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「全くさあ、あのウドの巨木女! 可愛げってもんが全くありゃしない。愛想もない、胸もない。あるのは身長だけってね。あーあ、あんな女と結婚しなきゃいけないなんて憂鬱だよ。嗚呼、可愛い僕のドロテア……どうか僕を慰めておくれ」
華やかなサロンのバルコニー。その片隅。ランプの灯りが届かない暗がりに溶け込むように、男女がひとときの逢瀬を楽しんでいる。そこから僅かに聞こえ漏れてくるのは、密やかな男女の会話に嬌声。
そして、その声はレイラ・ショーメットにとって確かに聞き覚えがある。
頭の悪い喋り方に見合った鼻がかった軽薄な声は、確かにレイラの婚約者であるアドルフ・ボーリュのものに間違いなかった。
友人のアニエスにどうしてもと頼まれて、仕方なく出席したクレマンティ侯爵主催の夜会。
しかしゲストとしてではない。
レイラはこのバルシュミーデ王国にそれほど多くない女性の騎士のひとりである。
今日が非番であったので、夜会での警備の仕事を手伝っているのだった。
それ故に服装は騎士の正式な礼装である純白の衣装。
それは煌びやかなドレスの女性達の中では異質な存在として一際目立っている。
レイラは女性にしてはかなりの長身であり、スレンダーといえば聞こえはよいものの、要は凹凸の少ない体型と、燃えるような赤毛が、純白の騎士服と相まって、まるでロウソクのようだと陰で言われているのは知っていた。
だがウドの巨木女という罵り言葉は初めてだったのだ。
それに大体、とレイラは奥歯をギリギリと強く噛み締めた。
「──それを言うなら、ウドの大木でしょうが!」
どうしても気になって仕方なかったことを、そのままバルコニーの暗がりに怒鳴りつけると、衣服を乱した男女が暗がりから大慌てでまろび出てくる。
その乱れ具合に、暗がりで何をしていたかは、未婚であり経験のないレイラにさえ丸わかりであった。
レイラが大声を出したことで、何か騒ぎが起こっていると気がついた周囲が、物見遊山で集まりだす。
女の乱れた衣服から覗く肌に口笛を吹くものさえいる。
女はきゃあきゃあと小うるさい悲鳴を上げながら、半分ほど見えていた鞠のような巨大な双丘をギャラリーから隠すように腕で覆っていた。それでも隠し切れないほどの質量であり、ロウソク女と揶揄されるレイラの凹凸の少ない胸元とは比べ物にならない。
そして男――アドルフはレイラの姿を確認すると、座り込んで真っ青になって震え上がっていた。
「……何をしていたのですか? アドルフ様」
「ひっ!」
レイラは最初に声を荒げてしまったこともあり、己が婚約者に次は優しく問いかけたつもりであった。
しかしアドルフからすれば、レイラの長身のせいで見下ろされ、ドスの利いた声で恫喝されていると感じたのだろう。
先程まで浮気相手と共にバカにしていた婚約者から脅されて、プルプルと小鼠のように震えている男。
その姿はギャラリーから見ればひどく滑稽な見世物にしか見えないのだろう。
くすくす、と忍び笑いが起こり、アドルフはカッと顔を赤らめた。
そんな周りの失笑にえらくプライドを傷つけられたアドルフの怒りは、レイラの方へと向いた。
いわゆる、逆切れである。
レイラに向かって、指を突きつけ、唾を飛ばしながら怒鳴る。
「うるさいうるさい! 全部お前のせいだ巨木女! このロウソク女!」
流石にこれにはレイラもカチンときた。
大体、婚約者が不在の時に夜会に出ること自体には、そうとやかく言うつもりはない。
だが他所の女とあろうことか会場内で乳繰り合い、浮気をした挙句に己の悪口を言っていたのだ。どう考えても悪いのはアドルフの方だろう。申し訳なさそうに謝罪するならまだしも、この逆切れである。
レイラは女だてらに騎士隊に所属してやっていけるほどの気の強さがある。
その程度の悪口で怯んだり泣いたりなどしない。
キッとアドルフを睨みつけた。
どちらかといえばキツイ顔立ちなので迫力が増していることだろう。アドルフはそんなレイラに内心怯えながらも、大声で怒鳴ることで自らを奮い立たせているかのようだった。
「大体お前がそんな風に可愛げがなくて、魅力が全くないのが悪いんだろう!? ドロテアを少しは見習え!」
ドロテアと呼ばれた女は確かに愛らしい女性であった。
ロウソクと揶揄される原因でもある、燃えるような赤毛のレイラとは大違いな艶やかな蜂蜜色の髪の毛。肩や腕のラインはほっそりと華奢、ウエストも驚くほど細くくびれている。
それでいて胸部は豊かで、身動きするたびにたゆんたゆんと揺れる。そして何より、アドルフより頭半分ほど小さい。
アドルフは平均よりも若干身長が低めなのがコンプレックスだったことは、レイラもよく知っている。だから会う時はローヒールの靴を履くようにして、気を使っているつもりだったのだ。
ドロテアはレイラの視線から少しでも逃れようとしているのか、アドルフの陰に隠れようとする。
レイラから見ても可憐で弱弱しい仕草であった。
一方レイラは仁王立ちで立ちはだかっている。怒鳴られたところで怯みもしない。
何もかもが、レイラとは正反対の女性だった。
