながら駆け込んできたのです。ひどい濡れ衣を着せられ、辛くあしらわれている、と。それが真実であればこの娘が哀れでなりません。それゆえこうして微力ながら口添えをしに出た次第ですわ」
アナスタシアの説明に、事の成り行きを見守っていた会場内がざわつき始める。その騒めきがさざ波のように広がっていくのを、レイラはおろかヘンリエッテすら止められそうにない。
「と、とりあえずパーティーは中止として解散させましょう。関係のない諸国の方には申し訳ないのですが、一旦お部屋に戻っていただいて……」
「いいえ、お待ちください!」
ツェノンの横にいるシプリアがおろおろしながらも、そう仕切ろうとしたところでヘンリエッテが声をあげた。
「ここで解散してしまえば、覚えのないわたくしの悪評だけが他の国の方々に印象付けられてしまいます! それこそ濡れ衣というものです! このまま話を聞いて、きちんと裁定をしてくださいませ!」
ツェノンもそれに重く頷く。
「確かにその通りだ。片方の話だけでは不十分だ。きちんと双方の話を聞こうではないか。このヒルデガルドに招いたことでの不和であれば仲裁の手伝いくらいはしよう」
ツェノンはそのまま雛壇を上がり椅子に腰掛けた。
ヨアニスはクラリッサに抱きつかれ身動きも出来ず、シプリアはおろおろとその視線をヨアニスとツェノンに行ったり来たりとさせている。
レイラたちも他の令嬢たちをかき分け、前に出た。
レイラはヨアニスの姿を至近距離で目の当たりにした。
その凛々しさを間近で見て、レイラの胸がどきりと高鳴る。そしてそのヨアニスにクラリッサが抱きついているこの状況が苦しくてならない。それを表に出さないよう、きゅっと唇を強く引き結んだ。
ヨアニスからもレイラの姿を確認できることだろう。これまでの人生で一番に着飾った姿だ。以前のように綺麗だと言ってもらえたら──そんな場合ではないというのに、浅ましくもそんなことを考えてしまう。
ヨアニスはレイラの姿をじっと見つめ、しかしすぐにそれどころではないというように、さっと視線を逸らした。レイラではなくヘンリエッテの方を向いてしまっている。
ちゃんと見てもらえなかった……。今のような形ではなく、もっと違う時に万全の状態でこの姿を見せたかった、とレイラはひっそりと嘆息した。
しかしそのまま気持ちがくじけて肩を丸めないように、背筋を伸ばすことだけはやめなかった。それをしてしまってはクラリッサの思う壺でしかない。
レイラたちはクラリッサと対峙した。
「さ、さあ、いつまでも抱きつくのはやめてくれ。言いたいことがあるのなら言うといい」
ヨアニスはようやくクラリッサを引き剥がしてそう言う。心なしかほっとしているようにも見えるのはレイラがそう望んでいるからだろうか。
クラリッサはキッと涙に濡れた顔を上げた。
それは見る人によっては、可憐で弱々しい令嬢が勇気を振り絞った、そんないじらしい姿に見えたことだろう。
「そもそも、ヘンリエッテ様はバルシュミーデからの代表としてわたしが選ばれたことから不満だったのです。わたしはヘンリエッテ様と同じ典型的なバルシュミーデ風です。似たようなタイプがそばにいると、ご自分が目立たないから嫌なのだわ! きっとそのせいなのでしょうが、バルシュミーデを出立してからずっと冷遇されていました……しかし、それくらいは仕方のないことだと思っていました。彼女は王女様、わたしは一貴族の娘でしかありませんもの」
そう儚げに目を伏せる。
確かにヘンリエッテとクラリッサは同じバルシュミーデ風美人であり、年齢も一緒で元々の雰囲気もよく似ている。自国のレイラから見てもそうなのだから、他国の人から見れば姉妹のようにそっくりに見えてもおかしくない。
実際に令嬢の反応も姉妹ではなかったの、と驚いたり、確かにあまりにも似ているのは嫌よね、と納得する人もいて様々であった。
「冷遇などと、とんでもありません。ただバルシュミーデの品位の下がるような発言、行動は控えるようにと諭しただけです!」
ヘンリエッテも負けじと言い返す。だがそれくらいで引くようなクラリッサではなかった。ヘンリエッテの返答すら予想していたのだろう。
「品位が下がるだなんて……それこそとんでもないですわ! わたしはバルシュミーデから陛下の心を射止めるように、と言い含められてここにおります。しかし、ただニコニコと黙って笑っているだけでは無理な話ですよね? だから少しでも情報を得ようとしたり、積極的に行動をしただけ。それが悪いことですか? そんなにもはしたなく、みっともないですか? なのに、わたしはお茶会へ顔を出すことさえ禁じられ……部屋から出るなとさえ言われたのです……」
クラリッサはポロリ、と一粒の涙を落とす。
「それは……」
ヘンリエッテもぐっと言葉を呑んだ。
旗色が変わるのをレイラは体感していた。