「わかったか? お前が、そんなに馬鹿でかくて、可愛げのないブスで、胸もなくて男を立てない女だから悪いんだ! 大体なあ、お前なんかと結婚したい男なんてこの国にいるもんか! 南国の森でゴリラでも探したらどうだ?」
アドルフはすっかり調子に乗っていた。
ベラベラとレイラの短所を並べ立てる内に、自分が優位であると錯覚してしまっているのかもしれない。
レイラの中でブチッという音が聞こえる。
当然、堪忍袋の緒が切れる、というやつだ。まさに今、ぶっちぎれた。
「それは、私と婚約破棄をしたいと言うことで構わないのですね……?」
ぶっちぎれたものの、レイラは最後の理性で怒鳴りもせずに冷静に問いかける。
「あ? あ……ああ! そうさ! 婚約破棄だ! お前なんか僕くらいしか貰ってやるやつもいないだろうから、お情けで婚約してやってただけさ! 土下座でもしたら許してやってもいいけどな!」
フフン、と鼻で笑うアドルフ。
レイラにはもう後がないと知っている余裕だ。
確かに女性騎士として男顔負けの強さを誇り、目立つ赤毛に長身で、女性らしい魅力に乏しい上に、貴族の令嬢としてはもうそろそろ行き遅れと言われる年齢のレイラだ。
しかし――
「わかりました。貴方の有責で婚約破棄をしましょう。私の両親には私から話しておきます」
「へ?」
アドルフはきょとんとした。泣きついてくると思ったレイラが平気な顔で婚約破棄をしてくることが拍子抜けであったのだろう。
「……ドロテアさん、でしたよね」
突然にレイラから話を振られ、アドルフの背中に隠れながらビクッと身を硬くするドロテア。
「貴方との不貞が原因ですので、貴方の旦那様にもご報告と慰謝料を請求させていただきます。……ドロテア・レイバン男爵夫人」
「ふ、夫人!? 令嬢じゃなかったのかドロテア!?」
アドルフはひっくり返えるような声で叫んだ。
アドルフは知らないようだったが、レイラはドロテアのことをよく知っていた。
老齢のレイバン男爵家の後妻に収まった出自の怪しい女であると。招待もされていない夜会や舞踏会に、無知な男の同行者として潜り込み、男を誑かしては食い物にしている女がいるからと、友人の侯爵夫人であるアニエス・クレマンティから注意喚起されていた女で、最初から要注意人物だった。だからこそ、目立つレイラが警備の真似事をして牽制していたのだが。
「ああそう、別室にて身体検査も受けていただきますよ。貴方は正規の招待客ではありませんからね」
手癖が悪いから、とも言われていたのでそれを付け足す。
ドロテアはどんどん青くなっていった。アドルフはアホ面を晒してドロテアとレイラの顔を交互に見ている。滑稽な首振り人形のようだった。
「そ、それは……どういうことだ……なあ、ドロテア?」
アドルフのアホには誰も忠告をしてくれなかったと見える。
おそらく、そんなまともな友人すらもういないのだろう。
もしくは忠告は右から左に抜けてしまった可能性も否めないが。
「アドルフ様、いいえボーリュ様。私が貴方の婚約者でなくなったということは、ボーリュ伯爵家の借金返済をしばらく待つようにと金融機関に頼んでいたのを撤回するということなのをお忘れなく」
「へ? は……? だ、だって借金はショーメット子爵家で返してくれたんじゃ……」
「まさか! ただ婚約しただけじゃないですか、ボーリュ様? だって、こういうことも十分に考えられましたしね。結婚したら肩代わりするというお話でしたが、それすらお忘れでしたか……。ボーリュ様は頭の出来がよろしくないとボーリュ伯爵からも言われた通りでしたわね! ああご縁が切れたこと本当に良かったです! ありがとうございました! 私も貴方なんかと結婚するなんて真っ平ゴメンだったのですからね!」
「え……」
周囲のギャラリーにはこの見世物が大変受けたようで、あちこちから笑い声が上がる。
それのいくつかは行き遅れのレイラにも向けられたものだと理解していたが、しっかりと上げた顔を下げることはなかった。
青い顔で呆然とレイラを見上げてくるアドルフを無視して、レイラはドロテアの腕を引っ張って立たせた。
「さあ、貴方はこちらに来てください。……そのポケットに隠したネックレスは貴方の物ではありませんよね?」
「ひっ……!」
ぶるぶると震えだすドロテア。レイラはネックレスの紛失届けが出ていたことを思い出し、カマをかけただけだったが、どうやら当たりだったようだ。
そして一度だけアドルフの方を振り返るレイラ。その目線に助けてくれるのかとアドルフの顔がパッと輝く。
勿論レイラにそんな気はなかった。
「ボーリュ様、そのシークレットシューズ、底上げしすぎて不自然ですよ。……それではご機嫌よう」
レイラは人の見た目を笑うつもりはなかった。自分の身長の高さで散々笑われてきたのだから。
だから婚約者のアドルフの身長が自分より低くても構わなかったし、多少お馬鹿でも結婚したらこちらで手綱を握ればいいとさえ思っていた。しかし、あれだけ公衆の面前でこちらを虚仮にしてくれたのだ。ひとつくらいは仕返しをしてやらねば割りに合わない。
そう思っていたはずなのに、会場を後にした時にそこかしこから聞こえてくるアドルフをあざ笑う声がひどく苦々しく感じられた。