実際のやりとりはどうあれ、お茶会に同席させなかったり、部屋にこもるように言ったのも事実なのだから。
特にヨアニスに群がっていた猛禽類のような令嬢たちは、ヘンリエッテにひときわ冷たい目を向けている。それはそうだろう。クラリッサの積極的な行動を非難するということは、同じような行動を取っていた令嬢を非難しているも同然なのだから。彼女らからすれば面白くないのは当然だ。
「……確かに私も少しばかり焚きつけるようなことを言いましたわ。それが彼女たちの関係にヒビを入れたのなら申し訳なく思います」
ブラウリオのバーニアまでもクラリッサにやや肩を持つ言い方だった。
ここで大量の味方を得たクラリッサがニヤリとほくそ笑みでもすれば物語の悪役らしいのだが、あくまで謙虚に、溢れた涙をそっと拭い、悲しげに目を伏せている。雨に打たれた花のように可憐な姿だった。
「いいえ、それは……彼女の言動が!」
ヘンリエッテがなんとか論破しようとするが、それは現実を分かっていない愚かな姫君が自国の令嬢の努力を妨害し、感情的に虐めていたようにしか見えないだろう。
ヘンリエッテもそれがわかったのか、悔しげに唇を噛んだ。
レイラもなんとかしたいが、そもそも口で言い負かすのは得意ではない。必死に筋肉寄りの脳みそをフル回転させて、なんとか反撃する手立てがないかを考えていた。
「そして……ヘンリエッテ様とレイラ様は……わたしに濡れ衣を着せようとしたのです。わたしが、レイラ様の部屋に侵入し、あまつさえドレスを切り裂いたと! そんなこと絶対にできません! なのにわたしがやったと決め付けられ……無視をされ、言い分も聞いてもらえず……このままでは帰国したらわたしは犯罪者扱いになってきっと処刑されてしまうわ!」
ドレスを切り裂いた、という言葉に辺りはひどく騒ついた。
レイラもここでこれを持ち出すか、と眉を寄せた。どうあれレイラの名前も出されたし、こちらも反撃をするしかない。
しかしこの状況で令嬢たちは口々に騒ぎ立て、レイラが声を上げても聞こえないような状況だった。
「静まりなさい!」
ツェノンが音声の増幅装置を用いて場を鎮めようとする。
それでも一旦火のついたように騒がしくなった会場は中々治まる様子もない。
令嬢にとってドレスとは武器であり防具である。そうそう替えのないものを遠い他国で台無しにされるのは身に迫るような恐怖でしかないし、更にその濡れ衣を着せられたというのだから尚更だろう。
令嬢たちの騒めきは治まるどころかどんどん声量が増していく始末だ。なにせ100人前後の女性が集まっているのだ。姦しいどころの話ではない。
シプリアも落ち着いて口を閉じるようにと言って回るがほぼ無意味であった。
これにはツェノンも頭が痛そうに眉を寄せ、思わず額に手を当てている。
どうにもならない現状と、姦しい声での非難の数々に、ヘンリエッテは顔色が悪くなっていた。レイラも頭痛がしそうなほどで、会場内は全く収集がつかない。
パニックが起こりかけている。そう感じた瞬間──
「静かに!」
──それは落雷のようであった。
比較的近くにいたレイラは、その声の大きさにビリリと腹の底が震えるほど。
まるでごく間近で雷が落ちたかのような迫力がある。音声の増幅装置もなしに、会場中に響き渡るような大喝一声を発したのはヨアニスであった。
そしてどうやらその効果は覿面であったようだ。
一瞬で会場はシン、と静まり返る。周囲の令嬢は圧倒されたように口を噤み、クラリッサまでもが何を言おうとしていたか忘れてしまったかのようにポカンと口を開けている。
大声というのは普段から意識的に使っていないと中々出ないものだ。レイラも騎士として、日々の鍛錬には声を出すというものもある。おそらく、ヨアニスがかつて武官であった際、大量の兵士たちを統率し、指示を出す時に用いていたのだろう。確かにこのような混乱した場面にも効果があるようだ。ヨアニスは本当に優れた武官でもあったのだろう。やはり以前にも思ったが、カリスマのような魅力、指導者としての実力をヨアニスから感じていた。
「では、詳しい話を頼む」
ヨアニスは促すが、クラリッサも驚きのあまりかすぐには声が出ないようだった。
そこに真っ先に声を上げたのはシプリアだった。
「レ、レイラ様のドレスが切り裂かれたというご連絡は、わたくしも受けてはおりません。内々で片付けられたということでしょうか? 確かに前回の親睦パーティーでドレスは着用なさってはいらっしゃらないようでしたが……」
シプリアは非常に困惑したように頬に手を当てていた。シプリアはヨアニスの妹であるからか、あの痺れるほどの大声の後であっても我にかえるのも早いようである。
「……では、次は私からご報告させていただきます」
ようやくレイラの出番が来たようだ。レイラは深呼吸をして、一歩前へ進み出た。ヘンリエッテほど話術に長けてはいないが、この件の細部を分かっているのはレイラだけだ。




